ナルシストの恋 3
俺は今までより熱心に勉学に励み、筋トレと走り込みでみっちり体を鍛えた。
合間には瞑想をして精神修行に励んだ。成果が目に見えて分かりやすい肉体的なトレーニングと違って、心を鍛え抜くのは容易ではなかった。
朝倉さんに出会うまで自分自身に不満がなかった。俺は商店街のヒーロー扱いされるくらいかっこよくて賢くて優秀だったからだ。
しかし朝倉さんに相応しい男は商店街で収まる器じゃ足りない。この地方一帯に名を轟かせ、ひいては日本を代表する男にならねば。
「はあ…はあ……待っていてください、俺の愛しい人……」
商店街の端から高台の住宅街に続く長い階段を駆け抜け、熱っぽい頬に風を受けて街を見下ろし、俺はこぶしを握りしめた。
……しまった店番の時間だ。シトラスの匂いの汗拭きシートで拭けるだけ拭いて、涼しい顔で店頭に立つ。
「いらっしゃいませ!」
「恭治くん。今日もかっこいいね」
「ありがとうございます。……ほんとですか?」
近くでステーキ屋をやってる坂下さんは、整えられた顎髭を生やしたエネルギッシュな30代で、時々買い物に来てくれる。
普段から聞き慣れてる褒め言葉に、俺はつい食いついた。
坂下さんは朝倉さんと系統は違うけど、個人事業を成功させてる大人の男性で、無造作を装って見え方にかなり気を遣ってるタイプだ。
俺がかっこよく逞しい男へと順調に成長できてるのか、奇譚のない意見が聞きたかった。
「ん? どうしたの真剣な顔して。イケメンだって自覚してるくせに。あー分かった。好きな子でもできたんだ」
「うっ……ただ、ありきたりな言葉じゃなくて、具体的にはどう見えてるのかと」
「あははは、かっこいいは言われすぎて飽きたか。でも改めて見ても、イケメンって感想が真っ先に出てくるなあ」
「坂下さんみたいな大人から見て、俺って男としてどうですか?」
俺はぐぐっと坂下さんに迫った。ヒゲはやっぱり長さが整えられてて不潔感はなく、肌艶がよくて、清涼感のある匂いが微かに漂ってきて、服はパリッとしてる。
タウン誌の取材を受けたりネットで積極的に発信してる人だから、やっぱり見た目にも気を遣ってる。この人目当ての女性客も来てるらしいのは俺と同じだ。うちの店よりだいぶ年齢層が下だけど。
男として認められて自信を深めたい。
坂下さんが、ぱっちりした目を鋭くして俺を見た。
「そんなに一生懸命見つめられると照れるな。――近くで見ても綺麗な顔してる。肌も髪も綺麗だし、小顔だし、目がキラキラして、マジで照れちゃう」
「なんだか、女の子のお客向けの褒め言葉みたいですね……体は?」
「体? ええ……脚が長いよね。芸能人みたいにバランスがいいと思う」
「それは元からです。もっとこう、以前の俺と比べて男らしくなったとか」
坂下さんは今日の特売品を手にしたまま苦笑いしてる。
まだいける。完全に迷惑そうにされたらお客さん相手だから引くしかないけど、坂下さんは付き合いがいい。律儀に俺の顔と体をずっと観察してる。
「元からって断言するところ好きだよ。成長期だけあって、前より大人っぽくなったんじゃない? でも評価しようにも服でほとんど見えないよ」
「う……、確かに」
店番する俺のスタイルは、汚れてもいいTシャツにゆとりのあるデニム。全体的に動きやすさ重視で体のラインが隠れる。
着衣だろうがどこからどう見てもムキムキ、って域には程遠い。筋トレは一朝一夕にいかないものだ。
坂下さんがからかう顔で笑った。
「なんだよ、今にも服を脱ぎ出す勢いだね」
「お、お店じゃちょっと……」
「え、お店じゃなかったら脱ぐの?」
俺はつい、朝倉さんの前で満を持して服を脱ぎ捨てる場面を想像して顔を赤らめた。坂下さんもさすがに引いたのか声を落とす。
「あんまり大人にそういうこと言わないほうがいいよ。いや同世代相手でもよくないな。おばちゃん達の軽口に鍛えられて感覚バグっちゃった?」
