801短編集3 サンプル


恋愛不能の男と恋情を叩きつける男
魂を奪う人
年上幼馴染の理性が崩壊するまで


◆奏でる


 今までの奏多は、ただ純粋にヴィオラが好きだった。
 河川敷で周辺を見渡して、先客がいないのを確認してから楽器ケースを開く。
 体の一部ように感じる楽器は、かつて近所に住んでいたおばあさんから譲り受けた年代物だ。
 調整は必要だったけど、大事に手入れされていて致命的な損傷はなく、彼女と古くから親交のある楽器店が安価でリペアしてくれた。
 今日も手にとれることに感謝してヴィオラを構えて音を奏でる。
奏多の家は壁が薄いし、一帯は平凡な住宅街なので演奏できる場所は限られる。貸しスタジオは遠いしお金がかかる。外で演奏していると通りすがりに「うるさい」と怒鳴られたこともあって、気が弱い奏多は萎縮してしまう。
しばらく自重しようと思えるのはほんの短い時間で、すぐ弾きたくて我慢がきかなくなる。
 奏多は生来学自己主張が控えめで、学校生活では目立たずぼうっとして気力が足りない人間に見られがちだった。唯一ヴィオラを奏でること関しては別だ。
 構えた瞬間表情が変わり、弓が踊って弦が深い音を奏でる。演奏を始めると周りが見えなくなり、奏多の世界には音楽が無限に広がる。外ではホールとは響き方が異なるけど悪くない。指が調子よく動いた。
 一曲を通しで演奏して、とても足りずに曲調を変えてまた弾く。時間はあっという間に過ぎていく。

「―……?」

 どれだけ演奏していただろう。体がぽかぽかと熱を放って汗ばんで、一度ヴィオラを下ろして顎当てのハンカチで顔を仰ぐ。繊細な木の楽器は汗で湿らせると寿命が縮んでしまう。
 遠目から演奏を聞いて拍手する何者かに、奏多はそこでようやく気づいた。

「素晴らしい演奏だった。聞き入ってしまったよ」
「どうも…ありがとうございます」
「お世辞じゃないよ。本当に、今までに聞いたことのない深く切ない音色だった」

 手を叩き称賛する男を奏多は小首を傾げて眺めた。
 すらりとしたスタイルで肌艶がよく、二十代の半ばか後半だろう。その割に仕立てのいいスーツに、河川敷には不似合いのクラシカルな皮靴を履いて、一見して成功を遂げた社会人のようだ。
 河川敷で演奏していると、時々褒めてくれる人がいる。散歩中だったり買い物帰りのお年寄りが多く、彼のような若い、とはいえ少し年上であろう男性は珍しい。奏多の人生とは接点のない人種だ。

「君はプロ……にしては若すぎるか。音大生?」
「いえ、一応社会人です」
「やはりプロなのか。これは失礼」
「まさか。ヴィオラは趣味ですよ」

 プロの実力とはかけ離れていると自覚している。胸に苦いものが混じって、凛とした男から目を逸らした。
 奏多の家は父子家庭で、生活には余裕がない。父はいつも仕事に追われていた。
 きっかけは近所の家から聞こえてきた美しい音色だった。古い洋風の外観で、庭には淑やかな花が手入れされて咲いており、画一的な建売の多い地域では印象的だった。
幼い奏多は、気づけば日が傾くまで足を止めて聞き入っていた。そこにはオーケストラで演奏していたヴィオリストのおばあさんが住んでいた。
 奏多は運命の出会いを果たした。彼女は引退して一人暮らしをしており、ヴィオラに強く興味を抱いた奏多を殊の外可愛がって無償で基礎からレッスンしてくれた。
 父は迷惑をかけて申し訳ないと言って止めようとしたけど、おばあさんは

