801短編集3 サンプル


恋愛不能の男と恋情を叩きつける男
奏でる
年上幼馴染の理性が崩壊するまで


◆魂を奪う人


 心臓を鷲掴みにされる。そんな一生に一度あるかないかの衝撃に、確かに出会ってしまった。

「……」

 静寂が守られている美術館の中で、白井葉は誰よりも身じろぎ一つせず佇んで一枚の絵画に囚われていた。
独特な色使いで描かれた世界は極めて幻想的なのに、本当に存在するのではないかと思わせる力で無限の想像をかきたてられる。

「綺麗だね」
「これって何を描いてるの?」

 魅入られる葉の姿に、他の客もどれほどの絵なのかと興味を掻き立てられて覗き込む。同行者がいれば感想を言い合って、やがて順路に沿って進んでいく。
 平日の比較的空いている美術館で何人が通り過ぎていっただろうか。葉は絵に集中して数えたりしない。

「―飽きずにずっと見ていますね」
「飽きる? 俺の人生の時間をすべて使っても飽きるなんてありえないですよ」
「確かに凄みがある作品ですけど、それは大げさでは」

 他の作品を見て回っていた年下の青年が隣に立って、小声で話しかけてくる。訝しがられるのにも慣れた。
 一人で訪れると見入りすぎて館内放送すら右から左に流れ、職員が困った顔をして「閉館の時間になります」と声をかけられることもしばしばある。
 葉は名残惜しく、後ろ髪を引かれながら帰路についた。

「白井さんがぴくりとも動かないから、展示品の彫刻になっちゃったのかと二度見しましたよ」
「変なことを言いますね。俺の体は芸術作品になるには凡庸すぎる」
「そういう問題ですか?」

 美術館に併設されている喫茶店でコーヒーを頼み、立ちっぱなしの体に休息を入れる。
 連れの青年、黒羽千宏は、気の強そうな顔立ちに似合わずレトロなクリームソーダとケーキを頼んで写真を撮っている。若者らしい。

「わざわざ美術館に通わなくても先生の作品は見られるじゃないですか。マネージャーの特権でしょう」
「はあ……あの絵画の実物は世界に一枚、美術館にしかないですから」

 葉は芸術家のマネジメントをする仕事をしている。魅了されて止まない画家―藍沢光洋は、契約を結んでいる一人だ。
 もちろん葉にとってはただのクライアントではない。私情を丸出しにするのは仕事に差し障るので謹んでいるが。

「ちょっと俺には分かんない感覚だなあ。どんな傑作でもしばらく見たら満足しちゃう」
「黒羽くんの熱心なファンは、個展のとき長時間見入っている人も少なくなかったですよ」
「んー……」

 黒羽は「先生」と呼ばれるのを嫌い、学生時代の後輩のように気安く振る舞うが、彼もれっきとした芸術家で葉のクライアントだ。新進気鋭の画家として注目を浴びている。
 ネットでの自己プロデュースにも長けていて、コミュニケーション能力も高く、正直マネジメントがなくても十分にやっていけそうな男だ。仕事相手としては実に優等生で、今日も黒羽のほうから「気晴らしに」と美術館に誘ってきた。
 藍沢は、彼とは全く違う。

 ◇

 葉の半生は順風満帆ではなかった。不仲な家庭に生まれ、鬱屈としたものを抱えて生きてきた。
 辛いことに向き合えずに内に籠もっていた頃、藍沢の絵と出会って稲妻に打たれた。
 本当に空から雷が落ちて、今までの葉は一度死んだのかもしれない。非現実的な考えが浮かぶくらい、藍沢を知る前と後では人生が変わった。
 作品は一つ残らず見逃すまいと調べ尽くして各地の美術館に通い、作品が展示されるとアンテナを高く張ってすぐに赴いた。
 仕事を通じてお近づきになりたいと、最初から下心を抱いていたわけではない。
 一目逢いたい気持ちはあった。個展が開かれた初日、誰も並んでいないのに胸を高鳴らせて数時間前から待ちわびて入ったそのとき、彼を見た。目の下に隈を作り、ふらふらと焦点が合わず、見るからにやつれた姿の藍沢を。


