801短編集3 サンプル
恋愛不能の男と恋情を叩きつける男
魂を奪う人
奏でる
◆年上幼馴染の理性が崩壊するまで
「うえぇ……ひっく……、ひっく……」
幼い頃、サンはよく街の近くの森に入った。
サンは大工の家に生まれた。父は怪我がちで働けなくなることもあり、母が働きに出て食べていくのがやっとの生活だった。
遊び道具を買い与えられる余裕などなく、金のかからない遊びを工夫するようになった。
その日も森を歩いて虫を探していると、草むらに隠れていた太い縄が足首に絡まって、抜け出せなくなった。
動物を捕まえる罠か、街の悪ガキが仕掛けたいたずらか。焦って解こうと引っ張ると余計に縄が食い込んで痛みが走る。
強く逞しい男になりたいのならすぐに泣くなと父から言われて育った。我慢したが長くはもたず、サンは泣き出してしまった。
「いたいよ……うぅ、おかあさぁん」
「―大丈夫?」
その時、風のように颯爽と降り立ったのがアーサーという男だった。
突然現れた人に、サンは涙を浮かべた目をまん丸にして見つめた。
アーサーは美しい少年で、髪の色は光を受けて輝く部分と影に沈んだ部分で見え方がまるで違って神秘的だった。瞳はナッツ色の奥に翠が透けていた。
アーサーは足を留め、不思議な目でサンを見つめた。サンは最初、天使が助けに来てくれたのかと思った。
ただ見つめ合うだけの時間が続いて、そろそろ助けてほしいと声を上げようとすると、アーサーが先に言葉を放った。
「何をしているの?」
「う……わ、わかんない……、なわが、あって、ほどけなくて……、これ、とって」
「なんだ、てっきりそういう変わった遊びがあるのかと思った。助けてほしいなら最初から言いなよ」
なんだ、彼は天使ではなかった。縄に捕まった哀れな姿のサンにため息を吐き、呆れ顔を向けてきた。
「ぅうう……っ、ひっく…、た、たすけて……」
「仕方ないな。慈悲深い俺に感謝しろよ? じっとして」
「いたい」
「あー、結構食い込んじゃってる。さては無駄に暴れたなお前。刃物とか持ってないし、俺の手には余るかな」
アーサーが綺麗な顔に迫真の表情を浮かべてそんなことを言うので、一生ここから逃げられないのかと、恐怖に絶望しかけた。丸い瞳から次々と涙が盛り上がって溢れる。
「そ……そんな……。ひぐ…っ、うー…、お、おかあさん、おとうさぁん……」
「嘘だよ。泣くなって。俺が泣かせたみたいだろ」
アーサーは立ち去ることなく、時間をかけて縄を解いた。
決して優しいだけじゃなく、「こんな古典的な罠、いまどき猪も引っかからないよ」とか、「友達は一緒じゃないの? いないの?」とか、時々ちくりと皮肉を言ってくるのでサンは中々泣き止まなかった。
「―ほら、解けた」
「ん…、ほんと? いた……くない、ほんとだ! ありがとうっ」
「泣くか笑うかどっちかにしろよ」
「あ…っち、血が出てる」
散々痛いと泣き喚いておいて、サンの体はゴワゴワの衣服に守られて怪我ひとつなかった。
アーサーは荒い縄に苦戦したせいで指に擦り傷ができて、少し血が滲んでしまっていた。
「こんなのかすり傷だよ。お前は……怪我してないな。大げさな泣き虫め」
「うん、ごめんね……」
サンはアーサーの手を握って、指先に唇をつけた。アーサーはびっくりして身じろぎした。
「……いきなり何するの」
「こうすると、かみさまがいたいのなくしてくれるって、おかあさんが言ってた」
「なんだ……お母さんか。そんなの迷信だよ」
「まだいたい?」
「―……元から痛くないし。ほら、自分で立てるだろ。帰るよ」
アーサーはサンの手を握って立たせてくれた。母親がそうしてくれるように手を繋いだまま歩き出そうとすると、アーサーはなんとも言えない顔をして、渋々許してくれた。
