801短編集3 サンプル


魂を奪う人
奏でる
年上幼馴染の理性が崩壊するまで


◆恋愛不能の男と恋情を叩きつける男


 藤瀬桜哉は一度も人を好きになったことがない。
 正確には恋愛感情を抱いたことがない、だ。

「この前行った店の子が桜哉のこと気に入ったみたいだよ。彼女いるのか聞かれた」
「ゲイだから無理」

 友達の城崎にからかう調子で言われて、桜哉はぴしゃりと決まり文句を返した。
 城崎は呆れて目を眇める。

「いや直球すぎ。彼女にショック与えちゃうだろ。そんな嘘で断るくらい私って論外なの?って」
「断り文句じゃなくて本物のゲイだし、可愛いから落ち込まないでってフォローしといて」
「そう言われても、お前ってゲイにも見えないんだよなあ。俺との距離感冷めきってるし。アイドル系イケメンにもマッチョな柔道部にも全く反応しないじゃん」
「城崎に反応しろって? 無理難題すぎる」
「なんて失敬な」

 桜哉が男性を性の対象にしているのは事実だ。
 性欲自体はある。肉体的には人並の若い男と変わらない。タイプは筋肉質な長身で、目元が涼しげな顔立ちの男。

「桜哉さー、八方美人なくせに俺には厳しいよな?」
「本音を出せるくらい君に心を許している証拠だよ」
「え……っや、やっぱり俺のことが?」
「ない」

 城崎は大学で知り合って早々、愛想笑いばっかりしてないで俺を煽っていいよ、と要求してきた意外に侮れない男だ。取り繕わず付き合える数少ない友達ではある。
ちなみに性的には心の底から対象外だ。外見以前に、内面を知れば知るほど性的興奮とは遠ざかっていく。
 
 ◇
 
 夜。職場から帰宅のルートを避けて区をまたぎ、知人と遭遇するリスクの低いエリアまで足を伸ばした。
 目的はずばりハッテン場だ。
 最悪オナニーだけでも生きてはいける。しかし自分の手だけでは本能的欲望を満たすには物足りず、生身の人間との淫らな行為で発散したくなる。

「……」
「ふー…」

 男同士、目的は同じなので話が早いが、品定めされる視線は慣れるものではない。
 ご同類を求める筋肉隆々男に「あれはナシだな」と嘲笑されると、こっちだってお断りだと返したくなる。
 ぽつんと様子見していた桜哉に近づいてくる男がいた。
 年が近そうで、外見も許容範囲だった。

「君、あっちで4Pしない?」
「……お誘いはありがたいけど、複数でするのはちょっと」
「なんだよノリ悪いな。やりたいんだろ?」
「俺初心者なので、許してくださいよ」
「ビビるなって。絶対気持ちよくしてやるから。気が変わったら来いよ」

 誘いを断ると相手は決まって機嫌を損ねて顔を歪めるけど、気弱な態度で下手に出れば大抵は引いていく。
 セックスを求める男の集いとはいえ、無法地帯ではない。同意のない行為や暴力沙汰は厳禁であり、評判が悪い者は締め出されて入れなくなる。
 同意の上での乱交は、よくある。
 桜哉は極力リスクを減らしたい。集団になると気が大きくなって過激化しやすいし、病気も怖い。

「えり好みする軟弱なやつはマッチングアプリでも使ってろ」と馬鹿にされたこともある。
 アプリも試したことくらいある。一対一で連絡先を交換し、やりとりして、会う約束をして、となるとどうしても人間関係が生じてしまう。人間関係とはこじれると相場が決まっている。
 結局はここが一番手っ取り早い。即物的な性欲発散を求める男で溢れており、金もあまりかからない。
 ストライクゾーンの中で、安全な場所に移動してセックスできる男を見つける。難しいことではない。

