my knight 02 03
ヴェリオス王国の南端、ハランド公爵領。農業と民芸品が主要産業ののどかな地だ。
(戻ってきた……久しぶりだ)
「付きましたよ、坊ちゃん」
「ありがとう」
豊かな木々が日差しを受けて輝き、懐かしい匂いがする。エイナルは乗っていた馬車から足早に降りた。サラリとした黒髪が風に揺れる。まだ線が細い若い肢体に、色白の穏やかな顔立ち。黒目がちな瞳を細め生まれ育った館を見上げる。
エイナルは士官学校に通うため15歳で王都に上った。
無事卒業したエイナルがこの土地に戻ってくるのは数年ぶりのことだ。風景が変わっていなくて安堵した。
「兄上、ただいま戻りました」
「エイナル、よくぞ戻った。うん、いくらか逞しくなったようだな。全く帰省しないから、王都でよくない遊びを覚えたのではないかと心配したぞ。これからは傍に仕えて、私達を支えてくれよ」
「はい、兄上。我が剣に誓って」
「はは、一人前の騎士のようだ。だがお前も公爵家の一員なのだ。臣下のような態度を取る必要はないよ。さ、もっとこちらに来て顔を見せておくれ」
エイナルに気さくに声をかける男は、エイナルの歳の離れた兄、ハランド公アルセニーだ。公爵家の血筋が色濃く出た太陽のような金髪に、海のような青い瞳、そして逞しい体格。まだ32歳と若いが、ハランド家当主として他家に引けを取る部分は一つもない。
5年前に兄弟の父である前公爵が身罷られてから、公爵家を取り仕切っている。
兄弟といってもアルセニーは前公爵夫人の嫡男で、生まれながらに正当な跡取りである一方、エイナルは父が戯れに手を出した侍女の子で、庶子である。
アルセニーとエイナルの間には更に兄弟が2人おり、すでにアルセニーの夫人は次の後継者となる男子を生んでいる。エイナルの役割はたかが知れていると自覚していた。母は後ろ盾の弱いエイナルを心配して、分不相応な野望は抱かず公爵家に仕えてほしいと幼い頃から言って聞かせきたのも、少なからずエイナルの人格に影響を与えている。兄弟達が蔑視することなく可愛がってくれたのは救いだった。
不幸なことに、前公爵夫人もエイナルの母も流行り病で早逝してしまった。お家騒動に発展してもおかしくない状況をアルセニーは完璧にまとめ上げた。おかげでエイナルは今も平穏な生活を送れている。
「全く、三年間手紙だけよこして帰省しないとは、兄不孝者だな。成績は優秀だったと聞いているが、本当にこっそりとおかしな遊びに手を出したりはしていないだろうね」
「そんなことはしていません。遊びながら勉学に励む余裕がなどありませんでしたから」
そうは答えたものの、実際にはただ単に、郷愁の念にかられる心を断ち切るためであった。のどかな土地で甘やかされて育ったエイナルは、同年代の者達より子供っぽいところがあることを、士官学校で自覚せざるを得なかったのだ。
「お前は賢い子だろうに。まあいい。学校では親しい友人はできたか。恋人は?」
「友人には恵まれました。しかし恋人は、男ばかりの士官学校では無縁でしたよ」
「そうか。いや、あそこは男ばかりの環境だろう。大きな声では言えないが男色がまかり通っていたからな。お前に何事もなかったのであれば、幸いであった」
「ま、まさかそんな……僕にはそういう趣味はありませんから」
確かに周りにはそういう人間もいたようだ。だがエイナルはスキンシップ過多に接せられたことは何度かあれど、はっきりとそういった意図を抱かれたことはない、と認識している。自分にはそういったことは考えられないし、相手にも冗談以上の意味は感じられなかった。
その後もあれやこれやと仕官学校時代のことを聞いてくる兄に、エイナルは内心で苦笑する。
と、アルセニーが思い出したように声をあげる。
「そうそう、正式に公爵家の一員となるお前に、騎士を付ける。優秀な男だぞ。――サイラス!」
(――サ、サイラスだって?)
