失恋と10万円 02



本当は薄々分かっていた。
自分が愛されてなんていないということ。
ただ煩わしいことには耳を塞いで、傍にいられればいいと思っていた。
その日、最後の砦を崩されるまでは。

「あっ……隼人ぉ……」

玄関を開けた瞬間嬌声が聞こえてきたのは、初めてのことではない。
だけどその日の声はいつもとは違っていて、椎名篤己(しいなあつき)は震える手で自室のドアを開いた。

「……っ」

隙間から見えた衝撃的な光景に、篤己は片手で口を覆った。
篤己の恋人、斉賀隼人(さいがはやと)が、篤己のベッドの上で情事の真っ最中だったのだ。
篤己を暗闇に突き落としたのは、その相手が男であることだった。
こんなとき、普通の恋人同士ならどうするのだろう。怒鳴り込んで相手を罵倒するか、泣いて抗議するか。
そのとき篤己にできたのは、気づかれないよう惨めに逃げだすことだけだった。

「っ、…くそっ……」

道路に飛び出して、アパートが視界に入らないところまで走ると、堪えきれず涙が滲んできた。
隼人は一応、篤己の恋人であるはずだった。だけど今となっては、篤己が勝手にそう思い込んでいただけなのかもしれないとも思う。
篤己は隼人に恋をしたことをきっかけに、自身がそういう性癖の人間であると気づいた。高校3年で同じクラスになったときから、隼人に憧れていた。恋人になれたときは死んでもいいと思うくらい嬉しかった。
だけどその幸せは一瞬のことで、隼人の態度は恋人のそれとは程遠いものだった。
当然のように女子と遊び、セックスする。篤己にデート代やプレゼント代を借りたり、女が酔ったからと言って運転手代わりにされたことも一度や二度ではない。
その一方で、二人の間では篤己が一度だけフェラさせてもらった以外、性行為はなかった。
それも仕方ないことなのかもしれない。隼人は元々女好きで、付き合えるだけで奇跡に等しかったのだから。
ただ、女はとっかえひっかえで長続きしないけど、何だかんだ言って隼人は篤己のところへは帰って来てくれた。一番愛する相手は無理でも、一番親しい男として傍にいられればいい。そんな考えが篤己の支えだった。
それすらついさっき、いとも簡単に崩されてしまったけれど。


◆◇


「君、馬鹿だね」
「……うるさい」

美貌に似つかわしくない毒を吐くバーテンダーから、篤己は苦々しげに目を逸らした。
ひとしきり泣いたあと、篤己は近場のゲイバーに足を運んだ。このどうしようもない惨めさと空しさを、少しでも忘れるために。

「同じの」
「弱いんだから、ほどほどにしときなよ。ここで潰れられたら迷惑だ」

カウンターに陣取り憮然とお代わりを要求する篤己に、相馬という名のバーテンダーは相変わらずの辛らつな態度で溜息を吐く。
長身で白いシャツとベストが嫌味なほど様になっているくせに、その態度はバーテンというにはいささか粗野で、客を客と思っているのかも疑問だ。
だがそんなクールでつれないところがいいと、彼目当てに通ってくるゲイも少なくないのだから男前は得だと思う。

「いーんだよ。よって……今日はだれかをお持ち帰りするんだぁ」

カクテルをすすりながら言うと、相馬が微かに眉を顰めた。
隼人が男と浮気したなら自分もそうしてやると、篤己は決意を胸にここへ来ていた。
最も、泣くほどショックを受けた篤己とは対照的に、篤己が誰とどうなろうが隼人が心を動かすことなんてないのだろうが。

