誠人、サクラになる。 02 03
ぼんやり目を開けると白い壁が見えた。自室の木目の天井とは明らかに違うことに、まず違和感を覚える。
次に、いつもよりベッドと布団がふかふかで気持ちいいことに気づいた。
身体を起こすと案の定そこは見たことのない部屋で、ご丁寧に見たことがないシャツまで着せられている。
誠人は必死に記憶を手繰り寄せた。
――そうだ。昨日、誠人は憧れていた部長とその部下に犯された。信じられないほどぐちゃぐちゃにされて、最後の方はほとんど意識もあいまいになって――。
「起きたか」
不意に声をかけられ、誠人はびくりと震えた。
「どっ、どうして……」
声の主はあの、嫌味なエリートサラリーマンだった。
ここはこの男の家なのだろうか。清潔で無機質な部屋は、確かにいかにもこの男らしかった。
そういえば最後にこの顔を見た記憶が、おぼろげに残っている。
だけど意識のないうちにわざわざここに連れてこられた理由は見当がつかない。
「今は大切な取引を控えている。警察に駆け込まれると少々やっかいだった」
そういう理由か、と内心複雑な気分になる。まさか助けてやった、なんて言葉が返ってくるとも思っていなかったが。
この男に知られたのは屈辱だが、もう開き直るしかないだろう。
「安心してください。警察に行く気は全くありません」
何せあれは全てフェロモンのせいなのだ。彼らが悪いわけではない。
何より、あんなことを根掘り葉掘り聞かれるなんて到底耐えられない。考えただけでぞっとする。
「――まさか、あれは合意の上だったのか。部長を誘惑したのか」
「ちが……いや、それは……」
軽蔑するような声音に、反射的に違うと即答しようとして、しかし誠人は口ごもる。
誠人が気を失った後のことは分からないが、いずれにせよこの男は相手が前田だと確信を持っているらしい。
そしてあんなことになってしまっても、誠人にとっての普段の前田はやはり尊敬するべき男だった。
どうせもうあのビルで働く気はないし、ここを出ればこの男と会うことも二度とないだろう。
それならば前田の名誉のためにも事を荒立てないためにも、合意だと思わせたほうがいいのではないか。
「――あーそうです、合意でした。というか俺が誘ったんです。その、あの人が好きで、一度だけでいいからって、っ……」
言い終わる前に、男の手が誠人の頬を張った。
「最低だな、君は。人格者である部長があのようなことをするのは、おかしいと思っていたが……」
「……すみません」
どうやら目論見通りになったとはいえ、ここまでの扱いを受けるのは理不尽な気がする。やはりこの男は嫌いだ。
とにかくこれ以上凹まされる前にさっさと帰ろう。
そう思ったとき。
「――兄さん、入るよ? ……って、誠人?」
「……っ、悠!?」
部屋の入り口に、あまりに予想外の人間が立っていた。
「悠、勝手に入るな。……こいつと知り合いなのか」
男がぎろりと睨んでくる。
悠――間違えようがなく、そこにいるのは見慣れた友人だ。
しかも、呼び方からしてどうやら二人は兄弟であるらしい。にわかには信じられない。
「ノックはしたけど出なかったから。誠人は俺の友達だよ。……誠人、どうして兄さんのところに?」
悠の問いに、一瞬にして背筋が凍るような心地がし、嫌な汗が出てくる。
まずい、非常にまずい。悠にだけは、この数少ない優しい友人だけには、あんなことは知られたくない。
言葉に詰まっていると、男の方が先に口を開いた。
「昨日、俺の会社でこの清掃員が倒れていたんだ。もう深夜で他にほとんど人がいなかったから、仕方なく連れて帰った」
嘘ではないがとりあえず真実は隠された物言いに、誠人は胸をなで下ろす。
「そうなのか、誠人」
「あ、ああ、ちょうど今帰るところだったんだ。……本当に、ご迷惑をおかけしました」
内心ばらされたらどうしようと気が気ではなかったが、今のところその気はないらしい。
誠人は男に頭を下げた。
「――もういい。さっさと出て行け」
「はいっ……」
「病人にそんな言い方はないだろ。誠人、顔色が悪いよ。俺も渡すものがあって来ただけだから、途中まで一緒に帰ろう」