「なにも無理に見せつけるつもりじゃないんです。ただ、俺の体の成長ぶりを見てほしかっただけで」
「だからそういうところ……」
「恭治くん、恭治くーん? お会計お願い」
「あっはい、今行きます!」
別のお客さんに声をかけられ、俺ははっとして会計しに駆け寄った。朝倉さんにふさわしい男になる目標に夢中で視野が狭くなっていた。
子どもの頃から顔なじみの常連さんは笑って許してくれるけど、立派な男たるもの仕事は完璧にこなすのが当然だ。
「すみません坂下さん。また今度」
「今度があるのか……? 恭治くんは今のままでも十分魅力的だよ。軽々しく裸を見せたりしないように」
俺は軽く説教を受けた後、新鮮な茄子と玉ねぎとキャベツと、ニラをおすすめして買ってもらうことに成功した。悪くない仕事だ。
「いらっしゃいませ……っ!?」
「こんにちは」
比較的空く時間帯になって一息つけるかと油断した俺の心臓が爆発的に高鳴った。
朝倉さんだ。眩く輝くその人は見間違えようがない。一体全体何がどうして、こんな美しい人が庶民派の八百屋に降臨したんだ。
いや、朝倉さんはお客さんなんだからそりゃあ来店する日もある。非現実的に映る光景も紛れもなく現実だ。俺が愛しい朝倉さんを見間違えるなんて、太陽が爆発してもありえない。
「はあ…はぁ……ごゆっくり」
俺はどうにか営業文句を口に出し、朝倉さんから目を背けていそいそと野菜の陳列作業に戻った。
このままさりげなくバックヤードに近づいて、父さんに店番をバトンタッチしよう。
「次会うときまでに見違えた姿になって朝倉さんを驚かせ、意識してもらう作戦」が台無しだ。俺は元の素材がいいだけに、目に見える変化には時間がかかるんだ。
「おすすめはありますか?」
「……っ、な、茄子がお買い得です」
戦略的撤退を窺っていた俺を、朝倉さんの美声が骨抜きにしてしまう。
情けない。外見以前の問題だ。俺は茄子と言うだけでやっとで、ニラをおすすめしそこねるくらいダメな男だ。
「恭治くん、俺は君を不愉快な気持ちにさせてしまった?」
「え!? まさか、逆です! あなたはいつも俺を……俺……」
俺の気のせいじゃなければ朝倉さんの声が沈んで聞こえて、びっくりして全力で否定した。
朝倉さんに不愉快な要素なんてチリ一つもない。
朝倉さんに尻を向けて話す俺こそが不愉快な無礼者だ。
恐る恐る想い人を見ると、目が眩んで二の句が告げなくなった。
「馴れ馴れしくしすぎたよね。君はいくつも年下で、強く言えないに決まってるのに」
「そんな、俺のほうこそ、目上に対して調子に乗ってしまいました」
恋心を糧に禁欲的に鍛えていた俺にとって、突然の生の朝倉さんは強烈すぎた。
心拍数がどっと上がって頬が熱くなり、宙に浮いたみたいに落ち着かなくなり、幸福感の反面、失態を晒す不安でそわそわする。
俺ともあろうものが、完全に恋に逆上せて馬鹿になってる。
「――さっきのお客さんとは親密そうな距離だったのに、俺は顔も見たくない?」
「坂下さんのことですか? あの人は気心が知れてるので」
「俺の聞き間違いでなければ体がどうのと話をしていたね」
「き、聞いていたんですか」
大失態だ。好きな人を振り向かせるため魅力的な体になれているか?って相談を、当の本人に聞かれるなんて。
朝倉さんの声はいつもより固い。
「盗み聞きするつもりはなかったんだけど」
「すみません、ご来店いただいてたのに気づかないなんて。あの、俺はそろそろ店番終わりの時間で、来月の試験の勉強もありまして」
「そっか、頑張って。忙しいときに引き止めて悪かったね」
「……」
朝倉さんに引き止められた。一生俺をあなたの前に引き止めてくれ。
いやまだだ。イケメンで賢くてスポーツ万能の俺も、朝倉さんという極めて特別な存在を前にすれば未だに頼りがいのない年下男のまま。
「……ごゆっくり見ていってください」