心臓がにわかに激しい音を立てる。
部屋の外に控えていた青年が、かつかつと靴を鳴らして室内へ入ってくる。
アルセニーよりもいくらか色素の濃い金髪に、ややくすんだ碧眼。通った鼻筋に鋭利な美貌――サイラス・フレモントは、二人の前で恭しく膝をつく。
「お呼びでしょうか、閣下」
「サイラス、お前を今日付でエイナルの騎士とする。若年のエイナルをしっかり支えてやってくれ」
「かしこまりました。我が剣にかけて、エイナル様にお仕えします」
二人のやりとりにエイナルは驚く。優秀なサイラスを自分の騎士としたがる者は多く、エイナルの兄達も含め、3年前から引く手あまたであった。なぜ未熟な庶子でしかない自分に?
「お、お待ちください兄上。フレモント家の優秀な騎士を僕になど、もったいない話です」
「優秀だからこそだよ。しばらくはサイラスに色々と学ばせてもらいなさい。彼は政治にも明るい。お前には早く一人前になってほしいからね」
エイナルは困惑する。サイラスは、代々公爵家に仕えるフレモント家の次男だ。一族の右腕を担う騎士を多く輩出している家系の中でも、特に素晴らしい器量だと評判だった。
エイナルも、遠目で見ることが多かった彼に、密かに男として憧れを抱いていたこともあった。
「サ、サイラスは、僕なんかに仕えるのは不満ではないのか」
「不満など、滅相もありません。私は閣下の命に従うまでです」
サイラスは、にべもなく即答する。
「エイナル、サイラスに自分はもったいないなどと思わずに、自分がサイラスが仕えるに値する人間になろうと努力すればいい。いいね?」
アルセニーは穏やかでエイナルには甘いが、一度決めたことを簡単に覆しはしない。エイナルは内心で溜め息をつく。
「……かしこまりました、兄上。サイラス、至らない主君だが、早く一人前になれるよう努力するよ。よろしく頼む」
(とは言ったけど……絶対に本心では不満だろうな)
表情の読めないサイラスの美貌を見て、エイナルは途方にくれた。
「エイナル様、こちらの書類は間違っています。去年は例年より小麦が不作でした。ですから輸出値は……」
「あ、ああ……ごめん」
サイラスに指摘され、エイナルは慌てて書類に目を走らせる。
サイラスがエイナルに仕えるようになって1ヶ月。サイラスは、噂どおり優秀で隙のない人間だった。
政治や学問にも明るく、エイナルの細かなミスもすぐに見つける。執務の補佐ばかりでなまってしまうのではないかと思いきや剣の腕も冴え渡り、一度稽古の様子を見たときは圧倒された。
だが何というか、非常に固く、人間味が薄く感じられるのだ。事務的で表情のないサイラスに、エイナルはいたたまれなくなることが多かった。
(昔はもっと、寡黙ながらも優しい顔をする人だと思ってたんだけどなあ。数えるほどしか話したことないけどさ)
「エイナル様、手が止まっていますよ」
「う、うん!今直すよ」
「――エイナル様。公務中は、公務に集中してくださるよう。あなたの些細な間違いで、領民の生活に多大な影響を及ぼすことがあるかもしれないのですよ」
「……は、はい。ごめんなさい」
サイラスの正論に、士官学校の教官に怒られたときのような気持ちになり、つい敬語で謝る。
苛つかれている。それはそうだ。父親の血筋がいいだけの平凡な子供に対して、王都にまで名声が響く優秀な騎士。不相応にすぎる。サイラスが仕えるに値する人間になれる日は来るのか。もしかしたら一生来ないのかもしれない。
エイナルは憂鬱になりつつも頭を振って、目の前の仕事に集中するよう努めた。
「どうだ、公務の方は身に付きそうか?」
夕食の席。アルセニーがにこやかに話を振る。
「……まだまだわからないことだらけです。サイラスには迷惑をかけっぱなしです」
「そうか。まあ焦る必要はない。しっかり学びなさい。お前はまだ若いのだから」
「しかし……本当に彼は僕にはもったいない気がします」
「そう気負うな。厳しい態度をとられているかもしれないが、期待の裏返しだろう」
兄は本当にエイナルを想ってくれているようだが、エイナルの心中は不安が勝っていた。
(それは、ないと思う。僕は本当に平凡だ。兄上やサイラスとは器が違いすぎる)
「ね、エイナル兄さまがいらないというなら、サイラスを私の騎士にしたいわ」
