誠人、チラシを配る。 02 03



憂鬱だ。
ここのところ、そう感じずにいられる日は皆無と言っていいほどだった。
だが今日はまた一段と心がざわつき、気が重くて仕方ない。

「よろしくお願いしまーす」

道行くサラリーマンにチラシを差し出すもあっさりと無視され、誠人は何度目かわからない溜息を吐いた。
本日のバイトはチラシ配りだ。今まであれこれ考えて仕事内容を選んできたものの上手くいったためしがなかったため、今回のバイトは何も考えず決めたのだが、中々さばけないチラシの山を前にして憂鬱な気分が増す。

何が憂鬱って、一つはそろそろフェロモン発生の周期が来そうだということ。
そしてもう一つは、バイトが終わった後、あの日以来の伊勢と会う約束があるということだった。

伊勢に会うのが嫌だとか、伊勢が嫌いだとか、そんな単純な問題じゃない。
思い出すのも恥ずかしいが、あの時はフェロモンの効果が出ていなかったにも関わらず、異様に感じてしまった。
伊勢の方は……本心は分からないが、悪く思われていることはないだろう。
あの後、茫然自失状態だった誠人に、伊勢は

『次、いつ会える……?』

とゾクゾクするような熱っぽい声で囁いてきた。
個室の外の荒い息遣いが恐ろしく、伊勢にすがりついていた誠人の背をゆっくりと撫でながら。
断れるような雰囲気ではなく、半ば無意識のうちに今日会う約束をとりつけられてしまった。
いや、どちらにしろ断るという選択肢はなかったはずだ。
フェロモン体質が治るまでのセックスの相手として、伊勢は全てにおいてもったいないくらいの男と言えるのだから。
……が、そう簡単に割り切れるほど開き直れてはいなかった。

何せ伊勢と会うということは、とんでもない醜態を自ら晒しに行くという意味に等しいのだ。
恥ずかしいだのと言う前に、人としてどうなんだという次元の話だ。
今までの経験からして、最中に引かれるということはなさそうだが、正気に戻ったときにどうなるか。
いくら伊勢でも、ドン引きされてしまうかもしれない。
想像すると、頭を掻き毟りたくなるほどいたたまれない気分になる。

「はぁ……」

つい溜息が漏れた。辛気臭いオーラが漂っているのがいけないのか、チラシの減りは相変わらず遅々としている。
進路を遮るようにして無理矢理渡そうとするも鬱陶しそうに舌打ちされて、地味にダメージが溜まっていく。
あまり自分向きのバイトではなかったと後悔してももう遅い。

「お願いし……?」

さりげなく二枚重ねて配ろうとしたところで、誠人は突然手首を掴まれた。

「すみません! って、あの?」

一瞬上司に見咎められたのかと思って焦ったが、手首を握る男に見覚えはなかった。
が、いっそ上司であったほうがましだったかもしれないとすぐに思い直す。
男は30歳くらいだろうか、長身でガタイもよく、何だか目が血走っているように見える。
はっきり言って怖い。

「な、なんですか? えーと、チラシならいくらでも余ってますが……」
「んなもんいるかよ。なあ、お前、aliveのトイレに篭ってた奴だろ?」
「なっ……」

生温かい息で囁かれ、さっと血の気が引く。
aliveというのは、紛れもなくあのとき伊勢と入った店の名だった。
そしてトイレ……思い出すだけで変な汗が出てくる。
呆然としている誠人の手首を、男は強引に引っ張ってきた。

「ちょっとこっち、来いよ」
「まっ、困ります! 今バイト中なので」
「あァ? ならお前がトイレに篭ってエロいことする変態だって、今ここで叫んでやろうか?」
「んなっ……」

そんなことを言われては、そうそう抵抗などできなかった。
切羽詰ったような早足の男に連れられ、あっという間に人目につきにくい路地裏に引っ張りこまれてしまう。
不安に頬を引きつらせていると、いきなり首筋にむしゃぶりつかれた。

「ひゃぁっ……何するんですか!」
「うるせえ! この淫乱がっ……あんなところでアンアン喘ぎまくって、人を誘いやがって!」
「なっ……あ、あのときはっ」
「チ○ポで乳首ずりずりされてイったんだろ? その後、この太ももでチ○ポしごいてやって、いやらしく腰ふりながらザーメンぶっかけられたんだろうっ?」
「はぁっ……んっん……」

