誠人、入院する。 02 03



その日、誠人は久しぶりに佐原の研究所へ見たくもない顔を見に行った。

「何か、フェロモンが発動していないときにも変な効果が出てるんですけど」

何の研究なのか異臭を発している部屋に顔をしかめながらも、問い詰めるようにきり出す。
そう、誠人は至って平静な状態であるのに、なぜか相手が発情して絡まれることが一度ならずあった。これは忌々しき事態だ。
百歩譲ってゲイバーの人間はともかく、加西の様子は異常だった。
普段からフェロモンが滲み出て発情されるようになってしまったら、本格的に引きこもりっぱなしになるしかなくなる。今度こそ飢え死んでしまう。
この重大な問題に、佐原はあっけらかんとした表情でのたまった。

「それは興味深い。何度も言うけど、まだ試作段階だからね。僕にも分からないことはある。よし、その発情されたときの状況を事細かに――」

聞き終わる前に、誠人は無言で研究室を立ち去った。
あの男は駄目だ。
解毒剤のほうは「ぼちぼち進んでいる」ということだったが怪しいものだ。
が、そんな駄目な男にすがるしか方法がない現状が何とも物悲しかった。
今はどの方向に思考を持っていっても、憂鬱な気持ちしか生まれない。
とにかく金がない上に人と接するバイトはトラウマになりかけていて、特にゲイバーは魔窟のようなものだ。時給がいいから辞めたくはないが、リスクを考えるとシフトは減らさざるを得なかった。
実家に帰るのも怖いし、親友である悠でさえ奏のこともあって会いづらい。
そして何よりの頭痛の種はあの恐ろしい男、加西浩明だ。
ついおととい、あの男は散々好き放題ヤった後強制的に番号を控え、誠人を再び金づるにせんとしていた。
会うたび一万も取られたら、本当に路頭に迷う。加西は乱暴で絶倫で、身体への負担も大きいから、バイトにも差し障る。
今だって腰がだるくて、ふとしたときにあのときの感覚を思い出してしまって――。

「……っ」

誠人はぶんぶんと頭を振った。思い出してはいけない。危ないところだった。
でも、もし――、もしも。加西が金のやりとりなんてものを持ち出さなかったら、どうだっただろう。
一瞬そんなことが頭を過ぎって、誠人はすぐに溜息を吐いた。

「……やめよう」

ありえない、不毛な過程だ。今も昔も、加西にとって誠人は金づるでしかないのだから。
口に出したが最後、蹴飛ばされ鼻で笑われるのがオチだ。
とにかく電話がかかってきても、確固たる意思で無視しよう。そう決意し、本日のバイト先へ向かう途中のことだった。

「仁藤……?」

車の行き交う音に混じった呼ぶ声に、誠人は反射的に振り向き、すぐにそれを後悔した。
呼び止めてきたのは、かつて勤めていた居酒屋の店長――あの最初の悪夢の当事者だったのだ。
元から苦手だったが、今は顔を見るのも辛い。しかし店長はそんな誠人の気持ちとは裏腹に、何だか険しい表情を浮かべ大股で近寄ってくる。

「仁藤、バックレやがって。そんなんだからお前はダメ人間なんだよ」
「……それは、すみません」

嫌な記憶が蘇る叱責に、誠人は頬をひきつらせる。
確かに電話一本で辞めてシフトを放棄したのは常識のない行為だが、あんなことがあってはそうするしかなかった。
店長とて誠人の顔など見たくなかったと思うのだが。

「本当に、すみませんでした!」

いたたまれなくなって、誠人はがばっと頭を下げると、足早に逃げ出した。
彼に真実を説明する気にはなれなかった。
したところで全く信じずにバカにされるか、逆に散々責められて慰謝料でも請求されるか。そんなところだろう。正直もう関わりたくない。

「ちょっと待て、仁藤!」

しかし店長は、思いの外強い口調で呼び止め、追ってきた。
ちらりと振り返るとやけに必死な形相をしており、恐ろしくなって反射的に駆け出す。

「待てと言ってるだろう、おい!」
(うわああああああ……何? めっちゃ怖い!)