「今日は来てくれてありがとうございます」
「…………」

 生の声が聞けた喜びより、疲弊した様子にいてもたってもいられない気分になった。眠気も空腹も忘れて描き続けていたのではないか。
 藍沢はまだ三十そこそこの若さだ。しかし優れた芸術家というのは特有の感性を持ち、普通の人とには理解されがたい苦悩を抱え込んで心を病んでしまう人も少なくないという。
 隣に立って支えたいと、我欲の混じった使命感が生じた。

「せ、先生」
「君、一時間前から並んでくれていたよね。そんなにしなくても余裕で入れただろう。嬉しかったよ」
「いえ、さ、三時間前から並んでました」
「……物好きだな。サインもとびきり丁寧に書かないと」

 魂を連れて行かれる憧れの人と初めて言葉を交わし、サインまでもらえる僥倖に震えが走った。藍沢は隈の上に少し皺を作って笑い、明らかに他人の相手をする余裕はない顔色で優しい言葉をかけてくれた。
 ―なんとしてもこの人を助けて、健康で幸せになって、天賦の才を発揮して集中して素晴らしい作品をこれからも生み出してほしい。
 葉は心に誓った。

 ◇

 芸術について勉強する日々が始まった。正直にいえば藍沢の作品以外にはあまり興味がなく、藍沢が影響を受けたと語る芸術家に嫉妬するくらいだったが、学べば学ぶほど奥が深く、納得せざるを得なくなった。
 芸術に携わる仕事に就くのは容易ではなく、執念で無理やり成し遂げたと言っていい。

「はっ、はじめまして。先生が創作に専念できるよう、尽力させていただきます」
「はじめまして? 他人行儀だな。個展に来てくれただろう」
「……っ、申し訳ありません。覚えていてくださったとは思わず」
「マネジメント契約なんてぴんとこなかったけど、君ならいい。僕を悪いようにはしないだろう?」

 隈い影が気になる瞳の中に葉がいる。じんと感動を覚え、誠心誠意務めようと神に誓った。
 葉にとっての神は藍沢だ。



「俺もね、藍沢先生はすごいと思いますよ。嫉妬しちゃうレベル。でももう少し俺の絵を見てくれてもよくない? 今すごい格差を感じてます」
「言うまでもなく、黒羽くんの絵は素晴らしいですよ。しかしいざ俺が長時間まじまじ黒羽くんの絵を凝視していたら、さぞ不気味でしょう」
「藍沢先生に対して不気味になるのはいいんだ?」

 黒羽は他に見ない特有の筆致と色彩感覚で着実に人気を伸ばし、本人も自由奔放に創作を楽しんでいる。
 少し前、視聴者数の多いネット番組にゲスト出演したことで、にわかに女性人気が増した。
 若くて少し癖のあるイケメン芸術家。明るく人見知りせず流暢に喋れて、メディア受けは申し分ない。今後も出演依頼が増え、仕事も増えることだろう。絵以外で評価をされるのを厭う画家も多い中、黒羽は売れればいいんじゃない? とあっけらかんとしている。

「藍沢先生は色んな意味で目が離せないんです。黒羽くんは……私がいなくても順風満帆なので、本音を言うと、マネジメントしがいがないといいますか」
「ひどい。差別だ。俺はこんなに白井さんに頼ってるのに」
「申し訳ありません」
「本当に反省してますかー?」

 黒羽は軽口を叩きたいだけで怒ってはいない。最初は葉も本心が読みきれず気を遣ったが、もっと砕けて話したほうが楽だとしつこく言われたので従っている。
 友達のように接したいのだろう。すでに葉とは桁が違う数の友達がいるというのに、根っから社交的な気質だ。

「その崇拝ぶり、白井さんが女性だったら絶対ガチ恋じゃないかって警戒されてたよね。脂ぎった顔のおっさんでも近寄れなかっただろうな。清潔感のある同性で得してますよ」
「恋…? ありえません。恐れ多すぎて考えたこともない」
「そこはいつも即否定するよね。別にありえると思うけどな。社会には馴染めない天才画家を献身的に支える人間が、実は画家に後ろ暗い恋心を……って、何世紀も前からありそうな話だし」