男は興奮した様子で、太ももを荒々しく撫で回してきた。
どうやらこの男は、あのとき外にいた数人のうちの一人らしい。
誠人に覚えはなかったが、この男は誠人の顔も、あのときのいやらしい言葉の数々も、しっかり覚えているようだった。
かああっと頬が熱くなる。

「や、やめてください、こんなところで、人に見られちゃいます……」
「何言ってやがる、そういうのが興奮するから、わざわざ店のトイレなんかでエロいことしたんだろうが! 本当は見てほしいんだろ? 何なら観客呼ぼうか?」
「い、嫌だ……ぁんっ」

耳に舌を出し入れされ、卑猥な声が出てしまうと、男の息が更に荒くなる。
非常に困った。今逃げたら逆上されて、本当に公衆の面前でバラされてしまうかもしれない。
こんな、実家とそう離れてもいない駅でそんな醜聞が広まったら、たとえ身に覚えがないことでも出歩けなくなってしまう。
実際には身に覚えがありまくるだけに、余計にだ。
誠人はどうしたらいいか分からず、涙目で男を見上げた。

「――ま、まあ、大人しくしてれば悪いようにはしねェよ。なぁ、ほらっ」
「アァッ! ふぅっん……」

ゴリゴリッと、すでに硬く勃起した肉棒を誠人の股間に押し付けられた。
男のジーンズの前は窮屈そうに盛り上がっており、実物が見えなくともその巨大さが分かる。
きゅううっと、身体の奥が疼いた。

(!? もしかして、フェロモンの効果が……)

誠人は快感をやり過ごすように、痛いほど自分の手の甲を噛んだ。
まだ理性はしっかりしているから本格的な波は来ていないようだが、ここでもしあの状態になってしまったら。
状況なんて考える余裕もなく、ただ快楽を求めて喘ぎまくってしまうだろう。
そうなったら本当に、不特定多数に見られてしまう。どうしようもない自分の痴態を。

「いっやだぁ、やめろっ……はっあぁあっ」
「はぁっはぁっ……た、たまんねえ……! あのときから、てめえをぐちゃぐちゃに犯すことを考えて何度もシコったんだ」
「ンっ、んんっ」

男は盛った獣のように荒々しく、執拗に勃起をこすりつけてくる。
人の声や足音がすぐ近くに感じられるこんな場所だというのに、セックスをしているようないやらしい動きに、否応無しに身体が火照ってしまう。
必死に声を抑える誠人の姿に更に興奮を煽られたのか、男はもどかしげにファスナーを下ろした。

「ほらっ、チ○ポ好きだろ……?」
「や、……っ」

ジーンズの中から、勢いよく男の肉棒が飛び出した。赤黒くカリの張ったそれはすでに先端を先走りで光らせ、はちきれんばかりだ。
手をとられ無理矢理握らされると、それはビクビクと震え一層硬さを増し、男が気持ちよさそうな息を吐く。

「っ、エロい目で見てんじゃねぇよ。シゴけ」
「……っ」

今すぐ逃げ出したい。だけど後ろ暗いことがある上こんな状況では、うかつに逃げることもできない。
誠人は己の不運を嘆いた。これまでの人生ではゲイに、ついでに女性にもろくに好かれたことなどなかったというのに、何でよりによってそんな自分に欲情する奇特な人間に弱みを握られ、こんな日にこんな場所で遭遇してしまうのだろう。

「はぁっ……あーっ、いい……」

男は誠人の手の上から自身の手を重ね、肉棒をしごき始めた。
獣のような息が顔や首筋にかかって誠人は身をよじるが、逃れることはできず、男に片手で尻を掴まれ、余計密着する体勢になってしまう。
ぎゅむぎゅむっと荒々しく尻を揉まれると、膝の力が抜けてくる。
肉棒からはどんどん先走りが溢れ誠人の指を濡らし、しごくたびに卑猥な音が聴覚を刺激する。

「なあ、お前も脱げよ。気持ちよくしてやるぞ……」
「い、いや、勘弁してくださいっ」
「何、ここじゃ本番まではしねェよ。腰くねらせやがって、お前もしてほしいんだろうがっ」