朝倉さんがちらりとでも目に入ると離れがたくなる。俺はいもしない蝶を追いかけるがごとく視線を彷徨わせ、すごすごと家に帰った。
◇◇
――――朝倉さんが頭から離れない。困った。
朝倉さんの声、表情、一挙手一投足にドキドキする。一目見たあの日から今日まで、加速度をつけて気持ちが募っていく。
油断すると湧いてくる邪な心はとりあえず封印して、鍛錬に励むはずだった。
少し顔を合わせただけで理性を揺さぶられた。たった数分で数日かけて追い出してきた邪念が瞬く間に俺を支配した。
というわけで俺はトレーニングのついでに、愛しい人のテリトリーに近づいた。
たまたま通りかかっただけとも言える。朝倉さんがまだこの土地に不慣れなのをいいことに、下心で近寄る男がいつ現れるとも限らない。
たとえばマッチョで力強く、バリバリに働き、プライベートも充実していて、朝倉さんを車に乗せてどこへでも連れていける年上の男とか。
「……っ……!?」
勝手に想像して勝手に闘志を燃やしていると、俺の心が引きつけられたように朝倉さんを見つけた。
朝倉さんは体の大きい男と話してて、頭が沸騰しかけたけど、よく見たら坂下さんじゃないか。
不審者じゃなくてよかった、と思えるほど俺は寛容じゃない。見るからに坂下さんが会話をリードしてて、ジョークでも言ったのか朝倉さんを笑顔にさせた。
まさにマッチョでバリバリに働いて車持ちで、ついでに顎髭も生えてる大人の男じゃないか。
俺は立て看板に身を隠し、二人の様子を窺った。元からの知り合いじゃなかったし、親密ってほどの雰囲気じゃない。
今はそうってだけだ。坂下さんは最初から下心を丸出しにするほど馬鹿じゃない。大人の男の余裕で親切にしたら、朝倉さんがもし、年上がタイプだったら……。
「ああ……っ」
「――恭治くん?」
「あ、本当だ。こんなところで何してるの?」
悲劇的想像に耐えきれず胸を抱えてうめき声を上げたら、二人同時に気づかれた。俺としたことが。
「ええーと、ランニング中にちょっとその辺で、靴紐を結び直していました。……お二人はいつの間にお知り合いに?」
「朝倉くんが声をかけてくれたんだ。近場で開業してる者同士、交流しておいて損はないだろう?」
「そ、そうかなあ」
「坂下さんのお店は評判ですから、今度是非伺いたいと話していたんです」
ただの社交辞令だ。しかし事業の話で盛り上がられたら俺は全くついていけない。
「朝倉くん」という呼び方がすでに馴れ馴れしくて気に障る。いくら年長者とはいえ、未来永劫ただのご近所さん止まりなのだから礼節をわきまえるべきだ。
「朝倉くんが来てくれれば集客力があるだろうな。メディアの取材は受ける気ない?」
「いえ、俺は」
「だ、駄目です!」
俺は坂下さんの腕を掴んで二人の間に割って入った。
朝倉さんの姿が不特定多数の目に触れる場所に晒されるなんてとんでもない。口コミだけでも人が群がって大変なのだ。俺が守りきれない人数が押しかけるに決まってる。
「恭治くんは朝倉くんのマネージャーか何か?」
「そんなんじゃないですけど、ネットに記事が出たらリスクがあるし、みんなが坂下さんみたいに強くないんですよ、まったく」
「叱られちゃったな。恭治君もネットに顔出したりしないもんな。イケメン高校生が店番してる八百屋ってのも、珍しくて引きがありそうだけどな」
「俺のことはどうでもいいです」
坂下さんは商店街を盛り上げる試みを意欲的にやってる人だから、悪気はないんだろう。けど朝倉さんをホイホイ露出させるのは思慮が足りない。
そのとき、朝倉さんが俺の肩に手を置いて、坂下さんとやり合ってた体の向きを変えさせられた。
「どうでもよくはないでしょう」
「えっだって、朝倉さんのほうが大事……」
「すみません坂下さん。今抱えているお客さんを大事にしたいので、メディアへの顔出しは考えてないんです。俺も恭治くんも」
坂下さんは肩を落とすかと思いきや、想定内だったようであっけらかんと答えた。