家までたどり着くと、
「母屋はどこ? ―え、あれが家なの。なんていうか、家族仲が深まりそうだね」
と褒めてるのか嫌味なのか分からないことを言われた。
アーサーはサンが知っている年上のお兄さん達の中では意地悪で、怖いくらい綺麗だった。何故か別れがたくて手をぎゅっと握ると、目を覗き込まれた。
「お前の目……よく見ると綺麗だね」
「? ……」
「またな」
日頃から浴びるほど賞賛されているであろうアーサーに不意に褒められて、頬がぽっと熱くなった。
アーサーは同じ街の、少し離れた小高い区画に住んでいた。
彼の家は裕福だった。今まで顔を見たこともなかったのも頷ける。高台に集まって暮らすお金持ち達は、低いところには目を向けず関わりたがらない。
それでも街の大通りに赴けば様々な階級の人が交わる。
サンはいつも道の端っこを歩く。厳格な身分制度はなくとも、周囲の大人の行動を見て自然と癖が染み付いていた。
アーサーは道の真ん中を堂々と歩くのが似合っていた。一度認識するとアーサーはどこにいても目立ち、目で追わずにいられなくなった。彼は仕立てのいい服を着て、同じような階層の友人と行動を共にしていたり、時には従者らしき男が後ろについていた。
下町の住人は高台に住む人々に、憧憬と嫉妬が混じった感情を抱いている。サンも周囲の空気に流され、気後れを覚えて自分から声はかけ難く、一方的に遠巻きにしていることが多かった。
「ああお前、久しぶり―なのに大きくなってないね。大丈夫?」
「ちゃんとごはん食べてるもん」
「どうしたの、膝に怪我して。―走って転んだ? いくつになってもドジだね。また罠にかかっても俺は忙しいから助けてあげられないよ」
「もうあんなのにかからないし、ナイフを作ったからかかっても平気だよ」
「ナイフなんてやめときな。盗人なんかに襲われたとき奪われたらどうするの。そうなる前に転んで自分に突き刺さるか」
アーサーがサンを見つけると気の赴くままに声をかけてきて、決まってからかわれた。サンはむきになって言い返してはあしらわれた。
アーサーはいつも砕けた態度だけど、住んでいる土地の高さみたいに、超えられない格差を時々感じた。
けれどサンは、月並みな嫉妬と羨望の対象として、遠くからアーサーを仰ぎ見続けるのは嫌だった。かつて助けてもらった借りを大きくして返して、気後れせず堂々と相対できる人間になりたかった。
サンの家は食べるのがやっとで、耕す土地もなく、家畜もいない。生活は常に厳しくて、十歳のころにはサンも仕事を求めて走り回っていた。
「落とすんじゃないよ。商品を駄目にしたら駄賃から引くからね」
「はあ…はあ……、はい」
荷台から野菜を下ろしてひたすら運ぶ。
子供を使ってくれる仕事は限られており、雇う方も侮って足元を見てくる。施しを与える余裕のある大人は多くはない。
担ぐとサンの体がすっぽり見えなくなる大きな木箱を、せっせと運び続ける。
街には家がない子や親に売られた子もいる。自分は恵まれていると言い聞かせて、ぷるぷる震える体を踏ん張った。
「はぁ…、ふぅ……、あっ」
これで最後の荷だと少し気を抜いたら、林檎が一つ箱から転がり落ちてしまった。
サンより先に誰かの手がそれを拾って、声をかけられた。
「お前、いつもこの辺で仕事をしてるね」
「うん、時々……。ああ、少ない駄賃が引かちゃうな」
「売り物を落としたら賃金を減らすって? 馬鹿正直に伝えなければいいだろ。一つや二つ、ばれやしないさ」
サンより少し年上に見えるひょろりと背の高い少年は、林檎を返してもらおうと手を伸ばしたサンを無視して齧り付いてしまう。
