真夏の日 2 02
あり
美山律は家を愛している。一歩外に出た世界は全てが恐ろしく、律にとって存在しないも同じだった。
要するに、ひきこもりである。
オンラインゲームの中でだけは勇ましくなれる。無駄に長いプレイ時間で嫌でも腕が上がり、他のプレイヤーから一目置かれ、初心者を助けて感謝されることもある。現実世界では微塵も満たされない承認欲求が少しは慰められた。
ずっとこんな暮らしを続けてはいられないと、分かってはいる。仲は悪くないとはいえ親の物言いたげな視線はビシビシと感じる。分かっていながら深く考えるのを拒否してきた。
まさか見ず知らずの電器屋によって、生ぬるく安全な律の世界を揺るがされるとは、想像もしなかった。
律はゲームの画面を眺める。集めた武器を駆使して敵をボコボコにするのは気持ちいい。――でもあれは、もっともっと気持ちよかった。
何日経っても、体の中に甘い余韻が残って、消えきっていない火が燻っている。
電器屋は欲望を散々吐き出した後、「またしたいよね」と連絡先を押し付けてきた。もう電器屋として家に訪れる口実はなく、勝手に押しかけてくるほどの強引さもなく、今度は外で会って思う存分行為に耽ろうという意図なのだろう。
冗談じゃない。誰が外になんて出るものか。体の熱を発散するように、律は画面の中の敵を次々に斬っていく。
戦闘が一段落するとチャットで他のプレイヤーが話しかけてきた。
『助けてくれてありがとう』
『いいよ、ついでだし、気にしないで』
『もしかしてプロゲーマー? マジで上手いよね』
『そんなんじゃないよ』
『そうなの? 反射神経えぐいし若いよね? 会ってみたいなー』
会ってみたい。たまに言われることがある。せっかくゲームの世界にどっぷり浸っていたのに、嫌いな言葉だ。
『ちょっと忙しいからすぐには無理かな』
外の全てが怖い。自分に敵意がないゲームの中の仲間であろうと。きっと会えば悪い意味でのギャップに失望されるだけだ。
「んっ……はぁ……、んぁ……」
ゲーム以外にやることといえばオナニーくらいだ。その日の気分でオカズを選んで抜く。その繰り返しだった。
ペニスを握って刺激して、以前と違い尻の奥のほうがびくつく。感じれば感じるほど中を突かれる感触が恋しくて、ズキズキと疼いてしまう。
「あぁ……ン、ふー…、あ、あっ…」
ひく……ひく、ぴくぴく…っ、きゅん、きゅうぅ……
知らないうちに、腰がグラインドするように揺れて、物欲しげなしぐさになっていた。
「あんっ……ち〇ぽ、あっあッ……だめ、んっ……」
指を少し食い込ませる。あまり気持ちよくなれず、肉棒を思い出す感覚のほうが強い。
「なか、あぁ…んっ、して、ハメてぇ…っあー…いく……ぁあ…ふーー……」
いくらペニスを扱いても疼きは解消されない。
また思い切り乱暴に、硬い棒で突いてほしい。今日は普通にしようと思っていたのに、ものの数分で禁忌の考えに支配されていた。
◇◇
ゲームの途中で小腹がすいてヘッドホンを外すと、インターホンの音が聞こえた。
何度か音が続く。ヘッドホンをしたままなら聞こえないと言い訳ができたのに、タイミングが悪い。
しかし宅配を受け取ることくらいできる。インターホン越しに来客を確認して、律は息を飲んだ。
「ひっ……」
玄関前に、どこの配達会社の者でもない、知った顔が二人立っていた。
それぞれ別の意味で衝撃的だった。一人はかつて律を馬鹿にしてきたグループのリーダー格で、もう一人は――かっての律にとって数少ない友達だった。
『おーい、いないの?』
『何度も鳴らしたら失礼だよ』
『あいつはどうせいるだろ。居留守使うほうが悪いんだよ』
無遠慮に何度もインターホンを鳴らしているのがいじめっ子の菅谷。律が一番苦手とする人種だった。
うるさい菅谷を窘めているほうが桜庭聡実。忘れもしない、高校時代に見つけた光であり、人生最大の黒歴史でもある、律の女神。
よりによって律をひきこもりに追いやった原因の二人が、どうして我が家に来ているのか。
「はあ……はあ……」
全身で激しく運動したように鼓動が速くなり、足がぐらついて壁に手をつく。
(なんでなんでなんで……、帰って、俺の世界を脅かさないで……)
『あのさー、俺たち美山……律くんの親に頼まれて来たの。わかる?』
『頼まれたのは俺だけなんだけど』
『俺は優しいからわざわざ来てやったわけ。いつまでだんまりなの? うんとかすんくらい言えって』
「う、あ、う……」
親に頼まれたというのはきっと本当なのだろう。両親はひきこもりの息子が変わるきっかけを探していた。どうにか外に出る気にならないかと思案して、友達に頼んでみることにしたのだ。
