ナルシストの恋 2


俺の精神がこんなにかき乱されたのは久しぶり、ひいお婆ちゃんが倒れたとき以来だ。
あの時は喉に詰まった餅をおばあちゃんが引っ張り出して大事に至らずほっとしたけど、俺の心の餅が取り払われる日はやってくるのだろうか。
うーん、餅というのは表現が美しくないな。心の……うーん、心の楔が……どこかで聞いたフレーズでぱっとしない。
ふさわしいフレーズは追々考えよう。今は勉学に励まなくてはならない。

「――おーいなんだ斎木ぃ。遅れてきて堂々と入るたぁいい度胸だなぁ?」

しまった。大遅刻だというのに無意識にいつもどおり堂々とドアを開けてしまった。しかもよりにもよって、生徒いびりが趣味だと評判の山田先生の授業中だった。俺らしからぬ凡ミスだ。

「言い訳は聞かんぞ? ……おい、さい……」
「すみません」

俺は未だにくすぶる興奮を抑えながら、山田先生を見上げた。

「体調が悪く、胸が苦しくて……遅れてしまいました……」

実際、速い鼓動が続いて苦しい胸を押さえて言うと、山田はうっと言葉に詰まった。

「そ……それなら仕方ないな。早く座れ!」

珍しくいびってこない。先生の方が体調が優れないのではないか。
違うな、朝倉さんを想う俺の尋常ではない迫力にびびったのか。先生すら恐れをなす俺の熱い想いが、朝倉さんにも届けばいいのに。
妄想に耽り、背中に感じる視線には頓着せず席についた。
――ああ朝倉さん。あなたはどうして朝倉さんなのでしょう。

「……おーい」

咲き乱れる大輪の薔薇より美しく、それでいて野の花のような優しさを醸し出す穏やかな笑顔……。

「おい、恭治?」

神々しさすら感じる人の前で、俺はなんという醜態を演じてしまったのだろう。その上、あろうことか淫らな妄想で汚してしまった。

「恭治ー」

もう認めなくてはならない。俺はあの人を――愛しているのだ。

「おーいってば!」
「……あ?」
「あ? っておまえ……」

浩史に呆れた顔をされ、俺はムッとする。
呆れたいのはこちらだ。物思いに耽っていたところを邪魔するとは無粋なヤツである。

「浩史よ、授業は静かに聞け」
「いや、もう休み時間だけど」
「あ? ……いつの間に」

朝倉さんへの想いは時間の感覚すら忘れさせるらしい。

「お前、教科書も出さずに山田の授業を乗り切るとはやるな。珍しく遅刻してきたと思ったら様子がおかしいし。……なんなのその顔」
「顔?」

反射的に整った顔に手をやる。

「いつにも増して、なんかな……」
「なんかとはなんだ、言いたいことがあるならはっきり言え」
「ははっ、何だろうなあ」

濁してばかりでうざったい奴だ。俺の長所の一つである顔に問題があったら大変だと鏡を取り出す。

「……普通じゃないか?」

ちょっと目元が赤いかもしれないが、美貌を損ねるほどのものではない。
赤みが治りきってはいないのは仕方がない。すごく衝撃的な出来事があったのだから。

「ま、面白いからいいけど」
「面白いだと? おい、野村」
「――!? はっ、はいっ」

近くの席で、相変わらず見え透いた視線を送ってきていた野村に声をかけると、捕食者を前にした小動物のように跳ね上がる。
体の大きさの割にどれだけ気が小さいのだ、こいつは。

「別にとって食いはしない。……俺の顔は何かおかしいか?」
「いいやっ、どこもっおかしくないです」
「……というか、お前の顔の方がおかしいぞ。取って食いはしないと言っているのに」

野村の顔は茹でられたみたいに赤くなっている。人間ではなく蛸だったのか。どうりでぐにゃぐにゃしているわけだ。

「おい恭治、野村を苛めるなよ」
「どこがどう苛めているんだ。お前がおかしなことを言うから意見を求めただけだ」
「……うーん、言うなら、変なビームが出てる?」
「は?」

突拍子もない。ビームだと? そういえばこいつはバトルのゲームが好きだった。おかしな幻覚が見えるくらい嵌り込んでいるなら、一応友人として止めておいた方がいいかもしれない。

