誠人、ゲイバーに埋もれる。 02 03
目が覚めると、誠人は部屋に独りだった。
精液や汗でドロドロの身体が、否が応にも先刻の記憶を引きずり出す。
奏の姿はない。誠人が気を失っている間に帰ったのだろう。
正気を取り戻した彼があの狂乱にどれだけ愕然としたか、どんな気持ちでこの部屋を後にしたのか。
想像しただけで血の気が引いて最悪の気分になる。
考えてみれば原因を知っていて不可抗力だと自分に言い訳できる誠人よりも、彼の方が精神的ダメージはずっと大きいのではないだろうか。
ここにきて最大の被害者だと自認していた誠人自身が加害者になってしまっている事実がより重くのしかかってくる。
誠人は立派な人間ではないが、それだけに人様に恨まれるようなことはしないよう努めて生きてきた。それが今ではどうだ。
彼らには真実を話すべきなのかもしれない。容易に信じてはもらえないだろうし、顔を合わせるのはものすごく気が重いが、それでも。
とはいえ、会いに行って万が一またフェロモンの効果が発動してしまっては本末転倒だ。
そろそろ根本的な対処法を考えなくてはならないのだろう。
誠人は頭を抱えて悩んだ。
悩んで悩み通した末出た結論は、苦渋の決断と呼ぶべきものだった。
◆◇
「いらっしゃいませ」
緊張に汗を滲ませながら足を踏み入れたその店は、想像していたよりも普通で落ち着いた雰囲気だった。
オレンジ系の照明に、カウンター席とテーブル席がいくつか。小洒落た内装を見る限りはその辺のバーと何ら変わりない。
店員も穏和そうな雰囲気の青年で、誠人は少し安心して肩の力を抜いた。
「すみません、バイトの面接に来たんですけど……」
「ああ、仁藤さんか。こちらへどうぞ」
ネットで色々と調べた結果、誠人は比較的近場にあったこの店に目をつけた。
履歴書を差し出して席に着くと簡単な面接が始まる。
ごく普通の質疑応答が続いた後、店長は不意に核心を突いてきた。
「君、ゲイは大丈夫? 言い寄られてもあしらえる?」
「だ、大丈夫です。頑張ります」
一瞬怯みそうになったが、なんとか笑顔を作って肯定してみせた。何せそれが目的でここに来たと言って差し支えないのだから。
「頼もしいな。じゃ、よろしく」
「よろしくお願いします!」
店長はどうやら適当な性分らしく、誠人の採用はあっさりと決まった。
にもかかわらず誠人の心中は複雑で、素直に喜ぶ気分にはとてもなれそうにない。
何故ならここはゲイバーと呼ばれるたぐいの店であり、誠人はここで自分の相手をしてくれる男を探さなくてはならないのだから。
あのフェロモンの効果は忌々しいほど強烈だ。だからといって貧しい身の上、ずっと引きこもっているわけにもいかない。
今までの記憶を辿って客観的に考えると、周囲に男がいない状態で理性を失った場合、無差別に探し回って襲ってしまう危険性が高い。
認めたくはないが、これ以上他人にトラウマを植え付け恨まれるのを防ぐためには必要なのだ。合意の上で誠人の欲望を受け入れ、セックスしてくれる相手が。
そんな事情で、誠人はゲイの集まる場で生活費を稼ぎつつ相手を探す計画を立てた。
まず重要な条件は、できるだけいつでも会える相手であること。いくら付き合ってくれても肝心なときにいなくては意味がないのだから最重要と言っていい。
これについては雇い主であり同僚である店長が一番都合がいいのだが、さりげなく好みを聞いてみたところ
『マッチョで坊主頭』
と即答されてしまったので誠人など向こうから願い下げだろう。
というわけで次の条件は、誠人を守備範囲内として見られる相手であること。
これは難しいかもしれないと思ったが、ちらりと見たところ客やカップルのタイプは結構多様で、これなら誠人でもいいという男もいるかもしれないと前向きになることにした。
その他の条件としては、後くされなく付き合えること。
こちらの目的はつまるところ性欲処理に他ならないのだ。相手もそういうノリであったほうがやりやすいだろう。
あとはできれば、まともな人間性であること。
普通の付き合いであればここが重要なところだが、多くは望むまい。
とにかく都合のいい男を見つけるというしょうもない動機で、誠人のゲイバーでのバイト生活が始まった。
居酒屋でのバイト経験もあり、やたら種類の多い酒の名を覚えるのが大変なくらいで基本的な仕事はなんとかこなすことができそうだ。