「それは残念。いい宣伝になると思ったけど、確かに人が増えすぎると捌けないもんな。あ、俺そろそろ仕事に戻らないと。またね」
「ええ、お店に伺うのを楽しみにしてます」
朝倉さんが断ってくれて一安心だ。思いやりのある朝倉さんはついでに俺のことも断ってくれた。俺はバレてもいいけど、学校では一応御曹司で通ってるし。
ほっとしたのも束の間、朝倉さんの手が肩に触れてることに胸がドキドキと騒ぐ。
「――割り込んでごめんね」
「割り込んだのは俺の方ですよ」
「君は……俺ではなく坂下さんのほうを向いて、ズバズバと遠慮ない口ぶりだった。彼に気を許しているんだね」
朝倉さんが伏し目がちになると、長い睫毛が影を作って、見惚れずにいられない。
「さ、坂下さんは前からの付き合いだし、気さくな人だから」
「羨ましいな」
「同じ態度は絶対とれないし――う、羨ましいって?」
「君が心を許せる大人が他にいるって知って……恭治君は人気者だから当たり前のことなのにね」
この人はどこまで俺の心臓を高鳴らせるんだ。生き物は鼓動が速くなるだけ寿命が縮まるらしい。本望だ。
坂下さんともっと仲良くなりたい、って意味の「羨ましい」だったらしばらく立ち直れなかった。
「俺のほうこそ、二人が……、絵になる大人同士に見えて、羨ましくて、話してるのが気になって、実はわざと近づいて話を聞こうとしてしまいました……」
「――恭治くんはどちらが羨ましかったの?」
「そ、そんなの……っ」
まだ鍛え足りない俺は、朝倉さんの声から色気を感じてぞくっとする。
まずい。ここは建物と建物の間で人目につかない。理性を働かせなければ、朝倉さんを傷つけてしまいかねない。
頭の中で『千載一遇の告白チャンスだ』と悪魔が囁き、一方では天使が『まだ修行の途中なのだから彼に不埒な目を向けるな』と警告する。
「俺、朝倉さんが坂下さんみたいな大人と親しくしてると……、俺が追いつくには時間がかかるから、焦ってしまって……?? ん、ぅ……」
俺の身に、今世紀最大の騒乱が起きた。
唇に温かくて柔らかいものが触れる。見開いた俺の目の中に、近すぎて焦点が合わない朝倉さんがいる。
額に流れる髪の毛がくすぐったくて、頬に鼻が当たって、まさかとは思うけど、これはキ、キ……?
「……ん……はぁ……」
「っ……ん、……はふっ、ふぅ……っ」
唇に微かな吐息を感じた。頭に血が上ってぐわんと揺れて、起きどころが分からなくなった手がその場で固まる。俺は立ったまま卒倒しかけた。
朝倉さんと、キスしてる……?
罪深さに懺悔しながら、俺は何度も空想してた。何度も何度もシミュレーションした。もちろん晴れて両思いになってから、ロマンチックな夜の海の見える公園か、または観覧車に乗って真上に来たとき、あるいはお客さんが帰った後の料理教室で、片付けを手伝っていたらいい雰囲気になったりして……。
俺の完璧な計画にはない想定外の状況に、まるで理解が追いつかない。でも確かに、朝倉さんは目の前にいて体温が熱を放ち、柔らかくて少し湿った感触がして……。
「ん、んぅ……っ、は……っはあ……」
俺は夢の世界にトリップしてた。数秒だったか数十秒だったか、現実世界での時間経過は定かじゃない。
唇が離れた瞬間引き戻された。瞬きすると朝倉さんにピントが合って、真っ赤になった顔を手で押さえて呆然とする。
「……ごめん」
「はあ……あ…っ、どうして謝るんですか、俺、嬉しかったです」
朝倉さんが斜めを向いて目を背け、思いがけず謝まってきた。
好きな人とファーストキスをして有頂天になった俺は反射的に否定する。
綺麗な顔がはっとして、間近で咎める声を出す。
「そんなこと、よく考えずに口に出したら駄目だよ」
ぼうっとする俺の頭に「ダメ」という単語がぐさりと刺さる。
ダメ、だめ、駄目……、ああ、俺は外で朝倉さんとキスをして、見事に舞い上がってた。それはもう、空を飛ぶ鳥の群れにぶつかりそうなくらい舞い上がってた。