「あはは、わからないだろうからいいよ。お前はそのままが面白い」
「お前に上から目線で言われると腹が立つな…」

全く無駄なことに時間を使ってしまった。俺はこれから朝倉さんとの今後を深く考える必要があるのだ。
――そう、俺が朝倉さんをリードして手を取って、体を寄せて。

「恭治ー」

俺の意図に気づいた朝倉さんがそっと目を閉じ、俺はあの麗しい唇に……。

「おい、恭治!」
「……お前もたいがい無粋な奴だな。もうすぐ授業が始まるだろう」
「……いや、もう放課後だけど、誰のなんの授業受けるつもり?」
「――なんと」

つくづく朝倉さんの魔力は絶大だ。このままでは優秀な俺の成績にも影響してしまいそうだ。
朝倉さん、あなたは天使の顔のほかに、小悪魔のような顔も持っているのですね。もちろんあなたに罪はなく、惑わされる俺が全部悪いのです。

「……お前さー、どんだけエロイ妄想してるの? ちょっとヤバい顔してたよ」
「な」

そんなに顔に出ていた?

「え、エロイことなど……ちょっと、ほんのちょっと……」

ちょっと、キスを想像して、唇を舐めて……ああ、俺はなんといやらしい妄想をっ!

「……ま、いいや。帰ろうぜ」
「いや」

懺悔している場合ではない。帰りは朝倉さんの料理教室へ見学に行くのだ。先ほどシミュレートを重ねた結果、行動するなら善は急げと結論が出た。
――しかし。顧客は女性ばかりと噂される料理教室に一人で赴くのは少し勇気がいる。
決して恐れをなしているのではなく、異質な客が一人で浮いて、朝倉さんに気を遣わせたくないのだ。

「うーん……」

俺は浩史の顔を見やる。

「? なんだよ、その顔で見つめるのやめて。俺ってそんなにいい男?」

――ないな。絶対に料理に興味を持つタイプではない。
まず、こんな節操なし男に朝倉さんをわざわざ見せてやるなんて論外だ。

「――野村君」
「ヘェッ!?」

俺はスタスタと浩史から離れ、帰り支度をしていた野村に声をかける。やっぱりビビった反応をされる。

「君、料理に興味はないか」
「えええ? り、料理?」
「そうだ。俺は自分を高めるために料理に挑戦しようと思っている。家族にも食べさせてやりたいしな。どんな人生を歩もうと自炊ができるに越したことはないだろう」
「そっそうだね……。でも、なんで俺に?」

あからさまに上擦った声で訊かれる。
何故って、俺は友人らしい友人が少なく、野村なら人畜無害かつ断らなさそうだったからだ。

「料理の才能がありそうだからだ。それに料理ができる男はモテるらしい。君が料理上手になればギャップのある男子として、童貞卒業も夢じゃないぞ」

俺は自分のことは棚に上げ、自信満々に言い放った。

「どっ、童貞……って……」
「照れることはない。高校生で童貞なんてごく普通じゃないか。ということで、料理をマスターし卒業を目指すんだ!」
「だから、童貞じゃないって……」
「なになにー、何の話ぃ?」
「浩史には教えない」

――という訳で、俺は童貞仲間、もとい信頼できる学友を伴って朝倉さんの職場へ向かうこととなった。


「……ここだな」

お客さんに聞いた情報を頼りに、俺と野村は料理教室に辿りついた。

「いいか野村、中にはフリルエプロンの似合う若妻もいるとは思うが、はやまってはいけない。がっつきすぎる男はモテないのだ」
「し、しないよ! 失礼だな!」

野村の顔が赤く染まる。フリルエプロン姿の若妻か。今の俺の心は微動だにしない。
朝倉さんのエプロン姿を想像すると……危うい、鼻の血管が。






目当ての看板は2階にかかっていた。
図体は大人並の男子学生二人が、これから決勝戦があるのかという面持ちで周囲に警戒を走らせながら階段を上る。俺達にとっては未開の土地を踏もうとしているのだから仕方ない。
とうとう教室の前に着くと、はやる気持ちを抑えてノックし、ドアを開けた。

「はい」

ああ、この一息で体を震わせる美声は……!

