いつでも君を01 02 03
初めて二条千晶という少年を見たときの衝撃は相当なものだった。
むさくるしい男子校の中で彼は明らかに異彩を放っていた。外国の血が混じっていると言われれば納得できる色素の薄さに細身で長い手足、職人が技術の全てを注ぎ込んで完成させた精巧な人形のように整った顔立ち。小林遠夜は暫くの間、魅入られたように二条から目が離せなかった。
運命の出会いだなんて甘ったるいものではない。遠夜と同じように呆然と二条に見惚れている男はその空間だけでも幾人もいた。一方の二条にとって遠夜は有象無象のうちの一人であり、その目に映ってすらいなかっただろう。
無謀としか言いようのない片思いが始まったのだ。
◆◇
二条は入学後瞬く間に学校中から注目される存在となった。誰より美しく成績も優秀で、なのに傲慢さの欠片もなく清廉で優しい性格をしている。もしここが男子校ではなかったとしても彼に惹かれる男はたくさんいただろう。
遠夜にとって二条が男から常に熱い視線を向けられている状況は複雑だった。いやらしい目で見ている輩がいると衝動的に張り倒したくなる。
しかしそのおかげで、遠夜自身がいくら舐めるように見つめても、ちょっと後を付けても、スケジュールを把握して行く先々で遭遇するよう図っても、目立たずに済んでいるという利点もあった。
まるでストーカーだが、そうするしかないのだ。二条の周りには常に人が多く、3年生を中心とした親衛隊まがいの組織まで形成されつつある。
親衛隊の睨みに加え、
二条の家が古くから会社を複数経営している名門であり、この地域における影響力は絶大ということもあり、彼は不可侵の存在になっている。それでも強引に誘ったり私物を盗もうとしたのが発覚した者はたちどころに悪い噂が流れて、すっかり消沈するか、下手をすると学校に来なくなってしまう。
ざまあ見ろと思うことはできなかった。明日は我が身かもしれない。最近自分の二条への想いがエスカレートしているのを遠夜は自覚していた。
話したこともなく、それどころか二条とはクラスも違うし自分のことなど認識すらしていないだろう。そもそも彼はいくら男に好かれても全く受け入れる気配はないから異性愛者なのだろう。ここが男子校というだけで一歩外に出ればあの美しさだ、当然女性にも恐ろしく好かれるのは間違いないしその気になれば出会いなどいくらでもあるだろう。
それでも。彼の輝くような微笑みを遠目からでも見てしまうと、甘く香る花に引き寄せられる虫のごとく、理屈でなく惹かれて体が動いてしまうのだ。
二条の実家から学校へは距離があるため、彼は現在マンションで一人暮らしをしているのだが、なんという偶然かそのマンションは遠夜の実家の目と鼻の先にある。
二条の家の経済力を鑑みれば、コンシェルジュが常駐しているような高級マンションに住んでいてもおかしくなさそうなものだが、過度の贅沢はしない主義なのかそこは小奇麗な普通のマンションだ。警備が万全とはいえない。
偶然の幸運に感謝しつつも、
男が周辺をうろついているとストーカーなのではないかと警戒してしまって気が安まらない。
遠夜の自室からはマンション前の通りが見えるので暇さえあれば様子を覗っている。一度不審な男に声をかけてみると慌てて走り去っていったことがあった。慌てるということは疚しいことがあったのだろう。撃退したことで二条を守れた気がして達成感を覚えた。
朝もできるだけ一緒に登校できるように図った。二条は規則正しくいつも同じようなゆとりのある時間帯に家を出るので遭遇するのも楽だ。
最初は数メートル後ろのほうを歩いていたのだが、警戒されてしまうかもしれないというのもあっていつからか斜め前を歩くようになった。姿が見られないのはもどかしいが、信号待ちのときなどにさりげなく振り返って顔を盗み見るのが幸せなひとときだった。
二条が所属することになったテニス部は入部希望者の数が膨れ上がり、入部テストが実施される事態となった。テニス経験のない遠夜は受けても間違いなく落ちていただろう。元々部活は中学からやっているバレー部に入る予定だったが、テニスが上手い変態に二条がおかしなことをされたら……という嫌な妄想が脳裏を過ぎったものだ。