火照っていた顔がひきつったのが分かった。
ここじゃ本番はしないということは、他の場所でやる気満々という風に聞こえる。
それはいったん横に置いておくとしても、こんな場所で下半身を晒すだなんて、本物の変態、露出狂になってしまう。
道行くサラリーマンやガテン系、弟と同じ年頃の学生にまで、男に弄られて感じている変態な姿を見られてしまう。

「……っ、や、やだ、はぁっ……」
「う、うそつけ、エロ顔してるぜ。見られるの想像して興奮してるんだろ、この淫乱っ!」
「いやだ、ホントにっ、はっ、ぅんっ」

きっぱりと否定できない自分が情けない。
男の汗ばんだ指がファスナーに触れるのを、誠人はろくに抵抗できず眺めていた。
が、その時。

「おい」

男のものとは違う低い声が、狭い路地に響いた。

通行人に見つかってしまったのかと血の気が引いたのは一瞬のことで、次の瞬間には男が吹っ飛ばされていた。

「んなっ……」

吹っ飛ばされてダウンしている男から恐る恐る視線を移して、誠人は絶句した。
そこには、鬼のような形相でこぶしを握る誠人の天敵、加西浩明が立っていたのだ。

「――てめえ、何やってんだ」
「ひっ……」

地を這うような声音に、誠人は本気で生命の危機を感じた。
何せ、顔を合わせるのはあの日、シャワーを浴びていた加西から逃げたとき以来なのだ。何をされるか分かったものではない。
あの男など、加西と繋がりはなさそうにも関わらず、もの凄く痛そうな音と共に殴られ倒れている。
さすがにこんな人目につきかねない場所で殺人はないと思いたいが、ただでは済まないことは分かりきっている。

「ご、ごめんなさい! 謝って済む問題じゃないとは分かってますが、実はあれには深い理由が」
「来い」
「えっ? うわっ」

弁明など聞く余地なしとばかりに、加西は誠人の腕を強引に引っ張った。
今日はよく引っ張られる日だ、などとどうでもいいことを考えている場合ではない。
これはつまり、流石に人目につきかねない場所で殺人はしないと判断した結果、思う存分ボコボコにできるところへ連れて行こうということではないだろうか。

ピンチだ。

「一体どこへ」
「黙れ」
「すみません」

有無を言わさぬ凄みを感じて、誠人は半ば諦めの境地へ達した。
腕を掴む力は非常に強く、簡単には振りほどけそうもない。最早痛みを訴える勇気すら誠人にはなかった。
引きずられるまま歩くと、いつしか駅前の大通りからは何本か隔てた、あまり治安のよろしくない通りに来ていた。

「……」

いよいよ危険な香りがしてきて、誠人は涙が出そうになるのを何とか堪えた。
と、とうとう加西が歩調を緩め、通りの中では比較的大きな建物の中に入った。
見た目から、そっちの筋の人の事務所とか、廃ビルとか、そういった危険な類の臭いはしない。
加西がタッチパネルで部屋を選択し――。

「……え?」

よく分からないうちに部屋に押し込められ、誠人は首を傾げる。
部屋には液晶テレビや冷蔵庫にクローゼット、トイレや風呂に続くと思われるいくつかのドアがあり、何より大きなダブルベッドがどんと置かれている。
どう見ても、ホテルだ。
加西は無言のまま誠人を洗面所まで引きずると、右手を差し出させ勢いよく水を出した。

「えっと」
「汚ェ手をさっさと洗え」
「は、はあ」

もし加西でなかったなら、親切心でやってくれたのだと受け取れていたかもしれない。
しかし現実には目の前の男は加西に他ならないのだ。
男のナニを握らされていたせいで、嫌な臭いがしていたのかもしれない。
そう思い至って、誠人は慌ててハンドソープを泡立て、しっかりと手を洗った。

「……で、あの」

水を止め、恐る恐る言葉を発した瞬間、衝撃とともに視界が大きく揺らいだ。

「いっ……」

床に背中をしたたかに打ちつけられ、痛みに呻く。
頭をぶつけたら危なかった、なんて文句を言える状況ではなかった。
加西が、倒れた誠人に馬乗りになって、恐ろしい顔で見下ろしてきているのだから。

