読めない男 飲み会編 6
「んー……?」
どうしようかと迷っていたところにドアが開き、俺は渡りに舟という気分で、黒木から顔を離して振り返った。
そうしたら。
「あれ、しばさき、さん……?」
柴崎さんが立っていた。視界がぼやけていたって見間違うことはない。
空気がピリピリしていて、やっぱり嫌われた気がして胸が痛くなる。俯くとまたしても体がぐらついた。
「うわっ……」
「……っと、お前なあ……」
不覚にも、目の前の黒木にもたれる姿勢になってしまった。仕方さなそうに黒木の両手が俺の腕にまわされる。一応支えてくれてるらしい。
「あー……酒臭い。ホント迷惑な奴。――――柴崎さん、こいつが迷惑かけてすみませんね」
「……ちがうよ、くろきの、ばか」
黒木は嫌味っぽい声を出しつつ、俺を突き飛ばしたりはしなかった。きっと初対面の柴崎さんの前だからいい子ぶってるんだろう。
でも今の俺には黒木でさえありがたく思えた。今どんな顔をして柴崎さんを見ればいいのか分からない。
……そういえば、柴崎さん用を足さないのかな。俺たちがいたらやりにくいのかも。俺だって柴崎さんがいる前でするのはちょっと……なんか憚られるし。
黒木なら余裕。あっちが嫌がっても鼻で笑ってできるけど。
ボーっとする頭でそんなことを考えいると、後ろからひっぱられた。
「う、うわぁっ」
倒れる!?って思ったけど、次には背中に熱い体温を感じた。
「え……」
「……うちの後輩が迷惑をかけたな」
いきなり至近距離で低い声が響いて、不覚にもちょっとゾクッとしてしまった。だって、状況がよくわかってないけど、俺を支えて俺の後ろで声を出したのは、紛れも無く柴崎さんだったから。
「えーと、あのぅ……」
「……いえ、確かにちょっと迷惑ですけどね。腐れ縁で、何故かずっと面倒見てきたから今更ですよ。なんせ、小1の頃からの付き合いで、高校のときなんて年単位で同じ部屋に暮らしてたくらいですから」
黒木は少しの間のあと、相変わらずの綺麗な愛想笑いで明るく言った。
「だーれが、いつ、おまえに面倒みられたんだよっ、ばーかっ」
「……お前酔うと相変わらずだね。でもさあ、前にお前が酔ったときなんて……」
「……今は、かんけいないじゃん……」
そんなやり取りをしていると、柴崎さんは無言で俺の腕を掴む力を強めた、気がした。
「……まあとにかく、そいつウザいでしょう。仕方ないから俺が送っていきますよ。部長さんにも頼まれてますから」
そう言って黒木は、俺の腕をとろうとした。
絶対に嫌々だ。さりげなく俺を落としつつ面倒見のよさをアピールして自分の株をあげようとするとは、心底嫌なやつ。
俺には分かってる。二人になって他人の目がなくなったら、俺を放って女の子のところに行くのが黒木だ。
……でも、確かに柴崎さんにウザイって思われるのは嫌だ。ただでさえ嫌われてるみたいなのに、迷惑かけて余計に疎まれたら……悲しい。
俺は再び柴崎さんから離れようとした、のだけど。
「……問題ない。こいつは今はうちの部員だ。部員の面倒はこちらで見る。……君は気兼ねなく楽しめばいい」
「しばさきさん……」
柴崎さんの言葉は意外なものだった。俺はちょっと、かなり感動する。
部員なら誰にだって同じ扱いなんだろうけど、それはそれとしてすごく、嬉しい。元から体が熱いのに、柴崎さんの胸の熱も感じられて、更に顔までカーッと赤くなってる感じがする。
黒木は一瞬押し黙った後、外面にしてはちょっと皮肉っぽく笑った。
「……へえ、随分面倒見がいいんですね。尊敬するなあ。でもそいつの家はわからないんじゃないですか?どうせ俺の家と近いから、送るときは俺が――」