しかし練習場所は違うものの部室が隣同士なのは運がよかった。もし着替えを盗撮しようなどという不埒な輩がいたら捕まえてやると心に決める。今のところそういったことはなかったが、活動終了時刻も大体同じ頃だったため、時折顔を見ることができた。
こうして偶然の幸運と遠夜の執念・努力によって二人の遭遇率は大幅に上がっていった。登下校で近くを歩いたり、食堂で近くの席になったり、同じタイミングでトイレに入ったり――たとえ一方的であっても幸せを感じていた。そんなある日のこと。
「……っ」
放課後。第二図書室で目当ての本を探していると、二条の姿を見つけ声が出そうになってしまった。
第二図書室は校舎の端の方にあり、第一図書室のほうが倍以上大きく主要な本は揃っているため、人の出入りは少ない。そんな場所で珍しく本当に偶然に、更に珍しく取り巻きがいない中遭遇できるとは。
にわかに高鳴る胸を押さえながら美しい横顔を盗み見る。――本当に、何て綺麗なのだろう。見惚れると同時に無性に切なくなる。自分などが想うことさえおこがましい、決して届かない存在なのだということを再認してしまった。
しばらくただそのまま見つめていたが、不意に二条が立っている場所近くの本棚の上に積まれていた本がぐらぐらと揺れ、崩れた。
「っ、危ない!」
咄嗟に体が動いた。二条の肩を掴んで覆いかぶさる。
「……っ」
ドサドサと音を立てて本が落下する。肩や背中に何冊かの本が当たったがそんなことは気にならなかった。
「だ、大丈夫ですか!」
「大丈夫。君は……」
「俺はなんとも……っ」
どうやら二条には当たらなかったようで安心した瞬間、かっと体が熱くなる。
二条は床に倒れこみ、その上に遠夜が覆いかぶさっている。端から見たら押し倒しているようにしか見えないだろう。不可抗力とはいえあちこちが触れ合っている。人形のような二条の体は現実にはしっかりと体温を持っていた。離れなければと思うのに体が動かない。
「ごめん、俺をかばったせいで……ぶつけたところ見せて」
「あっ……」
二条がハンカチを差し出しながら言ってきた。遠夜が尋常ではなく汗をかいていたからだろう。
思わずハンカチを握りしめながら、遠夜はのろのろと後ずさった。
「お、俺、大丈夫だから……っ」
体がずきりと傷んだが構う余裕はなく、立ち上がると二条に背を向けて走り去った。
二条が親切で言ってくれたことは分かっていたが手当なんて……二条の前で服を脱いで素肌に触られたりしたら、今度こそ我慢できる自信がなかったのだ。
家に帰って夜になっても、胸のざわめきは治まってはくれなかった。
二条を押し倒したときの生々しい感覚が忘れられない。触れ合った部分の熱さ、吐息がかかるほど近くにあった二条の美しい顔――。
「っ、二条っ……」
ついハンカチの匂いをかぐと、爽やかで少し甘い、何とも言えない芳香に包まれる。
その日初めて、遠夜は二条でオナニーをしてしまった。
「はぁ、はぁっ…ぁ、う…んっ…」
それまで遠夜のオカズはごく普通の高校生らしく、可愛い女の子の動画や画像であった。お気に入りのAV女優だっていて、引退したら寂しいななんて思うくらい普通に女の子が好きだ。
いくら憧れているとはいえ二条を妄想の中でも汚してしまうことに抵抗があった。女の子で興奮できるのだからそれでいいと、あまり考えないようにしてきたのだが。
「はぁっ……二条、ぁっはぁっ…」
しかし今、二条のハンカチと出来心で隠し撮りした画像を使ってのオナニーは、どんないやらしいAVよりも遠夜を昂ぶらせた。自分の中の二条への感情と欲望を嫌でも再認させられた。
「はぁ、はぁっいく、いくっ…あっぁあっ…!」
腰がびくびく震え、ティッシュの中に白濁が吐き出される。オナニーなのに声が勝手に出てしまうくらい気持ちよかった。快感と罪悪感で遠夜の頭の中はぐちゃぐちゃだ。
「はぁ……」
このハンカチは貰っていいだろうか。というか念入りに洗濯したとしても後ろめたくてとても返せない。できればずっと持っていたい。
部屋には二条の写真や二条が使っていた使い捨てのペン、文化祭のとき二条のクラスの景品だったぬいぐるみなど、着実に二条グッズが増えていっている。
