誠人、交通整備する。 02



「ご協力ありがとうございまーす」

エンジン音が誠人の声に応え、車が目の前を走り去っていく。
今日は突発で、交通整理のバイトを入れた。制服の上に目立つ黄色のベストを着てひたすら誘導棒を振る。
仕事相手は車やバイクに乗って右から左に流れていくので、直接見つめ合うことはまずない。
仕事が始まりさえすれば同僚とも距離が保てるし、ヘルメットを被るとちょっとした安心感が得られる。誠人にとっては頭を守る兜だ。
となると誘導棒がライトセーバーに思えてくる。蛍光の黄色いベストすら近未来的なファッションに…は見えない。まあいい。
明日にはバキバキになってそうなくらい棒を振って疲れたけど、平穏に終わって給料が貰えただけ万々歳だ。
帰ってボリューム満点の揚げ物弁当を食べて満腹で気分良く寝たいところだ。嫌なことは何も考えたくない。
しかし憂いは常に脳内に渦巻く。
処理してくれるセフレ――伊勢がどれほど素晴らしい人であろうと、だからこそ善意に寄りかかりすぎるべきではない。かえって気が咎めて現状がよりもどかしく感じるようになった。
帰りがてら重い足取りで因縁の場所に寄った。

「決まった相手ができたんだって? おめでとう」
「ありがと……めでたいか?」
「猶予期間が増えて何よりじゃないか。おかげでどっぷり実験に没頭できるよ」
「どっぷりよりサクサクやれません?」

研究の進展を願って踏み入れた怪しげな洋館で、誠人は今日も今日とて裏切られた。
そのうえ変人の佐原に億劫そうな態度を取られて心外だ。
フェロモンで迷惑をかけた人達には土下座しても足りないくらいだが、この男だけは明確に迷惑をかけてきた側である。

「仁藤君、ちょっと足繁くうちに来すぎだよ。近所の人に噂されたら恥ずかしいでしょ」
「は……、佐原さんに一ミリでも近所の評判を気にする感受性があったとは驚きです。もっと気にするべきことあるのでは」
「今日はやけに辛辣だねえ」
「ていうかさっきから変な……嗅いだことのない怪しいにおいが漂ってるんですけど。もしかしなくても関係ない実験してません? 俺の薬は?」
「薬、薬って君、人をヤクの売人みたいに。無駄に急いてもストレスになるだけだから落ち着きなよ、処理してくれる人が現れたことだし。今後もサンプルとしてデータをとって、画期的なフェロモンの開発に貢献しようって気は少しもないの? 成功したあかつきには報酬を得て、今にも崩れそうなボロアパートを脱出できる。せこせこと日銭を稼ぐ必要もなくなるよ」
「金はほしいですよ。今ください」
「ははは、今は無理かな。研究には金がかかる。科学者として未完成の薬を売りさばくわけにはいかない」

佐原はへらへらと金の無心を一蹴する。何がおかしいんだと言いたい。
納得いかなかった。この変人科学者と誠人の「金がない」は切迫感が違う。

「おい。何度もインターホン押したんだけど」
「篠崎じゃないか。勝手に入ってくるとは、半分犯罪だよ」
「俺に無駄な時間を過ごさせる方が犯罪的だ」

慰謝料代わりに今月の生活費だけでも用意してほしい、と食い下がろうとした誠人の横をすり抜けて、第三者がズカズカと入ってきた。
変人が住む変な家だというのに、お互いに気兼ねしない態度だ。友人がいたのかと驚きと共に横目で見て、誠人はビクッとして竦んだ。
思いがけず長身で、迫力のある美形だった。佐原に友人がいるとして、思い浮かぶ同類の変わり者とは似ても似つかない。
篠崎と呼ばれた男が遅れて誠人に気づき、上から一瞥を寄越した。