「あ、あのっ! 俺、料理を勉強したくて、見学をさせていただきたいと思って来ました」
「――こんにちは、恭治君」

朝倉さんが俺に気づいてふわりと笑うので、顔が崩れそうになる。今日も変わらず美しい。
しかし次に告げられた内容ではっとする。

「ごめん、事前に予約してないですよね? 今日はもう終わってしまったんです」
「えっ」

なんと初歩的なミスだ。それはそうだ、連絡もなしにいきなり来られたら迷惑もいいところだ。
俺としたことが、朝倉さんが絡むと正常な判断ができなくなるのはいかんともしがたい。

「す、すみません、出直してきます」
「少し待って。……まだ食材が残ってるし、今から自分の夕食を軽く作ろうかと思ってたんです。正式な教室と同じようにはできないけど、よかったらお試しでどうですか?」

項垂れる俺に、朝倉さんは天使より慈悲深い微笑みで提案してきた。

「いいんですか!?」
「是非。男子学生と料理なんて滅多に機会がないから新鮮です」

ということは、女子学生とはあるんですか? なんてみっともない質問は心中に押しとどめる。

「よし、野村入ろう」
「いいのかな。大丈夫ならお願いします」
「――お友達?」
「はい、固い絆で結ばれた友人です」
「さっ、斎木……」
「仲がいいんだね。よろしく」

朝倉さんはにこやかに笑った。
ああ美しい。価値のある笑顔を俺以外に簡単に向けないで、という身勝手な男心はもちろん心中に留めておく。誰にでも等しく慈悲深いのが朝倉さんなのだから。

「野村君、恭治君は学校でもこんな感じなの?」
「は、はいっ。いつも、みんなの人気者で……」

いいぞ野村。誇張したお世辞も歓迎だ。俺を誉めそやして印象を上げてくれ。
しかし、どうも朝倉さんは野村を気に入ったらしい。野村は黙って立っていればまあまあ男前だし純朴な男子高校生という感じで、年上からの受けはよさそうだ。もちろん俺ほど魅力的とは思わないが。念のため少しは警戒しておく。
すでに親しげに話している野村の顔を睨むと、先ほどまで紅潮していた顔が青ざめる。
女の子にしか興味がなさそうな野村さえ惹きつける朝倉さんを、罪な人だと言ってはいけない。いつだって罪を背負うべきは不埒な想いを抱くほうなのだ。

とにかく、この俺と野村は、この日を境に朝倉さんの教室に通うことになった。

◇◇

「恭治くん、肉より先にじゃがいもの下ごしらえをしなくちゃ。ああ、ちゃんと手を丸めて固定して」
「はい、はい……」 

俺と朝倉さんは見つめ合い、手取り足取りめくるめく教示を受ける――そんな楽園は妄想の中にしか存在しなかった。
教室の中では皆がエプロンを着て料理に勤しんでいる。朝倉さんとそのアシスタントと、生徒が十数人。俺達を除けばほとんど女性で繁盛している。
朝倉さんは近くにいない。俺と野村は基礎的な料理のいろはも知らず、生徒の中ではダントツで低レベルだと思い知らされた。
見かねた同じ班の生徒が口を出してくれた。果たして習う必要があるのか? という風格を醸し出す主婦がきびきび指示をしてくれなければ、棒立ちで眺めているしかなかったので助かった。

「開業当初は少人数でゆったりした教室になる予定が、希望者が予想外に多くてお断りするのも忍びなくなってしまいまして。少々窮屈に感じるかもしれません」

事前に朝倉さんが言っていたとおり。人が殺到するのは妥当だ。
それにしても。

「先生、上手くフライパンが振れなくて……、力がなくて嫌になっちゃいます」
「無理に振らなくてもお箸で混ぜれば大丈夫ですよ。慎重に――」
「朝倉先生ー、先生みたいに綺麗な盛り付けができなくって。教えていただけますか?」

朝倉さんに教えを請う声は、あちこちから止むことがない。

「すごい人気ねー、こっちのテーブルに来るのはいつになるのかしら」
「仕方ないよ、みんな朝倉先生目当てで来てるんだもん」
「でもね、若い子は料理を学びにじゃなく、個人的なお付き合いを狙いに来てるみたい。まあ気持ちは分かるけど。私ももうちょっと若かったら恋しちゃってたかも」
「あんな人と結婚したら気が休まらないわ。私は息子にほしい」
「それこそ高望みだわ」
「鳶が鷹を生むことだってあるっていうでしょ」
「……」