「くろきくーん!」
と、黒木が話す途中で、鈴を鳴らしたみたいな声が響いた。多分佐藤さんだ。
「黒木くーん、どこぉー? 寂しくて死んじゃうよぉー。……えーん、えーん…………。柴崎さんでもいいー。柴崎さーん。イケメンー」
「……」
「……」
「……」
ちょっと妙だった空気が切り裂かれて、沈黙が走る。
……佐藤さん、そういえば酒癖悪いって言ってたなあ。それにしてもどっちでもいいみたいなのはどうかと思う。柴崎さんと黒木を並べるなんて失礼な話だ。俺のことも呼んでくれ。
「くろきくーん……どこー……?」
「……ちょっと行ってきます。……川島、これ以上迷惑かけるなよ。柴崎さん、そいつ一人で個室にでも座らせておけばいいですから」
黒木は苦々しい顔で俺に釘を差すとトイレを出た。
この店は落ち着いた雰囲気だし、シフト外とはいえ名指しで騒がれたら無視はできなかったんだろう。
ドア越しに小さく二人の声が聞こえた。黒木が顔を見せたら佐藤さんも多分落ち着いたらしい。……ああ、やっぱりこの後二人でどっかに行ったりするのかな。
嫌な想像をしてみたものの実は今はそれどころじゃなかったりする。いつまでも背中の体温を意識せずにいるのは不可能だった。
俺の鼓動はバカみたいに高鳴りだした。
迷惑かけちゃ駄目だ。
「しばさき、さん。ごめんなさい。あいつむかつくけど、えっと……なんだっけ……」
あれ、何言おうとしてたっけ。なんて考えながら、ふらふらと柴崎さんのほうを見て。
目が合って、ものすごくドキリとした。
「あ……」
やっぱり、嫌われてるのかなって思う、恐い顔。それでも相変わらず俺の腕を離すことはなくて、それが恐いんだけど、なんだか無性に嬉しかった。
「あの……」
「……お前」
何か言わなきゃ、って思ったとき、その言葉を柴崎さんに遮られる。
「何をしていた」
「へ……」
「何を……」
恐い顔……。そのセリフ、前にも聞いた気がする。そのときも多分怒ってた。何をって、俺、何をしてたんだっけ……?
「俺が入ってきたとき――」
「……ああ、」
柴崎さんが来たとき――。そうだ、黒木に、嫌がらせしてやろうと思ったんだ。あいつが嫌がること。あいつに――。
「えっと、くろきのやろうに、キスをしようとしてましたぁ……」
俺はへらっと笑って言った。だって、俺があいつにキス、なんて、すごく滑稽すぎるし。柴崎さんは俺たちのひどい関係知ってるし。だからきっと、なにやってるんだって苦笑くらいしてくれるかもしれない。
そんなふうに思ってたのに。
「え……」
柴崎さんはそりゃあもう恐ろしい顔を緩めるどころか、更に眉間に皺を寄せて……なんかもう、人を殺したい衝動を堪えているような顔に……。いや失礼だけど、本当にそんな顔になっていた。
そして俺が震える間も与えず、俺を壁に押し付けてきた。
こ、恐い……。
「し、しばさきさん……? なんか、えっと、ご、ごめんなさい……」
何が駄目だったのか解らないけど、俺は柴崎さんを見上げて必死で謝った。やっぱり眉間に深い皺を刻んだままの、すごく恐いのにすごく色気のある柴崎さんと目が合う。次の瞬間。
「……!?んっ、んっ」
え――、え――――?
俺の唇を、なにかとても熱いものが覆った。
何かっていうか、これって、これって……――――。
「!?んっ、はっ、んぅ……」
深く合わさった『それ』から、あついものが侵入してくる。
……いや、アレとかソレとかじゃなくて、これはどう考えても……。
反射的に閉じた目をそっと開けたら、肌のドアップが見えた。
――――これは、どう考えても、『キス』って、ヤツじゃないのか――――!?