本気で加速しても、追いかける足音は消えることなく着いてくる。
この歳になって本気で追いかけっこすることになるなんて、わけがわからない。
とにかく撒かなくてはならないと、人通りの多い方へ向かう。
全力疾走する姿を通行人が訝しげに見てくるのが恥ずかしい。
必死に走っているといつの間にか駅に着いてしまって、そこで初めて足を止めて激しい息を整えた。
さすがにもう大丈夫だろう。
そう思ったとき。

「仁藤!」

肩で息をしながらこちらを睨みつけてくる店長の姿に、誠人は泣きたくなった。
混乱しながら反射的に足を一歩踏み出して――、その瞬間ああヤバイ、と思った。
目の前には、階段があったのだ。

「っうわああああ……!」

わけがわからないまま、誠人は意識を失った。





◆◇


目を開けると、見慣れぬ純白の天井が視界を埋め尽くしていた。
ここ最近こんなことばっかりだ。
人の気配はしない。起き上がろうと身じろいだ途端、身体のあちこちがずきりと痛んで、誠人は呻き声を上げた。
――そうだ、自分は店長に追われ、階段から転落してしまったのだ。
怪我の程度を知りたいが、痛みのせいで身体を動かすのが怖い。
不安に駆られていると、タイミングよくドアの開く音がした。

「あっ仁藤さん、目が覚めましたか。ご気分はどうですか?」
「あ、ええと、動くと痛いですけど、気分はそんなに悪くはないです」

身に纏った白衣でナースだと分かる若い女性が、顔を覗き込んでくる。
女の子に優しく声をかけられたのなんて久しぶりな気がすると、こんな状況にも関わらずちょっとテンションが上がる。

「痛みますか? 今鎮痛剤を点滴しているので、効いてくると思います。階段から落ちたなんて、災難ですね」

あの店長のことだ、誠人が落ちたのを見てさっさと逃げたのだろう。一人で勝手に階段から落ちたうっかり者だと思われているのだと、少し恥ずかしくなる。

「ありがとうございます。えっと、俺の怪我ってどういった…」
「はい、身体の方は打撲、捻挫、擦り傷で骨に異常はありませんでしたが、頭を打っていらっしゃるのでしばらく安静が必要です。今先生が……あ、来ました」

再びガラガラとドアの開く音がして、複数の人間が入ってきたのが分かった。
二人の男を視界に捉えた瞬間、にわかに緊張が走った。

「仁藤さん、気分はどうですか?」
「は、はい、大丈夫、です」

一人は眼鏡をかけた、いかにも知的な雰囲気のある医者。

「今、お父さんともお話しして、数日入院していただくことになりました。CTでは脳に異常はありませんでしたが、より精密な検査をいたしますので」
「入院、ですか」

医者は怪我の程度や検査のスケジュールなどを粛々と説明していったが、あまり頭に入ってはこなかった。

「――では、失礼します」
「何かあったら、すぐにそこのナースコールを押してくださいね」
「どうもありがとうございました」

医者とナースが出て行くと、必然的に部屋は二人きりの空間になる。

「誠人君、大丈夫か?」
「は、はい。仕事中なのに、迷惑かけてすみません…」

オーダーメイドのスーツが嫌味なほど似合う、四十にして人目を惹くような男前。
誠人の義理の父親、俊嗣(としつぐ)だ。

「迷惑だなんて言わないでくれ。家族だろう? 大丈夫、少し穴を開けただけで駄目になるような切羽詰った仕事はしていない」
「ありがと…。でも結局大した怪我じゃなかったみたいなのに、わざわざ来させちゃって」
「……君は、他人行儀なのは相変わらずだな。すまない、本当は母さんがよかっただろうが、生憎ちょうど出張中でね」

不意に困ったように笑われて、胸がずきりと痛む。
誠人は決して俊嗣のことが嫌いなわけではない。寛大な人格者で血の繋がっていない誠人にも優しく、尊敬していると言っていいくらいだ。
だけどその完璧なところが、息子として気安く接することの障害になってもいた。
今みたいに、意識していないと自然と敬語になって、かしこまった態度をとってしまう。

「そんなこと…。ただホントに、迷惑をかけたくないだけで」

言葉の途中で、俊嗣がそっと頬に触れてきた。
あたたかい指でくすぐったくなるくらい優しく撫でられ、誠人は恥ずかしくなってそわそわと視線を泳がせる。

「――少し、痩せたみたいだ。ちゃんと食べているのか?」
「そ、そうですか? 別に変わってないとおも……う」

鋭い俊嗣に、ぎくりとする。確かに今の生活は苦しく、食費を削っているのは事実だった。
できるだけ安くカロリーは摂るようにしているから、目に見えるほど痩せてはいないと思うのだが。