俺の母さんと同年代以上の生徒達が、手はキビキビと動かしたまま早口で噂する。
朝倉さんを息子や孫のように見ている人はいいとして、問題は明らかに度を超えて熱っぽい視線を向けている層だ。

「朝倉先生、こっちにも来てくださいよ〜」
「はい、少しだけ待ってくださいね。順番に回っていますから」
「はぁい、いつまでも待ってます」

教室には思ったより若い女性が多い。
華やかな生活を送っていそうな若妻、OL、女子大生もいる。
朝倉さんと年が近くて、まあ、まあまあの美人だったりする。言うまでもなく朝倉さんの美貌には遠く及ばないけど。
朝倉さんは奪い合われても微塵も嫌な顔一つせず、臨機応変に対応している。
仕事だからだ。
でももしかしたら、万が一の話、相手からぐいぐい来られて優しい朝倉さんが揺らいでしまったりする可能性が、ないと言い切れるか……?

「く……っ」
「さ、斎木くん、手元見ないと危ないよ」
「あ、ああ、分かっている」

人参を切りながら野村が俺に注意してきた。

「野村くんは筋がいいわねえ。斎木くんは……、集中しなきゃ。刃物や火を扱うんだから、よそ見は駄目よ」
「はい……」

ベテランの主婦からお叱りを受け、俺はうなだれる。
野村は女性に囲まれて萎縮するかと思いきや、班全員の道具を軽々運んだり、かぼちゃをすぱっと切って見せて、年配女性達の心を掴んだ。やるな。
俺は――朝倉さんから教えを請う域に達していない。この部屋では培ってきた勉強やスポーツの実力は何の役にも立たず、無力感に苛まれる。

「どうせ俺はちょっと野菜の目利きができて、洗って皮を剥くことしかできない男だ…」
「斎木くんが自虐するなんて珍しいね。野菜に詳しくてすごいと思うよ! か、皮むきも早かったし」
「確かに俺はすごい。だけど……」

野村に励まされてしまう体たらくだ。
どうしても朝倉さんが気になる。ここはラブコメの世界か?ってくらい色んなタイプの若い女性が代わる代わる朝倉さんに声をかけて、不必要なまでに至近距離に寄っていく。
うう、俺のほうがもっと長く、彼と触れ合う距離にいたことがあるんだぞ。

「はあ……」
「さ、斎木くん……? ああ、危ないっ」

呆けた俺に野村もつられて呆けた。注意が少し遅く、手が熱い鍋の端に当たってしまった。

「あつっ……」
「ひ、冷やさないと! ほら、斎木くん」

熱いを通り越して鋭い痛みが走り、慌てて手を引っ込めた。野村が俺の腕を掴み、赤くなった患部に素早く水を流す。

「大丈夫? 斎木くんの手が……」
「大したことない、一瞬当たっただけだよ」
「でも赤くなってる。まだ駄目だよ、ちゃんと処置しないと」

野村は腕を放さず、しっかりと俺の手に冷たい水が当たるようにする。図体がでかい分動きもゆったりしている印象だったが、力が強い上にいざというときは素早さを発揮するらしい。

「痛み引いてきた?」
「平気だ。元からそんなに痛くない。……悪いな」

大きな手に掴まれ、自分が弱い人間になった心地がした。俺は野村を侮っていたかもしれない。
ああ、本来なら俺がこうして、男らしく朝倉さんを助けて差し上げたい。

「斎木くん、どうしたの?」
「あっ、あ、朝倉さん、なんでもないです!」
「斎木くんの手が、熱い鍋に手が当たってしまったんです」

一番遠い班を教えていたはずの朝倉さんが、いつの間にか目の前にいた。
俺は咄嗟に失態を隠そうとしたのに、野村はストレートに事実を伝えてしまう。
どの道、野村に手をとられて流水に晒している姿では言い訳のしようもない。俺が食材になったのでもない限り。
朝倉さんが間近で俺の顔色を窺う。憂い顔も美しい……。

