誠人、掃除する。 02 03



世の中とはどうしてこうも不公平なものなのか。

「……腰が痛い……」

仁藤誠人は、己の絶望的な境遇に打ちのめされていた。

加西との行為は1度では終わらなかった。射精しても全く衰えない加西に、誠人は更に2度も犯されてしまったのだ。
否、犯されたというには、誠人は積極的になりすぎていた。むしろ誠人の方から襲ったといっても過言ではなかったくらいで。

「あああああ……」

それを思い出すだけで、悶絶するほどどうしようもない気持ちになる。
加西がとんでもない絶倫だった……のかどうかは置いておいて、フェロモンの効果を嫌というほど思い知ることになってしまった。
あれだけ誠人を蔑み、ホモだの気持ち悪いだの言っていた加西が、あんな風になってしまったのだから。
――正気に戻ったら、一体どんな仕打ちが待っているのか。
散々射精し精液をかけられ、微かに理性を取り戻した誠人はそのことに思い至り、加西がシャワーを浴びている間になんとか部屋を出て店に戻った。

「……残ってたら、殺されてたかも……」

ぼそりと呟いてみると、身体が震えてくる。
あの男のことだから、きっとボコボコに殴って、再起不能になるまで罵倒してきただろう。
あれだけ激しく誠人の腰を掴み揺さぶった手で殴り、いやらしく誠人を煽った声で罵って……。

「っ、駄目だ、忘れなきゃ……っ」

あの感覚を思い出しそうになり、誠人は頭の外に追い出そうと首を振った。

(俺は女じゃないんだ。犬に噛まれたと思って忘れよう。あの人だって二度と会いたくないだろうし……いや、今度会ったらボコってやるくらいは思ってるかもしれないけど……いやいや……)

本心ではないことを、誠人は必死に自分に言い聞かせた。





「はあ、大変だったみたいだねえ」
「大変、なんてもんじゃないですよ。解毒剤はまだなんですか!?」
「だから毒じゃないって。言ったでしょ、時間がかかるって。――ああ、でもそうだ」
「なんですか?」

不本意ながら、誠人は佐原の家に来ていた。全く信用できる男ではないが、フェロモンのことに関しては他に頼る相手がいないのだから仕方がない。

「これね、急いで作ったんだよ。いわゆる精液の代わりになる薬」
「はあ!?」

忌々しい単語に、誠人の頬が引きつる。

「まあ聞いてよ。簡単にいうと、これは精液と同じフェロモンを抑える作用があるんだ。ただ本物と比べると効果は弱いし、君が本物の精液の方がいいなら」
「い、いいえっ。なんですか、そんなのがあるなら早くくださいよ!」

本物の精液の方がいい、なんて言うのは変態くらいだろう。

「ただし副作用もあって、少しだるくなったり発汗作用、それから……」
「いいですいいです、それくらい!」

誠人は佐原の手から薬を奪うように受け取った。

「あ、そう? じゃあ一日一錠、朝起きたら飲んでね」
「分かりました。じゃあ解毒剤のほうもお願いしますねっ。 俺、バイトがあるのでこれで!」

佐原の話はろくに聞かず、誠人は揚々と研究室を後にした。

(まったく、こんなものがあるなら早く出してくれればよかったのに。これがあれば、とりあえずは普通に生活できるんじゃないか)

精液の代わりなんていちいち意識しなければただの錠剤、これを毎日飲めばいいだけ。それで平穏な日々が戻ってくるなら安いものだ。
誠人はこのとき、完全に浮かれていた。

薬のおかげか、一週間ほど過ぎても誠人の身体がおかしくなることはなかった。

「失礼しまーす」

今日の仕事はビルのクリーニング。以前一緒に仕事をしていたパートの主婦に紹介してもらったのだ。
仕事仲間はおばさんだらけ。男と二人きりになるような機会がない。そんな理由で選んでしまう自分が情けなかったが、もうそういった心配はしなくていいのかもしれない。