いけないと思いつつ、集めるのをやめられない。
できるだけ香りが消えてしまわないよう、遠野はいそいそとハンカチを密封してしまうのだった。
◆◇
次の日。習慣的にマンションから出てくる二条を待っていた遠夜だったが、二条が現れることはなかった。
何かあったのだろうか。一瞬不安になったものの、実は昨日の今日で躊躇いがあって多少家を出るのが遅れたため、二条はもう行ってしまったのだろうと判断し学校へ向かったのだが。
昇降口に入った時点で、一つや二つではない視線を感じた。好意的なものではないことはすぐに気づいた。
ひそひそと声を潜めながら、嘲りを隠す気がない生徒達。
「ほら、あいつだって」
「うわー引くわ」
その日から、遠夜の学園生活は急転してしまった。
あからさまに悪意を向けられ、聞こえるように悪口を言われ。日ごとに段々とエスカレートしていき、机に落書きをされたり、わざと飲み物をかけられることもあった。
友達だと思っていたクラスメートは巻き込まれるのはごめんとばかりによそよそしくなり、目を合わそうともしない。
あるとき3年生がクラスにやってきて遠夜を中庭に連れ出した。見覚えがある、遠夜の親衛隊達だった。
「お前、二条につきまとってたんだってな」
「キモいんだよ」
何も言い返せず遠夜の肩がびくりと震える。嫌がらせに対して怒るより、絶望感が胸を占めていた。
「こそこそ後をついて回ったり、隠し撮りとかしてたんだろ」
「テニス部には入れないからって部室が隣のバレー部に入ったんだってな。必死すぎ」
「マジでキモいわ」
「家まで近くに住んで監視して……完全にストーカーだろ」
「二条は迷惑してんだよ」
口々に責める声が頭に響く。何も言わない遠夜に焦れたのか、リーダー格と思われるガタイのいい男が遠夜の体を突き飛ばした。
「……っ」
なすすべなくみっともなく尻もちをつく。
だがみっともなさも体の痛みもろくに気にならない。胸の痛みがただ遠夜を苛んでいた。
――ストーカー。二条が迷惑している。
そんなつもりはなかった、とは言えなかった。
ふと、二階の窓からこちらを見る二条に気づいた。その目からは何の感情も伝わってこない。やがて興味を失ったように目を逸し、歩き去っていった。
思い返せば遠夜のような状況に陥った生徒は初めてではなかった。そう、二条に無理やり迫ったり、大事なものを盗んだり――二条を慕うあまり度を越した迷惑行為に出た者達だ。
二条は普段は誰にでも優しく穏やかだが、だからといってか弱いだけの男ではなかった。許容範囲を超えた瞬間、はっきりと「迷惑している」と口に出す。その一言で周りが勝手に動き、言われた生徒は立ちどころに孤立していった。
もちろん彼が直接嫌がらせをするようなことはしない。それでも二条の影響力は絶大なのだ。
つまり遠夜も、二条の許容範囲を超えて不快にさせてしまったということに他ならない。
「これに懲りたら、二度と二条に近づくんじゃねえぞ」
地面に伏して項垂れる遠野の様子に溜飲が下がったのか、親衛隊達は嘲笑しながら去って行った。
◆◇
「そういえばあのマンションに住んでた王子、引っ越しちゃったらしいわよ」
「まあ残念、目の保養だったのに」
部活にも出ず帰宅していると、近所の主婦達の噂話に出くわした。
「なんで引っ越しちゃったのかしら、学校に近くていいマンションっていったらあそこが一番じゃない?」
「さあ、あれだけかっこいいからストーカー被害にでも遭ったんじゃない」
「ああ、あの子ならありえるわね」
遠夜は彼女らがたむろしている道を迂回して帰宅した。
――二条は、引っ越すほど自分のことを不快に思い、警戒しているのだ。その事実が胸に重く伸し掛かる。
それに。下手に学校と家が近いだけに、遠夜の所行は家の周りにまで広がりかねない。先程のような噂好きの女性の耳に一度入ればあっという間に近所に知れ渡るだろう。
家族にもストーカー行為を知られ、更に悪い噂で迷惑をかけることになるかもしれないと思うと、気分はどん底だった。
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