「んんっ、ん、ぅ……」
考えている間にも、俺の口内では激しく舌が蠢いていた。舌で上顎を撫で、舌の付け根を吸い、歯列を舐め上げられる。
――なに、これ。俺の、ファーストキス……が……。可愛い女の子と、観覧車でする予定だったファーストキスが……。
なんて現実逃避しても無駄だった。そのキスは息苦しくなるほど激しくて、口の中がゾクゾクして、俺は全くの未知の快感にされるがままだった。
「はっ、ぁ、ん……」
舌を少し外に出して吸われると、濡れたいやらしい音が少し出て、恥ずかしすぎた。訳がわからない中で舌に粘膜を舐められ、膝ががくがくして立っていられなくなった。
俺の体を、熱い腕が支える。ついでに脚が脚の間に滑り込んできて、酷くやらしく思えて体がびくりと震えた。
「あぁっ、んっ、ん……」
唾液の音と、俺の声とは思えないような声が響く。
キスって、こんなに長くするものなの……?柴崎さんの舌も吐息も体も、火傷しちゃうんじゃないかってくらい、熱い。やばい、気持ちいい。けど……頭が、ぼーっとして……。
ようやく唇が離れたとき、俺は意識が飛びかけていた。
それでもぼうっと目を開くと――微かに頬を上気させた、色気がだだ漏れな柴崎さんが見えた。目が潤んで、はっきりとは見えなかったけれど。
「……っ」
柴崎さんは俺の体を支えるように腕をまわしてきた。
ああ、もうちょっと顔、見てたかったのにな。まあ俺のだらしなくなってそうな顔を見られるよりいいか。……あれ?というか、俺、キス……柴崎……さんと……。
「……おい?」
遠くに声が聞こえる。でも俺の閉じた瞼が開かれることはなかった。色々と、限界だった。
◇◇
「ん…………?」
初めに感じたのは、酷い頭の痛みと不快感だった。風邪でもひいてしまったのだろうか。のろのろと重いまぶたを持ち上げた。
「……あれ」
視界に見慣れない天井が広がる。……ここがどこなのか起き抜けの脳には見当もつかない。
ずきずきと痛む頭を抱えながら体を起こし、周りを見回す。清潔だけど物が少ない、悪く言えば殺風景だった。とりあえず女の子の部屋ではなさそうだ。どうやらアパートの一室で、俺は窓側に敷かれた布団に寝ていたらしい。
それにしてもしかし、まったく身に覚えが無い。
ふと自分の体を見ると、上半身裸でパンツしか穿いていなかった。熱くて脱いだのだろうか。
「あ、そっか、昨日飲み会で……俺、なんかやらかした……?」
昨日のことを思い出そうとして、頭が痛んだ。
昨日、梟で飲み会をして……黒木が早速女の子を惹きつけて、柴崎さんは不機嫌そうで悲しくなって……で、確か間違えて焼酎をイッキしちゃって……それから……それから……?
「頭いた……」
どうやら、思いっきり記憶を飛ばしてしまったらしい。絶対にやるまいと思っていたのに、みんなに醜態を晒してしまったのだろうか。……恥ずかしい。
ってことは、ここは……部長あたりの家……? と推測していると。
「……起きたのか」
「え、うわぁっ」
ドアが開いて現れたのは……柴崎さんだった。いつもと変わらない整って無表情な顔…………いや、いつもより疲れていないだろうか。寝ていないのかもしれない。
「あ、あのっ、俺、どうしてここに!?昨日迷惑かけてしまったのでしょうかっ……。俺、恥ずかしながら途中から記憶があいまいで……」
謝罪と言い訳を捲くし立てると、柴崎さんの眉間に皺が寄った。ただでさえ憔悴した顔に凄みがあるので、ものすごく……恐い。
「あのう……柴崎さん?」
「……覚えていないのか」
「えっ……」
……そう言われて必死に思い出そうとしても……やっぱり頭が痛くなるのみだ。
「ホントにごめんなさい、ご迷惑おかけして。誠心誠意つぐないます!」
必死で柴崎さんの目を見て言うと、やっぱりそっぽを向かれたあげく溜め息を吐かれた。
「……別にいい。それより……さっさと服を着ろ」
「服……うわっ、すいません!」
しまった、貧弱な体を柴崎さんに晒してしまうとは。俺はあたふたと、隣に畳んであったシャツを着た。そして反対方向を向いている柴崎さんに恐る恐る尋ねる。
「あの……ホントにすみません。柴崎さん、寝てないんですよね? 俺布団を独占しちゃって……床に転がしておいてくれればよかったんですけど……って今更遅いですよね。いっそ一緒の布団で寝れば……なんちゃ……って……」
発言の途中で柴崎さんに睨まれてしまった。が、すぐにまた目を逸らされる。
「……おい」
「……はい?」
「……下も早く穿け」
「……え、あっ!」
シャツを着て安心していたが、そういえばパンツ一丁のままだった。もう色々と、踏んだり蹴ったりだった。
ようやくジーンズを身につけたところで、不意に俺のバッグが震えた。電話だ。
「あ……」
「……出るといい」
柴崎さんはそう言うと静かに部屋を出て行った。俺は申し訳なさに項垂れつつ、バッグに手を伸ばした。
「もしもし……」
『……あ、川島?』
「げ、黒木っ……」
『げって何? 昨日どれだけお前が酷かったか、俺にまで迷惑かけたか、どうせ覚えてないんだろうな』
「うっ……」
