失恋と10万円 2話 02



椎名篤己は煩悶していた。

(どうしよう……いやどうしよう?)

目を開けた瞬間、見慣れない天井と照明が視界に広がった。ベッドはいつもよりずっとふかふかしていて大きい。にも関わらず寝心地がいいと言いがたいのは、すぐ隣に自分よりも逞しい男が寝ているからに他ならない。
あれから、篤己がもう許してと懇願してもなお海斗は何度も何度も……。思い出すと顔が熱くなったり冷や汗が出てきたり、もうぐちゃぐちゃだ。
その海斗は今はよく眠っていた。あれだけ運動したのだからさぞ深く眠れているだろう。篤己の気など知りもしないで。
起こさないようにそっとベッドを抜け出し、あちこちが痛む体をシャワーで洗う。その間もずっと頭でぐるぐる考えていた。どうしよう、と。

(とりあえず……逃げよう)

と決めたものの、海斗に書置きとお金を残していくという段になって、篤己はまた悩む。

(俺が10万で海斗を買った。……つもりだったけど、海斗は何故か俺が売る側だっていう意味不明な勘違いしてたんだよな。見かけによらず天然なんだなあ)

ちらりと海斗を盗み見る。寝顔は綺麗で、起きているときの険がなく少しあどけなくて、見入ってしまいそうになるが慌てて頭を振る。今はそんな場合ではない。
10万円払うはずだったが、ここは間をとって5万でもいいだろうか……等とせこいことを考えながらメモ帳を取り出しペンを走らせる。

『海斗へ。昨日はありがとう。この金で足りなかったら連絡してください。*******@〜 』

――ダメだ。これではまた会いたいという下心があるみたいではないか。篤己は紙を丸めて捨てた。

『海斗へ。昨日はありがとう。実は俺、昨日彼氏に浮気されて自暴自棄になってて、つい彼氏と似てる海斗に声をかけちゃったんだ。いつもあんなことしてるわけじゃなくて〜』

却下だ。言い訳してどうする。また丸めて捨てる。

『海斗へ。昨日はありがとう。でも買ったのは俺なんだから、もう少し俺の言うことを聞いてほしか』

いや、説教もダメだ。
何枚も紙を無駄にしつつ、ようやく書置きは完成した。

『海斗へ。昨日はありがとう』

10万円とともにそれをテーブルの上に置き、名残惜しい気持ちを抱きながらそっと部屋を出た。そしてその勢いのまま携帯を取り出す。

話がしたいと、隼人へメールを送った。


本当はずっと前から――いや、始まった瞬間から、こんな関係上手くいくはずないとわかっていたのだ。海斗と寝てしまったことで、現実と向き合わざるをえなくなった。あれだけ毛嫌いしていた浮気という行為を自分もしてしまった。浮気と呼んでいいのかあやしいが、一応、本当に一応、まだきちんと別れてはいなかったのだから。
最も、篤己がどうしようもなく隼人の奔放さに傷ついていたのに対して、隼人には嫉妬どころか少しもダメージを与えられないであろうことが悲しいところだ。プライドの高い男なので、面白くない、くらいは思うかもしれないが……。



「何だよ、話って」

呼び出された隼人は気だるそうだった。今までなら、どんな態度をとられても言うことを何でも聞きたくなってしまった。
だけど今日は違う。やはり海斗に似ていて、でもよく見ると結構違うなと頭の片隅で思いながら、篤己は戦場に行く兵士のような気持ちで口を開いた。

「俺、もう、やめようと思って」
「やめる?」
「お前との付き合い、って言っていいのかわからないけど、お前と一緒にいるの、やめるよ」

隼人が目を眇めた。緊張で心臓の鼓動が速くなる。

「何でいきなりそんなこと言い出すんだ」

まるで怒っているみたいだ。どうして自分が怒られなくてはいけないのかと思う一方、後ろめたいところもあるのでつい目を反らしてしまった。

「何でって……分かるだろ。お前はいつも他の女とやって、今度は、男とまで……。俺、ウザがられると思って言えなかったけど、ずっと嫉妬してた」

最後だからと、初めて自分の気持ちを隼人にぶつけた。
隼人が――今度は笑った。馬鹿にされているような気がしてむっとする。

「お前がそんなこと言うの、初めてだな。へえ、嫉妬してたんだ」
「へえ、って……分かっててやってたんじゃないのか」

隼人は篤己と付き合う前から経験豊富で、恋愛の駆け引きを楽しむタイプだった。篤己が隼人にベタ惚れなこと、それ故に嫉妬してしまうことなど、彼にかかれば気づかなかったはずがない。