「あ、ああ、ありがとう」
高校のときのように優しく気遣ってくれる悠に、ひきつってはいたがなんとか笑ってみせることができた。
「本当にありがとうございました」
男に今一度頭を下げたが、彼はもう見たくもないというように手元の本に視線を落としていて、返事はなかった。
「行こう、誠人」
「うん。……お邪魔しました」
悠に促され、二人で男の部屋を後にする。
「……悠に兄貴がいるってことは知ってたけど、あの人だったのか。世間は狭いな」
空元気を作って言うと、悠から苦笑が返ってくる。
「俺が高校の頃には実家を出ていたし、あのとおりの人だから遊ぶ機会もなくて必要最低限しか会わないんだ」
「ああ……、会社でもすごいエリートって評判みたいだ。全然悠と結びつかなかったけど……男前なところは確かに似てるな。あの人も悠と同じくらいモテモテなんだろうなー、羨ましい」
自分が女だったら、考えるまでもなく100パーセント悠に惚れるだろうけれど。それはともかく、いくら性格が悪くてもあの顔でエリートとくれば、女性に苦労したことなど全くないのだろう。
つくづく神様は不公平だと思う。
「うーん、どうだろう。少なくとも俺は、兄さんに女の形跡を感じたことはないな。兄さんを狙ってた女も何人か知ってるけど、みんな撃沈してる。あの人潔癖症入ってるから、そういうのが苦手なのかもしれない」
「へえ〜……」
意外な話に、ほんの少し嫌な印象が和らぐ。
まさか童貞……ということはないだろうが、女をとっかえひっかえしたりはべらせるような男の敵タイプではないようだ。
それに潔癖症であるなら、誠人への嫌悪感を顕にした態度もある程度仕方がないと思える。
口止めできなかったのが不安ではあるが、悠がいた状況では仕方がない。
普段は兄弟で連絡をとることも殆どないというし、あの性格からいって会社の醜聞になりかねないことをわざわざ話したりはしないだろう。
そう自分に言い聞かせているうち、段々心が軽くなってきた。
「……誠人、どうかした?」
「あ、いや、なんでもない。ちょっとぼーっとしてた」
「そうか。お前あまり身体は強くないんだから、倒れるまで無理なんてするなよ。清掃員をやってるなんて初めて聞いた。座り仕事で給料いいバイトとか、俺も探してみようか?」
「うーん、考えておくよ」
非常にいい話なのだが、何せこのところバイト先にはろくな思い出がない。
折角名門大学の紹介でいいバイトに就いても、同じ轍を踏んだら悠の顔を潰しかねない上、忌々しい体質が発覚してしまう恐れまであるのだ。
「そうか。……それから、さっきから気になってたんだけど」
「ん?」
悠がふと足を止め、真剣な表情で誠人を見つめた。
「頬が赤くなってる。誰にやられたんだ? まさか、兄さんに……」
「ああ、こ、これは違うよ。これは……ええと、すげー情けないから隠してたんだけど、バイト先のおばちゃんに……。間違えて着替えてるときに更衣室開けちゃってさ。痛かった」
本当に情けない嘘だがあの男にやられたというよりはましだ。友人想いの悠のこと、あの男に問い詰められでもしたら、バレてしまう可能性が出てくる。
「それは……災難だったね」
「うん。でももう、あそこは辞めた。きついし、おばちゃん元気すぎだし……悠?」
悠の手が、誠人の頬に触れてきた。触ってみたくなるほど腫れているのだろうか。
ぼうっと目の前の綺麗な顔を眺めていると、手は頬を撫でるように動き。
指が髪を髪をかき上げて、かすかに耳朶に触れた。
「んっ……う、うわあっ」
鼻にかかったような声が出てしまい、誠人は驚いて勢いよく後ずさった。
「――ん、ああ、ごめん」
「お、お前……この天然タラシめ。そりゃあ女もメロメロになるはずだよ!」
最早殴られたところだけでなく、頬全体が赤くなっているのが見えずとも分かる。
悠が女を口説くところを直接見たことはないが、男にまで自然にあんなしぐさができるとは。
本気を出したら骨抜きどころか魂まで吸い取ってしまうんじゃないかと本気で思う。
「悪かったって。――ほら、腹減ったんじゃないか。飯でも食べに行こう? 奢るよ」