鈴を転がすような声が響く。エイナルの向かいに座る、愛らしいブロンドの少女――今年15になる公妹、ローゼだ。
彼女はアルセニーと同腹の妹で、まだ幼さが残るもののかなりの器量よしだ。未だ決まった相手はおらず、社交界に出ればあちこちの子息からさぞ人気が出るだろう、と噂されている。
「ローゼ。お前に仕えている者たちでは不満か?」
「不満なわけじゃありません。彼らはよくやってる。でもサイラスは特別だわ。エイナルお兄様がサイラスを気に入っていないなら、もったいないじゃない。どうせなら仕えられることに喜びを感じる者のほうが」
「……そのほうがいいかもしれません。ローゼもこれから王都に赴くことになる。そのときに誰にも引けを取らない騎士がいれば、安心できることでしょう」
サイラスを気に入っているらしいローゼに、エイナルは条件反射のように同意する。しかし、内心ではもやもやしたものを感じた。
アルセニーは溜め息をついて言う。
「エイナル、本当にそうしたほうがいいと思っているのかい?」
「……それは……」
アルセニーの言葉に、口ごもる。
「だって、私二人が話してらっしゃるのを見たけど、なんだか二人とも、ぎこちなく見えたというか……あれではお互い気詰まりしてしまいそうで」
「ローゼ、少し黙っていなさい」
「……っ、ごめんなさい」
アルセニーに静かに諭され、ローゼはしょげて下を向く。エイナルの心中は更に複雑になった。
(ローゼはまだ少し子供っぽいだけで、美人で賢い。楽器や語学の才もある。いずれ他家に嫁ぐことになるけど、嫁ぎ先でこそ臣下の手腕が試されるだろう。サイラスにとってどちらに仕えたほうがやりがいがあるか、考えるまでもない)
兄弟仲はよくとも、エイナルの中には消しきれない劣等感があった。
王都では所詮庶子、身分不確かな女の息子だと言われた。美しい金髪揃いのハランド家の血筋とは思えないと、黒い髪を揶揄された。
勉学も剣の腕も、劣らないよう必死についていっただけで特別な才能はない。
母親やきょうだいのことは愛しているし、自分が恵まれた環境にいる自覚もある。
しかし優秀な人間に囲まれ、ふとしたときに比べて落ち込んでしまう癖は昔から治らなかった。
アルセニーがまた溜め息を吐く。
「ああ、どうしてもと言うなら私がサイラスにも伺うとするよ。彼がエイナルに仕えることを不満としているなら、そのときは考えよう」
「……はい」
「お兄様、私、別にサイラスが不満を抱いていると思ってる訳じゃなくて…」
「わかっているよ。――さあ、この話は終わりだ。ローゼ、ヴァイオリンのコンテストの練習は進んでいるかい?」
「あ、はい!今年やる曲は……」
アルセニーが話を断ち切り、サイラスの話題は終わった。エイナルは不可解な動揺を持て余したままだった。
その日の夜、エイナルは館を抜け出していた。裏手にある小高い丘の中腹。足首のあたりまで生い茂った美しい草花とそこから見える景色は、幼い頃からエイナルのお気に入りだった。
(サイラスは、ローゼに仕えたいと言うんだろうか。彼のことだから、私情は捨てて兄上に従うのかな)
エイナルは座り込んで考える。
サイラスが自分につくと聞いたとき、嬉しいと思う気持ちもあった。ただ戸惑いの方が勝っていたのが事実だ。
子供の頃、遠目から彼を眺めてまず抱いた感情は憧れだった。だがそれと同時に、密かなコンプレックスを刺激されもした。
サイラスは、エイナルと比べて遥かに、公爵家にふさわしい人間に思えた。自分の明るさのかけらも無い漆黒の髪に比べ、ハランド家らしいそれに勝るとも劣らない高貴な金髪。優秀な頭脳と剣技。
サイラスを見ていると、どうして自分は中途半端な存在なのだろうと、考えずにいられなくなるのだ。
「ダメな奴だな、僕って……」
これは嫉妬なのだ、多分。
(ローゼがサイラスを欲したとき、すごくもやもやした。彼の存在に戸惑っているくせに、離れて他の誰かに彼が尽くすというのも快くない。勝手な考えだ)
心の中で自虐する。
(もし僕が、半端に公爵家の人間じゃなかったら、きっと素直にサイラスに憧れ続けていられたんだろうな。でも僕がこの家の人間でなかったら、そもそも出会うこともなかったか。それは……)
