逃げられない 02



ずっと好きだった相手がいる。
夢をみる暇もないほど、欠片の希望も抱けない恋だったけれど。


夕焼けの赤が白い校舎を染める時間になると、練習に勤しむ運動部の下級生の横を、教室でおしゃべりしていたのであろう女子生徒が通り過ぎ帰宅していく。
卒業を三日後に控えていても、通いなれた学校は一見いつもと同じ表情をしていた。

「星野」

高すぎず低すぎない、どこか甘さのある声で名を呼ばれ、星野尚人ははっと顔を上げた。

「……悪い、忙しいのに」
「いや、待たせてごめんね」

色素の薄い茶色い瞳を細めた笑顔は、ともすれば嫌味に感じられるほど綺麗で、眩暈を覚えそうになる。
待ち合わせ相手の名は、志水蓮。甘く整った顔立ちと優しげな雰囲気を纏った彼は、成績も運動神経も非常に優秀で、そのくせ驕ったところも見受けられないという、絵に描いたような完璧な優等生だ。
周囲が冗談半分本気半分で呼び始めた『王子』なんてあだ名が、いつしか学校全体に浸透してしまうほどに。
当然のように女子生徒に絶大な人気を誇る蓮は、この時期にわかに忙しさを増していた。
卒業を間近にした、玉砕覚悟の告白。つい先ほどまでもそういった類の呼び出しに応じていたから、待ち合わせに遅れたのだ。
――そして尚人もまた、彼女達の仲間入りをしようとしている。

「あのさ、話が、ある」
「……うん、何?」

入学したばかりの頃、同じクラスで席が近くなったのをきっかけに尚人と蓮は友人になった。
当時からとにかく華やかで人気者だった蓮。
対する尚人は、成績だけは肩を並べられるほど良かったものの、どちらかというと寡黙で、根暗と言われかねない目立たない生徒だった。
趣味は読書で、口を開けば理屈っぽいとよく言われる。そんな自分と『王子』のような蓮が何故つるむのか、当初は疑問に思ったものだ。
しかし気後れする部分はあったものの、彼との友人関係は意外なほどしっくりきた。何かというと人が集まってきて騒々しくなることにはどうにも慣れなかったが、好きな本や映画など趣味が合うところがあり、自然二人で話すのは楽しいと感じるようになった。
人当たりは抜群によかったが、蓮は自分を取り巻く者達を一線引いた位置から、どこか醒めた目で見ることがあるのに、いつか尚人は気づいた。
優しいから自分を慕う相手には丁寧に接するが、本当は尚人と同じく騒々しいのを好むわけではないのかもしれない。だから自分の隣を落ち着くと感じてくれているのなら、それは嬉しいことだ。
――そんな気持ちが恋愛感情に変わっていったのは、いつのことだったか。
高校生活などあっという間に過ぎ去るというが、尚人にとってその時間はとても、とても長いものだった。

「こんなこと言われたって困るだろうけど、俺は――」

蓮の目を正視することはできず、緩く結ばれたネクタイの辺りに視線をさ迷わせながら、尚人は息を吸った。
どんな言葉を重ねたところで結果が変わることはないのに、躊躇っていても仕方がない。どんどん言いづらくなるだけだ。

「俺は、お前が好きだった」
「――知ってたよ」

静かな返答はずしりと胸に重く響いたが、それほど驚くべきものではなかった。やはり、と思った。
そう、蓮は尚人の気持ちを知っていた。彼はとても聡く、他人の心の機微にも敏感な男だ。自分に好意を寄せる女子を傷つけないようにあしらうなど日常茶飯事だったし、友人の恋愛相談にはいつも的確な答えを与えていた。
さすがに男に好かれるのは珍しかったかもしれないが、恋など初めてで、自覚したての頃はあからさまに不自然な態度をとってしまった尚人の気持ちなど、見透かされているだろうというのは何となく感じられた。

「ごめん、気持ち悪いと思うけど、どうしても……」
「気持ち悪いとは感じないよ。だけど」

言葉を止めた蓮に、尚人は反射的に顔を上げてしまった。
目に入った美しい顔には、確かに嫌悪の色は見受けられなかった。だけどどこか寂しげに見えて、胸が苦しくなる。

「だけど今、それを聞きたくはなかったな」
「……っ」

鼻の奥がツンとした。蓮は本当に、すべてを分かっていたのだ。
蓮への気持ちも、脈が全くないと自覚していて、だから卒業直前のこの時期に告白したのだということも。
尚人が余計な気持ちを抱かなければ、二人は友達として卒業式を迎えるはずだった。過去の思い出を振り返り、大学進学で道が別たれることを少しばかり惜しんで、それでも最後はきっと笑顔で。

「ごめん、本当にごめん……っ」

掠れた声でそれだけ口にして、尚人は走ってその場を去った。
三年間で育った友情を、一瞬で壊してしまった。でもそうなると分かっていても、どうしても言わずにはいられなかった。