シャリ、と水気の混じった音がして、渇いた喉がゴクリと鳴る。甘いものはサンにとって贅沢品で滅多に食べられない。
羨む視線に気づいたのか、少年は青灰の目にニヤリと笑みを浮かべた。
「ほしいか? こんなケチな仕事じゃなくてもっと稼ぎたいだろ。林檎だろうと肉だろうといくらでも食えるぜ」
「……どんな仕事?」
唐突に勧誘を受け、サンは警戒した。
食うに困る貧しい少年を取り込んで徒党を組ませ、悪事に加担させる集団が街の暗い部分には存在する。
しょせんは子供なのでよく捕まる。運良く温厚な街人であればそのまま兵士に突き出され、運悪く気性が荒い街人なら、見せしめに人前で殴られ晒し者にされる。改心せず罪を重ねたら罪人の証の焼きごてを入れられる。
怖気が走る。サンは気が大きくないので想像だけでも耐えがたい。
「そんなにビビるなよ、俺達は捕まるような盗みや殺しはしない」
「こ、ころ……」
「お前みたいな、バカ正直そうな小心者に犯罪をさせたって、ヘマをしてすぐ捕まるって分かりきってるからな。知られてないだけで金持ち相手の安全な商売はいくらでもある」
どさくさ紛れに馬鹿にされた気がする。
コナーと名乗った少年が、食べかけの林檎を投げてよこした。
「腹減ってるだろ? 食えよ」
「でも」
「どうせもう商品にはできないんだ。少しは自分の頭で考えてみな。食わないと損だろ?」
行儀悪く半分齧られた林檎にはコナーの歯型がついている。少し嫌だったけど、確かに捨てるのは勿体ない。
サンは恐る恐る、歯型がついていないほうを口に運んだ。想像よりは酸っぱくて皮が硬い。それでもシャリシャリと咀嚼すると甘さが唾液を誘発して、芯のすれすれまで夢中で齧った。
コナーはしたり顔で笑った。
「明日同じ時間にここに来い。怪我はさせないし捕まらない綺麗な仕事だって保証するよ」
「まだ行くって言ってない」
「待ってるよ」
コナーはこっちの意思はどうでもいいみたいだった。
家に帰ると壁から隙間風が吹いて、窯の火が煽られていた。父は仕事で疲れ切って休んでおり、母は麦の価格が上がっていたと不安げだ。
サンは壁の隙間に赤土をねじ込みながら、誘惑に傾いていく心を自覚した。
◇
約束の時間より早く着いてしまった。
コナーはふてぶてしい印象だったし、どうせ時間より早くは来ない。そわそわとしていると突然視界が暗転した。
「ひっ……!?」
背後から袋を被せられ、あっという間に担ぎ上げられる。抵抗する前に、「殴られたくなければ大人しくしてろ」と恐ろしげな声で脅され、体が固まった。
サンは誘拐された。
「う……っ」
「逃げようなんて思わないことだ。いい子にしてればその分だけいい目を見れる。悪い子にしたら……分かるだろ?」
しばらくの間乱暴に運ばれ、湿った臭いの一室で袋が引っ剥がされた。かわりに両手両足を縛られ、逃げようにも身動きすらままならない。
男の顔には強面を強調する皺が刻まれ、無表情でも底意地の悪い印象を与える。
どう見ても悪い人間だ。
「お、俺の家は貧乏で、お金なんてとてもじゃないけど払えません」
「ははっ、身代金目的ならもっと身なりのいい子を狙うに決まってんだろ」
サンの嫌な予感を、男は一笑に付す。
子供を拐って売り飛ばす一団がいると聞いたことがあった。顔見知りのいない縁遠い街まで運んで、奴隷のように働かせられるのだと……。
以前アーサーに警告された。
「お前、人気のない路地裏なんかを一人で歩くなよ。トロくさいし、拐かすのは赤子の手を捻るより簡単そうだ」
「トロくさくない。大体、俺を拐ったってお金にならないよ」
「んー……」
アーサーは体を屈めて美しい瞳でサンを眺めた。
「ま、確かにその通りだな」