「俺に言わせれば、お前の好意なんて尻尾振って飼い主に着いていく犬みたいにしか見えなかったな。でもふーん、嫉妬してたのか。だから俺が他の奴とヤるのが嫌で、別れたいって?」
「い、犬……それだけじゃ、なくて」
「別れねーよ」
「は? 」

予想外のことを言われ、少しの間固まってしまう。

「要するにお前、俺と一番仲のいい男、ってポジションをとられたと思ってそんなこと言い出したんだろ? まあいいよ、もう男とはやらねえ。大してよくなかったし」
「な、何言って……」

前半は半分図星だったが、後半は篤己の心を抉った。
男はよくない。そう言う彼はやはりノンケでしかないのだ。なのに何故、別れないなんて生殺しのようなことを言うのだ。

「何で俺がお前の言うことに従わなきゃならねえんだよ。別れる別れないは俺が決める。――あ、やば、これから約束があるんだ。じゃあな」
「ちょっと待って、まだ話は……っ」

どこの暴君だというセリフを吐いたあと、隼人の興味はすっかり着信を告げるスマホのほうに移り、電話をしながらさっさと歩いていってしまった。



「というわけなんだけど、どうしよう」
「うん、馬鹿だね」
「ストレートな悪口が痛い…」

例によってゲイバーに逃げ込んだ篤己は頭を抱えていた。
断腸の思いで別れを切り出したのに。「あっそ、ていうか俺達付き合ってたの?」くらい言われることを覚悟してびくびくしていたのに。まさか隼人に別れる気がないだなんて、全くの想定外だった。

「君さ、完全になめられてるんだよ。浮気されようと馬鹿みたいに従うばかりで、いいように利用されて。馬鹿みたいっていうか馬鹿だね」
「ううう」
「恋愛は惚れた者負けっていうけど、君のところは極端すぎるね。君があまりに一途馬鹿だから、何しようが離れるはずないって思われて好き勝手やられてんの。ばーか」
「馬鹿って何回言うんだ!」

相馬の言葉がグサグサと刺さる。
つまり隼人は、都合のいいイエスマンな召使いを手放したくなかっただけということか。ある意味あっさり別れを了承されるより辛い。

「で、でも、俺が嫉妬してたって言ったら、ちょっと笑ったんだよ。もしかして嬉しかったのかなーとか」
「いるよね、モテることを十分自覚してて、好意を寄せてくる子が自分の言動で一喜一憂するのを上から目線で笑ってるゲスな男」
「くっ、隼人はそんな奴じゃ……………ないとは言い切れず……」

完膚なきまでに打ちのめされる。バーテンというのはもっとこう、優しく話を聞いて労わりの言葉をくれる職業ではないのか。

「まあでも、自分から別れを切り出せたことだけは褒めてあげるよ。別れないって言われて引き下がったのは馬鹿としか言いようがないけど」
「それは……」

色々と鬱積していたものもあったが、海斗との出会いが一因になったのは間違いない。
相馬の言うとおり、篤己は今まで盲目的に隼人を追いかけてきた。自分には隼人しかいなくて、好きだから何をされても我慢するしかないんだ、と思い込もうとしていたのかもしれない。
しかし海斗との経験は、今までの価値観をぶち壊すほど強烈なものだった。自分には一生縁がないままかもしれないと思っていた行為をあっさりやってしまって、それも何度も何度も……。

「――何か顔が赤いけど、どうかした?」
「い、いや、何でもない」
「そう? で、別れを切り出せた要因は何だったの」
「それはその……やっぱり、男とやってるのを見ちゃったし、元々もうきついと思ってたし」