「ダメ……っですよね、分かってます! 俺は修行に戻ります!」
「恭治くん」
俺は走って逃げた。全ては朝倉さんを想ってのことなのだ。
唇が触れた瞬間、体が熱くなった。接地面で言えばほんの少し、一部が重なっただけで、俺はもう、半分朝倉さんと結ばれた気になって……いけない、いけない。
◆
どこか憂鬱な顔をした人間が多い月曜日。
学校に近づくにつれ、いつにも増して俺に注目が集まった。
「あっ、ほら」
「本当なのか?」
「そう言われてみると、そういうふうに見えるな」
堂々と校門をくぐる俺を見てヒソヒソと囁き合う学生達。声が一部だけ耳に入ってきたりこなかったり。内緒にしたいのか聞かせたいのか、はっきりしろと一喝したい。
それにしても、いつもの俺を称賛し見惚れる視線とは、種類がどこか違うように思う。
「あの斎木くんがねえ」
「ジロジロ見るなって」
「……」
昇降口に入って下駄箱で靴を履き替えるときも不躾な視線を感じる。
別に珍しいことではない。話したこともない学生にあることないこと言われるのも慣れてる。俺くらい優秀なイケメンともなると目立ってしまう運命なのだ。
「お、おはよう斎木くん」
「おはよう」
……交友関係のあるクラスメイトまで挙動がおかしい。何故だ。
教室に着く短い時間にも好奇の視線を背中に感じた。
人の目を集めるのは慣れっこだが、ヒソヒソ言われるのは不愉快だ。俺を称えたいなら堂々と、目を見て言えばいい。
「よう恭治。きのうすげーイラスト見つけちゃった。見たい? 見たい?」
「……ああ」
「え、見たいの?」
浩史の挨拶はいつもと変わらなかった。良くも悪くも不真面目だ。ズカズカと俺の顔を覗き込んでくる。
「どうしちゃったの? 難しい顔して」
「聡明な顔、の間違いか?」
「そうめい……?」
「おはよう野村」
「さ、斎木くん、おはよう……!」
机に重そうな黒いリュックを下ろした野村に挨拶する。
なんだか目が泳いで、後ろめたいことでもあるような態度だ。しかし野村はいつもこんな感じという気もする。
遠い席から視線を感じた。どこにいても人の気を惹かずにいられない俺……だけど、今日はやけに気がかりだった。
落ち着かない。浩史や野村に気取られたくはなかった。
「なになに、何の話してんのー?」
机4つ分離れたクラスメイトのヒソヒソ声を、デリカシーの欠片もない大声でかき消したのは浩史だった。
噂をしていた生徒達がぎくりとして閉口する。
「黙んないで、いいから俺達にも聞かせてよ。クラスメイトだろ?」
「いや、別に……」
浩史特有の、空気が読めないんだかあえて読まないんだか曖昧な言動にはたまに感心する。
言いたい放題できる安全圏にいるはずだった生徒達は顔を見合わせ、白々しく言い訳めいたことを口走る。
「お前らには関係ない話だよ」
「そうそう、言う必要はないね」
「マジで? 斎木がーって何度も聞こえたけど、どの斎木の話? 顔が広い俺の知る限り、学校にこいつ以外の斎木はいないはずだけど」
「う……」
「それはその」
この程度で言葉に詰まって言い逃れも出てこないとは、雑魚め。
俺は悪い噂になんて動じない。衆目を集める人間の宿命だ。傷ついたりしない、けど。
「どうでもいいよ、放っとけ浩史」
「えー、恭治がどうでもよくても俺はよくない。遠くからごちゃごちゃ言われるのだるいじゃん」
「か、勝手な噂はよくないと思う……!」
「野村まで」
「ってわけでちょっとそこのやつ、来て。悪いようにはしないからさー」
浩史が一人を呼び出して肩を組み、親しみを抱いているかのような声で懐柔しにかかる。
「怒ったりしなからさ、俺達をコソコソ見て何言ってたの?」
「いやっ……俺が流したんじゃないよ。誰かが話してのが聞こえてきただけ」
「うんうん、だからその内容を聞いてんの。渋るってことは、もしかしてすげーエッチな内容?」
「違うよ!」
「もういいって」