「なんだよ」
「でも、万が一ってことはある。お前を狙っても割に合わないけど、うっかり拐った間抜けな人攫いがいるとしたら、腹いせに酷い目に遭わせるかもしれない。一応気をつけとけ。家族に二度と会えなくなるのは嫌だろ。あと、この俺にもな」
からかい混じりの忠告を、サンは一応胸に刻んでいた。夜半に危険な通りには入らないようにしていた。
冷たい石の床に座らされ、サンはガクガクと震えた。
他の街に連れ去られたら最後、親にも友達にも親切な隣家の夫妻にも、ついでにアーサーにも二度と会えなくなる……。
慄いていると、先程の男が別の男と連れ立って入ってきた。
「お、それが新しいのか。……随分みすぼらしくないか」
「そう言うなよ。金持ちってのは物好きなもんだ。案外高く売れるかもしれないぜ」
「にしても痩せてるなあ。今のうちにちょっとでも太らせとくか」
もう一人の男はいくらか若そうで、こちらも善人には見えない人相だ。
アーサーのことを、いつも意地悪な表情をするものだと感じていたけど、本物の悪い人とは歴然とした違いがあった。すでに彼が懐かしく遠くに感じて涙が出そうになる。
男はサンの前にしゃがむと、肉を挟んだパンを突き出してきた。
「ほら、食えよ。腹減ってるだろ。食わせてやる」
「い、いらない……うぐ……っ」
「黙って従ってりゃいいんだよ。反抗的だとこの先も痛い目を見るぜ」
拒否すると苛立った様子で口に突っ込まれる。
仕方なく咀嚼すると、肉汁が口に広がる。とてもすんなりと喉を通る状況じゃない。男は次にヤギの乳を飲ませてきた。味が嫌な感じに混じって、生臭さに吐き気を催す。
「うう……っ」
「勿体ないな。……白いものを口から漏らして、悪い子だ」
見下ろす男の目に、じっとりと不埒な欲が交じる。咽せているサンは気づくどころではなかった。
「……飯を食わせてやったんだ。ちょっと味見してもいいだろ」
「……?」
「ああ、服の下は白いな。それに胸は……綺麗なもんじゃねえか」
服を開けさせられ、サンは暴力への恐怖に竦んだ。
男は殴りはしなかった。不自然なほど優しく、撫でるように肌に指を這わせ、鳥肌が立つ。
「下も見てみないとな。客に不良品を売りつけたら評判が落ちる。商品を確認するも仕事のうちだ。じっとしてろ。いい子だ……」
「……っ、うう……」
男はわざわざ足の縄を解き、ズボンを脱がせて下着一枚の姿にして足を開かせた。
裸を見られて恥ずかしいという感覚はあまりなかった。下町の男子はそんなものだ。唯一股間は隠すべきだと理解しているけど、そんなことより、目の前の男が野犬のように荒い息を吐いているのが恐ろしい。
「ああ、ところどころ擦り傷があるが、浅いしじきに消えるだろ。腿は……柔らかいな。ふー、フー……ッ」
「ひぃ……、い、痛いことしないで……」
「はあはあ……、従順にしてるうちは酷くしないさ。反対に気持ちよくなれる。お前も痛いことよりは気持ちいいことが好きだろう?」
「い、痛いことよりは……気持ちいのがいい」
男は据わった目をして股間に手を当てた。ズボンを脱ぐ素振りにわけが分からなくなる。二人で脱いで、まさか一緒に水浴びでもするということはないだろう。わけがわからない恐怖で足がびくびくする。
寸でのところで、乱暴にドアが開けられる音が響いた。
「―サン!」
「あ……っ、誰……?」
突然眩しくなってサンは目をぎゅっと閉じた。
「くそ、どっからバレた!? くたばれっ、ぐおっ」
「どけ」
サンを支配しようとしていた男はあっけなく倒れた。やったのがアーサーだと気づいてサンはびっくりした。
アーサーは殴りかかる人攫いをいなして打ち返し、蹴り飛ばし、倒れたら追い打ちをかけ、情け容赦ない強さであっという間に制圧した。