しかし一人は絶対に友達ではない。いや、桜庭だって、かつては友達だったけれど……。
『今日は帰ったほうがいいかな』
『えー、また別の日に来んの? だるいな。こっちも暇じゃないんだけど』
どうやら一度の居留守で諦めてくれるわけではないらしい。また、いつ来るか分からない彼らに怯えて過ごすことになるなんて、冗談じゃない。
「……すー、はー……う……はあ……はい」
『なんだいるんじゃん』
『美山くん。少し話せるかな。渡したいものもあるんだ』
律は観念して、呼吸を整えた後インターホンに出た。画面越しに目が合う。それだけで嫌な汗がこめかみに滲む。
玄関まで下りて嫌々ドアを開けた。腕一本入るか入らないかくらいの幅だけ。
「……何ですか」
「美山くん、久しぶり。元気だった?」
「どう考えても元気じゃないだろ、ひきこもりだし。てか顔見えねー」
動揺から声がひっくり返る。対して桜庭は、記憶の中より声が低く大人っぽくなっている気がする。菅谷の声は知らない。忌々しくて耳から脳に受け入れるのを拒否する。
「……」
「あのさ、美山くん大検受けることを考えてるんだって? 役に立つかと思って資料持ってきたんだ」
「……そ、そう。分かった」
律は隙間から手を伸ばした。大検がどうのというのは親が作った口実でしかないだろう。とにかく今は用事を済ませて帰ってほしい。
資料を受け取る寸前、手がドアにかかって、強引に開けられた。
「……っひ、う、やめっ……」
「それが来てやった同級生への態度? 顔くらい見せろって」
閉じようとするも菅谷の力に負け、ドアが完全に開かれ、律は気絶しそうになった。
「なんだ、ひきこもってブクブク太ってるかと思った」
「本当にデリカシーがないな菅谷は。……美山くん」
防御する暇もなく、正面から顔を見られてしまう。律は瞠目した。
女神のようだと見とれた綺麗な顔はやはり綺麗なままだ。……でも、対面すると記憶との食い違いが広がっていく。背が伸びて喉仏もうっすら浮かんでいて、まるで大人だ。
律だけが何も成長せず、変わっていない。
「美山くん……雰囲気変わったね」
「そうか? そうかも。なんかもっと喋ってみろよ。入学してきたときはべらべら喋ってただろ」
菅谷は本当に本当に、デリカシーがない。二人の視線が無防備な律の体に注がれる。汗が吹き出て顔が熱い。耐えられない。
「中入れてくんない? 喉乾いた」
「美山くん、久しぶりに話がしたいんだけど、今日は難しいかな」
「……はあはあ、……あ、……桜庭くんだけなら」
「は?」
律を見下していた菅谷が、かつてを思い出させる威圧的な声になる。律は桜庭の腕を掴んで家の中に入れ、バタンと勢いよくドアを閉めた。
「――おい、ふざけてんの? 俺がせっかく来てやったのに」
「と……ッ、友達じゃない、から……!」
「……だから俺一人で行くって言ったのに。本人の意向に従うべきだよ、菅谷」
菅谷本人は別にいじめたつもりはないのかもしれない。イジってやったというくらいで。だからって断じて友達ではない。しっかり鍵をかけてチェーンまでとめた。しばらくドアを叩く音と罵詈雑言が聞こえていたが、やがて飽きたのか帰っていった。
嫌なやつを締め出してやった。それで気持ちが落ち着くことはなかった。目の前には、律がかつて恋をして、告白して、玉砕した相手がいる。しかも家の中で二人きり。
「……ごめん、菅谷は勝手に着いてきたんだ。頼まれたときに話聞いてて、面白がって」
「さ、桜庭くんのせいじゃない」
「改めて久しぶり、美山くん」
桜庭が穏やかな声で語りかけ、律を見る。到底目を見つめ返すことはできなかった。触れていた腕に気づいて慌てて離す。
「ど、どうぞ」
「お邪魔します」
桜庭をリビングに通した。お茶を一杯出して、「友達と話す」という親から課せられた重い試練をこなして、帰ってもらう。それしかない。
「は、はいお茶、よかったら」
「ありがとう。美山くん、本当に感じが変わったね」
「そ、そう……桜庭くんも」
桜庭と話していると、いつかの甘酸っぱい恋心がぶり返してきそうだ。
今の自分を見てほしくない。やっぱり上げるべきではなかった。これなら最初からお互い好感度が底にある菅谷のほうがましだったかも……ということはありえない。菅谷のほうがましな事象などこの世界にない。
「ずっと気になってたんだ。俺と話した次の日から学校に来なくなってしまったから」
「……、それも桜庭くんは悪くない。もう、き、気にしないで」