店長はいい加減なりに最低限の秩序は重んじているらしく、店内の様子も存外落ち着いていた。
それでもやはり普通の飲み屋とは大分雰囲気が違う。
ドスの効いた声でオネエ言葉を話すマッチョもいれば、付き合い初めのバカップルの空気を醸し出す男二人連れもいる。
しかし最近のとんでもない出来事のせいで免疫ができたからなのか何なのか、彼らに驚かされることはあっても嫌悪感を覚えることはあまりなかった。
あまり、としか言えないのは、
「君、若くてイイねえ。一万でどう?」
などと酔っ払いった中年に持ちかけられることがあったからだ。
正直に言えば相手としては都合がよかったのかもしれないが、一万円という単語にぴくりとも心が動かされなかったとは言えないが、しかし。
「うちで売買春の取引はご法度」
ということらしく、誠人が返答するまでもなく店長がその客を追い出した。
「ところで君、一万円のところでちょっと目が輝かなかった?」
「き、気のせいですよ」
とにもかくにも、バイト中に男を探すと言うのは案外難しいものだった。
何せ客と店員という立場上無闇に誘うことはできない。
向こうにその気がなくむしろ嫌がられた場合、クレームがついてクビになる危険性もある。
まともな相手がさりげなく誘ってくれれば手っ取り早いのだが、そんな上手い話はあるまい――と考えていた矢先、誠人は大学生風の若い客の視線に気がついた。
注文だろうかと思いつつ軽く会釈してみると、男は慌てたように視線をそらしてしまった。
もしかして興味をもたれたのだろうか。
見たところ年齢はそう変わらない感じだし、顔立ちや服装も小綺麗で好感の持てるタイプだ。
まあこんな風に上から目線で寸評してみたところで、向こうに相手にされなければどうしようもない。
溜息を吐いてテーブルを拭いていると、男からオーダーの声がかかった。
「はい」
「すみません、おすすめのカクテルありますか?あまり強くないので、飲みやすいやつ」
少し緊張した面もちで聞かれ、誠人は男の持つメニューを覗き込む。
「それでしたらせっかくですので、こちらの当店オリジナルカクテルはいかがでしょう。柑橘系のリキュールを使っているのですが甘すぎず、さっぱりしていて飲みやすいですよ」
「じゃあ、それお願いします」
「かしこまりました」
店長猿真似の口上だったがうまく勧められたようだ。
些細な達成感を抱きつつメニューから顔を上げると、男と至近距離で目が合った。
視線が絡みつく。これに深い意味があるのか、免疫のない誠人には判然としない。
だが微かに目元を染めて意味ありげに見つめてくる男の態度が普通と違うことくらいは分かる。
一瞬の奇妙な沈黙の後、男はばつが悪そうに笑ってみせた。
「あ、すみません。俺こういう店は初めてで少し緊張しちゃって」
その一言だけで誠人は男に親近感を抱いた。
「いや、そんなことないですよ。実は俺もバイト始めたばかりで、まだ何もわからないんです」
「そっか、そうなんだ。なんだかほっとしたよ」
「同感です」
話してみると男は第一印象どおりの好青年だった。
オーダーを伝えに戻った背中にも視線を感じて、なんだかむず痒い気分になる。
「あーいうのがタイプ?」
「い、いきなりなんですか」
酒を作る手を動かしながら、店長は意味深な笑みを浮かべて唐突に聞いてきた。
「初めて見る顔だけど結構なイケメンだね。俺の趣味じゃないけど。仲良くなっても店でエロいことしたら駄目だよ。はい」
「んなこと、するわけないじゃないですか」
「いやあ、ああいう爽やかに見えるタイプは意外と……」
フフフと笑ってよからぬことを想像しているらしい店長にはそれ以上構わず、誠人は男へカクテルを運んだ。
正直なところ半分図星だったので逃げたとも言える。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
にこりと微笑まれて少し複雑な気分になる。
この爽やかな男が誠人を誘って、あまつさえいやらしいことを積極的にするなんて想像できない。
一瞬でもちょっと自分に気があるかも、なんて思ったのがかなり自意識過剰なことに思えてきて、恥ずかしくなってくる。
結果誠人は頬を赤らめ、意識していますと言わんばかりにばっと視線を逸らした。
「……ごゆっくりどうぞ」
そう言ってそそくさと踵を返そうとしたとき、男は誠人の手を掴んできた。
「はっ、はいっ?」
「あのさ……」
にわかに緊張が走る。