「てめえ、あんなところで何やってやがったんだ」
「ひぃっ、ごっ、ごめんなさいっ!」

あまりの恐怖に、裏返った声で必死に謝ることしかできない。

「あァ? 合意の上で男のチ○ポシコってたってのか、この淫乱が!」
「いやあのっ、本当にすみません! ごめんなさい!」

怒りをぶつけるように、誠人の身体を押さえこむ力が強くなり、腕にぎりぎりと痛みが走る。
加西が何を言っているのかなんて、ろくに頭に入ってこなかった。
この状況じゃ逃げようがない。本当のことを話して言い訳しなければ、五体満足じゃいられなくなるかもしれない。

「実は俺、変な薬を飲まされたせいで、ひどい体質になってしまったんです!」

フェロモン体質になってから実に一ヶ月以上、それは初めての告白だった。
正直加西相手には何より恐怖が勝って、できることなら伝えずに逃げ切ろうと思っていたのだが、こうなってしまったからには仕方がない。

「あのとき俺も先輩もおかしくなってしまったのは、全部その薬によるフェロモン体質のせいなんです。話せば長いのですが、俺の家の近くにおかしな科学者がいて……」

いつ逆鱗に触れるかもしれないとビクビクしつつ、誠人は洗いざらいをまくし立てた。
多少自分に都合よく、佐原に責任を押し付けるような口ぶりになった部分もあったが、この場の身の安全のためだと心中で言い訳しながら。
加西は懸念したような暴力や怒声を向けてくることはなく、ただ誠人の拘束は解かないまま黙って聞いていた。

「――というわけで、本当に申し訳なく思ってます。……で、できれるなら賠償金を払いたいくらいなんですが、今本当に貧乏で……」

何とかそこまで言い終えたころには、心身ともにどっと疲れきってしまっていた。
馬鹿げた話を信じてもらえるか否か。どちらにせよ今度こそ全財産搾り取られて、もしかしたら借金でも負わされるかもしれないと、嫌な想像が頭を巡る。
目を見る勇気がなくて視線をさ迷わせていると、ようやく加西が口を開いた。

「――確かにあのとき、俺もお前も明らかに普通じゃなかったな」
「はい、そうなんです! あのときはまだ薬飲んだばかりで、まさかあんな最悪なタイミングで効果が出るとは予想もできなくて」
「で? 今の今まで俺になんのケジメもなく、さっきみたいにフェロモンとやらの効果を抑えるために男を咥え込んでやがったのか」
「は……」

ギラギラとした目で睨まれながら言われ、話の雲行きが怪しくなったことに誠人の頬が引きつった。
ケジメという単語でまっさきに思い浮かんだのは、ドスで小指を詰めさせられる自分の姿だった。

「ひぃっごめんなさい!」
「馬鹿の一つ覚えみたいに謝ってんじゃねえよ。俺にやったときみたいに自分からエロいキスとフェラで誘って、男にチ○ポ突っ込まれたかのかって聞いてんだよ!」

凄みのある怒声に、びくっと身体が震える。
そうだ、失念しかけていたが、加西はゲイ自体に嫌悪感を持っているらしかったのだ。
悠との仲を邪推され『気持ち悪いホモ野郎』と罵られた苦い過去が思い出される。

「どうなんだ? それともいつもはあの優等生君とヤリまくりだから問題ないってか?」
「違います! 悠はそんなんじゃないし、その……」
「ならやっぱりその場にいた男のチ○ポを見境なく咥え込んでたのか。俺はたまたまそのうちの一人だったってわけか」
「ちが……」

まさにその通りだったのだが、馬鹿正直にそうですと言える空気ではなかった。
責められることは覚悟していたが、今の加西が何にそこまで怒っているのかよく分からない。分からないから恐ろしい。

「……ええと、あの状態になったら、オナニーで切り抜ける努力をしてます……」

口からでまかせを言うと、加西がぴくりと反応した。

「へえ? 見境なく俺に乗っかってきたような状態で、シコるだけで我慢できるとは思えないがな」
「まあ……、あのときよりは多少正気を保てるようになったし、普通のオナニーじゃなくて、こう、すごいので」

最早自分でも何を言っているのか分からない。
嘘に嘘を重ねてもろくなことにはならないと、頭では分かっていたはずなのに。

「――じゃあ、そのすごいオナニーとやらを今ここでやってみせろよ」

獣のような獰猛な表情でそう言った加西に、誠人が逆らえるはずもなかった。

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