ナルシストの恋 1
俺は自分が大好きだ。
謙虚が好まれる世の中で溢れる自分への称賛を口に出そうものなら、ナルシストだの自己愛が強いだのと言われがちだけど、大きな間違いである。
思い上がりなどではなく、正当に俯瞰で評価した上で、俺は俺に愛されるに値する人間なのだ。
身長は平均を軽く上回り175センチ(正確な数値は173.8センチだけど、今後もっと伸びる計算なのでむしろ控えめな自称だ)、小顔で足が長いので等身が高い。マッチョでもガリガリでもなく、均整がとれた体と言える。
色が白く日焼けすると赤くなりやすいものの、その辺はぬかりなくケアを怠ることはない。
顔立ちは卵型の輪郭に二重の横に長めな目、細く緩やかなカーブを描く鼻筋、上は薄く下は少しふっくらして血色のいい唇――と、贔屓目抜きでイケメンとしか言いようがない。うぬぼれではなく女子からも人気がある……はずだ。
このように自分を客観視できるだけあって頭脳も優れている。県内で5本の指に入る偏差値の私立高校で、常にトップクラスの成績を維持してきた。
持って生まれた恵まれた資質に驕ることなく努力を重ねる向上心にも恵まれた。
とにかくなかなかに素晴らしく完璧に近い俺にも、悩みがないわけではなかった。
「ねー恭治、テスト終了祝いってことで西女の2年の子達と遊ぶことになったんだけど、来ない?」
日差しが西側の窓から差し、鞄に荷物を詰めて生徒達がバラバラに教室から出ていく放課後。
軽薄に笑いながら俺に話しかけてきたのは、半端な金髪の頭が目立つ同級生、山下浩史である。
こいつは背が高く顔立ちも悪くないが、品性というものが欠けている。外見というより中身の話だ。
外見は大概主張が強く、生徒指導の教師に幾度嫌味を言われても派手なファッションを譲らない。
俺に言わせればブリーチを繰り返したら、せっかくの髪が痛んでしまうから好ましくないし、口や体にまで穴を開けて、そんなに風通しをよくしてどうしたいのかと思う。
苦言を呈したところでへらへらと笑われるだけなのでもうスルーしている。ファッションは個人の自由と言われればその通りだ。
「残念だけど俺は忙しいんだ。女の子と浮ついた遊びをするつもりはないね」
俺は浩史の誘いをにべもなく断った。
「えー。ホント付き合い悪いね恭治って。何がそんなに忙しいの?」
「……家業の手伝いがあるからな」
「またそれ? やっぱり恭治の実家が資産家の一族って噂本当なんだ。たまには奢ってよ。あそこ行きたい、ふつー高校生だけじゃ絶対入れない高級な焼肉」
「嫌だね。相手が金持ちだろうとたかりだなんてみっともないよ。それに金を稼ぐのが上手い人間ほど無駄なことに金は使わないものだ」
「無駄ってひどい。ケチー。格差社会ってやだねー」
「言ってろ」
まったくこいつは無駄口が多い。
俺は校内では孤高の存在で通っている。みんな俺の輝くハイスペックぶりに尻込みして、話しかけるのも恐れ多いらしい。
なのに浩史は、俺がどんな態度をとっても気にすることなく纏わりついてくる。必然的に学校では一番よく話し行動を共にする相手だ。
「斎木が資産家の家の人ってほんとなんだ……?」
近くにいた生徒が、伺うように話しかけてきた。確か野村といって、放送部の生徒だ。
クラス内では静かなほうで存在感は大きくないが、身長は無駄に大きく183はある。
何故そんなことを知ってるって、俺は周りの人間のことは詳しく把握しておきたい性質なのだ。何かあったときに役に立つかもしれないし。
慧眼を持つ俺の印象としては、野村はよく俺をチラチラ窺って気にしている。隠そうとしても無駄だ。俺の素晴らしさを目に焼き付けようとする殊勝な心がけは褒めてもいい。
「ご想像にお任せするよ」
俺は微かに笑って言う。大口を開けて笑ったりしない。自然に築き上げてきた孤高のイメージが崩れたら俺のファンを傷つけてしまうからな。
「そ、そう……」
野村は気まずそうに目を逸らした。微妙な反応だ。少々びびらせてしまったかもしれない。
「……。にしても、ホント恭治って秘密主義だよね。そういうところも気になっちゃうポイントなんだけど」
「別に秘密にしてるわけじゃない。言う必要のないことは言わないだけで」
「いや、それ秘密主義じゃん。彼女のことも全然教えてくれないしさー。親友の俺としては色々知っておきたいんだよ。彼女がどんな美人で、どんな性格で、どんなプレイが好きかとかさ」
「お前は本当にゲスだな」