なんということだ。またしても俺は黒木に弱味を握られてしまったのか。というか、そんなに酷かったのか、昨日の俺。あんな大人数の前で。
『お前、昨日佐藤さんの胸をガン見してたよ』
「えぇっ」
な、なんだと!? あの、推定Dカップを、そんなまさか……。
『それから、佐藤さんとやりたいって言ってた』
「うっ、うそだっ!」
『マジだよ。ドン引きだったよみんな』
な、なんてことだ。やりたいなんてそんな、最低すぎる。いや、まさかそんなこと……俺そういうことはホントに好きな子としかしたくないはずだ。初めては両思いの子と何度目かのデートした後自然な流れで……って、中学生の頃から決めていた。まさかそんな……。
でも酔って本性が出てセクハラしちゃうようなヤツっているし……俺の本性ってそんなだったのか!? 自分に失望するし、好感度だだ下がりだ……。
『で、お前今どこにいるの?』
「え?」
俺がものすごーくグルグル悩んでいる間に、不意に黒木が聞いてきた。先ほどより、少し真面目な声で。
『いつの間にか帰ってたから。俺が佐藤さんの相手してる間に』
「……今、柴崎さんの家にいる。それよりお前、まさか佐藤さんと」
こいつが相手というといやらしい連想をしてしまう。聞き捨てなら無いぞ。
『――へえ、柴崎さんの家ね』
「そう。それはともかく、佐藤さんをどうにかしたのか」
『…………体とか、痛かったりしない?』
さっきから話が噛み合ってない気がする。黒木にしては物言いにキレがない。
「え……そりゃ、頭が痛くて、ちょっと気持ち悪いけど」
『他は?体とか』
「……他は特に。何で? で、お前将棋部のアイドルを……」
『あっそう。とにかくこれ以上柴崎さんに迷惑かけてウザがられないように、さっさと帰ることだね』
「う、うるさいなあっ、わかってるよっ」
ムカつくが、黒木の言うことももっともだ。全く腹立たしいかぎりだけど。
『……川島』
「うん?」
『本当に、何も覚えてないの?』
「え……」
再び、黒木は少し真面目な声で聞いてきた。……そう言われても、やはり覚えていないものは覚えていない。
「……悪かったよ。覚えてなくて」
非常に不本意ながら謝った。黒木にも多少なりとも迷惑をかけたことは確かなようだったから。
『……まあいいけど。これからは人と飲むの本当にやめたほうがいいよ。周りが可哀想だからね』
「……」
『どうしても飲みたいときは付き合ってやってもいいけど。俺が死ぬほど暇だったらな』
「え……?」
唐突に出た意外な言葉に、俺は首を傾げた。
『引き立て役としては悪くないからね。そんなことしなくても女はいくらでもひっかかるけど。素面のつまらないお前よりは、ちょっとは面白いしね』
「……そんな理由かよ……」
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ友情というものを期待した俺は、やっぱり項垂れることになったのだった。
そういえばこいつ、俺をからかう為だけに電話してきたのか?……いや、こいつは無駄な時間は使わないって主義だ。俺に押し付けたい用があるならとっくに切り出しているはず。つまり……。
「黒木」
『何?』
「……心配してくれて、ありがとう」
俺は久しぶりに、黒木に謝罪じゃなくて感謝の言葉を言った。あまり考えもせず、自然と口が開いたのだ。
『誰が、心配したって? 全裸で警察の世話にでもなってたら、見物に行こうと思ってただけだよ』
……しかし黒木は、相変わらず馬鹿にしきったことを言う。
「ぜ、全裸じゃない! パンツは穿いてたって!」
『………………は? パンツ?』
……余計なことを口走ってしまった。
「……」
「あ、柴崎さん」
ちょうど電話を切ったところで、柴崎さんが入ってきた。手には水のペットボトルを持っていて、俺はついごくりと唾を飲んだ。
「……飲め」
「あ、ありがとうございます!」
俺は一気に水を喉に流し込んだ。ほどよく冷えていて、重くてだるい体に気持ちよく染み渡った。
「……川島」
「ぷはっ……はい?」
珍しく名前を呼んでくれたな、と思って柴崎さんを見た。相変わらず睡眠不足のせいか目元がちょっといつもと違うけど、いくらか表情は和らいだように見える。
「……俺は、お前を嫌ってはいない」
「えっ……」
柴崎さんはそう言うと、俺の頭に手を置いた。まるで小動物を撫でるみたいに、小さく手を動かす。
しかしそれは一瞬で、すぐにはっとしたように手を離し、立ち上がって部屋を出てしまった。あっという間の出来事で、俺は一瞬呆然としたが。
「……なんで、こんなに嬉しいんだ……」
酷く胸が高鳴って、じっとしていられなくて、俺はつい布団の上をごろごろと転がった。
最後に見えた柴崎さんの表情は、あの日見たものと同じだった。
わかりにくいけれど、微かに目元を染め、険が取れて照れたような顔。
「……ああああ、やっぱり、可愛いじゃないか」
すぐに帰ろうと決めていたのになあ。俺は立ち上がる余裕も無く、しばらく柴崎さんの布団の上でごろごろと転がり続けるのだった。
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