男は逡巡するしぐさを見せたあと、こちらを見据えて口を開いた。
「もしよかったら、今度一緒に飲まない? 歳も近いし、君と客と従業員としてではなく話してみたい」
待ち望んでいたはずの誘いに、誠人はごくりと唾を飲み込んだ。
◆◇
二日後、誠人は伊勢と名乗った男に指定された店で飲むことになった。
バイト先では店長の目もあり話しづらかったので、伊勢の誘いは都合がよかった。
待ち合わせ場所に着くと間もなく伊勢もやってきて、少し緊張してくる。
「ごめん、待った?」
「いえ、今来たところです」
「そう、よかった」
相変わらず爽やかに笑う伊勢にこの会話、まるで初めてのデートのようだ。
いや、実際にデートといっていいのだろうか。未だに伊勢の真意は掴みかねているので何とも言えないが、元来そっちの気はない誠人としては何とも複雑な気分だった。
「ここだ。ちょっと暗いから足元気をつけて」
「はい」
その店は伊勢の言うとおり薄暗く、煙草のせいなのか空気がよどんでいた。
バイト先と比べるとより「らしい」店だなという印象を受ける。
実際入店した途端値踏みするような視線をあちこちから向けられ、面食らってしまう。
案内されて席についても、その視線は相変わらずまとわりついてくるようで落ち着かない。
「何飲む?」
「じゃあ……、アイスティーを」
「分かった。酒は苦手?」
「一応未成年なので……。家でなら飲んだことあるんですが、弱いんです」
声を落として言うと伊勢はそっかと少し微笑んで、店員に手早くオーダーを伝えた。
「俺も弱いんだよ。ジュースみたいなカクテルじゃないと駄目なんだ。飲み会だと一杯目は勝手にビール頼まれたりするから困るんだよね」
「あ、分かります。ビールってめちゃくちゃ苦いのに、何でみんなあんな美味しそうに飲むんですかね。俺もジュースみたいなのなら飲めるんだけど」
「そうそう。でもカシスオレンジがいいとか言おうもんなら『お前は女子か!』って馬鹿にされて、焼酎のボトル空けるの付き合わされてさ。いつも潰される」
「うわ、大変そうですね……」
他愛のない会話で、ここがどこか失念しそうになるほど和やかな時間が流れる。
伊勢はやはり気さくで人好きのする好青年だ。違う場所で出会っていたなら是非友達になってほしいと思っていただろう。
しかし忘れてはならない。誠人が伊勢に望む関係は、友達は友達でもセックスしてくれる友達、通称セフレというやつなのだ。
ここへ来る前から決めていた。たとえ引かれようと軽蔑されようと、言い出しづらくなる前にさっさと本題を切り出してしまおうと。
「――ところで伊勢さんはその、ぶっちゃけ男に興味ってありますか?」
「……え?」
話の流れを完全に無視して突如切り出した誠人に、伊勢は案の定面食らった表情でこちらを凝視してきた。
正直とても恥ずかしいしいたたまれない。しかしここまできたら引き下がることもできない。
「俺は実は、え、エッチしてくれる人を探すためにあそこでバイト始めたんです! 一回きりじゃなくて、定期的に、できるだけたくさん、その……」
「ま、誠人君、ちょっと落ち着いて」
「え……、あ」
伊勢の目配せに気づいて視線をずらすと、隣のテーブルの客と思い切り目があってしまった。
聞かれてしまったらしい。羞恥心でかーっと頬が赤くなり、誠人はいたたまれなさをごまかす様にアイスティーの入ったグラスをストローでかき混ぜた。
「す、すみません」
「いや、いいよ。それより……」
気をつかってくれたのか、伊勢は変わらない微笑を浮かべて話を逸らした。
それはありがたかったが、全く反応なしということは伊勢にその気はさらさらなかったのか、と考えると別の意味で恥ずかしくなる。
勝手に両思いだと勘違いしてノリノリで告白して大玉砕した勘違い男のような気分だ。
……いや、まさにそれそのものなのか。
ともあれ『興味がないなら思わせぶりな態度取らないで!』などという捨て台詞を吐いて立ち去るわけにもいかず、誠人は開き直ってこの時間を楽しむよう努めた。
彼ならいずれは色々と相談できる友人になってくれるかもしれない。
そう思って接してみると伊勢との会話は楽しくて、気づくと酒の弱い伊勢が何杯かグラスを空けるほどの時間が経っていた。
「すみません、ちょっとトイレ行ってきます」
「――行ってらっしゃい」
本来の目的は半ば忘れかけていた誠人は、いい気分でトイレに立った。
text next