スーツの下 02 03



爽やかで人当たりのいい好青年。それが周囲の人間による吉岡光の主だった人物評だ。

「吉岡さん、A社との契約とってきたんですね。すごいなあ」
「いや、タイミングがよかっただけだよ」
「またまた謙遜しちゃって。成績トップ取れそうな勢いじゃないですか」

社会人4年目にして仕事の調子も上々で、女子社員からの評判もいい。順風満帆な社会人生活だと言えるだろう。少なくとも表向きは。

「トップなんて、俺にはまだまだ」
「まあ確かに皆川さんも最近すごいですもんね。この間も新規開拓成功して」
「……ああ、そうだね」

皆川。その名前を聞くと、評判のいい営業スマイルが歪みそうになってしまう。
皆川は光の同期であり、周囲からは優秀な若手同士ということでよきライバル扱いされている。
しかしタイプは全く異なっている。光はとにかく愛想よく、丁寧に相手の望みを汲んで振舞っているのに対して、皆川は頭の回転が速く完璧な理論を展開する天才型なのだ。
愛想は光以下どころか悪いと言ってよく、きつめの整った顔や背の高さもあって相手に威圧感を与えてしまうくらいだが、余りある優秀さで成績上位を走り続けている。
光は皆川が苦手だった。何も最初からそうだった訳じゃなく、自分では割と誰とでも仲良くできる性格だと思っていたし、入社当初は同期としてそれなりに付き合っていくつもりだったのだ。

『皆川、よかったら一緒に飯食いにいかない?』
『……おまえと? 何のために?』

取り付く島もないという感じだった。
正直なところ、そっけなく断られるとは思っていなかった。その後も皆川は必要な仕事の話以外する気がないようで、とても仲良くはできそうにないと悟った。
友人には「お前は誰にでも好かれるタイプだよな」なんて言われてきて、それに対して満更でもなかっただけに、自分が思い上がっていたというばつの悪さもあり、皆川のことが苦手になってしまった。
ただ仕事をしていくうちに、皆川の優秀さは嫌でも意識せざるをえなかった。周りにも当然のように比較されるのだから。

負けたくないという気持ちから、つい仕事を抱え込み過ぎてしまうこともしばしばあった。その日も次々に同僚が帰っていく中、光は一人残って仕事をしていた。嫌々やっている訳ではない。この契約がまとまれば大きな利益が期待できる。そう思えばやりがいを持って打ち込むことができた。
しかし、疲労というのは溜まっていくもので、いつの間にか光は静かになった会社で眠ってしまっていた。

「……んん?」

気がつくと床の上で寝ていた。おかしい、デスクに突っ伏してしまうことは今までにもあったけど、いつの間に床で……と思ったら、ネクタイが緩められ、ボタンが開いていることに気づいた。
にわかに嫌な動悸が走る。

「――起きたか」
「み、皆川」

死角から声をかけられ、どきりとした。

「お前が……俺を寝かせたのか?」
「ああ、屠殺される豚みたいに苦しげないびきをかいていたからな」

嫌な例えだ。しかも床に寝かせるなんて汚いし体は痛くなるし、まだ机に突っ伏していたほうがましじゃないだろうか。
だが光はそんなことより、自らの秘密をまさか知られていないだろうかということばかりが気になっていた。

「なあ……」
「起きたならさっさと帰れ。警備員が困惑していた。床で社員が倒れていると」

(床の上に寝させたのはお前だろ……)

問い詰めたいことがあったが、皆川はそれだけ言うとさっさと帰ってしまってかなわなかった。
だがあの様子なら、秘密を知られたということはないだろう。もし知られてしまったら、気味悪がられ何らかの反応をされるはずだ。あってはならないことだ。
光はシャツの前をぎゅっと握った。シャツの下のインナーの、更にその下には、本来あるはずのない感触がある。
光には密かな趣味があった。ごく普通の、多くのサラリーマンが着ているようなスーツの下に、女性用下着を身に着けているという趣味が。もうしばらく前から毎日のように。
絶対に誰にも知られてはいけない秘密だった。

学校や仕事のストレスから――それが後ろめたい性癖を持つ人間の、定番の言い分だ。光も例に漏れず自分にそう言い訳していた。
確かに初めて女性用下着を着たいと思ったのは、取引先がやっかいな人間でちくちく嫌味を言われ、他の仕事の調子もいまいちで悩んでいるときだった。
一度だけだと興味本位で身に着けてみたら、思いの外しっくりきてハマってしまった。着けた直後に大きな契約を勝ち取り、以降上向いたこともあって、今では着けていないと落ち着かないほどだ。
もし他人に知られたら大ダメージは免れない。好青年なイメージも、女子社員からの評判も全て変わってしまう。
そのスリルもまた、無意識に光を高揚させていたのだが。
とにかく、特に皆川になど絶対に知られてはいけないことだ。何を言われるか分かったものではない。これは一人だけで楽しむ密やかな趣味なのだ。
光はそう思っていた。