すぐに下ネタにもっていきたがるところも浩史の欠点の一つだ。ポーカーフェイスで切り捨てながらも、俺は内心でぎくりとした。
「だって隠されると余計知りたくなるじゃん。恭治って幼稚園の頃からモテまくってるらしいし、もうすごいんでしょ? 普段涼しい顔ばかりしてる奴って、エッチのときどうなるのか気になっちゃうんだよねー」
「えッ……」
言いよどんでしまった。まずい、今度こそ動揺が顔に出てしまったかもしれない。
「バカじゃないのか。俺の……エッチを知って何になるんだ。なあ野村」
「えっ……!? い、いや、あの……」
混乱して野村に話を振ると、顔を赤くして明らかに動揺した。
「あー恭治が野村にセクハラ発言してるー。お前がエッチなんて言ったら駄目じゃん。つーか野村動揺しすぎ。童貞?」
「どっ、って、俺は……」
「おい、悪趣味なイジりはやめろよ。お前みたいな節操無しよりは清く正しく生きてる童貞の方が比べるまでもなくまともだ」
「い、いや、俺童貞じゃ……」
野村はもはや可哀想なことになっている。可哀想だが、こちらが再び浩史の質問攻めにあう前にさっさと帰ろう。
「じゃあ、家の仕事があるから。野村、そいつの言うことなんて気にするなよ」
「さ、斎木……俺ほんとに童貞じゃ」
「つまんないのー。また明日ね」
二人に別れを告げて颯爽と教室を出た。
校風と偏差値重視で選んだ学校は家から距離があり、電車を乗り継いで一時間半近くかかる。
すれ違いざま、畏怖の視線を向けてくる生徒共を顧みることなく下校の道を急いだ。
◇◇
「あら、恭治おかえりなさい」
「ただいま。仕事手伝うよ」
家に帰るなり制服を脱いでハンガーにかけ、さっさと着替える。
家業を手伝うことで学生のうちから労働の苦楽を知っておく。俺の華々しい人生において重要なステップである。
簡素なTシャツとジーンズの上に洗いたてのエプロンをつけ、俺は店に向かった。
「おう、おかえり恭治、早速店番頼む」
「ただいま父さん。了解」
父さんは逞しい二の腕で商品を運びながら指示を出す。
見栄えはさて置いて、仕事には信念を持っていて妥協を許さない、尊敬する人生の先輩である。
店に立つと、俺はすうっと息を吸った。
「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ! 本日はトマトが新鮮でお安くなっております!」
今日も調子のよい美声が威勢良く響き渡った。
俺の実家は八百屋だ。商店街の一角にあり、地元の顧客には安くて品質がいいと信頼を得ている。俺は時間のあるときには率先して店を手伝っていた。
何故か高校では資産家の息子扱いされている。俺が騙ったわけではない。出所不明の噂が流れたときに、特段否定しなかっただけだ。
八百屋の息子より資産家の息子のほうが孤高のイケメンらしい、なんて邪な考えはない。
「あら〜恭ちゃん、いつも偉いのねえ」
「恭治君じゃない。おすすめのトマトいただこうかしら」
「毎度ありがとうございます! 今日は人参もいいのが入ってますよ、いかがですか」
長年のお得意様であるおば……お姉様達にとって俺はアイドルだ。同世代の女子と違って彼女達は俺に気後れすることなく、むしろこの俺がたじたじになるくらい構い倒してくる。
「恭治君、今日も綺麗なお肌ね〜。私があと10歳若かったら交際を申し込みたかったわ」
「あらあつかましい。せめて30若返ってから言いなさい」
「はは……俺は年齢は気にしません。是非うちの新鮮な野菜を食べて、お美しい肌に更に磨きをかけてください」
「あらっ、いつの間にか商売上手になっちゃって。お母さん譲りね」
「じゃあこのネギもいただこうかしら。恭ちゃんと同じくらい長生きしなくちゃ」
「じゃ、また来るね。会えてラッキーだったわ」
いつまで経っても元気で賑やかなお客を見送っていく。
接客中には俺の魅力を最大限に活かしている。売り上げも伸びるし、お客も心から満足して重そうに野菜を抱えて帰っていく。売上は我が家の生活にも直結する。自分の商才が末恐ろしい。
お客が途絶えたタイミングで一息つきたくて目を閉じ伸びをする。目を開いたとき店の前に立っている人物を見て、俺ははっとした。
「い、いらっしゃいませ!」
その人はじっくりと野菜を吟味していた。
――美しい。
急激に胸が高鳴って動揺が走った。
目を逸らしたほうがいい。逸らせない。縫い付けられたように動けなくなり、彼に見とれる時間が必然になる。