「君、そんなところで作業していては通行の邪魔だ。どきなさい」
「あっ、すみませんっ」

冷たい声で不意に咎められ、誠人は慌てて頭を下げる。

「……ふん」

冷たい視線で誠人を一瞥したその男は、このフロアで働くサラリーマンだ。
シルバーフレームの眼鏡に、すらりと高い背。まだ若年だが優秀で、出世コース間違い無しとの噂を漏れ聞いたことがある。
誠人にしてみれば、自分のような弱者への見下しを隠そうともしない嫌な男でしかなかったが。

「――なんだその目は。文句でもあるのか」
「い、いえ。申し訳ありません」

こうして絡まれることは今までにも何度かあった。仕事で溜まったストレスを、文句も言えないような立場の相手で発散しているのだろう。
できるだけ隅によってゴミ箱の中身を処理していると、馬鹿にしたような溜息をひとつ吐いた後、男は去っていった。

(あー、やだやだ。エリートって、みんなあんな感じなのかなあ。……いや、悠もエリートコースまっしぐらだけど、あんなのとは程遠いもんな。あの人が特別性格が悪いだけだ、うん)

女子社員には密かにモテてるみたいでそれがまた腹立たしいけど。そう思っていたとき。

「やあ、仁藤君。ご苦労様」
「あっ、前田部長! こんにちは」

声をかけてきた前田は、あの男と同じくこのフロアで働くサラリーマンだ。
40近くながら若々しい前田は彼と違って親切で、清掃員の誠人にも気さくに接してくれる。
一度昼飯を奢ってもらったこともあった。

「今日は折り入って相談があるんだけど、君、パソコンできるって言ってたよね」
「? はい、何か……」
「実は、うちの事務の子がいきなり辞めて地元に帰ると言い出してね。人手が足りなくて困っているんだ。もしよかったら、うちの部署で働いてみない? 最初はバイト扱いになるけど、いずれ正社員に上がるチャンスもできると思うんだ」
「ええっ?」

誠人は驚きに目を見開いた。もちろんいい意味で、だ。

「で、でも、俺なんか……」
「自分を卑下することはないさ。君の真面目な仕事ぶりは知っているし、私は君を見込んでいるんだ」
「部長……ありがとうございます」

にわかには信じがたいし、なんだか都合がよすぎる気がする。
が、本当なら願ってもない話だった。事務系の仕事は倍率が高いし、まして正社員なんて夢のまた夢だと思っていたのだから。

「じゃあ、仕事が終わったら第3会議室に来てくれるかな」
「はい、分かりました! すぐに終わらせます」

前田は誠実な男だと評判だし、嘘を吐かれたりからかわれているわけではないだろう。
いつもは不運だが、生きていればこんな棚ぼたもあるものだ。
誠人は胸を高鳴らせながら、残りの仕事を急いで片付けた。





「やあ、待たせたかな」
「い、いえ! 俺……僕もさっき来たばかりです」
「そうか、それならよかった」

仕事後の会議室。前田が入ってきて二人きりになると、誠人は少し緊張して姿勢を正す。

「ああ、そう固くならなくていいんだよ」
「は、はい」

向かいあって座るものかと思っていたが、前田は誠人のすぐ横の椅子に座った。
きっと誠人が緊張しているのを見て、和らげようとしてくれたのだろう。そう思うと少し力が抜ける。

「ワードとエクセルはできるんだよね?」
「はい。パワーポイントも少し」
「そうか。それから――」

前田は終始穏やかで、話が進むごとに緊張は取れ、自分がこの人の下で働けるのだという実感が湧いてくる。

だが。

「僕、前田さんの下で働けるなんて嬉しいです」
「そう言ってくれると嬉しいよ。――ねえ?」
「は、い……?」

前田の手のひらが、不意に誠人の太ももを撫でた。

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