それから数日後、光はまた一人残業をしていた。いや、一人ではなかった。出先から戻ってきた皆川も残業を始めたのだ。
苦手な相手と二人きりか……と思いつつ皆川を盗み見ると、真剣な表情でデスクに向かっていた。
何でもスマートにこなし、要領がよすぎて可愛げがない、必死にやってるこっちがバカみたいだ、などと先輩に陰で言われるような男だが、実際にはそれなりに真面目に仕事に打ち込んでいることを光は知っている。
ライバルとして意識していたら嫌でも分かってしまうのだ。
光は疲れた体を伸びでほぐし、席をたった。

「……ついでに買ってきたけど、飲む?」

光は自分のお茶を飲みながら、自販機で買った炭酸飲料を皆川に差し出した。以前皆川が飲んでいて、あんな甘いものが好きなのかと意外に思ったのを覚えていたのだ。

「――ああ、どうも」
「いや、ついでだし……うわあっ」

皆川がボトルの蓋を開けた瞬間――中身が噴き出した。来るときに落としてしまって、更にそれを蹴っ飛ばしてしまったのが悪かったらしい。言わなきゃばれないだろうと思っていたが、失敗だった。光のほうにも噴き上がったものがかかってしまい、驚いた拍子に自分が持っていたお茶までこぼしてしまった。

「悪い、断じてわざとじゃ……」

どんな嫌味を言われるだろうかとびくついていたが、皆川は何も言わなかった。何も言わず光の胸元のあたりを見ていて――血の気が引いた。
飲み物がシャツの下のインナーまで濡らし、ブラジャーを薄っすらと透けさせていたのだ。

「……っ!」
「それは何?」
「な、何のことだ?」
「女の下着つけてるよな、お前」

慌てて背を向けて隠したが遅かった。見られてしまったのだ。

「――見せて」
「な……」
「俺に見せろよ、ブラジャー着けてる姿」

光は絶句した。皆川の淡々とした声は冗談を言っているようには聞こえない。

「見せられないなら他の奴に訊くよ。吉岡はいつも女物の下着を着けてるみたいだけど、どうしてか知ってるかって」
「い、いつもって」
「この前残業したときも着けてたよな」

絶望的な気分だった。 実はあれ以来やけに皆川からの視線を感じてはいたが、まさか下着がバレてしまったなんて。最悪だ。血の気が引いて全身から嫌な汗が滲んでくる。

「俺に見せるのは嫌なのか?」

嫌に決まってるじゃないか。でもここで見せなかったらどうなるだろう。皆川はやると言ったらやる男だ。会社中に瞬く間に秘密を知られ、今まで築いてきた人間関係が一気に崩壊してしまう。
光は屈辱と羞恥で震える手でシャツのボタンを外すと、インナーをまくり上げた。

「……っ」

――見られてしまった。女性下着を見に付けた変態的な姿を、よりによって皆川に。
今日の下着は淡いピンクで透け感のあるレースがふんだんにあしらわれていて、よりにもよって手持ちの中でも特に可愛らしいものだ。そんなブラが平らな男の胸につけられているのは酷く滑稽に映るだろう。
皆川はただじっと見ていた。嫌でも視線を強く意識してしまう。

「吉岡にこんな……変態的な趣味があったなんて、信じられないよ」
「っ……」
言われて、顔がかあっと熱くなった。
そう、自分は密かに女性用下着を身に着けている変態だ。でも一人で楽しんでいるだけで、誰にも知られてはいけないことだった。あくまで着ることが目的であって、それを露出するような趣味は一切ない。
――そのはずなのに今、光の体は男からのあからさまな視線に、じっとしていられないような熱が湧き上がってくるのを感じていた。

「いつも隠れてそんな格好をしてたのか」
「ちっ違う! ちょっと、ふざけて……」
「ふざけて何度も着るようなものじゃないだろ」

その通りで、とても誤魔化せそうにない空気だった。
いっそ思い切り笑ってくれればいいのに、皆川は淡々と光を追い詰めてくる。
異様な雰囲気に緊張が高まり、嫌な汗が出てきた。

「会社の人たちが知ったらどういう反応するだろうな。お前みたいな奴が、実はいやらしい女物の下着つけて何食わぬ顔で仕事してたなんて」
「……っ」

想像してしまう。慕っている女子社員や、期待してくれている上司や、懐いてくる後輩や、あまり折り合いが良くない先輩に、この姿を知られてしまうところを。
自分の評価は一変してしまうだろう。蔑んだ目で見られ、気持ち悪いと思われてしまう。今までそれなりに順調に生きてきて、そんな目に合ったことは一度もなかったのに、下着を着けていることを知られたら――。

ぞくぞくぞくっ……

「はぁっ……」

信じられないことに下半身がじわりと熱くなってきて、光は瞠目した。


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