初めて彼がこの店に訪れたのは一ヶ月ほど前のことだった。一目見た瞬間、雷に打たれた衝撃を受けたことを覚えている。
さらさらとした色素の薄い髪に、やはり色素の薄い長いまつげに縁取られた薄茶の瞳。細身ですらりとしたスタイル。顔立ちは非常に美しく整っていて、かといって女性っぽいというわけでもなく、宗教画から出てきたような、性別を超越した美が宿っている。
はっきり言って、庶民的な商店街の八百屋がこれでもかというほど似合っていない。
――ああ、やっぱり素敵すぎる。気がついたらぽかんと口を開けてしまっていて、俺は慌てて表情を引き締める。
この人が気になって仕方ない。
俺は最近まで恋をしたことがなかった。幼稚園の時には仲のいい子の一人や二人いたはずだが、女の子達を見るより鏡を眺める方が好きだった。
他人はさておいて俺というかけがえのない存在を高めることに夢中だったのだ。
それに俺の基準は俺自身にある。そこらの凡百な人間では心を揺さぶってはくれなかった。
学校では何故か百戦錬磨のヤリチン扱いされているけど、別にこれも嘘を吐いているわけではなく、否定しなかっただけだ。別に、童貞より百戦錬磨の方が箔がつきそうだからあえて黙っていたわけではない。
「すみません」
「は、はいっ!」
不意に声をかけられて、俺の胸は激しい音を立てて鼓動を速くする。中性的な美しさからイメージするよりは少し低くて甘く響く声だ。
今まで会計時に定型の受け答えをしたことはあれど、直接話しかけられたことはなかった。
「このナスはどこのものでしょうか?」
軽く微笑んで聞いてくる美しい人に心をかき乱され、思わず顔を押さえる。
長く美しい指が、ナスを……握っている……。
……駄目だ。
「そ、そちらは岡山から直送したものになります!口当たりがよくて、火を通すとすごくいい甘みがでますよ!!」
「ありがとう。いいですね」
美しい人はやはり微笑を絶やさず、ナスをすっと撫でる。
――由々しき事態だ。何故は興奮しているんだ。情けなく声を裏返らせたりして、いつものクールビューティーと称される俺はどこへ行った? これじゃあまるで変質者じゃないか。
「――どうかしましたか?」
「いっ、いえ!」
ああ、何だか顔が近い。目が合ってる。一対一で会話しているのだから相手の目を見るのは礼儀だ。逸らしたりできない。一対一で……。
アップでもやはり美しい。さすがの俺も、彼と比べたら平凡な人間に思えてしまう。
いや、いいんだ。彼は特別な存在、天使か精霊のように人間離れしている。
いかに俺がお客のお姉様方や近所の子供からモテモテのイケメンでも、所詮はただの人間だ。張り合おうとは最初から考えていない。
身長は俺より少し低いくらいかと思ったら、遠くから見る以上にすらりと比率がよくて……彼のほうが目線が若干上にある。
必然的にやや上目遣いになってしまう。きっと赤い顔もバレバレだろう。
もし彼が、男に好かれるのを嫌がる人間だったらどうしよう。ああ、彼に軽蔑されたら、俺は一体どうやって償えばいいのか……。
「ではこのナスと、あとは玉ねぎとほうれん草と……」
「は、はい! 毎度ありがとうございます!」
悩んでいるうちに彼の方から視線をすっと外して、野菜を次々手に取って籠に入れる。
ほっとしたような残念なような気持ちで、俺は煩悩を振り払うため軽く頭を振った。俺らしくない。冷静にならなくては。
「三千四百円になります!」
「はい、」
美しい人が、トレイではなく直接お金を差し出してくる。俺は震える指でそれを受け取ろうと――――。
「あっ」
案の定小銭を落としてしまった。手先も器用な俺にとって普段ならありえない失態だった。
「も、申し訳ありません!」
「いいえ、僕こそごめんなさい」
慌てて地面に散らばった小銭をかき集める。彼もしゃがんで手伝ってくれて、非常にいたたまれなくなる。急いで二枚拾って、三枚目に手を伸ばし。
「あっ」
彼の手の上に、手を重ねてしまった。
なんとベタな。早く手を離さなくては――それにしても骨の形から爪先まで美しく惚れ惚れする指に、体温がある……。
「……どうかしたんですか?」
「!!……い、いえっ、す、すみません……!」
美しい人は手を振り払うどころか、俺の手を取って、両手で包みこんだ。
な、なな、なんだこれ。血が集まりすぎて血管がブチブチと切れてしまいそうだ。俺の健康な血管の強度を試されているのか?