 黒羽の勘繰りは分からないでもない。傍から見たら葉の執心ぶりは度を超していて、邪な想いを疑いたくもなるのだろう。

「私は……公私混同は決してしません。先生が筆をとるのに最良の環境を整え、作品を世に伝える仕事に誇りを持っています」
「分かった分かった。白井さんの仕事を疑ってるわけじゃないよ。藍沢先生と比べたらクソほどどうでもいいだろう俺のマネジメントだって一生懸命やってくれてるし」
「どうでもいいなんてまさか。黒羽くんの絵もどんどん人気が出てきて」
「他人の話じゃなくてさー、白井さんは俺のどこがどう好き?」

 途中で黒羽に詰め寄られて困る。

「どう? ええと、いきなり訊かれると言葉にするのが難しいな」
「ほらな。相澤先生を称える言葉はナイアガラみたいに垂れ流しになるくせに。うっかり話振ったらもう延々と」
「……面目ない」

 黒羽の絵にも魅力を感じるのは嘘偽りないが、抽象的で奇抜な作品が多く、素人が言葉にするのは難しい。

「酒飲んだら俺のことも褒めてくれるかな。飲み行きません?」
「すみません、夜にも仕事が入っておりまして」
「残念。まあ今日も急に俺から誘ったんだし仕方ないね」

 日が落ちると黒羽と別れ、葉は気持ちを切り替えた。
 一歩一歩の道のりを踏みしめる。これからの貴重な時間と比べれば全てが些末なことで、周囲の声が遠くに聞こえた。

「―……」

 閑静な郊外の一軒家。与えられた合鍵で慎重にドアを開け、彼のアトリエに足を踏み入れる。
  廊下には配達された水や日用品が段ボールのまま放置されていて、持参したスリッパにうっすら埃の痕を残す。後で念入りに掃除しなければ。
 キャンバスに向かっている最中なら断じて集中を乱してはいけない。たとえ話をすると約束をしている時間であっても。
 絵を描くためだけの部屋で、藍沢は筆を手に取っていた。
 葉の魂を抉り取る作品を創っている姿に震えが走って、自分の腕をぎゅっと掴む。中を覗き込んでしまいたい衝動を抑え、じっと待った。
 どれくらい時間が経っただろう。

「……ああ、君か」
「先生。申し訳ありません、お邪魔してしまいまして」
「今気づいた。すまないね、約束の時間はとっくに過ぎているな」
「いいえ、先生の創作より優先されるものなどこの世に一つもありませんので! 待つ時間も光栄でした」

 キャンバスに全て注がれていた視線が葉に向き、胸が湧き立つ。

「紅茶を淹れよう。そうだ、スリランカから取り寄せた茶葉があるんだよ、どこだったかな」
「先生。私がいたしします」
「いやあ、どこかにあるはずなんだけどな」

 棚から次々と物が転げ落ちる。指に怪我でもしたらいけないので葉が急いで支えに行った。
 アトリエは藍沢が作品づくりに集中できる環境に整えられ、葉は一切手をつけていないが、他の部屋はその限りではない。
 端的に言ってかなり散らかっている。葉が定期的に片付けても、形状記憶されているのかと疑うほどすぐに元通りにごちゃっとする。
 家事代行を頼もうかと検討したが、藍沢は嫌がった。過去に物を盗まれたことがあるし、そうでなくとも藍沢は気難しく、他人をテリトリーに入れたがらない。

「今日はこれでいいか」
「どうかお気遣いなく」

 コーヒーより紅茶を好み、各国から取り寄せている藍沢は結局、市販のティーバッグで妥協した。

「いただきます。―次の個展は以前の打ち合わせどおり六月に、以前と同じギャラリーでよろしいでしょうか」
「いいよ。ここに越してきてから調子がいいんだ。君のおかげだね」
「いえ、私は何も」
「静かだし空気もいい。心なしかティーバッグの紅茶も芳醇に感じるよ」