「奏多が望むならなんでも教えてあげたい。才能があるのよ。私も老後の生活に張り合いができて幸せ」

と熱心に説得してくれた。
 奏多は遊びや部活は放棄してヴィオラに没頭した。学校の成績が悪いと父からヴィオラは後回しろと諭されるだろうから、平均が取れるくらいには勉強したけど、演奏に比べるとつまらなくて忍耐の時間だった。
 高校までヴィオラを続けてこられたのは人の縁に恵まれた。だけど、家には音大に通う余裕がないことくらい承知していた。
 奏多が高校三年生になり密かに就職先を探していた頃、おばあさんは腰を悪くして、設備の整った老人ホームに入ることになった。

「寂しくなるわね。もっと色々教えてあげたかったのに」
「俺も寂しいです。本当にありがとうございました。面会に行きます。困りごとがあったらいつでも連絡してください」
「無理はしないで。音楽を続けてね。あなたの音は特別に魅力的だもの。多くの人に聞いてもらうべきよ」
「……頑張ります」

 おばあさんは長年暮らした家を引き払う際、大量の楽譜や手入れ道具など、ヴィオラに関する多くのものを奏多に託して微笑んだ。
 全て大事にとってある。プロになれなくても演奏は自由だ。むしろ趣味に留めたほうが心の赴くまま自由に弾ける。
 高校卒業と同時に学校が紹介する会社に就職し、生活は安定した。無事に成人まで育てて父も肩の荷が下りたのか親子関係も平穏だ。
 慣れない仕事に疲れて帰っても、休みになればヴィオラを奏でられる。糧にして頑張れた。
 そんないつもの休日に、突如いつもと違う未知の存在が落ちてきた。
 スーツの男は、新出孝文と名乗って名刺を差し出した。

「音楽の道に進んでいないの?」
「道ですか。プロになれなくても、弾けるだけで楽しいです」
「そう……なのだろうね。演者が楽しんでなければあれほど惹き込まれる音は出せないだろう。だけど……」

 ―上手なのにもったいない。惜しむ言葉だとしたら正直聞き飽きた。
 奏多の家の懐具合と、プロを目指して音楽を続けるのに必要な金額を比較すれば、誰もが現実を察して口を噤む。

「俺、そろそろ帰らないと」
「ちょっと待って。いつもここで練習しているの?」
「はあ、他にいい場所もなくて」
「それなら俺もまた来ていいかな。君の演奏が耳にこびりついて離れそうにない。また聞きたい」

 やけに情熱的に言われて奏多は目を瞠った。嬉しさと戸惑いを同時に感じた。随分おおげさなお世辞を言う人だと思った。

 数日後、同じ場所で練習を始めてしばらくして、新出の存在に気づいた。
 奏でている間は景色の見え方が変わるので、何時からいたのか定かでない。彼は奏多の邪魔にならないよう距離をとって静かな聴衆に徹していた。

「―華麗な音色だったよ」
「ありがとうございます」

 得意な曲を最後まで演奏すると、新出は感嘆した様子で拍手を惜しまなかった。

「やはり君の音には特別、胸に迫るものがある。美しくて、どこか物悲しい」
「どうも…、褒めるのがお上手ですね。でもきっと、あなたのほうがよほど立派な人なんでしょう。いつもスーツを着こなしててかっこいいし」

 自分には過ぎた褒め言葉がくすぐったくて、奏多は話題を新出のほうに逸らした。
 新出は切れ長の涼し気な目を瞠って、じっと奏多を見つめ返す。

「……俺がかっこいい?」
「え、はい。普段からよく言われるでしょう? ……俺、失礼なことを言ってしまいましたか」
「いや……。君は俺の姿なんて目に入っていないのかと」
「目はちゃんと見えてます。俺を何だと思ってるんですか」
「音楽の神様に愛されている子」

 大真面目な顔で返され、頬に熱が集まる。その後も演奏についてあれこれと称賛を受けた。ただの褒め殺しではなく、よく聴き込んでくれているのが分かる小節ごとの表現にまで言及され、奏多はあたふたした。