「……――いいな」
「はい……?」
小さく囁かれ、上手く聞き取れなかった。頭が沸騰寸前で、いつもは優秀な脳が上手いこと司令を出せなくなっている。
また目が合って、至近距離で破壊的な微笑みに晒される。
「おーい、恭治ー?」
父さんの声で現実に戻された。美しい人は何事もなくすくっと立ち上がる。
いつの間にか俺の手の中に全ての小銭が収まっていた。ああ、拾った小銭を握らせてくれたのか。俺ときたら、彼の親切に漬け込んでちゃっかり手を握り返すなんて、邪な。
「本当に申し訳ありません!」
「いいですよ、……また。恭治君」
彼は野菜がたっぷり詰まった袋を手にして、見惚れる足取りで店を出て行った。時が止まったようであっという間の出来事だった。
俺はと言うと、しばしその場で惚けて動けなかった。
少しひんやりした手の感触が忘れられない。胸の高鳴りが続く。
「おーい、……なんで座り込んでるんだ? 具合でも悪いのか」
「父さん……」
父さんに覗き込まれてふらふらと立ち上がる。まだ半分夢から醒めきれていない。
「今のお客さん、朝倉さんだろ?最近料理教室を開いたっていう」
「そうなの!? 朝倉さん、朝倉さん……。いつどこで?」
不本意にも父さんの口から、気になる人の名前と職業を知った。
結構な頻度で大量の野菜を買いに来る理由も分かった。もしかしたら養う家族がたくさんいるのかと、いらぬ勘繰りをするところだった。
冷静を装いながら、内心では朝倉さんについて詳しく知りたくてたまらない。俺よりも父さんのほうが知っている現状にモヤモヤする。
「ああ、駅の向こうで商売してるから最初はあっちのスーパーで買い物してたんだけど、うちの野菜の品質や商店街の雰囲気が気に入ったと言ってくれてな。しかし料理教室の先生には見えないよなあ。女性客が殺到して大変そうだ」
「料理教室……」
意外性があるのもいい。きっと彼が作る料理は天上の味がするだろう。
あの人当たりのよさなら教え方も上手いに違いない。エプロンをつけた朝倉さんが手取り足取り料理を――俺の手を取り足を取るなんてそんな……。
「どうした恭治。今日は様子が変だな。熱でもあるのか」
「俺は至って健康だよ。なんでもない」
父さんを誤魔化しながら、頭の中はすでに妄想でいっぱいだった。
俺は料理の経験は少ない。キッチンは手際を重視する母さんのテリトリーで、手伝いをするにも洗い物や野菜の皮むきがせいぜいだった。母さんの料理はいつも美味しくて、あえて自分で作ろうという気は起きなかった。
しかしこれからの時代、自分をより高めるためには料理の一つくらいできなくては。
深みにはまる予感を抱きながら、胸のときめきには逆らえなかった。
◆
「……うん、今日の俺もかっこいい」
うっとりしてしまうくらい完璧だ。
眩い朝日が差し込む洗面所にて。俺は鏡の前で髪の毛を整えながら、しみじみと呟いた。
どの角度から見ても美貌が損なわれることはない。……少し言い過ぎか?