 この物件は葉が紹介したものだ。彼の過去の発言や性格の傾向を研究し、好みに合いそうな建築様式の西洋館を閑静な郊外に探し当てた。気に入ってくれて嬉しくてたまらない。
 個展がよく開かれる都会にはやや遠く、利便性に多少難があるが、頻繁に外出しない藍沢にはさして問題にならない。

「君に言われて、座りっぱなしじゃなく時々立つようになったんだよ。偉いだろう?」
「ええ、とても偉いです。少し運動してくださればなおよいのですが」
「運動……? 考えておくよ」

 時には寝食も忘れて彼の中の世界を表現する藍沢を、極力邪魔したくない。しかし健康はとても気になるし気遣うのも葉の仕事だ。
 食事は栄養バランスを考慮した宅配サービスを頼んでいる。それまでの藍沢は空腹を思い出したらパンを齧る小鳥のような食事だった。
 黒羽などは何も言わずともよく肉と野菜を食べてジムに通って、エリート営業マンのように活動的なのに。芸術家の個性は人それぞれだ。

「なにかお困りのことはありませんか」
「何もない。なさすぎて腑抜けになってしまいそうだ」

 藍沢が遠くを見る。
 彼は葉に輪をかけて困難な家庭に生まれついた。特に父親がよくない。昔からギャンブルに依存して苦労をかけたあげく、藍沢が高名な画家になると金をせびりに来るようになった。
 葉も顔を見たことがある。憐れな弱者のように振る舞いながら、藍沢から金を引き出そうとする。あの父親から藍沢という奇跡の存在が生まれたのが信じられない。
 藍沢も放っておくと生活が自堕落になりがちなところはあるが、それは芸術家気質からくるもので父親に似ているのではない。
 藍沢にまとわりつく親族から適切な距離をとらせるのも葉の重大な役割だ。

「では、私は少し掃除をさせていただいてから失礼いたします」
「いつも助かってるよ。ええと、白……」
「白井です」
「そうそう白井くん。またね」

 藍沢に休息の時間を確保して、今日の葉の役目が終わる。
名前がうろ覚えでも傷つかない。むしろ「白」を覚えていてくれただけ感動ものだ。彼は普通の人間とは違う世界を見て生きているのだから。

 ◇

 藍沢の個展が開かれる日のことだった。

「そわそわしてますね、白井さん」
「大事な初日ですから」

 ここのところ藍沢は調子がよさそうだが、いかんせん波があるのでいつ何があっても対処できるよう身構えておく必要がある。
 藍沢が自信を持って素晴らしい作品を公開し、多くのファンに存分に触れてほしい。
 気を張って警戒していたおかげで……藍沢に会わせる前に、彼の父親を見つけることができた。

「―何をにしにいらしたんですか」
「ご挨拶だな。こっちは大事な先生の父親だ。随分いい場所で個展をやってるじゃないか。本人は田舎に引っ込んでるみたいだが」
「先生とお話をしたいならこちらの窓口か弁護士を通していただくお約束でしょう」
「こっちは父親だぞ、おたくみたいな赤の他人とは違うんだよ」

 藍沢の父親は以前より粗暴になっており、酒の臭いがした。もう他人に取り繕う余裕もなくなっているらしい。

「赤の他人」であると、自分でもよく自戒している。しかし藍沢に悪影響しか与えない男に言われるのは腹に据えかねる。

「どうか今日のところはお引き取りください。先生にとって大事な日なんです」
「うるせえな、あいつには俺に尽くす義務があるんだよ。どけっ」
「どきません」

 絶対に藍沢には会わせない。道を塞ぐ葉に、男は歯をむき出しに威嚇する。
その手にナイフが握られているのを見てぎょっとした。絶対に藍沢の元へは行かせない。
 ―藍沢を傷つけるくらいなら、自分がこの男を―。