納得していないような訝しげな表情を返されたが、男を買ったとは言いづらかった。今でも相当な馬鹿扱いなのに、どれだけ馬鹿にされることか。

「で、まさか別れるのを諦めたんて言わないよね? 俺が思うに、新しい男ができたと見せ付けてやるくらいしないと駄目だと思うね、そういう男は」

言われてすぐ頭に浮かんだのは海斗の顔だった。
何を考えているのだろう。しょせん、金で一夜を買っただけの関係に過ぎないというのに。

「……俺がモテないの知ってるくせに。新しい男なんて無理だよ」
「俺が演じてやってもいいけど?」
「え、何を?」
「だから君の男をだよ。話の流れで分かれ」

ぽかんと口を開けてしまう。何を言ってるのだろうこの男は。

「いや、相馬さんが俺と、なんて無理があると思うし」
「恋人らしく見せる方法なんていくらでもあるよ。ここでちゃんと行動を起こさないと、君いつまで経ってもズルズル付き合わされて、本当に駄目人間になっちゃうよ」
「相馬さん、俺を心配してくれて……」
「報酬はトイレとホールと事務室の掃除3年分でいいよ」
「長くない!? 高校入学から卒業まですっぽり入る長さ!」

ちょっと感動しかけた自分が馬鹿だった。

「まあとにかく、強硬手段に出てでも早く別れたほうがいいのは確かだ。君は馬鹿だけど、悪いのは向こうなんだから。常連サービスで半年で手を打つよ」

それも長くない? と思ったが言わない。口は悪くて分かりづらいが、一応少しは心配してくれているのだろう。……恐らく。
篤己は息を吐いてから、打ち明けた。

「実は俺、……浮気、しちゃったんだ。隼人に言わなきゃって思ってたけど、言えなかった」
「…………は?」

相馬が固まった。彼がこんな表情を見せるのは珍しい。

「だからもう被害者ぶることもできないし、別れるっていうのは、やっぱりもう一回ちゃんと話さなきゃ……」
「ちょっと待って、浮気って、嘘だろう? 昨日はそんなこと一言も」
「う、うん、だから、昨日あの後……」
「本当に? 俺がモテないってからかったから、見栄を張ってるんじゃ」
「いや、自分でも何でって感じだけど、まあ酔った勢いというか」

相馬が信じられないという顔をする。そこまで驚くことだろうか。……驚くことなのだろう。

「……へ、へえ。まあ蓼食う虫も好き好きって言うからね。で、相手は誰?」
「そ、それはその」
「どうなの? 厄介な奴を吹っ切るために、また厄介な男をひっかけたんじゃないだろうね」

相馬は追求の手を緩めない。接客中はいつも微笑みつつどうでもいいという感じの態度なのに、今日はやけに食いついてきて困惑する。

「全然、そういう奴じゃないよ。なんていうか…………買春っていうか」
「売春…!? 君、体を売ったのか?」
「ち、違う、買ったの!」

何故彼まで売ると買うという基本的な日本語を間違えるのか。
結局全部暴露することになってしまった。

「――つまり、酔って絡まれていたところに彼氏似のイケメンが現れて、つい誘ってしまったと」
「は、はい」
「で、なけなしの10万円で買ってしまったと」
「は、はい」
「君の頭はいかれているね」
「馬鹿のほうがまし!」

結局相馬にネチネチ嫌味を言われることになってしまった。

「――ったく、あのとき一人で帰すんじゃなかったな」
「な、何か言いました? 独り言でまで嫌味言ってる?」
「何でもないよ、馬鹿」

頭を小突かれ、溜息を吐かれる。

「とにかく。もうそんな馬鹿なことはしないほうがいいよ。分かってると思うけど」
「し、しないよ。っていうかできないっていうか……もう宝くじ全部使っちゃったし……」

うつむくと、今度は乱暴に頭を撫でられた。そんなことをされたのは初めてで、相馬のほうを仰ぎ見る。

「ま、これで男は彼氏だけじゃないって分かっただろ。とりあえずさっさとけじめつけて、これからのことを考えればいい」
「うん……」

やはり、非情なんだか優しいんだかよく分からない人だ。
しばらくされるがままになっていると、新しい客が入ってきたらしく相馬が篤己の頭に手を乗せたまま「いらっしゃいませ」とやる気の感じられない声を出す。それでいいのか。
なんて思いつつ薄い酒をすすっていると、いきなり、背後から肩を強く掴まれた。

「やっと見つけた……!」
「うわっ!? か、海斗?」

もう会うことはないと思っていた相手が、恐ろしい形相で篤己を見下ろしていた。

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