律が恋した桜庭は欠点など一ミリもない顔立ちで、肌もすべすべと柔らかそうで、美少女みたいだった。でも見た目で好きになったんじゃない。優しくて、律のちょっと痛いところも微笑んで好意的に捉えてくれて、他の誰とも別次元にいる存在だった。きつい扱いを受けていた律の学校生活において唯一の心の支えだった。
だからって分不相応にも告白したのは、愚かだったとしか言いようがない。人間が神様に恋するようなものだ。
「気になるよ。美山くん……、俺の答えを最後まで聞かなかっただろ」
「そんなの、わ、分かってる。ごめん、変なこと言って」
「本当に分かる? 俺は「彼女」にはなれないとは言ったけど」
「……っ」
向かい合って座る桜庭が、少し身を乗り出して顔を近づけてくる。律は当然、顔を背けた。半端に伸びた髪が頬に当たる。
「男だから彼女にはなれない。でも美山のこと嫌だったわけじゃない」
「あ、ありがと……桜庭くんは、やっぱりや、優しい」
「社交辞令じゃないよ」
桜庭の声が一段と低くなる。なんだか暑い。当然だ、律はずっと自室に引きこもっていたからリビングのエアコンはつけていなかった。
二人のグラスは空になっていた。資料も受け取ったしもう帰ってもらうのが正しい選択肢だ。
「桜庭くん……、」
「俺のこと好きだって言ってくれた気持ち、まだ残ってるのかな」
「わ、忘れようとした。だから……駄目だ」
「何が駄目?」
「そばにいると……へんな気持ちがぶり返しそうだから、もう……っあ……」
桜庭が、律の手を握った。滑らかな指先が手の甲を擦り、びくりとする。
「……ッ、だめだよ、桜庭くん、俺なんて君に触ったら……汚い」
「そんな風に自分を卑下することない。美山くんを汚いと思ったことなんてないから」
他人にこうして触れるなんていつ以来だろう。……いつって、電器屋がいた。あれをノーカンとするなら桜庭と友達だったときが最後かもしれない。
必死に頭を回転させる。桜庭はどうしてここに来たのか――そう、律の両親に頼まれて、律が外に出るきっかけを作るために来たのだ。危ない危ない、勘違いするところだった。
「あ……、桜庭くん、いいよこんな、親には、俺が言っとくから、もう……」
「ご両親に頼まれたことは関係ない」
本当だろうか。桜庭のことだから優しい嘘を吐いているのかもしれない。真っ当な人付き合いを断って等しく、相手の目すら見れないのだから、真意を汲み取るのは難儀だった。
「美山くんは、俺と付き合いたかったんだよね」
「う、うん、あのときは」
「付き合ってどうしたかった?」
「え……っと、で、デートとか、」
尋問を受けている気分だ。
付き合った先のことなんて……それは少しは想像したけれど、何より桜庭に彼女になってほしくて頭がいっぱいで、視野が狭くなっていた。
「デートして……それだけ?」
「……っ、手を繋いだり……」
「今繋いでるね。それで終わり? 可愛いね」
「う……っ、その、別れ際とかに、き、キスを……んっ……!?」
桜庭の手が頬に優しく触れ、自然と顔が上に上がった。次に唇が塞がっていて、律は柔らかい感触に目を白黒させる。
「んぅ……っ、ふ……っ、うっん〜……」
「ん……」
桜庭とキスをしている。突然の事態に全く対応できず固まる。触れるだけのキスはすぐに終わった。
「――キスしちゃったね。別れ際じゃなくても、キスはいつでもできるんだよ」
「はあ……っ、あ、」
「嫌だった? ……そんなに苦しそうにして、ごめんいきなり」
「い、嫌じゃなかった……さ、桜庭くんのほうこそ……んんっ……」
またキスをされる。桜庭のすっとした鼻が律の鼻にぶつかったので反射的に角度を変えると、何度かキスを繰り返される。
「ん……俺は嬉しい、美山くんにキスできて」
「ふあ……っ、あ……っ」
キスは初めてじゃない。電器屋は最初から舌をねじ込んで淫らなキスをした。でもこんなに胸が疼くキスは、紛れもなく初めてだった。
「美山くんのこと、ずっと気になってた」
「ん……っ、う、ほんと……?」
「本当」
桜庭が甘い声になる。
本当だろうか。本当に律のことを考えていたのなら、もっと早く訪れるなり連絡をとろうとするなり、アクションを起こして然るべきではないか。
だけど、いくら親に頼まれたからってキスまでして嘘を吐くというのもおかしい。桜庭は優しくて、残酷な仕打ちをする人ではない。
信じられない気持ちと信じたい気持ちが心の中で交錯する。
「美山くん、隣に行ってもいい?」
「ん……あ、はあ……っん」
桜庭が慎重に律に近づき、髪を撫でる。隔てるテーブルがなくなって肌が触れ、律は無防備になり、唇が重なるのを受け入れる。
律はそうするのが自然というように口を開いた。
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