「――これ何?」
「ひっ……」

不躾に物扱いされ、怒りよりも怯んで腰が引けた。
視界に入れる価値もないと言わんばかりだ。加西も何度となく恐い目で誠人を射抜いてきたものだが、種類が違う。
佇まいだけで強いエリートのオーラを放っていて、短時間で苦手なタイプだと決めつける。関わりたくない。

「彼は僕のご近所で、貴重な――」
「い、言わないでください! とにかく、今困ってるからちょっと誠意を見せてほしいだけでですね」
「こっちも佐原に用があるんだけど。金の無心なら俺が帰ってからにしてくれない?」
「うっ……もういいです……」

自分が優先されて当然という篠崎の傲慢な態度に誠人は見事に負けて、尻尾を巻いて逃げ出した。
何の進展も得られないまま、奇っ怪な音と臭いを発する洋館を後にする。
周辺住民は苦情を入れないのだろうか。不気味だから極力関りを避けたいのかもしれない。世の中は善良な市民が変人の割を食うようにできている。
部屋に戻って着替えていると連絡が来た。

『体は大丈夫? 無理をさせてたらごめんね。困ったことがあったらいつでも遠慮せず言って』
「優しい」

誠人の無茶振りに応えてくれた伊勢は、過剰なほど気遣ってくれる。佐原と傲慢そうな篠崎と対峙した直後なので余計に優しさが染み渡る。
フェロモンによる無差別な暴走を防ぐためには彼の協力が不可欠だ。間違っても嫌われたり見限られないようにしなくては。
寛容な彼が念を押してきたのは唯一、他の男と性行為しないこと。誠人にとって好都合の要求だ。

「『ありがとうございました。伊勢さんがいてくれてよかったです』……っと」

決してこの手を離してはいけない。頼みの綱にすがりつくようにスマホを握りしめた。

◇◇

「なにかいいことがあった?」
「ん、そう見える?」

親友から夕食に誘われたときは少し迷ったけど、期間や体の状態を鑑みて大丈夫だと判断した。
フェロモンは得体が知れないとはいえ、自分の体は自分の体だ。回数を重ねるごとに勘は掴めてきた。できれば知らないままで終わってほしかった。

「最近憂い顔が多いように見えて勝手に心配してた。今日は待ち合わせのときから笑っていてほっとしたよ」
「自分の顔は見えないしよく分からないや。ここのカレーが楽しみだったからかな」
「そうだね、食べる瞬間が一番幸せそう」

悠は涼しげな目で、相変わらず他人のことをよく見てる。
昔からそうだ。誰かに何か――成績が落ちたとか、部活でレギュラーから外れたとか、ふられたとか――のネガティブな出来事が起きて機嫌がよろしくないと、真っ先に察知して気を回すたちだった。
いつも人を思いやるばかりで疲れないのだろうか。気分を上げてもらった側は当たり前のように享受するだけで、してもらった以上に悠を慮る人間はあまりいなかったと思う。
誠人も気遣われてきた側なので偉そうなことは言えない。

「普通に、悠と飯を食べられるのが嬉しい」
「なにそれ。今更?」
「悠は忙しいだろうし、俺も色々……バイトとかで忙しかったし」
「俺は学生の身分でいくらでも時間を作れるけど、そうだね、お前は立派に働いているんだから、あまり気楽に誘うのは配慮が足りなかったかな」
「いや、俺も言うほど勤勉に働いてないよ。悠にも大学からの友達がいっぱいいるのに、俺と変わらず友達でいてくれて感謝してる」

しみじみと言葉が口をついて出た。
この目にするまでもなく、悠は多くの友達に囲まれ忙しく充実した大学生活を送っているに決まってる。
誠人なんて「高校まで仲が良かった一人」としていつ過去の存在されても無理ないのに、未だに親友として扱ってくれる。
なにより、誠人が恥ずべき淫乱体質になって、様々なことが変わり果ててしまっても、悠だけは何一つ変わらずいてくれる。悠といることで、昔の平凡ながら清潔な自分に、束の間だけでも戻れた気がする。
悠は僅かに目元を動かし、じっと誠人を見つめる。