いやしかし、やはりこの涼しげな目元といい、すっとした鼻筋といい、毛穴の汚れやニキビとは無縁の肌といい――。
「兄貴、邪魔」
「むっ……」
「むっじゃないよ。邪魔」
後ろから、ダルそうにしっしと追い払う動作をされ、悦に入る気持ちいい時間が台無しになった。
俺の唯一の弟、恭夜は、無愛想で失礼極まりない。
反抗期に入ったのか、最近やけに尖った態度で物言いも生意気になってしまった。
「つーかいつもいつも、風呂や洗面所独占しすぎなんだよ。自己中なナルシスト」
「なんだと。そんなに時間をかけた覚えはない。大体お前も、最近色気づいてきたんじゃないか」
ナルシストとは身の程を知らず自己評価が高い人間のことだ。俺には当てはまらない。
恭夜は恭夜で、振る舞いや外見を気にする年頃の変化が見られる。
俺の弟だけあってあって素材がいいのは間違いないけど、可愛かった昔に想いを馳せると……最近は背も伸びてやけに色気づいてきて、可愛げが失われつつあるのは兄として複雑だ。
「うっせーな。童貞に色気がどうとか分かるわけねーだろ」
「どっ……!?」
耳を疑う罵倒の言葉が弟の口から出てきて、俺は目を見開いた。
「動揺してだっさ。彼女も作れないのにせっせと鏡見て外見気にしても、意味ないよね?」
「お、お前……まさか、ど、どう、どうて……じゃ、なくなったのか……ありえない」
あざ笑う恭夜に、俺は岩を握った手で殴られたような衝撃を受けた。
いやまさか、恭夜はまだ中学生だ。世間の潮流は知らないが、そういった行為はしかるべき年齢になってから――つまり18歳以上になってから行うのが適当なのではないか? ましてや義務教育中になんて、論外だ。
「別に同級生でも彼女としてるのなんて珍しくないよ。……どうでもいいけど、学校遠いんだからもう出たほうがいいんじゃない? キモい妄想してないでさ」
「してる……? 妄想なんてしてな……、あ」
あまりに聞き捨てならない言葉に呆然とし、ふと我に返って時計を見る。
いけない、とっくに家を出るべき時間だ。ついカッとなって時間を忘れていた。
俺は弟の無礼な言葉を脳内で反芻しながら急いで諭した。
「恭夜、くれぐれも自分を大切にな。まだ中学生なんだから」
「はいはい、行ってらっしゃい。童貞のお兄ちゃん」
……なんということだ。
「はーあ……」
足早に駅へ向かいながら、俺は動揺を抑えきれず思案した。
弟が中学生にして童貞ではない、かもしれない。
衝撃的過ぎる。思春期特有の見栄だと思いたい。
いわば俺がヤリチンと噂されてあえて否定しないのと同じ……俺のは見栄じゃあないけど。
あいつのことは、くしゃくしゃした赤い顔の赤ん坊だった頃から知っている。小さい頃はよく泣いて、よく食べて、俺の後ろをついて回ったものだ。そのあいつが、まさか、セッ……を!
「セック……いや……っ」
思わず口に出しかけてから己の失態に気づいた。近くを歩いていたサラリーマンに怪訝そうに窺われて、いたたまれなくて下を向いた。
……今のはしゃっくりだ。
童貞を辞めたのは単なる見栄、ということにしておくとして、口ぶりからすると彼女がいるのは本当の可能性がある。
俺の弟らしくいい顔をしてるし、身長も同じ学年の頃の俺より順調に伸びていて、まずモテるだろう。
彼女がいてもいい。セックスは早すぎる。
「……童貞のなにが悪い」
呟いた途端、またしても近くを歩いていたサラリーマンの視線を感じた。
物事を深く考えると他がおろそかになりがちなのは、俺の数少ない欠点だった。
俺は赤くなった顔を伏せて歩きながら、更に考える。
――たしかに俺は童貞だ。自信を持って言える。本気の恋愛を知らないうちに童貞を失う方が問題だ。
経験の早さや数を誇る価値観なんてろくなもんじゃない。俺の貞操は安くないので、本当に愛する人と結ばれるときが来るまで待つのだ。
「……ふー……」
今度はなんとか声を出さずに済んだ。
頭に浮かんで俺をおおいに動揺させたのは、甘く微笑む朝倉さんの幻影だった。
こんなときに彼を思い出すなんて不埒だ、過ちだ。天使のように美しい人を、頭の中だけでも穢すのは罪深い。
――しかし、あれだけの美貌の持ち主であれば、不埒な輩がひっきりなしに寄ってくることだろう。
彼に近づくのが、俺のように自制心を持ち本人の意思を尊重する人間ばかりとは限らない。
優しそうな人だし、もしかしたら断りきれずに、あんなことやこんなことを……。
『い、いやです……やめてください……』
『へへへっ、綺麗な顔して、たまんねえな朝倉さん。大人しくしろっ』
『いや、誰か――!』
――――やめろ!