「え、マジで? 俺、鮭茶漬けが食べたい」
「渋いな……」
悠は何事もなかったかのように綺麗な顔で笑う。
やはり凄いタラシだ。男の誠人でさえどきりとしてしまうほどの。
悠と友人になれたことに関しては、男に生まれてよかったと思う。もし誠人が女だったら、近くに寄ることさえできなかっただろう。
そんなことを考えながら、誠人は悠の隣を歩いた。
遅い朝食の後悠と別れると、誠人はまっすぐ佐原の家に押し入った。
「――へー、母乳が出たのかぁ。いいサンプルになったなあ」
「人を実験動物扱いしないでください。一体どうして母乳なんかが出るんですか! おかしいですよね、どう考えても」
あくまで暢気に笑う佐原に、誠人はわなわなと震えながら問い詰める。
「だって、君が薬の説明を最後まで聞かないから。あの薬は耐性ができると効かなくなっちゃうし、副作用として発汗や倦怠感の他に乳頭から液体分泌の可能性がある、ってね」
「……耐性ができちゃうのはまだ分かりますけど、そんな一般的な副作用に混じって母乳て。女ならともかく……。もしかして、単にあなたの趣味なんじゃ」
「はっはっはっ」
「否定しろよ」
駄目だ、この男とは常識的な会話が成立しない。誠人はがっくりと肩を落とした。
薬の服用を止めればそのうち出なくなるということだが、それがいつかは分からないという。
最悪だ。
「まあ、ただちに分泌を止める薬を開発することもできると思うけど……そっちを優先したらフェロモンを完璧に抑える薬は何年後になるか」
「いい、いいですよ母乳くらい」
それこそ本末転倒というものだ。どうせ元から酷い身体なのだから、この上一つくらいオプションが増えたところで何ほどのことでもない。
……そう思わなくてはやっていられない。
「ああそうそう、今日はこれを渡しておこう」
「……なんですか、変な薬ならもういりませんよ」
佐原が取り出した小さな容器を、誠人は胡乱な目つきで睨む。
甘言に惑わされてまた怪しい薬を飲んだら、今度は胸が膨らみでもしかねない。
「やだなあ違うよ。前に話したでしょ、これはフェロモンに対するいわゆる抗体さ。はい」
「あ、ああ……ありがとうございます」
そういえばそんな話もあったなと思い出す。
「あいにく一人分しかないから、よーく考えて決めるといいよ。セックスしたい相手に使っちゃったら、損しかしないからね」
「男にんな相手いるか。……分かりました、注射すればいいんですね」
ともあれ、佐原の言うとおりこれが重要なものなのは確かだ。じっくりと考えて決めなくてはならないだろう。
そんな想いを胸に、誠人は薬をぎゅっと握り締めた。
「――ところで、薬の開発は進んでるんでしょうか」
「ああ、そうそう! 完成が近づいててね、昨日も徹夜したんだよ」
「えっ、それを早く言ってくださいよ!」
期待せずに聞いたのに思いがけない言葉が返ってきて、誠人はにわかに色めきたつ。
しかし。
「え? 君もほしいの? 高いよー。何せ塗るだけでペニスのサイズ増大っていう優れものだからね!すごいだろう?」
「……俺を治す薬は……」
「はははっ」
期待はしていなかった。していなかったがこの仕打ちはどうだ。
誠人はなんとも言えない気分でとぼとぼとアパートへ帰った。
「……にしても、どうしよう……」
ベッドに寝転がると、抗体の入った容器を頭上に掲げて眺める。
これを使った相手は、誠人のフェロモンに惑わされることはなくなる。
あの状態になろうが決して何も起こることはない、完全な安全牌になってくれるのだ。
ならばやはり一緒にいる時間が長く、かつ絶対に間違いを起こしたくない相手に使うべきだろう。
誠人は頭を掻きながら考える。
もし実の父親が生きていたら、多分迷わなかっただろう。
嫌でも会う機会がある人間だし、何より実父に犯されるなんて精神的ダメージが大きすぎる。
しかし父はすでに亡くなっており、現在誠人の身内の男は養父とその子である義弟だけだ。
間違いがあってはならないのは養父も同じだが、彼は新しい家族に馴染み切れなかった誠人に気を遣ってか、干渉してくることはあまりない。