「大丈夫? よく見せて」
「いえ、本当に大したことないんです、少しぼうっとしてしまって、完全なる俺の失態です、あっ……」

朝倉さんは納得せず、俺の肘下あたりを掴んで患部をじっと見た。
不意打ちの衝撃にひっくり返った声が出てしまう。

「うん……真皮には届いてないけど、一応軟膏を塗っておこうか」
「いえ、いいえ、大丈夫です、やせ我慢じゃなくてもう痛くないし、野村のおかげでむしろよく冷えてます。そこのトマト並に!」
「痛くないならよかった。でもここは僕の教室ですから、怪我をしてしまったなら僕の責任です」
「ああ……ごめんなさい」

そうか、料理教室で怪我人が出たとなると責任者である朝倉さんに迷惑がかかってしまうのだ。
朝倉さんに触れられてドキリとしている場合じゃなかった。

「こっちに来て。――みなさん調理を続けていてください。少ししたら戻ってきますので」
「あら、美青年が二人で絵になるわあ」
「本当ね」
「せんせーい、戻ってきたらこっちを見てください」
「ああ……怪我をすれば先生に手を握ってもらえるの……?」

教室中から様々な種類の視線が集中し、注目に慣れている俺にも今ばかりはいたたまれない。

「野村くん、僕の代わりに適切に対処してくださりありがとうございました」
「お、俺は当然のことをしただけです」
「すまなかった野村。お前はいいやつだな」
「斎木くん……大丈夫?」
「大丈夫だと言っただろ。すぐ戻る」

朝倉さんは野村へのお礼を抜かりなく伝え、俺を隣の事務所へ連れて行った。

「そこに座ってください」
「はい……、でも本当に平気です。ほら、ほんのちょっと赤いくらいで」
「うん、赤い。若いしじきに治るだろうけど、早いに越したことはないでしょう。痕が残ったらいけない」

愚かな失敗の証に痕が刻まれたところで俺は一向に構わなかった。しかし朝倉さんが診てくれると言うのなら従うべきだ。

「はい、手を出して」
「いっ、いや、自分で塗ります、んっ」
「しみた?」
「平気です、ん……、はあ……」

朝倉さんのしなやかな手が軟膏をまとわせ、俺の患部に優しく触れる。
痛みよりくすぐったくて、いてもたってもいられない気分になった。今すぐどこか遠くに走り出したい。おかしなエネルギーが体内に燻っていく。

「せっかく来てくれたのに、あまり見てあげられなくてごめんね」
「とんでもない。俺は基礎もできてなくて、まず自分で勉強するべきでした。朝倉さんに教えを乞うレベルに達していなかったんです」
「レベルなんて関係ないですよ。君みたいな人に料理を好きになってほしくて始めたんだから。本や動画で見るより、実践するほうが楽しいし身になるでしょう?」
「朝倉さん……」

朝倉さんは左手で俺の手をとり、右手で軟膏がぬるぬるした手を往復させる。
ああ、朝倉さんは仕方なく怪我人の処置をしているだけだというのに、浮かれて熱っぽくなるとは何という体たらくだ。
だって、はからずも二人きりの個室でずっと手が触れていて、朝倉さんの体温を帯びた軟膏を塗りたくられて……果たしてこの世におかしくならない人間は存在するのか?

「ごめんなさい、みんなあなたを待っているのに」
「もう謝らないでください。実のところ軽いやけどや切り傷は珍しくありません。いつもとは勝手が違う場所で料理をするので」
「……朝倉さんはそのたびにこうして、んっ……丁寧に処置しているんですか」

他人に等しく優しくする朝倉さんを想像して、俺はまた身勝手な嫉妬心を燃やす。
俺はこれでも自制できる男だ。しかし誰しもが、この魅惑的な状況に耐えられるのだろうか。
教室にいる腕の細い女性たちが、力づくで朝倉さんをどうこうできるとは思えないけど……。
朝倉さんが少し黙ったので、緊張する。

「……痛いところを突かれたな」
「ああ、俺はまた失礼なことを」
「ううん。――君は特別だよ、って言ってほしい?」
「え……っ」
「なんてね、冗談です」

朝倉さんが囁くように言うので、俺の元気な心臓が跳ね上がった。朝倉さんに聞こえてしまうんじゃないかってくらいバクバク鳴る。
朝倉さんは残った軟膏で手の甲をそっと撫で、手を放した。

「本当は僕も少しだけ休みたかったんだ。あちこちから引っ張られて、料理に関係ないことまで聞かれて」
「はあ、はあ……、そうだったんですね、朝倉さん、先生は皆に慕われてますもんね。戻りましょう!」