「そうか。でも困ったら、いつでも帰ってきてくれ。俺のことが嫌いでも、帰る家があることは忘れてほしくない」
「そんな、嫌いなわけない。ありがと…」

真摯に見つめてくる俊嗣に、胸がじーんとする。
これがもっと以前――忌まわしいフェロモンに侵される前だったら、格好悪いながら素直に戻っていたかもしれない。
だけど今は、尊敬する相手だからこそ帰るわけにはいかないのだ。それが悲しく感じられた。

「じゃあ、俺はそろそろ行くよ。困ったことがあったらすぐ連絡してくれ。着替えや日用品は、尚紀が持ってくると言っていたから」
「えっ…」

最後にまた困惑するような言葉を残して、俊嗣は出て行った。
そのすぐ後、ほぼ入れ替わるように一人入ってくる。

「尚紀……」

一つ下の義理の弟に、誠人は緊張を解くことができないまま、痛む身体をなんとか起こす。
尚紀は着替えなどが入っているのだろうバッグをサイドテーブルに置くと、丸椅子に座った。

「具合は?」
「大丈夫。あちこち打ったけど骨は無事みたいだし。悪かったな、わざわざ持ってこさせちゃって」
「別に、暇だったから」
「そっか、ありがとう」

そこで早くも会話が途切れた。誠人は笑みを引き攣らせて何を言うべきか考える。
尚紀は見た目は俊嗣によく似た男前で、少し癖のある黒髪をワックスでアレンジした髪型がよく似合っている。
元々誠人より背は高かったが、久しぶりに会ったら高校生には見えないほどより大人っぽくなっていて、気後れしてしまいそうだ。
それでなくても誠人はこの義弟が少し苦手だった。
高校ではイケメンとして悠に劣らないくらいくらい有名で、二人が似ているなんていう声もあった。
確かに、顔が良くて背が高く、成績もよくて……とスペックが高いところは共通しているが、性格や纏う空気は全く違うと誠人は思う。
悠とは不思議と自然体で付き合える。男としての差を思い知らされても、悠の彼女にみそっかす扱いされても、一緒にいるとああこいつはいい奴だ、こいつが好きだ、と思わされてしまうのだ。それこそ特別なフェロモンでも出ているのかというほど。もちろん誠人のそれと違って天然のだ。
一方尚紀は口数が多くなく、父である俊嗣にも飄々とした態度をとっていて、何を考えているのか全くと言っていいほど分からない。
誠人に対しては敵意を向けるでもなく、と言ってさほど仲良くするでもなく。必要なときには言葉を交わし、たまに嫌味を言ってきたり――要するにあまり興味がないのだろうと思う。

「――え、っと。着替えに、洗面用具に……。これだけあれば十分だな。助かったよ」

包帯の巻かれた手でぎこちなくバッグの中身をチェックし、誠人は頭を下げた。
こんなところで仲良くもない義兄と向き合っていてもつまらないだろうに、いつまでもいてもらっては申し訳がないし気まずい。
なのに尚紀は出て行こうとはせず、気だるげに口を開いた。

「今日着てた服は? 下着とか、洗濯物は俺がやることになった」
「え、悪いからいいって。入院って言っても数日らしいし、溜めといて持って帰るよ」
「父さんに様子見もかねて行けって言われてるから。母さんも出張で帰ってこられないけど心配してたし」

気持ちは嬉しいが、内心面倒だろうにと思う。尚紀は無表情だから分からないが、高校生の放課後の時間を奪うのは忍びない。

「でも、もう三年だし勉強とか色々忙しいだろ? 何だったら他の奴にやらせるし」
「……他? 彼女とか?」
「いや。ほら、野崎悠って知ってるよな? 今でも結構仲いいから」

実際には悠にもやらせる気などなかったがそう言うと、尚紀の無表情が少し崩れて眉を顰められる。

「……野崎先輩か。あの人も忙しいんじゃない。いい歳して友達とべったりって、幼稚な感じがするな」
「……」

浮かべていた笑みが露骨にひきつった。
尚紀はたまにこういう嫌味を言う。しっかりしている彼にとっては、受験に失敗して定職にも就かずふらふらしているような義兄に苛立つところがあるのだろう。
べったりなつもりはないが確かに悠には家族より頼っているところがあるので、見当はずれとも言い切れない。

「そう、だな…。じゃあ悪いけど頼む。でも本当に暇なときでいいから」
「わかった」

誠人は密かに溜息を吐いた。本当は洗濯物自体は至極どうでもいい。
考えなければならない問題は、他にいくつもあるのだ。

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