「藤瀬?」
「え」

 不意に視界の外から名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。

「藤瀬……藤瀬桜哉だよな」
「ちょっ、こんなとこでフルネーム呼ぶなって。あ、秋守、翠…?」
「ははっ、仕返し? 俺は気にしないけど」
「じゃなくて、確認」

 目に見えて動揺する桜哉に、秋守は腹立たしいほど泰然とした表情で見つめ返す。
 秋守翠。頭の中にフルネームがすんなり出てきたのがなんだか悔しい。随分と久しぶりだというのに。
 身長、顔立ち、髪型、服装はすっかり大人になって月日の流れを感じさせるが、人目を惹きつける存在感はあの頃の面影を残していた。
 早速周囲の男達が、感心と熱の混じった視線を向ける。

「覚えていてくれて嬉しいよ。知らない顔をされたらどうやって思い出させてやろうかと」
「同じクラスにいて秋守を忘れるなんて、相当な鳥頭か、人間の顔に一切興味がないやつくらいだよ」
「藤瀬がどっちでもなくてよかった」

 秋守が目尻を下げて微笑み、端正な顔が甘さを放つ。
 昔―中学の同級生だったときはもう少しお高くとまった印象だったが、中身も大人になった。それだけの月日が流れたのだ。

「よかったら二人でどこか行かない?」
「……俺と?」

 せっかく知人と鉢合わせしそうにない街まで遠出したのに、中学の同級生に遭うとは完全に想定外だ。
 秋守が―女性に興味がないというのは、当時から噂があった。どんな美少女に好意を向けられても顔色一つ変えなかったから。
 性的指向がどうだろうと、ハッテン場に来るのは意外だ。なんというか、品がよくて下の話には加わらない男だったし、健全に知り合ったパートナーと長く付き合っているほうが印象に合う。
 男がひしめき合う猥雑な空間から、彼は一人だけ別次元にいるみたいに浮いて見えた。

「そんなに驚くこと? 俺の目には藤瀬しか映ってない」
「だって急だし、場所が場所だしさ」

 秋守が言う通り、彼はずっと桜哉に視線を合わせて話しかけてくれている。
 別人に声をかけたと疑っているのではなく、再会したばかりのミステリアスな旧友に、意味深な雰囲気を放たれる状況に、判断力が追いつかない。

「―君達、これからやるの?」
「俺も混ぜてほしいな。無理なら見てるだけもいいよ」

 桜哉より先に、性欲を持て余した男達が目ざとく反応して声をかけてきた。
 四方から囲まれそうになり、びくりと震えてしまう。

「いや……俺達はそういうのじゃ」
「お断りします。二人で帰るので」
「えー、帰っちゃうの」
「待ち合わせに使っただけかよ。変に期待させやがって」

 うろたえる桜哉と違って秋守はきっぱりと断り、桜哉の肩をそっと叩いて退出を促してきた。
 男達は憮然としてすぐにどこうとしなかったが、誰より上背のある秋守が堂々と歩みを進めると気圧されて通り道ができた。

「ごめんね、俺のせいで怖い想いさせて」
「秋守のせいじゃないよ。今日は雰囲気よくなかったね。俺も出たかったから、ありがとう」
「あんなところに君を置いていくわけないだろ」

 店を出て広い屋外に解放されても、肩を寄せて店を出たときの距離感のまま、秋守が優しく囁く。

(大人のイケメンになっちゃって…。気遣いができて、視線が色っぽくて、他の男を蹴散らす強さもある。こんなの即落ちしちゃいそう。―恋愛感情が持てる人間ならな)

「連中は今頃俺達が何をしてるのか、好き勝手に妄想して悔しがってるだろうな。―付き合ってくれる?」
「えっ」
「一杯酌み交わせる程度には、君の俺に対する好感度を稼げてたらいいんだけど」
「なんだ飲みか。もちろんいいよ」

 秋守のマイペースさに桜哉は見事に呑まれた。
 ハッテン場にはセックス目当てで赴く。健全な食事の席での駆け引きなんて、本来桜哉にはまどろっこしいだけだ。

(昔を知ってる秋守とやるってイメージしにくいし……たまには飲みもいいか、助けてくれたし。そもそも秋守が話しかけてこなければ囲まれることもなかっただろうけど)

 秋守が案内したカジュアルなバーで酒を飲み始めた。
 今までの遍歴、現在の住まいや仕事について、誰に聞かれてもいい当たり障りない範囲で話し、あとは当時の同級生や教師の近況を振った。ネタ元はたくさんいるので話題は尽きなかった。