 数日後。疲労でやや気だるい足を動かして河川敷に赴くと、新出が先に来ていた。
 隙のない社会人に見える外見に似合わずちょっと変わった人だ。奏多の演奏を聞きに来てくれたのだと理解し、挨拶もそこそこにヴィオラを楽器ケースから取り出した。
 戸惑うのは最初だけ。演奏を始めてしまえば奏多の世界は音楽に満ち溢れる。

「すごくよかった。悲劇的な結末が鮮明に思い浮かんで、俺も切なくなった」
「すみません、辛気臭い演奏になってしまって」

 今日は少し憂鬱で、哀切に満ちた曲を選んだ。
 作曲家の当時の苦悩が窺われる曲は重苦しく、静かな河川敷に虚しく解けていく。

「君の演奏の多彩さには感心しきりだよ。しかし俺の気のせいでなければ、疲れているんじゃないか?」
「いえ……ちょっと」
「やっぱり。顔色がよくない。ご飯はちゃんと食べてる?」

 ぐっと迫られて足が竦んだ。
 職場で客の感情的なクレームを聞かされ、正直参っていた。そうでなくても高校生活とは一変して会社員として責任を負う日々に、軟弱な奏多は疲弊していた。
 新出に言われて気がついた。ちゃんとした昼食をとっていない。近くの立ち食い蕎麦屋にでも行くつもりが忙しくて時間を逸し、チョコレートを口に放り込んで空腹を凌いでいた。

「奏多くん、ご飯を食べに行こう」
「え、でも」
「俺としては独り身の寂しい夕食に付き合ってくれたらとても嬉しいな」
「―」

 以前より痩せた奏多の頬に触れられそうな親密な視線を感じて、恥ずかしくなる。
 彼は食事の相手に困ってはいないだろう。今からその辺の道で声をかけたって、新出にならついていく人はいそうだ。

「何が好き? 食べられないものはある? 肉と魚ならどっちが好き?」
「魚好きです……あっ」

 ヴィオラをケースに収めるのを待って、新出が奏多の手をとった。なんだかもう、断る選択肢はない雰囲気だ。
 定食屋の焼き魚を思い描いていたら、想像の斜め上にある立派なうなぎの店に連れて行かれた。

「……」
「遠慮しないで、食べたいものを頼んで。そのほうが俺は嬉しい」
「俺、鰻重なんて初めてです」
「え…、本当?」
「あ、いえ、給食で出てたら食べてると思います」
「給食で鰻は、めったに出ないかもね」

 驚いた顔をされ、自分の経験の少なさが恥ずかしくなる。見かねた新出はすかさず「俺も大人になるまで食わず嫌いしてたよ。生きてるときの見た目が苦手で」とフォローを入れた。
 重箱に盛られた鰻重が目の前に出されると、これでもかと食欲をそそる匂いと見た目に釘付けになった。

「食べよう。いただきます」
「いただきます……、う…………」
「どう? 口に合うかな。作ってもないのに俺が緊張する」
「お……美味しすぎて、ちょっと言葉を忘れてました」

 想像を上回る味が口に広がって、奏多は感動すら覚えた。空っぽの胃袋に贅沢なものを咀嚼して運ぶ。

「気に入ってくれた? この店にしてよかった」
「本当に、美味しいです。……」
「ゆっくり味わって。足りなかったらおかわりしよう」

 新出が自分の食事を中断してじっと奏多を見ていることに気づいて戸惑う。
 箸の使い方など最低限のマナーは身につけているはずだが、こうも見られると、咀嚼音が聞こえてしまわないだろうか、口元にタレがついていないだろうかと落ち着かない。

「あの、そんなに見られてると食べにくいです…」
「ごめん。幸せそうな顔をしてくれるから目が離せなかった。君を笑顔にしたのは俺じゃなくて鰻なのにね」
「あ、新出さんのおかげです」