「アーサー、こっちにもいたのか」
「ああ、もう済んだ」
アーサーは仲間の若者たちと声を掛け合って連携を取った。
複数人で人攫い達を一掃しに来たのだ。争いの音で騒然とした後、悪人の悪態と怒号、子供が泣く声が壁を隔てて聞こえてきた。
「サン。最初は俺だって分かってなかったな」
「……聞いたことない真剣な声だったから、誰かと思った」
「……」
お縄になった人攫いが連行されて静かになった部屋で、アーサーと向かい合う。
時間と金銭に余裕のある富裕層の若者が集う結社があると、風の噂に聞いた。日頃は歴史文化について平和に語り合い、貧しい子供やお年寄りに慈善活動をしながら、若者特有の血気盛んな使命感を抱き、治安を乱す悪党の打倒に燃えている。その活動の一貫と思われた。
「あ、アーサー、解いて、お願い」
哀れっぽい目で懇願すると、アーサーは珍しく躊躇った様子を見せ、一歩目でぴたりと立ち止まる。
「……―、ありえない。俺にそんな変態的な趣味があるわけがない」
「へんたい……?」
「お前あいつに……触られたのか」
屈んで目の高さを合わせ、身長に潜めた声で訊ねるアーサーに、サンは戸惑う。
傷を負うようなことは特にされていない。だけどアーサーの深刻な様子に、人に言えないことをされたような気がして不安になる。
「な、何も……、少し撫でられてくすぐったかっただけ」
「……分かっていないんだな。こんな子に、あのクソ野郎……。股間にも蹴りを入れておけばよかった」
「アーサー、お願い、早く」
サンは顔を赤くして、脚をもぞもぞと動かして股をこすり合わせた。アーサーが息を呑む。
「う……っお、おしっこ……したい。ずっと我慢してて、もう……」
「……」
「アーサー? もう意地悪しないで、も、漏れちゃうよ」
アーサーはしばらく絶句していた。サンはシャツを開けられ、下は下着一枚の姿で脚をもじもじさせ、涙目で恥ずかしいことを訴える。
実のところ、しばらく前から催していた。人攫いはとても恐ろしくて言い出せる雰囲気ではなかった。粗相が許される小さい子ではないのだから絶対漏らしたくなかった。
アーサーは突然ばっと目を逸らし、着ていた上着でサンの体を覆うと、迅速に拘束を解いた。
「あ、アーサー……っ」
「いいから早く行け。俺の前で漏らしたら一生からかい続けてやる」
「うう、ひどい」
「……俺は変態じゃない。気の迷いだ」
サンは部屋を飛び出し、どうにか用を足すことができた。
「ふー……」
「ったくすっきりした顔して、呑気なやつめ」
「助けてくれてありがとう、アーサー」
「随分と遅い礼だな。本当に感謝の気持ちがあるのか? しばらく恩着せがましくこき使ってやろうか」
「うぐ……っ」
出すものを出して体がすっきりすると心も幾分落ち着いて、忘れていたお礼を言うと、両側から頬を潰されおかしな顔にされる。
「うむ…っ、にゃにをすぅ……っ」
「うーん、変な顔だ」
アーサーと比べれば大抵の人間が変な顔とも言えるだろうが、自分でやっておいて酷い言い草だ。
「お前、ずっとこんな顔をしてろ。拐かされる心配もなくなるしな」
アーサーはいつもの調子を取り戻し、ぶつくさ文句を言いつつ家まで送り届けてくれた。
見慣れた両親の顔を見た瞬間、涙が溢れそうになった。一歩間違えれば永遠に会えなくなっていたかもしれないと実感し、無性に愛おしくなって抱きついた。アーサーはこのときばかりは茶化さず見守っていた。
両親は身なりのいいアーサーに恐縮し、一緒になって頭を下げた。
日常に戻っていく中で、サンはさすがに行動に以前より気をつけるようになった。