「若造が、びびってんだろ? どけよおら…っ」
「……っあ」

 不穏な考えに支配されかけたとき、男が足をかけてきた。
 すぐに立て直そうとして不覚をとった。後頭部が壁に嫌な当たり方をして、体がぐらつく。

「ざまあねえな。そっちが勝手によろけたんだ」
「……―」

 頭がぐわんぐわんと回って、倒れゆく体を突如強い力で支えてもらった。

「何してんの、あんた」

聞き覚えのある声が怒りを帯びている。
この腕が藍沢のものであったらいいのに、とちらとでも思ってしまった自分は愚かだ。すぐに藍沢でないことに安堵する。彼の清浄な瞳に醜い光景は見せたくない。
意識が失われていく。

 ◇


「―白井さん」
「は……っ、あの男は……?」

 朦朧とする意識で、第一声から慌てふためく。

「警察が連れて行ったよ。弁護士にも連絡して対処してもらってるって」
「個展は、藍沢先生は」
「予定通り開かれてる。藍沢先生も前見たときより元気そうだった。あなたのことは心配そうだったけど」
「そんな、俺のことなんかで」

 そのとき、スマホがポケットで震えた。
 この着信音に設定しているのは世界で一人だけ。葉はまだ起き上がれない体で反射で通話を試みる。

「はいっ……」
「―大丈夫!?」
「あ、あ……俺は大丈夫です。先生こそ大事ないですか」
「僕は何もされていないよ。まさか君にまで手を出すなんて、本当にすまなかった」
「あの……先生の心が乱されてはいないかと」
「それがね、不思議なほど僕自身は傷つけられていない。あの男に対して何も感じないんだ。君のことが心配でそれどころじゃなかったのかな」

 藍沢の声から葉を気遣う色を感じる。葉のほうが動揺していた。

「騒ぎになってしまい、面目ありません……」
「どうか謝らないで。悪いのはあの男と、対処しきれず逃げていた僕の方だ。これから会える?」
「え……! ……いえ、私は大丈夫です。それに先生は悪くありません。ではまた、お約束の日に伺いますので」
「わかった。お大事にね」

 葉は自分から通話が終わるようにした。これ以上話したらボロが出てしまいそうだった。
 藍沢の残り香を欠片でも感じたくて、スマホを両手で握りしめる。

「ね、先生心配してたでしょう」
「はあ……」
「本当に藍沢先生が好きなんですね」
「……好き」

 物理的な衝撃に加えて、藍沢と通話したことで脳が内側から衝撃を受けていた。葉は熱に浮かされて独りごちる。

「―やっぱり好きなんだ」
「……」
「誰にも言わないから、こんなときくらい本当の気持ちを口に出したら?」
「……、俺は、あの人の全てに惹かれて、惹かれない部分がないから……特別で……」

 一人でいるときにも胸の奥へ奥へと押し込めていた想いを、初めて口に出す。
 藍沢が好きだ。最初は衝撃的に絵に魅了され、どんな素晴らしい人がこの世界を描いたのだろうと日々想像を掻き立てられ、一目会ってしまったら到底放っておけない人になった。

「先生と相思相愛になりたい?」
「いいえ。先生は人間よりも植物や無機物の美しさを愛する人だ。凡庸な俺は同じ世界には行けない……」
「それって脈がなさそうだから自分にもそんな気ないと言い聞かせているだけじゃない? もし先生が好きになってくれるなら、今すぐにでも抱きしめて―恋人になりたいんでしょう」

 秘密を暴こうとする声は穏やかで、絵画の天使に懺悔を求められている心地になる。
 誰かに聞いてほしかった。ずっと胸に閉じ込めておくには大きすぎる感情だったから。

「先生が好きです……」
「嘘つき」

 感情的に葉が告白すると、優しく語りかけてきた声が急に冷たく突き放した。
 冷水をかけられ、ぼうっと閉じていた目を開けざるを得なくなる。

「―黒羽、さん……」
「白井さん、ずっと俺に嘘をついてたんですね」
「は…っえっ…と……」

 目の焦点がはっきりしていく。にわかに現実世界へと強制送還され、ゆっくり動いていた心拍が急激に鳴った。
 

text next