「引退した弓野先生は奥さんが仕事を辞めて、夢だった田舎の古民家でカフェを始めたんだって。先生はせっかく苦労していい土地に家を買ったわけだから、もう大反対で家の中は冷戦状態で」
「冷戦を乗り越えてついて行く道を選んだね」
「よく分かったな。家建ててたんだよ? フルローンで」
「分かるよ。昔二人でいるところを見た。弓野先生は奥さんを心から愛していた。奥さんも同じだ。先生を置いて移住するわけがないし、先生は一人で行かせたりしない」

 昔の担任のエピソードの途中で、秋守は結末を迷いなく言い当てた。
 ―愛。秋守は心からそれを信じている。桜哉がいくら悩んでも得られない感情を、自然なことのように口に出せる人なのだ。
 劣等感を抱いて、桜哉は秋守の耳に潜めた声で囁いた。

「この後どうする……?」
「―どうやって切り出そうかと考えてた」

 酒のせいか目の下に赤みが差した秋守が、熱っぽい声で返してきて、胸が騒いだ。
 恋愛的な意味ではなく、彼が今まで水面下に隠していたオスの欲を、故意にちらりと見せてきたから。
 
  ◇
 
 回り道をしたが、結局は当初の目的通りになった。
 好みの男と二人で、セックスするためだけにホテルにいる。

「―桜哉」

 バーで飲んだ短い時間で、流れるように下の名前で呼ばれるのが定着していた。距離を詰められている感覚はあった。

「ん、何……?」
「こんな場所まで来て言う予定じゃなかったけど……俺と付き合ってほしい」

 秋守の色気にあてられて、体の奥がずきんと疼いていた矢先に、青天の霹靂に見舞われた。

「つきあう……? セフレってこと?」
「どうして最初に出てくる発想がセフレなの? 桜哉の恋人になりたいってこと」

 突然ストレートの豪速球を投げられ、キャッチの準備などしていなかった桜哉の頭に衝撃を与える。
 秋守は綺麗な形の目に熱を篭めて一心に見つめてきた。

「本気…? 真剣に? なんで?」
「勇気を出して伝えたのに、念入りに正気を疑われると凹むな…。本気だよ。俺は君が好き。真剣な付き合いがしたい」

 桜哉は混乱して瞬きを繰り返す。何回閉じて開き直しても、目の前には毅然として揺るがない美青年が立っている。
 再会後の秋守の内面は未だ掴みきれていないが、嘘の告白で人を傷つけるとは思えない。「好き」という言葉は、彼の耳には日常的に注がれすぎて、わざわざ自分から口に出すまでもなかっただろう。中学生の頃、頻回に告白されて困た顔をする光景が脳裏に蘇った。
 本気を感じて背筋に震えが走り、ホテルのスリッパに履き替えた一歩足が後退した。

「悪い。秋守は率直に言って、普通の人にはない引力があるイケメンだし、好きになってくれるなんてすぐには信じられなくて…」
「俺をそんな風に思ってくれてたんだ。嬉しい」

 無表情だととっつきにくい美貌にぱっと花が咲いたような笑みが浮かび、桜哉は慌てた。
 やっぱり昔とは随分変わった。中学生のときは恋情を向けられても反応が薄く、淡々とした一面は自分に似ていると勝手に親近感を抱いていた。大人になっても変われなかったのは桜哉だけだったか。

「けど! 俺……俺には恋愛感情が分からない。かっこつけてるわけじゃなくて本気で。だからごめん。気持ちには応えられないよ」
「……すぐに同じ熱量で応えてなんて無理は言わない。付き合っていくうちに気持ちが変わるかもしれないだろ? 俺が君を変えみせたい」

 端正な秋守に恋慕の瞳を向けられ、反射的に顔が赤くなって、彼の言うとおりになる錯覚がよぎった。
 あくまで錯覚だ。恋に落ちていなくても、性的対象かつ好みの相手と近くで見つめ合ったら多くの男が示す反応に過ぎない。