二人きりの狭い空間という幸福なハプニングに、俺はとうとう音を上げた。
火傷した場所よりよっぽど別の場所が熱くてじんとして、耐えられなかった。

「あらおかえり。火傷は大丈夫?」
「大丈夫です、抜けてしまってすみません」
「気にしないで。先生に手当てされるなんて羨ましいわ。怪我の功名ってやつね」

教室に戻ると俺は同じ班のお姉さん達に声をかけられ、朝倉さんの争奪戦が始まっている。
料理と関係ないことで彼を困らせる輩がいるなら、俺が排除してしまいたかった。しかし失敗を重ねて迷惑をかけるのは論外なので、今度こそ料理に集中する。

「野村、俺は何をすればいい?」
「斎木くん、大丈夫そうでよかった。じゃ、じゃあ、こっちの鍋を見ててくれる? 最後に塩コショウで味を整えてみてって言われたから、一緒に……」

素直に野村に教えを請う。俺がいないうちに料理はいい匂いを発する段階まで進んでいて、腹が鳴った。

◇◇

「――美味しいね」
「ああ……」

班ごとに出来上がった料理を皆で食べる時間になった。チキンソテーにシーフードグラタン、オニオンスープにサラダ。どれも美味しい。ほとんどお姉さん達の功績であり俺は無力だった。野村は貢献したのだろう、センスがいいと褒められていた。

「そういえば、同じクラスなのにお前と食事した記憶がないな。トマトソースが口の端についているぞ」
「あ……、そ、そんな。見ないで」
「あら、二人って仲良しじゃなかったの?」
「この機会に仲良くなればいいじゃない。おばさんも仲良くしたいわあ」
「やあね、困らせちゃうわよ。五十も下の相手に」
「失礼ね、せいぜい四十、四、五でしょ」
「誤差の範囲じゃない」

ほぼただの熟練主婦の手料理で腹を満たし、初回の教室は終わった。
全部一人で作れるくらいにならなければ。朝倉さんに挑む土俵にも上がれない。
燃え上がるエネルギーが有り余っていたので、カフェで勉強でもしてから帰ることにした。

「斎木くん?」
「なに……、あっあ、朝倉さん」

その帰りがけ、またも運命的に朝倉さんに遭遇した。
運命というか……、料理教室の向かいのカフェに、料理教室が閉まってしばらく後の時間まで滞在していたので遭遇しても何ら不思議はないというか。
決してつけ狙ったわけじゃない。それはもはやストーカーだ。

「今日は来てくれてありがとう。目が行き届かなくて火傷させてしまって申し訳なかったね」
「とんでもない! 俺のミスですし、このとおり、ほぼ治ってます」
「本当だ。やっぱり若いと治りも早いんですね」

朝倉さんは俺の隣を歩いて話す。

「騒がしかったよね。一度に受け入れる人数を増やしすぎてしまった」
「そんなこと……俺は楽しかったです」

賑やかな教室は狭すぎはしないし、アシスタントの人もいてキャパオーバーとは感じなかった。
全ては朝倉さんに求めすぎる人々が悪いのだ。ああ、どうにかして俺だけの朝倉さんでいてほしい。

「せっかく来てくれたんだから、君と、お友達にもしっかり教えてあげたかった。それこそ一対一で最初から」
「ああ……っ、の、野村には必要ないですよ、あいつは他の生徒さんに気に入られて教えてもらって、もう上達してますから。それに案外知識もあるんです」
「そう。楽しみにして勉強してきたのかな」
「あ、あいつやっぱり油断ならない。とにかく朝倉さんとマンツーマンなんて駄目です駄目!」

野村と二人きりになる朝倉さんを思い浮かべ、思い切り否定した。
野村は背が高くガタイに見合って力が強い。女性の生徒とは違って朝倉さんが物理的に勝てる相手ではない。
それに、いざというときは意外と動ける男だと今日判明した。

「……野村くんとするとは言ってないけど。どうして嫌なのか聞いていい?」
「だって、二人きりだと万が一……、何かあったら大変じゃないですか」
「何かって……もしかしてよくないこと? ないよ。仕事中に生徒相手になんて論外だ」
「ああもちろんです! 朝倉さんを疑うわけじゃなくて」
「そういう期待をしている生徒さんがいないとは言えないけど。真面目に通ってくれてる人たちに失礼だ」