エイナルは寝転がって星を眺めた。夜空に輝く満点の星。夜になると地上の灯りは消え失せ、その分王都で見るよりたくさんの星を認識できた。
「――エイナル様!」
ふいに、少し低い土地から名を呼ばれる。
「サイラス?」
声の主はサイラスだった。いつもと違い私服で、珍しく息が微かに乱れている。
「ど、どうしてここに?こんな夜半に」
「それはこちらがお聞きしたい。少々伺いたいことがあってあなたの部屋へ行ってももぬけの殻……誰にも告げずにこんな時間に館を抜け出すのは、関心しませんね」
サイラスはいつもの冷静沈着な口調より、わずかに語気を荒らげて言う。
「すまない。ただもう子供じゃないし、星を少し見たかっただけだよ。――それで、聞きたいことって?」
「あなたが、私をローゼ様につけるべきだと言ったそうですね。どういうつもりでいらっしゃったのかと」
「そ、それは……その方が、ローゼにとっても、君にとってもいいことではないかと考えて」
エイナルは戸惑う。アルセニーはあの後、いち早くサイラスに伺ったらしい。
「ローゼ様のことはいい。あなたは自分の意志でそう言ったのではないのですか。私は今の務めを不服に思ったことなどありません。――あなたは違ったようですが」
不謹慎ながら、エイナルは憮然と言われたその言葉に喜びを感じた。ローゼよりも自分を選んでくれたと。
「すまない……ただ僕は、平凡な人間だ。何か、大きなことを為せるような才覚はない。君にはローゼのような美しくて才ある人間に仕えるほうが似合っているかと」
サイラスは、美しい金髪を軽くかき上げ呆れたように言った。
「エイナル様、我が国では、騎士が一度定まった主君をおいそれと変える事は、不義理と誹りを受けます。ローゼ様は関係ありません。私に不忠者呼ばわりされる騎士になれとおっしゃるのですか」
やはり少し不機嫌な、憮然とした声。その言葉を聞いて、今度は背筋が冷たくなる。
――サイラスの気持ちなど、全く理解できていなかった。彼は騎士の中の騎士なのだ。心中に不満が渦巻いていても、必ず騎士としての己を優先させる。
(……そう、義理堅い彼だからだ。一瞬でも、ローゼより僕を選んでくれたなんて思った僕は、なんておろかなんだろう)
エイナルはズキリと痛んだ胸の痛みを誤魔化すように、立ち上がる。
「サイラス、すまなかった。馬鹿なことを言った。これからはせめて、精一杯努力してみせる。君の役目は教育係だろう。僕が一人前になったときに離れるのであれば、不義理にはあたらないだろう」
自分に言い聞かせるようにやや早口でまくし立てた。サイラスからの返事は無かった。
「……戻ろうか」
結局館に戻るまで、二人は無言だった。
(早く一人前の男になろう。そしてサイラスを解放する。それが、彼と自分の為なんだ――。)
それから、エイナルは以前よりも必死に勉学に励むようになった。サイラスは態度を変えることなく己の勤めを果たしていた。
そんなある日のこと。
「エイナル様にお客様がいらっしゃっています。シュッセル家のロベルト様と……」
「ロベルトだって? わかった、すぐに行くよ」
使用人の報せを受け、エイナルは慌てて客間へ急ぐ。
「ロベルト!」
「ああ、エイナル。久しぶりだな!」
栗色の髪の、甘い顔立ちの青年が明るい声で応じる。
「士官学校修了以来だから、3ヶ月ぶりか。どうしてまた、お前が急にこんなところに?」
くつろいでいたロベルト・シュッセルはエイナルに気づくと駆け寄ってきた。彼は仕官学校時代の友人だ。王家に仕える名門家系の嫡男で、そうそう王都を離れることはないはずなのだが。
「姉がリドーに嫁いだんだ。その祝いの帰りさ」
「リドーに……そうか、それはめでたい。おめでとう」
「ありがとう。しかしそのおかげで形式ばってる席が続いてね。気疲れしてしまったから、お前に会いに来たんだよ」
リドーとはここヴェリオス王国の南に位置する小国で、王都と行き来するなら確かにハランド領を通る必要がある。
「また変なことを言って。まあ、折角来てくれたんだ。大したもてなしはできないけれど、ゆっくりしていってくれ」
「ありがとう。ここはいいところだ。領民は穏やかで景色は美しい。疲れた心が洗われるようだよ」
「のどかさが長所だからね」
