白い秘密2 02



間違いなく、人生で一番衝撃的だった体験をしてから四日。
久しぶりに登校する足取りは、極めて重かった。
昨日まではとても外に出る気になれず、部屋に篭りきりになって、あのときのことを思い出しては悶絶していた。
どうしようもない羞恥と憤り、不安とで頭の中はごちゃごちゃで、何度時間を巻き戻したいと思ったか知れない。
それに頭だけでなく身体のほうも……もう出ないというほど搾り出されたにも関わらず、疼きが増している感じがして拓海を苛んだ。
数日経っても落ち着くことはなかったが、それでもずっと学校を休んでいるわけにはいかない。
この上成績にまで影響が出たら、泣きっ面に蜂にもほどがある。
――このままでは自分が駄目になる。あのときのことはもう考えないようにして忘れてしまおう。
そんなに簡単に忘れられるはずがないと本当は分かっていたが、大したことではないと自分に言い聞かせ続けるしか、平静を装う方法はなかった。


あの男に出くわすのを避けるため、いつもより早めに登校すると、生徒はまだ数人しか来ていなかった。

「あ、倉科君おはよー。風邪はもういいの?」
「あ、ああ。もう熱も下がったから……」

斜め前の席の女子に話しかけられ、拓海は内心びくびくしながら応えた。
休みの間、何人かの友人とは電話やメールでやりとりをしていて、そのとき変わった様子は一切なかった。だから今のところこの異様な体質がばらされていることはないと、頭では分かっているのだが、それでも不安で相手の顔が正視できない。

「そっか、よかったね。みんな心配してたんだよ」
「ありがとう。今年の風邪は腹に来るみたいだから、菊池さんも気をつけて」

ぎこちなく笑顔を取り繕って言うと、菊池の頬が微かに赤く染まった。
ああ可愛いな、と思う気持ちより強く、何だか虚しくなる。
こんな友好的な子だってひとたび拓海の体質を知ったら、きっと気持ち悪がるだろう。そんなふうにばかり考えてしまうのだ。

「よっ、イケメン君」

ネガティブな思考にとりつかれて遠い目をしていると、いきなり後ろから肩を組まれた。

「痛いな……。やめろよ、久保」
「なんだ、テンション低いな。まだ風邪治ってねーの?」
「いいから離せって。重い」

友人のいつもと変わらないふざけた態度に安堵しつつ、組んだ手の位置が乳首に近いことに内心慌てる。
しかし久保は腕を解くことなく、廊下の方を顎で指して見せた。

「あれ、4組の赤坂じゃん。可愛いよな。おっぱいでかいし」

興味は持てなかったが、促されるままにそちらを見て――拓海は凍りついた。
確かに赤坂とやらは美人で、細身ながら制服の胸の部分だけははちきれんばかりだった。問題は、その赤坂と親しげに話している男が、拓海を悩みに悩ませている張本人であることだった。

「高梨、赤坂とできてんのかな? あの推定Gカップを揉みまくってんのかーイケメン羨ましいわ」
「……」

久保の下世話な発言が、どこか遠くに聞こえる。高梨の顔を一目見ただけで、心臓がうるさく音をたて、汗が滲んでくる。
なのに高梨の方は、のん気に楽しそうに可愛い女子と話している。
赤坂は大きな目を輝かせながら度々ボディタッチしたり、頬を染めたりと、高梨に好意があるのは明らかに見えた。
高梨の方は、可愛い女子には大体同じ態度なので真意は分からないが、あれだけ魅力的な子に好かれてあのヤリチンが食いつかないはずはない。
どうしようもなく不快だった。自分でも制御できないどろどろしたものが胸中を渦巻いて、拓海は唇を噛んだ。
そのとき、高梨の視線がふと動いて――睨みつけていた拓海と、思い切り目が合ってしまった。

「……っ」

突然のことに対処できず呆然としていると、高梨はあろうことかこちらに近づいてきた。

「おはよう倉科。体調は平気?」

拓海以外の誰も不自然さなど感じないであろう、完璧な笑顔で言われ、頭にかっと血が上った。
――人が死ぬほど悩み苦しんでいるというのに、この男は何故こうも平然としているのか。
拓海は感情のまま立ち上がると、両手で思い切り机を叩いた。その音は教室中に響いて、辺りの喧騒がにわかに戸惑ったものへと変わる。
高梨を怒鳴りつけようとして、拓海は唇を噛みしめて思いとどまった。迂闊なことを言ってクラスメイトに詮索されてはたまらない。
しかし高梨を目の前にして、何事もなかったかのように振舞うことなど到底無理だった。拓海は訝しげな視線を向けてくるクラスメイト達の横をすり抜け、足早に教室を飛び出した。