 奏多は慎重に鰻を味わった。
 ―どうしてこんなによくしてくれるのだろう。理由がわからなくてネガティブな想像に陥りかける。
 父や友達や教師などの周囲の大人は、普段ぼうっとした奏多を案じていた。悪い大人に気をつけろとか、駅によくいる勧誘にはついていくなとか、儲け話には必ず裏があるとか。
 新出は騙すような人ではないと感じるし、信じたい。

「新出さんはどうして、俺なんかによくしてくれるんですか」
「自分を低く見積もらないで。少なくともここに一人、君に惚れ込んでしまったファンがいる。寝ても覚めても君の……奏でる音を思い返してしまうほどだ」
「でも、あなたはプロのコンサートにも行くって前に言ってましたよね。耳が肥えているでしょう。比べられたら恥ずかしいです」
「人並みよりは多く音楽に触れてきたつもりだ。名門とされるオーケストラの音色は確かに素晴らしいよ。でも今、一番俺の心を揺さぶって止まないのは、ほかでもなく君なんだ」

 真剣な熱意の宿る目で見つめられ、奏多はまたもや困惑して顔が上気する。
 食事に集中していると見せかけるため、鰻重をかきこむと咽せてしまい、一部始終を見守る新出が微笑んでお茶を差し出した。
 胸が苦しい。満腹のせいなのか新出のせいなのか、奏多にはよく分からなかった。

 ◇


「君が音楽を続ける手助けをさせてほしい」

 次に会ったのは一週間後で、新出は挨拶も程々に固い意志を示してきた。

「突然、ですね。俺は今のままでも、こうして聞いてくれる人がいれば…」
「俺がもっと貪欲に君の音楽に触れたいんだ。気味悪がらずに聞いてほしいのだけど、俺は一昨日も、その前の日も、ここを訪れていた。君に会えるかもしれないと思って引き寄せられていた」
「え……」
「やっぱり引いたかな。今日は付き合ってほしい場所がある。それほど時間はとらせないから」

 新出は郊外の方に奏多を連れ出すと、立派な門構えの家のインターホンを押した。
 白髪で身なりの良い男性が応対した。どこかで見覚えがあるような…。

「待っていたよ。その子かい」
「はい、よろしくお願いします」
「さ、入って。まずは一曲聞かせてくれ」
「え、ええっ?」

 背中を押されて中に入ると、グランドピアノが置かれた広い防音室に案内された。音楽家の家だ。胸がどくんと高鳴る。
 宮木と自己紹介した男性を奏多は知っていた。日本を代表するオーケストラで長年ヴィオラを演奏していた素晴らしい奏者だ。羨望に囚われたくなくてあまり考えないようにしていたけど、音色を聞いたら忘れられるはずもなかった。
 道を突き詰めたプロは、奏多とは違う世界の人間だ。ああいうふうになりたいと願っても叶わない。
 新出は名演奏家に奏多のヴィオラを聞かせようとしている。目的がよく分からないまま、またとない機会に武者震いがした。

「……」

 招いてお茶を出してくれたときの宮木は優しげなおじいさんという感じだったが、奏多がヴィオラを持つと一転して厳しい眼差しになり、空気がひりつく。
 つい新出のほうをちらりと見る。安心させるように微笑む、というわけでもなく、真剣な熱意が籠もった表情はいつもと同じで、かえって力が抜けた。
 慣れた場所とは響きの違う防音室に最初は戸惑ったけど、体は生き生きと動いてくれた。曲に入り込めば誰が聞いていても頓着できなくなる。

「―新出くんが気に掛けるだけのものはある」
「あ……ありがとうございます、お時間をとって聞いてもらえて光栄です」

 夢中で一曲があっという間に終わった。宮木は厳しい表情のままだったが、ぼろくそに貶されはせず安堵する。

「まだ評価は終わっていないよ。いただけない癖がある。技巧や表現力と基礎が釣り合っていない。君の師はどういう教え方をしたんだ」
「先生はちゃんと教えてくれました! 俺が至らなかっただけで」
「ならば指導者の想いに応える演奏を志しなさい」