言いづらそうな態度から察するに、どうあがいても好意的な噂じゃない。
こういうときの浩史はスッポン並にしつこい。
胸がざわついて嫌な感じだ。しつこく必死に止めるのも俺らしくないし後ろめたいことがあるみたいで、本気で制止しきれなかった。
「教えてくれたらさ、これからも仲良くできるよ俺達。教えてくれたらな」
「……わ、分かったよ。その、斎木がさ……御曹司だって持て囃されてるけど、実はただの庶民で、むしろ貧乏で、見栄を張ってるだけなんだって。……俺は聞いたことをそのまま言っただけだからな」
「――――なんだ、そんなことか」
緊張した体の力が一気に抜けて、滲んだ汗がすうっと引いた。
浩史が生徒を解放してやると、野村が俺を気遣う素振りをする。
「恭治、好き勝手言われていいの?」
「いい」
「斎木くんがいいなら仕方ないけど……」
俺が御曹司じゃなくて庶民だって。実にくだらない、取るに足らない噂だ。俺は一度も御曹司を自称したことなどない。
ほっとして――気付いてしまった。
俺はてっきり、朝倉さんに熱烈に恋をして、キス……してしまった関係が噂になってしまったのではないかと心配したのだ。
俺は、恥ずかしいことだと感じていたのだろうか。
朝倉さんは男性で、年の差があって、独りよがりな片思いだから。
――――違う。朝倉さんに惹かれる心に恥じ入るところは一つもない。
ただ、邪な感情には後ろめたさはある。
俺は浩史と野村に正面から向き合った。
「御曹司というのはデマで、俺は八百屋の息子だ」
「え、急に?」
「斎木くん。どうして急にお、俺に……」
「さあ、誤解されたまでも特に困ることはないけど……なんとなくな」
二人に打ち明ける声はすんなり出てきた。
俺にまつわる噂は独り歩きして尾ヒレがつき、勝手に言われていることをわざわざ否定する必要もないと思い放置していた。すると噂が公然の事実のようになった。
今更否定して、御曹司を騙る見栄っ張りだと思われたくなかったというのも、ちょっとはある。
浩史と野村はこいつらなりに俺を気遣ってくれた。そういう奴らになら伝えてもいいと思った。
友達だから……とは言わない。絶対に浩史が茶化して鬱陶しくなる。
「ま、なんとなく知ってたけど」
「俺は、斎木くんがどこの誰だろうと全然気にならないよ」
「……なんだお前ら、知ってたのか」
「知ってたっていうか、」
「確証はないけど察してた感じ? 恭治が黙ってるならこっちも黙っとくのがマナーでしょ」
「浩史……お前の頭にマナーという概念があったんだな」
二人は平然と俺を見つめ返すのでまた力が抜けた。
「失礼だな。御曹司もやけに説得力があったけど、イケメンな八百屋の息子ってのもいいんじゃない? それより恭治のほうから言ってくれたのがびっくりだよ」
「俺も、斎木くんから打ち明けてくれるとは思わなかった」
「もしかして、もしかしなくても友達だから打ち明けてくれた? じーんとしちゃうなー。でも野村と同列っていうのがちょっとヤダ。野村なんて最近急に仲良くなったばっかの恭治ニワカじゃん」
「うるさいな。もうお前には何も喋らない」
なんだか満足げな二人の顔がむず痒くて、照れ隠しに悪態をつく。
勝手に装飾され虚実が入り乱れた俺じゃなくて、素顔をクラスメイトの二人に開示して、少し心が軽くなった。
朝倉さんへの想いだけはまだ言えない。
当然、朝倉さんに正式に告白するのが先だ。
「ちょっと恭治、珍しい顔してどうしたの。俺との友情を噛み締めちゃってる?」
「斎木くん……!」
朝倉さんとの薔薇色の未来を想像していると茶々が入る。野村に至っては感動している様子だ。
いつになったら堂々と恋の話を友達とできるのだろう。
こいつらと恋話――――したいか? 俺は浩史のニヤケヅラにイラッとして自問自答した。
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