とにかく人のいない場所に行きたくて、拓海は階段を駆け上ると、屋上への扉を開けた。風が吹きつけてきて、汗で湿った首筋がひやりとする。
――自分は一体、何をしているのだろう。
拓海はずるずるとその場に座りこんで、頭を抱えた。
あんなこと、犬に噛まれたようなものだと思って忘れてしまおうと、家に篭っていた間ずっと自分に言い聞かせてきた。
なのにいざ高梨と顔を合わせたら、そんなのは全くの無駄な努力だったと、すぐに思い知らされてしまった。
今この瞬間も、女子とベタベタする高梨の顔が頭から離れない。
あとどれくらいこんなことが続くのか。とるべき手は、一つしかないように思えた。

「……よし」

拓海は携帯を握り締めた。
――病院へ行く。それしか、このコンプレックスから救われる方法はない。
この四日間、葛藤しながらも少し調べたのだ。男でもホルモンや脳の異常によって、母乳が出るという症状はまれにあるらしい。
異様に感じやすくなるという症状が謎のままなのは気がかりだが、とりあえず母乳が出なくなるならそれでいい。
行く病院も決めている。遠戚に脳外科の医師がいることを思い出したのだ。
一度しか会ったことはないが、優しく落ち着いた雰囲気で、医者としても優秀だと親戚が自慢していた記憶がある。
事情を話せば、親にも他の誰にも知らせることなく治してくれるかもしれない。そう考えると希望が持てた。
意を決して電話をかけようとしたとき、すぐ横のドアが重い音をたてて開いた。

「――ああ、いた」
「なっ……」

反射的に見上げると、微かに息を切らせた高梨がそこにいて、拓海は一瞬絶句した。

「急にあんなふうに飛び出して、みんな心配してたよ」
「っ、誰のせいだと思ってるんだ……」

怒りで握り締めた拳が震える。自分とは正反対に平然としているこの男が、憎たらしくてたまらない。

「俺のせい? ……でも、あのときのことは」
「もう俺に近づくな! お前の顔なんか、二度と見たくない……っ」

高梨の言葉を遮って、拓海は全身で拒絶を伝えた。しかし高梨は去るどころか、こちらに近づいてきて膝を落とした。

「近づくなって、本気で言ってる?」

思いの外真剣な顔で詰め寄られ、不覚にもびくりと震えてしまった。
思い切り責めてやるつもりだったのに、何故かこちらが責められているようだ。酷く理不尽に感じる。

「……あんなことしといて、何言ってんだよ。お前なんか、赤坂とでもいちゃついてりゃいいだろ」

先ほどまでの勢いはなかったものの何とかそう言うと、高梨の表情からふっと険が取れた。

「なんだ……もしかして嫉妬してたの?」

微かに口角を上げてそんなことを言うものだから、拓海は嘲笑されたと受け取ってかっとした。

「何だよそれ。俺が好きなのは清楚な子で、赤坂は確かに可愛いけど、お前はどうせあのおっぱいに釣られたんだろう」

半分図星だったので、誤魔化そうとして支離滅裂な言い分になってしまった。
高梨の方をうかがうと、笑みはもう消えていて、無表情になっていた。いつもへらへらしていることが多いだけに、そんな顔をしているときは得体の知れなさがある。

「――なんだ、赤坂のおっぱいが気になる? 自分もこんなにエロいおっぱい持ってるくせに――」
「ッひゃっぁんっ…」

服の上から乳首をぐりっと性格に擦られ、不意打ちの甘い刺激にいやらしい声が出てしまった。

「……やらしい声。ちゃんとガードしてるのに、そんなに感じちゃったの?」
「やっ……ぁ」

高梨の目に熱が点ったような気がして、身体がぞくりと震えた。
――またあのときのようなことをするつもりなのだろうか。
もしそうだとしたら、一体何故だ? 腹立たしいほどモテるこの男が、男のくせに母乳が出るという珍妙な存在に手を出す理由と言ったら、物珍しさや興味本位くらいしかないのではないか。いくら考えてもそうとしか思えなくて、忘れかけていたムカつきが再燃してくる。

「ち、近づくな!」

密着してくる高梨の肩を、拓海は渾身の力で突っぱねた。

「お前がどういうつもりか知らないけど、俺はもうすぐ病院に行ってこの身体を治すから。あのときのことは忘れろ」
「……病院?」
「そう。知り合いにヒロ君っていう超優秀な脳外科医がいるんだ。あの人に診せたらあっという間に治る」

『ヒロ君』とは小学生の頃あったきりで実際のところよく知らないのだが、少しのはったりと希望をこめてそう告げる。

「へえ……この身体を、男に見せるの」

高梨は低く呟くと、いきなり壁に身体を押し付けられた。

「なっ……!?」

性急で乱暴な手つきに、抵抗する間もなかった。慌てて逃げ出そうとするが、強い力で封じ込められる。

「じゃあ、病院でまともに診察が受けられるかどうか、俺が練習台になってあげる」

そう言って、高梨は嗜虐的な笑みを浮かべた。

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