勝手にけしからん想像をした頭を激しく振った。俺は最低だ。
近くを歩いていたサラリーマンには、もはや完全におかしなヤツだと思われたことだろう。
悶々としている間にも足は無意識に同じ動きを繰り返して前に進み、混雑した駅に到着した。
まずターミナル駅まで出なくてはならない。
いつもは早めに出発して比較的空いている電車を選んで乗っているが、今日は時間に余裕がなかった。
ホームは通勤通学のピークで埋め尽くされており、混雑具合にうんざりと溜め息を吐く。
せっかくセットした髪や綺麗な制服が台無しになりそうだ。
『2番線、急行◯◯行きの電車が到着致します。降りる人を待って空いてるドアからご乗車くださいー!』
「ううっ……」
殺伐とした人の群れに後ろから押され、車内に雪崩れ込む。すし詰め状態で走り出してもいないうちからどっと疲れた気分になる。
『発車いたしまーす! 無理なご乗車はお止めくださーい!』
「っ、いった……」
人間が詰め込めるだけ詰め込まれてやっと発車した直後、固く尖ったものが足に当たって、俺は顔を顰めた。
バッグにつけられた金属の飾りか何かだろうか。揺れるたびにガンガン当たって、逃れようにも隙間が無い。
場所取りの運が悪かった。痛い……。
「……大丈夫?」
思わぬ方向から声をかけられ、前方にわずかな隙間ができた。俺は咄嗟にその隙間に体を入れ、どうにか尖ったものから逃れることができた。
混雑で皆の余裕がない中、優しい人もいるものだ。俺は感謝を伝えるために顔を上げ――ぽかんと完全に固まった。
「あ……!」
「――、また会いましたね」
驚いたなんてもんじゃない。運命という言葉が頭にぶわっと浮かんだ。
優しい人は、淀んだ満員電車には似つかわしくなくキラキラした輝きを放つ、朝倉さんだった。
「あ、あっ、ありがとうございます!」
「いいえ、なんだか辛そうだったので」
美しい笑顔でさらりと言われ、胸に熱いものが落ちて広がり感動する。
立っているだけでストレスのかかる人混みの中にあっても困っている人間を放っておけないとは、なんということだろう、彼は見た目だけでなく中身も天使だった。
「あ……っ」
俺は俄かに揺らいで、声を漏らした。
ドア近くの端。満員電車で向かい合うとなると、必然的に体がぴったりと密着してしまうではないか。
……まずい。俺はこの人の前では平静でいられない。
細身に見えるけど、大人だからか体幹がしっかりして俺より揺れなくて、時々支えてくれる。人間離れして美しい人は、ちゃんと人間らしい体温があった。
爽やかでちょっと甘い、いい匂いまでする……。
「……大丈夫? 顔が少し赤いですが」
「は……っ、だ、大丈夫ですっ」
会話するにも耳に息がかかって、心拍数の上昇と同時に全身が熱くなる。
本当にまずいぞ。
俺は誤魔化すように声をかけた。
「あ、あの、駅の向こうで料理教室をやってるって父に聞いたんですけど……いつもこんな電車に乗るんですか?」
「うん、お父さんの言うとおりですよ。普段は乗らないけど、今日は取引先に所用がありまして。すごい混みようで驚きました」
……ああ、やっぱり美声だ。
朝倉さんが料理教室の近くに住んでいるなら最寄駅も俺と一緒ということになる。これはやはり運命……?
普段は満員電車に乗らないのならよかった。麗しい朝倉さんが毎日のようにすし詰めの電車で他人と密着するなんて俺には耐え難いし、危険が伴う。
そう、たとえば痴漢とか。痴漢――。
「……?」
またしてもよからぬ想像が過ったとき、ふと背後に違和感を感じた。柔らかいものがお尻に当たっている。
――これは手だろうか。ちょっと不快だけど、この混みようでは仕方ない。さっきの固い物体とは違って痛くはないし。
どこの誰の手か知らないが、男の尻を触ることになるとは気の毒に。
って、あれ……?
納得しかけた矢先。触れたものが不自然な動を始めて、俺はびくっとした。最初は手の甲が当たっている感じだったのが、指で包むようになっている。
俺はまだ偶然の可能性に賭けて様子を窺った。そのうちぐにぐにと、恐らく指の腹で、明らかな意図を持って太ももや尻を擦り始めた。
まさか本当に痴漢……!?