久しぶりの同級生との再会に、エイナルの気分は良くなる。ここ最近は公務を覚えることに必死だったし、同年代の友人との触れ合いは懐かしかった。
「お前の兄上に先ほど挨拶したよ。人当たりはいいが鋭い目をしていて、世間話をしながらリドーの情勢について探りを入れてきた。噂どおり大器のようだ。それに男前だな。傍にはべりたい女が後を断たんだろう」
「なんだ、もう兄上にお会いしてたのか」
「当然。滞在するならまず公爵様にお伺いを立てるのが筋だろう」
「相変わらずそつがないな。じゃあ、少し館を案内するよ」
ロベルトを促し、二人並んで部屋を出る。
「いい館だな。この建築構造は、リドーのものも混ざってるのか。デザイン自体はわが国の伝統のもの、だが支柱などは三代目王の時代に流行った……」
ロベルトは博識で饒舌だ。昔から飄々として、浮いた噂の絶たない男だが、士官学校でも全般的に成績優秀で、要領のいい男だった。
(嫌味なくらいに女性から秋波が絶えなかったな。性格は全く違うけど、それこそサイラスと同じくらいに。意外に紳士的で女性を傷つけないようあしらうのが上手いところも似ているかもしれない)
「エイナル様、少しよろしいでしょうか」
ふと思い浮かべた男から声がかかった。サイラスはロベルトに気づくとわずかに目を瞠る。
「これは、お客様がおいででしたか。失礼いたしました」
「いや、気安い関係だから大丈夫だよ。彼はシュッセル家の子息で名はロベルト・シュッセル。仕官学校時代の友人なんだ」
一方のロベルトは、愛想の良い彼にしては珍しく、訝しむような視線をサイラスに向ける。
「エイナル、彼のことも紹介してくれないか」
「ああ、ごめん。彼はサイラス・フレモント。素晴らしく優秀な騎士で、今は僕にいろいろと指導してくれているんだ」
「ふーん……指導ねえ」
「……エイナル様、後ほど、来月の視察についてお話したいことがあります。今はこれで失礼いたします」
ロベルトの遠慮のない視線に、サイラスは表情を変えることなくその場を立ち去った。
ロベルトは後姿を見送った後、憮然とした声で言う。
「確かに只者じゃなさそうだ。だが、由緒正しい公爵仕えの騎士にしては無愛想すぎるんじゃないか」
「ご、ごめん。普段からあんな感じなんだ。無口で仕事熱心なだけで」
そう言いつつも、エイナルは内心で首を傾げる。確かにサイラスはお世辞にも愛想がいいわけではないが、客人に対する礼儀などはよくわきまえているはずなのに。
(きっと忙しかったか、半人前のくせに友達と遊んでる僕に苛ついたのかもしれない)
「ま、いいや。公爵が、美術品を是非見ていけとおっしゃってくださったんだ。案内してくれないか」
「ああ、もちろん」
胸にひっかかるものがあったものの考える間もなく、エイナルは慌てて歩き出した。
◇◇
「いやあ、お前の家の料理人は素晴らしいな。それに食材も上質だ。あんなに旨いラム肉は初めて食べたよ」
その日の夕食後。遠慮なく食事と会話を楽しんだロベルトが、腹をさすりながら言う。
「以前は王室で晩餐を作っていたこともあったんだって。大分年をとったからと故郷に辞してきたんだけど、腕前は現役だ」
「へえ。正直お前から出身地を聞いたときは片田舎と侮ってたけど、謝るよ。人も風土も質が高い。リドーの食事は塩辛くて馴染まなくてね。久々に本当に旨いものを食べたよ」
「失礼なやつ。まあ、あとで料理人に言っておくよ。きっと喜ぶ」
「頼むよ。っと、そうそう、実はリドーで仕入れたとっておきのワインがあるんだ。食事と違って塩辛くない。甘口だから、お前の口にも合うと思うぞ」
楽しげに誘われて、エイナルは困惑する。
「うーん、僕はあまりお酒は得意じゃないんだ……兄上達と飲んだことがあるんだけど、途中で記憶が飛んでしまって。翌朝にもう飲みすぎるなよと嗜められたくらいだから、迷惑をかける性質なのだと思う」
だがロベルトは引かなかった。
「まあまあいいじゃないか。もしそうなっても俺が介抱してやるし、せっかく久しぶりに顔を合わせて、いいワインもある。次に会えるのがいつになるのかもわからないんだから。それとも、俺との夜はお前にとっては取るに足らないものでしかないか?」
そう言われてしまっては、エイナルに断るすべはなかった。