義弟とは元々親しいとは言えず、家を出たきり連絡をとってもいない。
つまり彼らとは、会いたくないと思えば緊急事態でもない限り会わずに済むことが可能なのだ。
――となれば。
「……悠、かなあ……」
自然と頭に浮かぶのは、先ほどまで一緒にいた友人の顔だ。
彼は高校時代からの数少ない友人であり、何かと誠人を気にかけてくれるため会う機会も多い。
大事な友人を失うことは絶対に避けたいし、だからといってフェロモンの効果を恐れて疎遠になるのも悲しいと思う。
気持ちは傾きつつあったが、結論を出すのはまだ尚早だろうと思い直す。
思い出すのも忌々しいが、昨日は文字通り数え切れないほど精液を出して出されたため、当分はフェロモンの効果は抑えられるだろう。
誠人は容器を引き出しに仕舞うと、ごろりと寝返りをうった。
それから一週間、誠人はほとんど外出することなく無事に過ごしていた。
別に自棄を起こして引きこもっているわけではない。在宅の仕事を紹介してもらったのだ。
小遣い稼ぎ程度にしかならないが、ここ最近の経験からバイトがトラウマになりつつある誠人にとってはいい話だった。
今まで誠人があの状態になったのは決まってバイト中かその前後であり、近くには運悪く男がいた。
しかし。一人でいるときならば、直ちに右手で抜いてしまえば治まってくれるのではないか。
希望的観測にすぎないが、何にせよ不用意に外へ出ているよりはましだろう。
誠人は凝った身体をほぐすように首を回しながらパソコンに向かう。
「ふう……」
初めに紹介された際は、データ入力の仕事だと聞いていた。だが……。
『ヒロシ:マコちゃん、19歳だっけ?若いね〜』
『マコ:ヒロシさんだって若いじゃないですかぁvひとまわりくらい上の人って憧れちゃいますv』
自分で打ち込んでおいてこれはないだろうと思う。が、即行でレスがあるるのがまた微妙な気分にさせられる。
データ入力という名の、男とやりとりする仕事――もっと簡潔に言ってしまえば、いわゆるサクラというやつだった。
『ヒロシ:ホントに?お世辞でも嬉しいなぁ。マコちゃんにいつか会いたいよ』
『マコ:私も会いたいです!その前に、色々話しましょう?』
『ヒロシ:うん。マコちゃんは、下ネタとかもオッケー?』
『マコ:え〜、ちょっと恥ずかしいけどヒロシさんとなら///』
はっきり言って空しくなるし、罪悪感がわかないわけでもない。誠人とて、世の男を二つに分けるなら騙される方の人種なのだから。
が、世の中には背に腹は代えられないという言葉がある。
相手がサクラだと気づかない限り、この男達は夢をみられて幸せなのだ。対して誠人は、この身体である限り夢も希望も抱けたものではない。正直男達が羨ましくさえある。
そんな八つ当たり的な感情を向けながら、誠人は寒々しいやりとりを続けていた。
『ヒロシ:マコちゃんの胸は、何カップくらいあるの?』
『マコ:貧乳なんです><やっぱり男の人から見たら魅力ないですよね…』
『ヒロシ:そんなことないよ!可愛くて俺は好き。乳首も小さいのかな』
『マコ:小さいけど敏感で、ノーブラだと服に擦れて感じちゃったりします///』
「……」
悲しい自虐だ。事実誠人の乳首は弄られて以来どんどん敏感になっている。当然ブラなどつけようがないので、油断して服に擦れるといちいちびくりとしてしまう。
『ヒロシ:エッチだね。今はノーブラなの?もしかして、立ってたりするのかな』
勃たせてるのはお前だろう、と思いつつちらりとシャツを掴んで覗き込むと、本当に若干勃っていて情けない気分になる。
『マコ:ちょっとたってます///恥ずかしい』
頬を引きつらせつつそこまで打ち込んだところで、玄関からノックの音が聞こえてきた。
誠人の部屋を訊ねてくる人間など限られている。今月の家賃は支払っているから大家ではないだろうし、何かの勧誘か、もしくは佐原か。
この身体のこともあってあまり出たくはなかったが、電気をつけているため居留守は通用しなさそうだ。誠人はしぶしぶ玄関へ向かった。
少し時間を空けて再びノックされ、