軽々に一人で裏通りは歩かない。知らない人間の持ちかける仕事には乗らない。いい話には裏があると疑う。
アーサーの忠告にそっくりそのまま従うのは癪だったけど、間違いはないと分かっていた。
数年が経過した。サンの父はいい雇い主を見つけ、暮らしぶりは少し好転した。
とはいえ蓄えができるほど劇的に豊かになれるはずもない。父が怪我をして働けなくなったら一気に家計は傾いてしまう。
サンは日銭を稼ぐ日々に追われ、将来に希望を見いだせずにいた。親のように家庭を持って妻子を養う自分を想像できなかった。
◇
「やあ。なんだか辛気臭い顔をしているな」
「コナー。開口一番失礼だね」
「悪い、俺の口は正直なんだ」
石工の臨時の手伝いで街を歩いていると、コナーが近づいてきた。
忘れもしない。出会ったばかりの彼に言われた場所に赴いてすぐに、人攫いに遭ったのだから。
サンも最初は疑った。
「悪かったな。まさか白昼堂々人攫いをする間抜けに、攫われる間抜け……いや、運の悪い子が鉢合わせるなんて、予想外だった」
「おれのこと間抜けって言ったよね?」
コナーは人攫いとは全くの無関係だと断言した。
アーサー達によって隠れ家が一網打尽にされ、人攫いは兵士に引き渡された。厳しい尋問で芋づる式に関係者が暴かれる中、コナーの名が上がることはなかった。
本当に運の悪い偶然だったのだろう。兵士に証拠が見つけられなかったのならサンは納得するしかない。
コナーは法に背く悪事に手を染める様子はなかったし、近くできな臭い事件が起きると忠告してきたり、たまに割のいい仕事を紹介してくれる。
「あちこちでこき使われて日銭を稼いでばかりでは疲れないか? ここだけの話―冬に備えて十分蓄えられる割がいい仕事があるんだ。誰にでもできることじゃないけどね」
「……俺にできる?」
「うん。俺にはできないことが、お前ならできる」
コナーは頭が切れて喧嘩も強く、この辺りの少年達には一目置かれている。そんな男にできないことが自分にできると言われ、サンの自尊心がくすぐられた。
翌日。コナーはサンが来ると分かっていた顔で並んで歩き出した。
上り坂の先には危惧していたような治安の悪い路地ではなく、比較的裕福な客向けの商店や宿屋が並ぶ通りだった。
中程に構える一軒に案内され、木がきしむ階段の先で、老婆を紹介された。
白髪を頭の上で束ねて、垂れた目で笑う姿はいかにも人の良いおばあさんという印象で、警戒心が緩んだ。
「みすぼらしい服だね。これに着替えなさいな」
「え、これは?」
「大丈夫だよ。何も心配しないでいいの」
ニコニコと深い笑い皺を刻んで促され、なんだか断れない雰囲気に陥った。コナーはいつの間にかいなくなっていた。
◇
(……どうしよう)
「おお……、いいねえ。可愛いじゃないか」
宿屋の大きなベッドの上で、サンは絶体絶命の窮地に陥っていた。
どういうわけか薄くひらひらとした女性物のネグリジェを着て、目の前にははあはあと息の荒い中年の男がいる。
男は肌艶の血色がよく、服装からして貴族階級ではないが成功している商人といったところだろう。
サンが女性であれば、さすがに売春させられる危機だとすぐに理解できた。サンは自分が体を売るという発想に至ったことが一度たりともなかったので、いたく混乱した。
冷汗をかいて戸惑う姿に、男は一人で勝手に興奮していく。
「はあ…はあ……、キミはどうしてそんな格好をしているんだい?」
「おばあさんに着るように言われて……俺にも何がなんだか」
「キミは男の子だよね。恥ずかしくないの? リボンがついたひらひらした下着をつけて……体が透けているじゃないか」
「恥ずかしいです」
「お……ふーっ、恥ずかしいね。これからもっと恥ずかしいことをするんだよ。ふー、ふー……っ」