「わかったよ、一杯くらいなら。酔ってきたら水しか飲まないけど文句は言わないでくれよ」
「そうこなくっちゃな!じゃ、お前の部屋でいいか?」
「ああ。近くにはきょうだいの寝室があるからあまり大きな声を出したら駄目だよ」
「……んー、そうだな。お前もな」
なにか含みがある風に言われたが、飄々としているのはいつものことなので、特に気にも留めなかった。
「じゃ、二人の素晴らしい夜に乾杯!」
「どこの女性を口説いたセリフだ。乾杯」
テーブルを挟んでひとりがけのソファに座り、ワイングラスを傾けて鳴らす。
「ああ、いいワインだ。お前も味わえ」
気障ったらしくグラスを廻しながら促され、エイナルも恐る恐る口をつける。
「……おいしい」
「だろ?どんどん飲めよ。違う年代のものもまだまだあるからな」
「さすがにそんなには飲めないよ」
ロベルトの 持ってきたワインは、想像以上に甘くまろやかな口当たりで飲みやすく、これならば苦もなく進んでしまいそうだ。
(そういえば、サイラスもワインが好きみたいだな。侍女の子が給料でワインを送りたいって言ってたっけ)
「お前、士官学校時代は誘っても飲まなかったからな。ずっと機会を窺ってたんだ」
ロベルトは愉快そうに言う。
「機会って……僕と飲んだってそう楽しくないと思うよ。同じような酒豪とか、美しい女性と飲むのが好きなんだろう」
「そうでもないさ……お前の花のかんばせを眺めながら極上のワインをたしなむ。男としてこれ以上の幸せがあろうか」
ロベルトの場に不似合いな甘い物言いに、エイナルは苦笑して腕を抱き合わせるしぐさをする。
「鳥肌が立ったじゃないか。貴婦人にとっての甘い口説き文句も、僕に使ってしまっては道化のようだ」
なんだか楽しくなってきて、エイナルは笑いながら言う。
「俺は本気で言ってるよ。仕官学校時代だって、お前に不埒な思いを抱いている奴はいた」
「……まさかぁ」
ぞっとしない話だと思う。
「お前は鈍いからな。ムジル教官なんか、あからさまだったじゃないか。たった一度遅刻しただけで、夜に自室に呼び出すなんてな」
「ああ〜、ムジル先生……でも結局、呼び出された日に体調を悪くして、そのまま辞めてしまったんだよな」
「あいつは元からわかりやすかったからな。一々身体に触ったり肩を抱いたり……」
「うーん、そうだったかな。よく思い出せない……」
なんだか段々と、ろれつが回らなくなってきている。これが酒の力か。あまり考えが働かない。
「なあ、お前恋人はまだできていないよな?」
「残念ながら。君とはちがって、女性にあまり好かれない」
「そう……か。じゃ、好きな相手は?」
その質問に、何故かエイナルは口ごもる。
「好きな……人……」
「なんだ、まさかいるのか」
にわかにロベルトが不穏に尖った声になる。
「い、いないよ。最近はほかの人と交流するひまもあまりなくて……早く、一人前になってサイラスを……」
「サイラスだって?」
ますますロベルトの声音が不穏さを増した。その理由を考える思考能力は、すでにエイナルには無かった。
「サイラスは、ほんとうにすごいんだ。僕は、サイラスに憧れてて……でも、サイラスは、きっと僕のこと、嫌って……」
自分で言っておいて、なんだか悲しい気持ちになって、意味もなくワインの注がれたグラスを見つめる。
「――お前は、あいつが好きなのか」
「す、好き?僕が、サイアス……を?」
(確かに、憧れてるけど……むしろ、人柄はとっつきにくくて苦手なくらいで、そんな疚しい気持ちは……。それに男同士だ。いや、男同士がどうとか以前に、彼を好きになっても不毛すぎるし。認めてもらうことができるのかすら、怪しいのに……)
「はあ……」
頭がやけにぼうっとして、考えたことは口に出なかった。
どうして悲しいのだろう。わからない。先ほどからいやに瞼が重い。
(あ……寝ちゃ……悪いのに……)
とうとうエイナルは力が抜け、客人の前でテーブルに突っ伏してしまった。
その身を、ロベルトは静かに見下ろしていた。普段の人好きのする表情とはかけ離れた、氷のように冷たい表情をして。
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