ぴしりと固まっている間にも、その手は太ももから股間までを執拗に撫でさする。すりすりと撫でて感触を確かめ、時々肉に食い込ませる。
ごつい大きな手、まず間違いなく男だ。
ふざけるな、気持ち悪い……! この俺に、一体どういうつもりなんだ。
相手を探そうとしたけど、いかんせん混雑が激しく、自分の手を後ろに回すのさえ簡単じゃなかった。
痴漢の動きが少しずつ大胆になり、尻の肉を掴んでぐっ、ぐっ、と揉まれる。
「……どうかしましたか?」
「……っ、いえ……」
動揺しきって黙り込んだ俺に、再び朝倉さんが美声で気にかけてくれて、俺は真実を突きとめた。
――――痴漢野郎は、俺と朝倉さんを間違えている。
間違いない。確かに俺は稀に見るイケメンで、溢れ出る聡明さや将来性が隠しきれていないけど、どう見てもイケメンなだけで普通の人間だ。
対して朝倉さんは、性別を超越した神秘的な美貌を持っている。この俺が惑わされて夢中になってしまうほどに。
触れてみたい欲望に負け痴漢行為に及ぶ愚か者が現れるのも道理だ。
――――俺が、守らなくては。
「……なんでもないです。試験勉強で少し寝不足で」
「……そう? 真面目なんだね。親孝行な働き者で学校でも優秀なんだと他のお客さんが噂してましたよ」
「いえ、それほどっでも……ッ、ん」
なんとか平然を装って話している間に、男は抵抗されないと調子づいて大胆になっていく。
股間に手を滑り込ませ、柔らかい部分に指が食い込む勢いでぐにぐに揉まれて、息が上がってしまう。
朝倉さんに触れているつもりで、さぞ興奮しているのだろう。許しがたい。
尻を掴まれ、体の中心を暴くように左右に開きながら揉まれるのが屈辱だ。
屈辱的なことをされているのに、気になる人が目の前にいて嫌でも体が触れ合うから、脳が混乱して、ゾクゾクする……。
「……恭治君?」
甘い声で名前を呼ばれて、顔にカーッと血が昇る。
痴漢なんて最低で気持ち悪い、だけだのはずだった。でも朝倉さんの吐息を感じて、名前を呼ばれながら、薄い皮膚やその奥の肉を何度もなぞられて……。
信じられないことに、俺の下半身が敏感に反応してしまった。
ふー、ふー、と後ろから変態丸出しの息がかかる。ゴリゴリと固いものがお尻に押し付けられた瞬間息が一層荒くなった。痴漢は激しく興奮し、その手は湿っていた。
嫌、嫌すぎる……! けど、痴漢が人違いに気づいて矛先が朝倉さんに向くのはもっと嫌だ。
声を出したら知られてしまう。この俺が、情けなく変態に触られて感じてしまったことをを。
もう少し自由に動ける余地があれば不埒な痴漢の手を捻り上げられるのに、ああ……。
「……っ」
「フー……ッ、ふーっ……」
興奮し欲情した痴漢が、強引に股の間まで手を伸ばそうとしてきた。
朝倉さんは俺が会話にあまり乗り気でないと察したのか静かになる。前後左右から押されて離れられないから体は密着したままで、言葉はなくても存在を全身で意識してしまう。
想像を絶する状況の中で、俺の体は熱を帯びて、股も熱くなって興奮の兆候を見せる。
痴漢の汚らわしい指に感じてるんじゃない。といって朝倉さんに興奮していると認めるのは罪悪感がつのる。
ああ、朝倉さんとぎゅうぎゅう密着しながら、体の敏感な部分を弄られて……勃ってしまう。これ以上はおかしくなる……。限界だ。
「はあっ……はぁ……ん……」
『えー間もなく西××、西××に到着いたします、お降りの方は――』
「……降りよう」
「えっ?」
いくつかの駅を飛ばして走る急行が、やっと停車駅に着くというとき。体の動かし方も忘れて立ち尽くしていた俺の腕を、朝倉さんが掴んだ。
「あ……」
意外なほど強い力で引っ張られ、有無を言わさずホームに降ろされた。
無言で少し歩いて端にあるベンチに座らされる。
朝方に降りる人は多くない駅は、電車が出た直後は電車内と打って変わって静かだ。
恐る恐る朝倉さんを窺うと、微笑みが消えていた。並外れて整った顔が無表情になると、畏怖すら覚えるのだと知った。
気まずさに耐え切れず、俺のほうから声を絞り出す。