 宮木の厳しい指導が始まった。
 奏多はおばあさんに本当によくしてもらったけど、専門的なレッスンを受けたわけではない。中学生になる頃には彼女は入退院を繰り返しがちになり、直接聞いてもらえる機会も減っていった。
 至らない部分は多いし、自己流の癖が染み付いている気はしていた。だけど治そうとすると演奏がガタついてひどくなり、変え方が分からなかった。

「はあ、はぁ……ありがとうございました……」
「暇ができた時にまた聞かせてくれ。真剣に上を目指すならしっかり自分の長所と短所を分析して向き合うことだ」

 二時間ほどダメ出しをされ続け、奏多はぐったりして深く息を吐いた。
 仕事でくたくたになったときとは違う。体は動かしづらいほどなのに、教えられたことを身につけようと頭は冴えている。心地いい疲労感だった。
 席を外れていた新出がちょうどいいタイミングで迎えに来た。

「どうだった?」
「それはもう、こっぴどく言われました」
「厳しい人だけど、君のことを気に入っていたよ。やはり俺の耳に狂いはなかった」
「長年の癖が体に染み付いているので、治すには時間がかかりそうです」

 練習できるのは平日の短い夕方と休日に限られるし仕事で体力が削られる。腕が鈍らないようキープするだけで精一杯だった。

「もっと深く音楽に没頭したくなっただろう」
「それは……」
「宮木先生が音大の講師もされているのは知っているね。今この時も学生達は腕を磨いている。彼らのように、貴重な時間をヴィオラに捧げて学んでみたくない?」

 音楽の道に進み、日々ヴィオラ漬けになれる生活。そんなの―。
 やっぱりこの人は、悪い人なのかもしれない。
 奏多は今の生活で満足だと伝えている。叶いもしない分不相応な夢を見させるのは残酷だ。

「俺には無理です」
「何度でもしつこく言うよ。俺に手伝わせて。……回りくどい言い方では通用しないか。君を援助したい」
「援助…」
「いかがわしく聞こえてしまうか。返済期限のない奨学金のようなものだよ」
「お気持ちは嬉しいですけど、音大の学費は気軽に援助してもらえる額じゃないですよ。目玉が飛び出るくらい」
「こちらも慈善事業のつもりはない。君が音楽の道に進めば必ず花開くときが来る。そのとき、支援に対して有り余るお返しを俺にくれる契約を交わすんだ」
「……」

 近くに奏多を知る大人がいたら「騙されるな」と諌められていただろう。
 数十センチ先にある熱情的な目から、こちらに熱が移ってしまうようだ。自分の中に無理やり押し込めていた熱を煽られたといったほうが正しい。
 騙されてもいい。きっと最後のチャンスになるだろう。挑戦したい欲望が抑えられなかった。
 奏多は音大を目指すため急ピッチで準備を始めた。生活のために続けたかった仕事を両立させるのは到底無理だと、すぐに思い知った。
 半年足らずで辞表を出した奏多に上司は渋い顔をしたが、ヴィオラへの気持ちを訴えると仕方がないと苦笑いされた。

 ◇


「あたしは佐久間朱梨。絶賛一浪中。よろしくね」
「俺は相馬隆紀。一応ライバルだけど仲良くしようぜ。よろしく」
「名取奏多です。よろしくお願いします」

 新出は音大の予備校を紹介した。奏多は音大に予備校があることさえ知らなかった。
 個人レッスンもあり余計に出費が嵩むから二の足を踏んだが、合格を手繰り寄せるためだと新出に説得された。特に筆記テストには不安があったし、音大受験がどんな空気感なのか知っておきたかったのでありがたかった。
 不安と期待半分で入った場所で、目標を同じくする友人もできた。