教室では何を言われても奪い合いをされても穏やかに対応していた朝倉さんが、別人のように憮然とした顔になる。
また俺が不快な思いをさせてしまった。

「ごめんなさい、俺、」
「僕が野村くんを独占したら嫌ですか?」
「いいえ逆です逆! あっ……」

俺は頭を下げながら、朝倉さんの誤解は速攻で否定する。否定した後失言に気づいた。

「――そう」
「ち、違……、いや違うというのも違うけど、けっして変な意味じゃなくて」

しどろもどろで顔を上げると、朝倉さんは俺の嫌な想像を裏切って、不快をあらわにはしていなかった。
綺麗な目が細められる瞬間を目に焼き付ける。

「君と野村くんがとても親しそうだから、少し嫉妬してしまった」
「え……っ」
「僕は学生時代にあまり気の置けない友達がいなかったから」
「な、なるほど。そういうことでしたか」

一瞬、都合の良すぎる展開がよぎってすぐ肩を落とす。
朝倉さんに親しい友達がいなかったとは、誰より優しくて素敵な人なのに。
でも分からなくもない。この人はあまりに放つ魅力が強すぎる。同級生として机を並べたりしたら、年中気がとられるだろう。どんな精神的修行を重ねたら気の置けない相手になれるのか想像もつかない。

「俺がなれたらいいのに」
「はは、嬉しいけどちょっと無理かな」
「ですよね……」

俺の呟きは即座に否定される。知っていた。分かっていた。

「そういえば時間は大丈夫ですか?」
「え……ああっ、もうこんな時間? 帰らないと」
「ごめんね引き止めて。また来てくれたら嬉しいな」
「はい……、必ずまた!」

辺りはすっかり暗く、商店街の店は点在する飲み屋を除いてとっくに閉まっている時間だった。
俺は慌てて帰路についた。

「遅い。門限を超えるなら連絡する約束でしょう」
「……はい」

きっちり母のお叱りを受ける。
門限を設定しなくても俺は不良の道に堕ちたりしないし、闇夜で卑劣な強盗に襲われても撃退する自信があるから心配しないで、と伝えてはみたけど却下された。
今日の俺は全く駄目だった。反省すべき点が多い。
朝倉さんとたくさん話して、触れられたのはすごくよかった――、いや駄目だ。格好いい姿を見せなければ、朝倉さんの中で出来の悪い年下という印象で固定されてしまう。

◇◇

「俺のことをどう思う」
「え、珍しくそっちから話しかけてきたと思ったら何? そりゃイケメンだし優等生だし、その上御曹司でいいなあって思うよ」

学校に着いて姿を見つけると、俺は挨拶もそこそこに浩史に訊ねた。

「そうか。他には?」
「えーっと、ちょっと普通と違ってて、自信がないと近寄り難いところもかっこいいよ。ミステリアスっていうの?」
「そう、それだ」

浩史の答えに俺は納得した。
俺は格好よくて成績優秀で文武両道な自分に自信を持っていた。
少々のことでは取り乱さず常にキリッとしているから同級生からは近寄りがたいと思われる。そんな環境が心地よかった。
朝倉さんの前での俺は別人のように腑抜ける。汗をかいてうろたえてうなだれて、まるで雑魚の挙動になってしまう。

「おはよう斎木くん。この前は」
「おはよう野村。――お前、普通だったな」
「ええっ? なんのこと?」

登校してきた野村をまじまじと見る。
元々落ち着きのないやつだ。朝倉さんを前にさぞ挙動不審になるかと思いきや、意外に普段と変わらなかった。ずっと年上の生徒達と同じような態度で接していた気がする。

「うん、今のほうがおかしいくらいだ。一体どうして普通でいられた?」
「え、え、近いよ野村くん……っ」

近付かなければよく見えない。野村は自転車を走らせて登校してきたからか少し汗をかいて顔が赤く、目を右往左往させている。

「恭治が野村を言葉責めしてるー。いつの間に仲良くなったの?」
「それは……野村、例の場所でのことは他言無用で頼む」
「わ、分かったから、近い……っ」
「え、二人だけの秘密? ずるい、いやらしい」
「お前には言わない」

俺には少し修行が必要なのかもしれない。自信を取り戻し、朝倉さんの前に堂々と立てる男になるために。

続く

prev text