「……朝倉さん、どうしたんですか? S駅に用事があるのでは……」
「……どうして黙ってたの?」
「うっ……あ……」
――――バレていた。最悪だ。いや、最悪は朝倉さんが痴漢に触られることだけど、限りなく最悪に近い。
「顔が赤いし、目が潤んでる。触られたんでしょう? あんな―――男に……――」
朝倉さんは人目を憚る話題だからかひそひそと話すので、全部は聞き取れなかった。何にせよ、俺らしくない情けなく恥ずかしい姿を見せてしまった絶望に、すっかり意気消沈する。
「……ごめん、君が悪いわけではないのだから泣きそうな顔をしないで。僕ももっと早く気づいていれば…。けれど大人しくしていると変態は調子に乗ってしまう。すぐ声を出して僕に助けを――」
「あ、あいつは」
このいたたまれなさ、恥ずかしさから逃れるすべを探して、俺は声を上げた。
「あの痴漢は、朝倉さんに……朝倉さんと俺を間違ってたんです。当然ですよね、男が俺を触っても何も楽しくないですから。……でも、あ、あなたは、すごく、すごく綺麗だから……」
言ってしまった。自分の情けなさをごまかすために。俺は卑怯な男だ。
誰だって痴漢に狙われていたなんて事実は知りたくもないだろう。嫌悪感を抱くに決まっている。身代わりになると決めたなら、嫌な気持ちまで俺が最後まで肩代りして秘めるべきだった。
朝倉さんは黙って俺を見る。
もう終わった。自業自得だ。俺は清らかな人を、卑劣な男の欲望から守りきれなかった。
「……かばってくれたの?」
次に耳を震わせた声は、思いのほか優しかった。
「ごめんなさい……、そんなんじゃないです。俺が自力で撃退できれば」
「ううん」
綺麗な目で正面から覗き込まれて、心臓が特別激しい音を立てる。
「僕を守ろうとしてくれてありがとう。君は優しいですね」
「そんな」
不覚にも泣き出しそうになった。さすがに涙は阻止した。
俺は誰もが憧れる男前を目指して生きてきた。物心ついてから他人の前で泣いたことはない。これ以上醜態を晒すわけにはいかなかった。
俺は自分で思っていた以上に、この人の一挙手一投足に心を乱されてしまうようだ。
「――恭治君、体は大丈夫?」
「え……?」
「とても言いにくいことだけど、しつこく触られたりしたら、男なら誰でも……もし――」
「う、うわあ!」
最後まで聞かずに俺は叫んだ。
――図星だ。痴漢に際どいところをしつこく撫で回されながら朝倉さんと密着して、混乱して股間が反応してしまった。
今だって、完全にはおさまっていない。
変態に触れられただけなら気持ち悪いだけだった。朝倉さんがいたから、うっとりする声が耳に吹き込まれて、体が触れ合って、不可抗力で脚の間がちょっと擦れたりしたから……。
俺の体の生々しい反応を朝倉さんに知られたら、今度こそ合わせる顔がなくなる。
「っ、そうだ、この駅から学校を通るバスが出てるんですよ。遅刻しちゃうんでもう行きますね!」
「……本当に大丈夫ですか?」
「はい! あ、ちょうどS駅行きがきましたね。どうか気を付けて」
「そう……。分かりました。恭治君も気をつけてね」
特に痴漢野郎には厳重に気をつけて、と直球を投げられるわけもなかった。俺は名残惜しく一礼し、逃げるように改札に向かって走り出した。
今日の出来事は一生の不覚だった。
しかし朝倉さんと偶然出会えて言葉を交わせた。天使の体温を知った。嬉しかったな……。と浮かれている場合ではない。失態を犯した反省こそが重要だ。
「――どんな馬鹿でも痴漢の相手を間違えはしないよ……はあ……」
次こそは……! 俺は浮かれたり恥ずかしかったりする心を制御しようと頑張った。
俺の熱はなかなか冷めなかった。
ちらちらと見知らぬ男女から視線を感じる。通り過ぎざま鏡に映った顔は紅潮し、目が潤んでいた。
俺のようなイケメンの悩ましい表情は人の目を惹いてしまうらしい。顔を洗うべきだったけどすっかり失念してバスに乗る。
「はあ〜……。下の名前はなんというのだろう。知りたい、もっと……」
しまらない表情のまま、遅刻確定のバスの中で俺の頭は朝倉さんでいっぱいなのだった。
text next