白い秘密 02
一体何故、わが身にこんなことが起きてしまったのだろう。
そもそもの始まりは、男なら数人に一人は経験していそうな、ほんのささいなことだったのに。
そう、ささいなことだったはずだ。
AVを見ていて、女優に乳首を舐められた男が気持ちよさげな声を出していたから、戯れに触れてみた。それだけのことだ。
だけどその瞬間の感覚は、官能を通り越して衝撃と言っていいほどのものだった。
「ああぁっ!? ひぃっ、あっ」
軽くつまんだだけで、今まで出したことのないような高い声が勝手に上がってしまった。
頭はひどく混乱したが、身体は快感を貪ることを求め止まらず、乳首をくりくりと刺激する。
そのたびに身体がびくびくと跳ね、下のほうはほとんど触りもしないまま、気づくと射精していた。
「ヤああぁっ! あんっ、はっ……」
乳首でありえないほど感じて、達してしまった。
それだけで終わっていたなら、どれだけよかっただろう。誰が見ているでもなし、自分の胸だけに秘めて墓場まで持っていけばいいだけのこと。
だけどそうできない残酷な現実が、そこにはあった。
「ひぃっ……なにっ、これ、あっ、あっ」
呆然とした。
射精よりほんの少し遅いタイミングで、乳首から、白濁が噴出したのだ。
それからおよそ1ヶ月。倉科拓海(くらしなたくみ)の苦悩は続いている。
「はあ……」
毎日朝起きたら、それぞれの乳首を覆うように傷あてパッドを貼る。
それがここ一ヶ月、洗顔や歯磨きと同レベルに欠かせない日課となってしまっていた。
直接服を着たのでは擦れてひりひりして、やけに感じてしまう。感じてしまうと、母乳が滲み出てしまう。
貼っているときは間抜けな姿に情けなくなるが、こうでもしないと服が汚れてしまうのだから仕方がない。
その上からは、傷あてパッドが透けないよう生地のしっかりした濃い色のタンクトップを着る。
絶対に、誰にも気づかれるわけにはいかないのだ。
自意識過剰でもなんでもなく、拓海はそれなりに見た目がよくモテると自負している。
身長は高めでスポーツも勉強も得意、顔だってイケメンで羨ましいと言われたことは一度や二度ではない。
学校でもバイト先でも一目置かれている。
そんな自分が母乳が出るなんてふざけた身体になってしまったこと、誰にも知られるわけにはいかないのだ。
そのために、気になっていた女子も泣く泣く諦めた。
ミナという名の一つ下の後輩は、優しくふわふわとした雰囲気の可愛い子だった。
付き合うまではいかないまでも、それなりに仲良くなって二人で下校したりお茶をしたり、もう一歩というところだったのに。
異性として好きな相手に、まさかこんな身体を晒すなんて考えられない。
控えめな子だったので、拓海が誘うことを止めると二人の交友はいともあっさりと消えてしまった。
一体いつまで、この忌まわしい身体を持て余していればいいのだろう。
病院へ行くことは何度も考えた。
だけどいざ携帯と向かい合うと、途中でしり込みして番号を打つ手が止まってしまう。
まず何科にいけばいいのか。女であれば婦人科でいいのだろうが、拓海は間違いなく男だ。
医師一人に見せるだけで済むのかもわからない。女性の看護師に知られるなんて恥ずかしすぎるし、珍しい症例として色んな人間に晒されてしまうかもしれない。
「今日こそは」と決意しても、そんなふうに考えてしまううち気持ちがしおしおと萎えてしまうのだ。
このままでは女と付き合うことはおろか、男のくせに人前で着替えることすらできない。
そんな憂鬱な気持ちを増幅させるように、下駄箱で会いたくもない男に会ってしまった。
「はよ、倉科」
「……ああ」
少し癖のある長めの茶髪に、制服を着崩していても一目でわかるスタイルの良さ。
いけ好かない男だ。
気だるげに挨拶してきた高梨葵(たかなしあおい)に、拓海は不機嫌を隠そうともせず嫌々返事する。
そんな拓海の気持ちを知ってか知らずか、高梨は逆なでするようなことを口にした。
「なあ、一年の……ミナちゃんだっけ? あの子の友達が騒いでたよ、倉科先輩が純情なミナを誘惑して、あっさり捨てたって」
「……軽々しく呼んでんじゃねえよ」
「何? もしかしてミナちゃん好きなの? わかんないやつだな」
皮肉げな笑みに殴ってやりたいと思ったが、堪えて無視し、足早に教室に向かった。
高梨葵のことは、そのチャラい外見を初めて見たときから気にいらないと思っていた。
見た目どおり軽く奔放で、泣かせた女は数知れないと聞いてからは、余計にだ。
あまり認めたくはないが、自己評価とプライドが人より高い拓海にとって、自分以上に見た目がよく周囲に注目されている高梨が鼻につくというのもある。
こんな体質になってしまってからは、内心バレないかと不安で女子と付き合えない自分と比べて圧倒的に華やかな日々を送る高梨に、あいつがこうなればよかったのにと八つ当たりのように思うこともある。
不毛だとは、重々分かっているのだが。
「はあ……」
拓海は何度目か分からない溜息を吐いた。
学園生活で変わってしまったこともいくつかある。
それまではシャツ一枚が当たり前だったのに、今はタンクトップを絶対に脱げない。
体育の時間ではその上から用心のためジャージを着るので酷く暑いが、致し方ない。
汗をかくとパッドの粘着力が落ちてズレやすくなるので、日課だった昼休みのバスケにも参加しなくなった。
一つ一つは些細なことだが、比較的仲のいい友人達には突っ込まれることもあって拓海を困らせる。
「お前さ、体操着の下にその青いタンクトップって、変じゃね?」
「べ、別にいいだろ」
何の気なしに指摘され、拓海は苦笑いで誤魔化そうとする。
「何その反応。なんかさー、思春期突入して胸が出てきた女子みたいじゃね?」
「あっ、それっぽい。拓海、ちょっとおっぱい触らせてよ」
「お、おいっ」
いきなりタンクトップの中に手をつっこまれ、顔がさっと青ざめる。
そんなことをされたら、傷あてパッドを貼っているのがバレてしまう。
「ヤッ、やめっ…んっ」
必死な上ずった声が出てしまって、友人達がにわかに色めき立った。
「おい拓海、マジかよ」
「脱がせてみようぜ、拓海じゃなくて拓海ちゃんだったりして」
「っ、ホント、むりだからっ……」
体操着と一緒にタンクトップをめくり上げられ、腹が露出し、もうすぐ胸が見えてしまうというところで。
「――お前ら、何やってんの。もう授業始まるよ」
入り口からそんな声がかかったことで、一瞬友人達の動きが止まる。
その隙に拓海は彼らを蹴り上げ、さっと服を元に戻した。
「ってー。冗談だよ、冗談」
「……なあ」
「アホ。さっさと行かないと、罰走させられるから、俺は先に行く」
「あ、待てよー」
友人達に背を向けて、教室の入り口に立っている男を盗み見る。
一瞬目が合ってしまって、拓海はばつの悪さにさっと目を逸らし、廊下に駆け出した。
話しかけてきたのは、高梨だったのだ。
(くそ……借りだなんて思わねえぞ)
あの男に助ける意図なんてあったわけがないのだから。
こちらが一方的に毛嫌いしているだけで、高梨にとってはクラスの男など皆等しく関心の持てない存在でしかないのだろう。
それにしても、何だか複雑な気分だった。
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