「……っ、う……」

堪えようとする間もなく、勝手に涙が溢れてくる。
卒業したら、尚人は東京の大学へ、蓮は京都の大学へ通うためにそれぞれ引っ越すことになる。二人の道は完全に別れて、これから交わることは二度とないだろう。
不毛な想いを持て余して、逃げ出したくて告白したはずだった。だけどこの想いが風化される日は、本当にくるのだろうか。
少なくとも今はそんなこと、想像もできなかった。

卒業してからの日々は、あっという間に過ぎていった。東京への引越しも、大学の入学式も、こんなものかという感じで、特別な感慨を抱くこともなかった。
元々性格からして、新しい生活にはしゃぐ明るい学生達のようにはなれるはずもないと、自嘲気味に思う。
プラスになることといえば、蓮のことを考えて胸を痛める時間は、少しだけ減ってきたことだろうか。それこそ当初は、『考えないようにするために、忘れるためにはどうしたらいいのか』をひたすら考えては頭を抱えたものだ。
そのあげく、もう半ば開き直ってしまった。気持ちは少しも色あせてはくれなかったが、仕方がないことなのだと。
とにかく目の前の、今自分がやるべきことをやっていくしかない。理屈で考えたところで、好きという感情から逃げることはできないのだから。

「ああ星野、今度の土曜日、文芸部のコンパに誘われたんだけど、行かない?」

入学から10日ほど経った頃誘ってきたのは、大学で初めてできた友人である三田和馬だった。癖のある黒髪に黒ぶち眼鏡で、服装等にはあまり頓着していないようだが上背があって姿勢がよく、オタクっぽくは見えない。

「コンパって……俺そういうの、得意じゃないんだけど」
「言うと思った。僕もそうだけど、高校のときの先輩にやたら来いと言われてさ。まあコンパといっても、各々好きな作家や小説のことを好き勝手に語り合う集まりだと言ってたから、そう面倒な感じでもないんじゃないかな」
「うーん……」

人見知りする尚人にしては、三田は珍しく早くに打ち解けられた相手と言ってよかった。まず小説好きという趣味が合う。話していて楽しいが、話題がないときに沈黙が訪れてもそれが苦にならない。
わが道を行くタイプで、周りを気にしない。18の男にしては珍しい『僕』という一人称も、尚人が使ったらナヨナヨしているなどと言われそうなものだが、三田の雰囲気にはよく合っている。

「まあ無理にとは言わないけど」
「いや、行くよ。最後まではいないかもしれないけど」

三田を好ましいと思っているし、あまり人とつるむタイプではない彼がわざわざ誘ってくれるのは嬉しかった。
普通なら行く機会のない場だっただろうが、たまにはいいだろう。
それなりに楽しく趣味の話ができるか、馴染めずに終わるか。前者であればいいが、後者だったならタイミングを見計らって抜ければいい。
それくらいの、軽い気持ちで決めた参加だった。なのに。



◇◆


大衆居酒屋の一席で、尚人は呆然としていた。
何故、何故彼がここにいるのだろう。何度瞬きしても、目を擦っても、視界に映るのは見間違えようもない男の姿だ。

「志水君来ましたー! ええと、これで全員かな? とりあえずビールでいい?」

文芸部の集まりは、確かに新参が混ざっても居心地は悪くなさそうな、落ち着いた雰囲気の人達で形成されていた。それでもその男――蓮が入ってきたとき、場はにわかにざわつき始めた。

「誰あれ。芸能人みたいなイケメン」
「知らないの? 法学部一年の志水君。入学してすぐゼミの子達がキャーキャー噂してたじゃん」

何を言っているのだろう。蓮は京都の大学に進学したはずだ。尊敬する教授がいるからと、綺麗な笑顔で話してくれたのを聞いたときの切なさを、忘れるはずもない。
なのに、どうして――。

「はーい、じゃあ今日は新入生もたくさん来てくれて――」
「星野、……星野?」
「……っ、あ、ああ」

三田に小突かれて、はっとする。乾杯の音頭が始まっているのにグラスを手にとっていないのは、尚人だけだった。

「どうかした?」
「いや、なんでもない」
「――そう」

明らかに動揺を隠せていない自覚はあったが、三田はそれ以上追求してこなかった。単に興味がないだけだろうと、今は彼のそういう性分がありがたい。

「――乾杯!」

大きな掛け声と共に、グラスがけたたましくぶつかり合う。それにおざなりに参加すると、尚人はグラスの中の液体を一気に飲み干した。

「君、酒強いの?」

意外そうな表情の三田に聞かれる。はっきり言って、自分が強いのか弱いのか把握できるほど飲んだこともないレベルだ。半分無意識、半分自棄の行動だった。
不幸中の幸いと言うべきか、蓮とは違う卓で距離も離れていたが、到底存在を無視することなんてできない。