「奏多っておとなしいね。私はうるさいよりずっといいと思うけど、自習室とかレッスン室の使用権とか、主張しないととられちゃうから気をつけて」
「お前高校どこ? 誰に習ってた? ……なんだ、ほぼ独学じゃん。大丈夫なのか?」

 朱梨は健康的な印象の明るい女性で、真っ先に声をかけてくれた。親切で裏表を感じない人柄で周囲から頼られている。
 相馬は高価そうな服とアクセを身につけてよく長めの前髪を触って、外見に気を遣うタイプのようだ。奏多が音楽科出身でもなければ専門的なレッスンも受けていないと伝えると、ついていけるのか心配された。

「ねえ、一度聞かせてよ。ちょうど防音教室が空いてるし」
「いいね。言葉で語るより演奏で語らないとな俺達は」

 朱梨の提案で、挨拶がわりに演奏を披露することになった。

「緊張すんなよ、俺達はしょせんストレートで入れなかった落ちこぼれだしな。高校生も混じってるけど」
「うん」

 相馬が時間のある予備校生を集め、思ったよりも聴衆が増えて教室の席を埋めた。
 今日は座学をみっちり詰め込む覚悟をして来たので、ヴィオラを弾けるのが純粋に嬉しかった。
 一度目を閉じ、かけがえなさをヴィオラに伝えるように弾く。冒頭は悲しげなメロディから始まり、後半ががらりと変わってテンポが速く技巧が散りばめられた曲調になる。五分程度で収まるので挨拶代わりにはちょうどいいと選曲した。
 演奏中は、さすが音楽家の卵の集まりだけあって誰も一言も発せず静まり返って耳を傾けてくれる。

「……はあ……」

 最後の小節まで駆け抜けてヴィオラを下ろすと、教室中から拍手が沸き起こった。目が合った何人かは、頬を紅潮させて感心した顔をしていた。
 高校生の男子が一定の拍子で手を叩いてアンコールを催促し、困惑していると「私ももう一曲聞かせてほしいな」と朱梨に背中を押されたので、短い曲を選んで演奏した。

「―すごい、うまいんだね。びっくりしちゃった」
「ありがとう。今日は調子がよく弾けた」
「調子とかってレベルじゃないでしょー」

 講師から解散を言い渡された帰り際、朱梨がしきりに褒めてくる。その横に並ぶ相馬は、どこか不機嫌そうだ。

「お前さあ、経歴本当のこと言ってる?」
「うん。どうして?」
「ふーん。独学で練習時間も短かったのに才能あるね、って言ってほしそう」
「ちょっと、今の嫌味すぎ」

 朱梨に諌められた相馬は不貞腐れ、分かれ道で去って行った。
 奏多は面食らった。明るくていい意味で軽いノリの第一印象だったのに、去り際にはどこか陰鬱な表情が垣間見えた。

「気にしないで。あいつ経歴で人に優劣つけるところがあるっていうか……、ピリピリしてるんだよ。手強いライバルが増えて」
「そうなの? 志望校も違うし、俺を意識しても意味ないと思うけど」

 奏多から見ると、裕福な家庭で練習環境に恵まれ、ファッションにまで大金をかけるほど余裕がある相馬が羨ましい。それを口や態度に出したところでただの僻みでしかないので表には出さないだけだ。

「理屈じゃないんだよ。あ、あたしは単純に、いいなーまた聞きたいなーって感動しちゃった。同じ楽器だったらライバル視して妬んでたかもだけど。あたしはピアノだしね」
「ありがとう。疑ってないよ」

 と、予備校では初日から多少の軋轢が生じたものの、大きな問題に至ることはなく通い続けられた。
 相馬は次に会ったときにはケロッとして声をかけてきた。朱梨いわく「あいつプライド高いし、嫉妬して意地悪してるとか噂されるのも絶対嫌なんだよ。気にせず接すれば大丈夫」とのことだった。
 学ぶことは多かった。苦手な座学も音楽の道に必要と思えば熱心に打ち込めた。