「だけど君、可哀想なくらいモテないだろ」
「うっ……」

嫌な笑みで言われて、篤己は俯く。
ここへは大学に入ってから通いだした。隼人と付き合うようになってからも浮気や嫌なことがあるたびちょくちょく飲みに来ているが、確かに声をかけられたことなどほとんどない。
今までは本当に飲むことが目的で、男を探すつもりは更々なかったからそれほど気にならなかったが、実際篤己は悲しいほどモテなかった。
自分でもモテる要素がないと自覚があるだけに悲しい。面白い話ができるわけもなく、大人の魅力や色気なんてものとは程遠く、セックスに至ってはド素人の童貞。
筋肉もあまりついていないし、何より泣きぼくろのある女顔と評される顔立ちがよくない。女なんて当然のように男から好かれる存在、妬ましくて羨ましくて、嫌いだ。だからこの顔も嫌いだし、ゲイから好かれないのも仕方ないと思うほかない。
ただ、隼人に限っては元が女好きだから、逞しいとは言えない身体や女顔のほうがまだ抵抗がないかも……なんて女々しく考えていた自分が、今は恥ずかしくてたまらない。

「――仕方ないから、閉店まで待ってたら俺が付き合ってあげるよ」
「い、いい。どうせ拭き掃除とか掃き掃除とか、トイレ掃除とかさせる気だろ。俺だって……」

相馬の哀れみをこめた物言いに苛立って、篤己は店内を見回した。
いくらモテないと言っても、ゲイにだって好みはあるし、妥協という言葉もある。
これだけ人がいれば、自分を相手にしてくれる人も――と考えていると、一人の若い男と目が合った。
目立つ容貌ではないが、清潔感があって好感が持てるタイプだ。

「こ、こんばんは」

ぎこちなく微笑んで声をかけると、男は一瞬はっとしたような顔をした後、慌てて目を逸らした。
篤己がぽかんとしているうちに、あっという間に離れていってしまう。

「……」
「あっさりふられたな」
「……」

篤己には、見えている現実に気づかぬふりをする癖があった。
だがしかし。冷静に見れば、マッチョで面白くて大人の魅力がある男ばかりがモテているわけでは決してない。
痩せたサラリーマンも、メタボ気味の中年男性も、ごく普通にパートナーを作っているし、過去には華奢な美少年を取り合う修羅場を目撃したこともある。
つまり篤己がモテないのは、自己評価よりさらに顔が悪く、負のオーラか何かが出ているということなのだろう。……悲しすぎる。

「……帰る」
「え、おい」

目の前のカクテルを一気に飲み干すと、篤己はカウンターに5千円札を置いて立ち上がった。
怪訝そうな相馬の声が聞こえたが、返事をする気にもなれなかった。

急に動いたせいか、外に出ると一気に酔いが回ってきて、篤己はふらふらと路地を歩いた。
どうしようもなく虚しい。自分を好いてもいない相手を馬鹿みたいに想い続けて、自分を特別な存在だと勘違いして、あっさりと裏切られて。
やけになってこちらも浮気しようにも、全くモテないせいでそれすらできないなんて。

「はぁ……」

こういうとき、ノンケの男ならキャバクラか風俗にでも行ってうさを晴らすのだろうか。
だがあいにくゲイ向けのそういった店にはあのバー以外とんと疎い。
――相馬にでも訊いてみればよかっただろうか。今更戻るのは恥ずかしいから、ネカフェにでも行って調べるか。
そんなことをどんよりと考えながら歩いていると、不意に肩を叩かれた。

「やあ、こんばんは」
「? こんばんは…」

顔を上げると、30歳くらいの男が肩の手は離さないまま微笑みかけてきた。

「ねえ、これでどう?」
「……ピース?」

男はおもむろに指を二本立ててきた。
意味が分からず、篤己は首を傾げる。

「やだなあ、ボケちゃって。――あの店から出てきたってことは、男が好きなんだろう?」
「は…………ああ」

ようやく合点がいった。この男は、篤己に買春を持ちかけてきたのだ。
確かに今さっきまで金を出してでも……と思っていたが、まさかこんな往来で声をかけられるとは。
篤己は男を観察する。不細工ではないが、正直2万出してまでどうこうなりたいとは到底思えない。