「弱くはないと思うけど」
「まあ、倒れて迷惑かけない程度にしときなよ」
「分かってるよ」
「君達新入生だよね。ここに来たってことは、小説好き?」

対面の席の女子が話しかけてきて、小説談義が始まった。だけどその内容は、ほとんど頭に入ってこない。どうしても一点に意識が取られてしまう。
綺麗な笑顔を浮かべる蓮の周りには自然と人が集まって、みな彼の話に聞き入っているようだった。高校の頃と全く変わっていない。
彼の隣には綺麗な女性が座っていた。同級生と比べると大人っぽくて落ち着いた雰囲気なので、きっと年上だろう。
お似合いかもしれない――なんて考えて勝手に痛くなる胸に、自分自身が嫌になってくる。

「……星野君?」
「っ、はい、すみません」
「あっちに何か……ああ、伊藤さんが気になったとか? それとも志水君? 明らかに目立ってるもんねあの二人」

初対面の女子にいきなり図星をつかれて、尚人は内心瞠目する。

「あの、志水って、本当にうちの学生なんですか……?」
「そうだよー、法学部の一年生。まあ初めて見たらちょっと驚くよね」

あっさりと肯定されても尚、まだ実感が湧かない。
遠く離れると知って、悩みに悩んだ挙句告白して全てから逃げたはずだったのに、実はこんなに近くにいたなんて。

「伊藤さんて男にはガード固い感じだったけど、あの二人いい感じじゃない?」
「思った。くっついたらすごい美男美女カップルだね。泣く人多そー」

声がどこか遠くに聞こえる。蓮はこちらを見ないから、尚人に気づいているのかさえ分からない。
この場から逃げ出したかったけれど、やっかいなことに尚人の席からは蓮の真横を通らないと外へ出られない。飲み始めて早々に帰る言い訳も思いつきそうにない。

「星野、調子でも悪いの?」
「いや、ちょっと初対面だらけで緊張してただけ。大丈夫」

言うと、尚人はグラスの酒を煽った。何の解決のもならないと分かってはいても、少しでも現実から逃げたくて仕方がなかった。

どれくらい時間が経ったのか、気づいたときにはやたら頬が熱くて、頭がくらくらしていた。

「……飲みすぎなんじゃない? 顔赤いよ」
「ん……ちょっとトイレ……」

立ち上がると、足元がふらついた。トイレへ行くにも蓮の側を通らなくてはならない。
さすがにこれだけ時間が経っていれば、一度も視界に入らず気づかれなかったということはありえないだろう。その上で蓮が知らないふりをしているなら、自分もそうするしかない。
酒で鈍った頭で、尚人は自棄気味にそう結論付けた。
だけど近くまできたとき、蓮の会話が聞こえてしまった。

「で、親友が敵対しちゃうの、複線は十分張ってあったとはいえ、ちょっとショックだったなー」
「――そうですね。俺も大事な親友に裏切られたことがあるから、主人公の痛みが分かります」
「えー、志水君みたいな人を裏切る奴なんているの?」
「はい。――あれは、悲しかったな」
「……っ」

尚人は反射的に踵を返した。ふらふらと元の席に戻ると、その場にへたり込む。

「星野?」
「俺、かえらなきゃ」
「帰るって……」

分かっているつもりでいても、本人の口から聞いたダメージは大きかった。とにかくこの場にいたくない、いられないと思った。
おぼつかない手で荷物をまとめていると、頭上からため息が降ってきた。

「分かった。僕も帰るよ。ああ、雑魚寝になるけど我慢してね」
「うん……え?」

三田の言葉が理解できず、尚人は首を傾げる。

「君の家、四駅先だよね。そんなふらふらじゃ電車で帰るのはきついでしょ。僕の家ならタクシーでワンメーターだから」
「でも……わっ」

よろけそうになったところを、三田に支えられた。

「ほら、言ったそばから」
「でも、めいわく、だろ」
「でもでもうるさいな。その辺で倒れたら、もっと多くの人に迷惑をかけることになるよ。この場には君の友人は僕しかいないんだから、一応僕には君の面倒を見る義務がある」
「あ、ありがと……」

三田の言葉が、何だかやけに嬉しくて、尚人は少し笑った。
腕を支えられたまま歩き出そうとしたとき、いきなり反対の腕を強く掴まれた。

「――彼は、俺が送っていくよ」

聞きなれた声が、頭上でそう宣言した。

「……どうして君が?」
「星野とは同じ高校だったんだ。とても仲がよかった」
「星野はそんなこと、一言も言ってなかったけど」
「まあ、今は友達とは言えないからね。だけど――」

頭が痛くて、ぼうっとする。二人の声と店の喧騒がごちゃごちゃと脳に流れ込んできて、わけがわからない。

「……星野、星野――?」

その場の現実から逃げるように、意識は急激に遠ざかっていった。

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