「はーい、出ます……」
と応えながらドアノブを回すと。
「え……っと?」
思いがけない人物に、誠人は一瞬固まってしまう。
いかにもエリート然とした眼鏡と上質なスーツ、整った怜悧な顔立ち。
間違いようがなく、目の前にいるのはあの悠の兄だった。
怒鳴り込みにでも来たのかと一瞬思ったが、男の表情からはいつものような険が感じられない。
「あの、どうしてここに」
「部長に聞いた。――今日は君に話があってきた」
確かに前田には住所を書いた履歴書を渡していた。個人情報保護の観点から見るとどうなんだと思うが、わざわざそうまでして会いに来る理由があったのか。
「……とりあえず、入ってください。散らかってますけど」
何にしろ、玄関先で出来る話でないのは確かだろう。緊張に嫌な汗を滲ませながら、誠人は男を部屋の中へ招き入れた。
「で、話って……」
この家では一番まともな飲み物である麦茶をコップに入れて男に出すと、恐る恐る切り出してみた。ボロいアパートに目の前の男はあまりに不似合いで、何とも言いがたい違和感を覚える。
男は少し逡巡した様子を見せた後、ゆっくりと口を開いた。
「…………君に、謝罪をしたいと思って。これはお詫びの品だ」
男はそう言って、おもむろに菓子折りらしきものを取り出した。
「はい?」
予想外の展開に、声がひっくり返ってしまう。何の紙袋だろうとは思っていたが、何故に菓子折り。
「部長から聞いた。自分が襲ってしまった、仁藤君から誘ったなどありえないと。君が訴えると言うなら覚悟を決めるとも、償う気もあるとも。自分の顔など見たくないだろうから、様子を見に行ってくれないかと頼まれた」
「そ、そんな」
とりあえず菓子折りを受け取りつつ、何ともいえない気分になる。
前田はやはり思ったとおりの人格者であったのだ。あんなことさえなければ、今頃彼の下で働けていたのかもしれない。
実際には引きこもってサクラなんかをやらざるを得ない状況なわけで、つくづくこの体質が忌々しい。
「以前にも言いましたけど、訴える気なんて毛頭ありません。……できれば、なかったことにしたいです」
「――そうか。君がそうしたいというなら、部長にも伝えておく。私もこれ以後取りざたしたりはしない」
「はい……ありがとうございます」
そこで少しの沈黙が訪れる。とりあえず一件落着ということだろうかと、誠人はほっと息を吐いた。
「すまなかった、事情を知りもせず殴ったりして」
「いえ、俺も誤解させるようなことを言ったから。あの、悠にはこのこと」
「当然言うつもりはない。……まさか、君と弟が友人だったとはな」
「はあ、世間は狭いですね」
こう話してみると、男は当初の印象より高慢な人間ではないのだと気づく。わざわざ菓子折りまで持ってきて頭を下げるなんて、普通しないだろう。クソがつくほど真面目と言っていいかもしれない。
今思い出しても清掃員をしていたころの男の態度はどうかと思うけど。それでも悠とは間逆の嫌な奴という印象は払拭されていた。
「ええと、野崎、さん。麦茶のおかわりを」
それでもいきなり会話が弾むなんてことはなく。空のコップに気づいて訊くと。
「……奏だ。野崎奏」
男が少し憮然とした表情で言う。一瞬の後、名乗られたのだと気づく。
「え、ああ、カナデさん。綺麗な名前ですね」
本音半分お世辞半分でへらりと笑って言うと、顔を逸らされた。
……怒ってる? まさか照れてる……ということはないだろう。
何となく気まずくなって、誠人はコップ二つを持って台所へ向かった。
仲良くなる、には根本的に話が合わなさそうだが、やはり悪い人ではないのかもしれない。
悠に言わないと言質もとれたし、とにかく最悪な方向へは行かなくてよかった。
少し気分を浮上させながら麦茶を注いで、奏のところに戻ったのだが。
「……これは、なんだ?」
固い声音に、誠人のほうもびしりと硬直する。
奏は、すっかり放置されていたパソコンの画面を指して険しい表情をしていた。
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