「――改まって言うなんて、やっぱりなにかあった?」
「う、ううん? 何もないよ。あの……バイトを転々としすぎて新しい友達できてないから……あんまり見ないで」
「見たらいけない?」
「悠って、キラキラしてるから。照れるじゃん」
「前はそんなの全然意識してなかっただろ」

端正な悠に真っ直ぐ見つめられ、自分の汚い部分を見透かされそうな不安と、もっと差し迫った不穏な気配に胸がドクンと跳ねた。

「ごめん! そろそろバイトの時間だった。行かないと」

半分ほど残っていたカレーを飲み物のように掻き込むと、ところどころ食べ残しがある汚い状態を気にする時間も惜しんで、お金を置いて席を立った。
訝しんで心配する悠におざなりな返事しかできなかった。
悠のためでもあり自分のためでもある。彼にフェロモンの誘惑を向けるのだけはあってはならない。
他の誰でも駄目だけど――特に駄目な相手のリストにいる義弟は毒牙にかけてしまったけど――悠はまた別の、心の聖域だった。



「はあ……はあ……っ」

取るものもとりあえず店を出て、パーカーのフードを被って人を避ける。
心臓が脈打って体が熱を放つ。少し走っただけでこうはならない。

(あ、危ないところだった……)

誠人は片手でフードを目深にして、片手で胸を抑えて、見知らぬ路地に入る。咄嗟に悠から離れた判断は正しかった。
この前、伊勢はもういいというほど精子を注いでフェロモンを枯れ尽くしてくれた。
だからまだ大丈夫だと思っていたのに。誠人の直感はポンコツだった。
一瞬でも悠に「雄」を感じたなんて、認めたくなかった。
友情を守るため、体が治るまでは親友と会わないほうがいいのだろうか。
だけど、悠といつも通り話すことで多少なりともメンタルを回復させてきた。その時間まで失うのは辛い。
それにせっかくの誘いを断る間に、彼が新しい友達と親交を深めて、疎遠になってしまうのは嫌だ。わがままだろうか。

「――おい」
「はあ……、はえ……?」
「悠と何をしていた」

唐突に腕を掴まれ、元から駆け足になっていた心臓が跳ね上がった。
ぎこちなく見上げて瞠目する。悠、と親しげに名を呼ぶ男は、事実悠と濃い血縁で繋がる男だった。

「か、奏さん……? ああ…ッい、今はまずいです…っ!」
「まずいだと? 待て。質問に答えろ。悠と見つめ合って、何を企んで、――」

体は即座に彼との行為を思い出し、背筋にゾクゾクと甘い悪寒が走る。
誠人は正気が残っているうちに逃亡しようとしたが、憤った奏は腕を放さず、逆にもう片方の腕まで掴んで阻止する。
――見られた。外から見える席で悠と食事する誠人に、弟まで誘惑するのではと誤解したのだろう。兄として看過できないのは当然だ。
しかし視線が交わると、弟を心配する兄とは全く異なる熱が勢いをつけて膨れ上がっていく。

「……ふー……ッ、悠の次は、また俺を誘惑する気か」
「はぁ…っあぅ……はあ……っ」

奏にお仕置きのように尻を叩かれるのは屈辱で、被虐の快感を呼び起こされた。
奏もフェロモンの異様な効力で、自らも想像し得ない眠っていた情欲を呼び起こされた。硬質なエリートらしい容姿に似つかわしくない太く勃起したものを何度も誠人の中にねじ込んだのだった。
あれを思い出すほど理性が遠のき、性感帯が疼いてメスのスイッチが入ってしまう。
――駄目だ。まさにこういう、フェロモンに晒されなければ絶対にありえない人とのセックスを避けるために、伊勢とセフレの約束をした。

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