「奏多くん、調子はどう?」
「おかげ様で頑張ってます。今日はバロック音楽について集中的に勉強して、その後レッスン室を借りて佐久間さんに伴奏をしてもらいました」
「親しい友達ができて何よりだ」

 新出とは週に一、二度は必ず会う約束をしている。今日のように夕食を共にしたり、休日にランチをとることもあった。
 初めての味にいちいち感動する奏多の間抜け面が印象的だったのか、度々うなぎの店や回らない寿司に連れて行かれそうになる。ただでさえ多大に金銭的な援助を受けているのに出費を増やすのは申し訳なくて、新出が許容できるなら庶民的な店がいいとお願いしている。

「佐久間さんがよく練習に付き合ってくれて、俺は運がいいです」
「―二人でレッスン室に籠もっていたら、別の意味で付き合ってるんじゃないかとからかわれるんじゃない?」
「ああ、相馬くんに言われました」

 相馬は何事も楽しむべきというスタンスで他人の噂を面白がり、弄り方がしつこかったり棘を感じることがあった。

「相馬くんは君に嫉妬しているんじゃないかな」
「そう思います? やっぱり佐久間さんのことが好きなのかな。でも佐久間さんは好みが変わってて、相馬くんよりは俺のほうがありだって。要するに完全に相馬くんは恋愛対象ではないってことでしょう? ちょっと可哀想で」
「……」

 新出がなんだか苦い顔をして黙りこくった。
 ここにいない知らない人の噂話なんて、嫌なことを言ってしまったと後悔する。

「すみません、こんな話つまらないですよね」
「いや。君の方こそ、こういった話題には興味がないのかと思ってた。悪い意味じゃなくて、普通の若い子達が好むありふれた色恋話と君とはどうにも結びつかなくて」
「はあ、全然モテないです」
「そういうことじゃないんだ。上手い言葉が見つからない。君がもし恋愛をするとしたら、ごく普通の学生同士の軽いものではなく、昔の音楽家のように情念の篭った、特別なものではないかと……おかしなことを言っているね、俺は」
「いいですけど、新出さんのほうが変わってると思います」

 奏多は苦笑した。古典音楽を好む新出の中には理想とする音楽家像があり、奏多のことを、常人とは違う現代に蘇った天才肌だと買いかぶっている節がある。
 新出には似合わない失礼な言い方をすれば、少々オタク気質だ。
 奏多はヴィオラ以外に強く入れ込んだことはないからピンと来ないが、「応援する相手にこうあってほしい、俗っぽい面は見たくない」といったファン心理は聞き覚えのある話だ。何か―疎い世界すぎて仔細は頭から抜け落ちてしまった―のグループに推しがいるらしい朱梨が熱弁していた。

「もっと新出さんを楽しませられる話ができたらいいのに」
「君はそのままで十分だよ。音楽だけに集中していて。俺が環境を整える」
「ありがとうございます」

 新出の情熱は奏多にとっては都合がよすぎるくらいだった。他のことなら遠慮する常識くらいあったけれど、奏多は手段を選ばずヴィオラを続けたかった。
 一度火がついたら、仕事のない短い時間だけ触れる生活には到底戻れる気がしない。新出の熱に煽られていく。

 ◇

 長いようであっという間に日々が過ぎ去った。
 奏多は第一志望の音大に合格を果たした。
 仲間とは素直に喜び合えなかった。相馬は第一志望に落ちてピリピリしていたし、朱梨も明るく振る舞っているものの、今年駄目なら実家に帰るという親との約束があり、ナーバスになっている。
 奏多は真っ先に新出に報告した。朱梨達のことだけでなく、素直に喜べない事情があった。

「―おめでとう。君を誇りに思うよ」
「ありがとうございます。何もかも新出さんのおかげです。ただ……」
「浮かない顔をしているね。また誰かに嫌味を刺された? 気にしないほうがいい。君のような人には必ずつきまとうものだ」
「いいえ。特待生の選抜が…、駄目だったんです」