「悪いけど……」
「だ、駄目? じゃあプラス5kで」
「い、いや、結構です」

断ろうとすると、あろうことか男は金額を上乗せしてきた。
完全にカモにする気だ。いかにもモテない男をターゲットにして、あこぎな商売をするものだ。
金はないと財布を見せてやれればいいが、珍しいことに今日は十分な手持ちがある。
これは、さっさと退散した方がいいだろう。
そう決めて男の手を振り払おうとしたが、酔いのせいで篤己の動きは緩慢で、反対に腕をがっちりと掴まれてしまった。

「な、なあ、いいだろう? 優しくするから。抵抗があるなら、最初はオナニー見せ合いだけでもいいよ?」
「は、離せって……!」

男はしつこく、何だか息を荒げながら身体を寄せてくる。
何が何でも篤己を逃さず搾り取るつもりらしい。
せめてもうちょっと好みのタイプだったら――そんな馬鹿げたことが頭に浮かんだとき、突然腕の痛みが消え、男が呻いてその場に倒れた。

「うぐっ……、な、な……」

男は脚を蹴られたらしく、痛そうな声を出して蹲る。
驚いて視線を移すと――美貌の男がそこに立っていた。

「ホモの修羅場だか知らないけど、見苦しいんだよ」

憮然と見下したような物言いでも、その声は色気を帯びて美しい。
年齢は篤己と変わらないくらいだろう。スタイルのいい長身に上等そうなスーツを着崩して、シルバーのアクセサリーやブランド物の時計を身につけた姿は、どう見てもホストだ。
と言っても下品な感じはせず、落ち着いた茶色の髪をかきあげている姿はショーのモデルでもしていそうな雰囲気がある。

「チッ、んだよ……」

男は分が悪いと悟ったのか面倒になったのか、舌打ちしてあっさり去って行った。
そのことにほっとするより、篤己は目の前の男に釘付けになっていた。
何もその美貌に見とれていたという訳ではない。
その顔立ちに、想う相手の面影を見たから。
――どう見てもホストなこの男は、隼人にどこか似ていたのだ。

「何ジロジロ見てんの? あんたもこんなとこで商売してんじゃねえよ」

声まで少し似ている。
篤己は衝動的に、立ち去ろうとする男の腕をがしっと掴んだ。

「なっ……」
「なあ、俺と寝てくれないか? 10万で」
「はぁ?」
「頼む、このとーり!」

篤己は胸の前で手を合わせてがばっと頭を下げた。
後から考えると、酔っていて血迷ったとしか言いようがない。


◆◇


21年間の人生で初めて、ラブホテルという場所に足を踏み入れてしまった。
篤己は緊張を悟られないようにそっと息を呑みながら、さりげなく財布の中身を確認する。
10万と少し、しっかり入っている。
貧乏学生らしからぬ手持ちの訳は単純明快、宝くじで当てたのだ。
今までは300円しか当てたことがなかったので舞い上がって、その勢いのまま隼人を旅行に誘おうと決意した。決意した結果が、あの濡れ場との遭遇だ。やけになるなという方が無理な話だろう。
それにしても、まさか乗ってくるとは思わなかったと、篤己は男を盗み見た。
すると何度見ても隼人に似ている眼差しと目が合ってしまい、慌ててそっぽを向く。
酔っているせいか頭がよく働かなかったが、今更ながらとんでもないことになったと実感がわいてくる。

「あ、あのさ」
「何?」

男は仏頂面で、何を考えているのか皆目分からない。
篤己はしどろもどろになりながら話しかける。

「名前……俺は篤己っていうんだけど」
「海斗」
「へー……いい名前だな」

空々しい相槌を打った後、どうせ源氏名だろうなと思い直す。
――気まずい。何をどうしたらいいのか分からず、冷や汗が出てくる。

「あのさ、プライベートなことを聞く気は更々ないけど、その、兄弟とかいる?」
「いない」
「そ、そっか。いや、別に意味はないんだ」

確認して、ほっと溜息を吐く。
本当のことを言っているとは限らないが、隼人のただ一人の兄は結構歳が離れていたはずだから、似ているとはいえ実の兄弟ということはないだろう。そんな宝くじを当てるより稀な偶然、あってほしくもない。

「じゃあ歳は――うわっ」

質問の途中で、篤己は突然ベッドに押し倒された。

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