―変態だ。血走った目でにじり寄ってくる男にサンは焦った。
男は毎日いいものを食べているのだろう。サンよりずっと体が大きくて倍は厚みがある。
外に助けを求めようとしたが、あの人畜無害そうな笑顔の老婆が手引したのは明白だ。闇の売春宿なら見張りもいるだろう。無謀にドアから飛び出したところで他愛なく連れ戻されてしまう。
「はあ……おっぱいが透けているよ。男の子なのに乳首をちらちらさせて誘惑してくるとは悪い子だ。敏感なのかな?」
「ひぃ……っ」
胸にぎらついた目を向けられ、震えが走る。蹴飛ばしたりしたら後が怖い。こういう男は貧しい庶民を見下して物のように扱う。労働者が我慢の限界を迎えて肥え太った雇い主に楯突いた結果、酷い目に遭う姿を幾度か見てきた。
だからって変態に触られるのは耐え難い。 サンは意を決して窓に体当たりし、二階から飛び降りた。
「おいっ、待て!」
「うッ、いった……っ、はあ、はあ……っ」
幸い下に生えた木にひっかかり、固い地面への直撃は避けられた。
宿から怒号が聞こえてきて、打ち付けた尻の痛みを堪えて走り出す。
足取りに迷いはなかった。近くに、街の青年が集まる詰め所があった。
「君……どうしたの」
「あっ、あの…」
出会い頭にぶつかりかけたのは面識のない青年で、汗が滲む。
見るからに上流育ちの金髪の青年は洒落た服を完璧に着こなしており、自分の状態が余計に居た堪れなくなる。
彼は嘲笑ったりはしなかった。サンの酷い格好が哀れみを誘ったのか、見るに耐え難かったのか、眉を顰めて目を逸らす。
異変に気づいた人間が後ろから駆けつけた。
「あ……アーサー、助けて」
「―……」
幼馴染の顔を見つけた瞬間、サンは安堵して涙が溢れた。
アーサーは幼馴染の異様な姿に絶句し、金髪の彼と違って目は逸らさなかった。いつかのように上着をさっと脱いで体にかけた。
二十歳を超えたアーサーは、街中でも目立つ長身に育ち、上着はサンの体をすっぽり隠してくれた。
「何をされた」
「何も。される前に逃げた……。あの、灰色の壁の宿で」
「あそこか。サン、ここを動くなよ。その服……脱ぎたいだろうが証拠になるから、隠したままじっとしていて」
アーサーは念入りに毛布もかけながら怖い顔でサンに言い聞かせ首肯を引き出すと、仲間に声をかけ、保管された剣を掴んで出て行った。
屈辱的なネグリジェを脱ぎ捨てるわけにもいかなくなり、サンは安全な詰め所で縮こまっていた。
暖かい部屋で過剰に体を覆われるのは暑く、気が昂っているのもあって汗が出る。体を隠すなら毛布で十分だからアーサーの上着を脱げばいいのだが、放しがたくて体ごと抱きしめていた。
外からは途切れ途切れに喧騒が聞こえて、日が暮れる頃には決着がついた。
「悪いやつは捕まえたよ。もう大丈夫。痛いところは…?」
あの金髪の青年が、気位が高そうな外見の割に親身になって報告してくれた。偏見はよくなかったと反省する。
ただ、サンのような相手に慣れていないのか、傷ついた子供を扱うような、腫れ物に触るような態度だ。
「大丈夫です。捕まえるなんてすごい。みなさんの方こそ怪我はしてないですか?」
「平気だよ。傍目には金持ちの息子の道楽だと侮られていて……実際否定しきれないけれどね。これでも剣術は日々鍛えているんだ」
「アーサーは…」
「ああ、彼のことが聞きたかったんだね。すごい活躍ぶりだった。髪も乱れてないさ」
ほっとして力が抜けた。
売春組織が摘発された。誘拐や人身売買を繰り返し、治安を乱す無法者が荒稼ぎする温床になっていたと後に聞かされた。
サンは緊張の糸が切れ、いつの間にか眠ってしまっていた。
text