 奏多は項垂れた。特待生になれれば学費が免除されるから、高望みだと理解した上で目標にしていた。
 実技試験はいつも通り弾けた。筆記試験は後から間違った箇所に気づき、あまり自信がなかった。
 ヴィオラの演奏も、現状では最善を尽くしても荒削りな奏多より実力で上回った受験生がいたのだろう。

「君は準備期間が他の子より明らかに短かった。合格しただけで十分じゃないか。これからもっと腕を磨いて特待生の子達より上を目指すといい。張り合いがあるだろう?」
「でも、学費が……」
「心配しなくていいから」

 新出は最初からそのつもりだという迷いのない口ぶりで奏多を励ます。
 彼から特待生を目指せと言われたことはないし、助けてくれるだろうと頭では分かっていた。分かっていて落ち込んだ顔を見せた自分はずるくて、新出の理想とは程遠いと心の中で自嘲する。
 この前、彼と食事中に新出の大学時代の同級生に出くわした。新出とは起業仲間でもあり、彼の話によれば新出は事業で成功していて潤っているという。
 奏多に援助を続けてもまだ余裕があるようだ。とはいえ音大の学費は相手が裕福だからと甘えられる額ではない。耳を揃えて全額返済すると決めているけれど、一体何年かかることか。

「……新出さん。俺にしてほしいことはありますか」
「わかりきっているよ。君の演奏を聞かせて」

 奏多は新出の前でヴィオラを弾いた。新出はじっと熱を帯びた目で指先の動きを見つめ、理想の聴衆でい続けてくれた。
 何曲も披露した。レパートリーはかなり増えたが、最後は自然と、新出と出会った時の曲を奏でていた。
 新出だけに向けて演奏し、奏多だけに向けられた拍手を浴びる。不思議なほど高揚した。

「また上手くなったね。試験のときもその場にいたかったな。君の音は一つも逃さず耳に入れたい」
「ありがとうございます。新出さん……他にしてほしいこと言ってください。俺、なんでもします」

 おずおずと申し出る奏多に、新出が怪訝な顔で見つめ返す。

「なんでも……困ったな。無理なお願いをしてしまいそうだ」
「無理じゃないです。俺、新出さんのためならなんでも……あ、なんでもといっても犯罪とかはできませんけど、新出さんはそんな頼みしないって分かってるので」
「……危ういな。ちゃんと意味を分かって言葉を使ってる?」

 じりじりと、肌を焦がすような視線を感じる。奏多はごくりと唾を飲んだ。

「分かってます。前にも、パトロンになってもいいって人がいました」
「―それは」
「援助する代わりにって……すごく親しげにしてくれて、最初は言外の意味に気づかなかったです」

 かつて奏多の事情を知って金銭の援助を申し出たのは、地元企業の社長だった。
 恰幅のいい中年男性で、食事をご馳走して奏多のヴィオラを褒めちぎった。息子がおらず、奏多の成功を援助することを生きがいの一つにしたいのだと熱弁された。
 親切で豪快に笑う人で、好感を覚えていた。
 でもある時、同じく音楽をやっている知人に言われたのだ。

「あの人の悪い噂知ってんの? 若い才能を伸ばすのを手伝いたいなんて建前で、若い男が好きなんだってさ。気持ち悪いよな。一度パトロンとして援助してもらったら合意したんだって断われなくなるよ。よく考えたら?」

 全てを打ち明ける前に新出が豹変した。眦を吊り上げ、硬い雰囲気を放って一歩奏多に近づく。

「―君の目には俺も初めから、下卑た目的で近づいた男と同類に映っていたのか」
「いいえ。本気で音楽を応援してくれてるって分かってます。でも、パトロンってそういうのも込みだと、最初から覚悟してました」

 空気が重く張り詰めて息がしづらい。
 奏多は致命的な間違いを犯してしまったのかもしれない。
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