「今までも散々試したんだよ。付き合って、相手のことを考えて、触れ合ううちに好きになれるかもって…。でも全然、何も思えなかった」
「…………」
「同じノリのセフレならともかく、秋守は、真面目に俺が好きだって言うし……駄目だまだ実感ない。そういうわけで俺は真面目に恋愛したい人とは付き合えない。無責任になる」

 光を宿した眼差しに見つめられると後ろ髪を引かれるようで、断り文句をしどろもどろで絞り出す。
 城崎には「揉めてストーカーになられたら面倒だから体だけの関係でいい」と辛辣に言い捨てた口で、随分と誠実ぶった言い方になった。
 この期に及んで秋守から良く見られたがっている。ふっている最中だというのに。
 秋守の笑顔が消えるのを目の当たりにするのは胸が痛んだ。気まずく返答を待っていると。

「―不誠実でもいい、って言ったら?」
「いや……よくない。今まで色んな男と付き合って自分の心を変えようとして、全滅だったんだよ」
「……その辺の男とは軽い気持ちで付き合ったのに、俺は端から無理だと君の世界から切り捨てるの?」

 秋守は断られて少し俯いていたが、そのまま意気消沈はせず尚も強い視線で射抜いてきて圧倒されかける。

「捨てるなんて人聞きの悪い。俺は秋守のことを思って」
「俺のことを思うならチャンスがほしい」
「だから、それは……っん゛ぅ……っ」

 押し問答になりそうなところを、突如として秋守が断ち切った。
 桜哉の唇を熱の篭った唇で塞ぎ、体をきつく抱きしめる。

「ん゛〜……っふぅっ…んぅう……っ」
「ん……、フー……」

 視線や言葉でどれほど熱を匂わせようと態度では一線を守っていた秋守が、急に節度を超えて、唇を熱烈に吸って抱擁を強くする。

(え、秋守とキスしちゃってる…? 断らないといけなかったのに。いくら秋守の顔がよくて、魅惑的で、意外と力強くて、キスが……上手くても、好きにはなれないのに……はあ……っ)

「んっ…ん゛〜……ふ…っん…っんむぅ……」

 ちゅ…ちゅ…っ、ずり…っずり……ぬ゛る…、ぬ゛る……
 舌が上下に唇を開き、口内に割り込んできた。濡れた舌は驚くほど熱く、擦れると火傷しそうだった。
 ゾクゾク…と背筋が震え、抱きしめる力が一層強くなる。

「ふー…っ、ん……フー……ッ
「んぅっ……ん゛ぇ…ぢゅ…っ、ぅう…、〜〜…っ

 ぬ゛ろ…、ぬ゛ろぉ…れ゛ろ…れ゛ろ…っれ゛る…っ…

「んっ…ぅん゛…っ、ふぅっ…、ふーッ…ん……
「ハア……、……」

 舌を絡みとられぬるりと滑る感触に、桜哉の頭はモヤがかかっていく。
 秋守の舌は執拗に桜哉の口内を蹂躙し、歯列をなぞり、怯んだ舌にねっとりと擦り付けて離さない。
 本気で拒絶したければ舌を噛めばいい。しかし舌が濃厚に絡むと腰が震えて、甘い痺れが走り、彼を傷つけるなんてありえないと体が拒否する。
 
 ヌル…、ぬ゛る…、ぬ゛るっ…れ゛ろ…れ゛ろ…っちゅく、ちゅくっ…

「ふぇ…んぶ…ん…んえ……っ
「フー…ふー…、ハア……ッん゛……」

 熱い吐息が唇の隙間から漏れ、桜哉の頬を濡らす。
 息が詰まり、桜哉はせめて秋守の胸を押し返そうとするが、力強い腕に抱き込まれ、迷いのある弱い抵抗など封殺される。

「ん゛ぅ…っぷは…っはぁ…っ秋守、待っ…ん、ッ……

 ようやく唇が離れた瞬間、桜哉は喘ぐように息を吸い、掠れた声で抗議を試みる。
 秋守の瞳は燃えるように熱を帯び、目が合うと体の芯を貫かれたような官能が走る。
 恋愛感情があろうとなかろうと、秋守は際立って人を惹きつけるオーラがある。
 ここだけの話、性的対象としてなら、二度とお目にかかれなさそうなくらい桜哉の好みだった。


text next