中二病君の1年 August 02
▼8月1日
俺に流れる王族の特別な血が、熱い奔流となって全身に行き渡る。抑えきれない汗が流れ出る様は、封じられた力が開放を求めているかのようだ。
凡人にも理解しやすいように言い換えると、暑い。この国の夏はやたらと蒸し暑い。
家庭教師に是非にと請われて仕方なく行ったものの、海水浴というのは悪くはなかった。愚民どもが芋のように洗われているさまは中々愉快だったし、母なる海の波に身を任せるのも、やたらガリガリしている安っぽいかき氷を食べるのも、たまにならありというやつだ。
しかし、それにしても。体がヒリヒリしてじんじんする。
いわゆる日焼けと筋肉痛というやつだ。
『くっ……』
もちろん王子として様々な苦難に耐えてきた経験に比べれば、こんな痛みは犬に噛まれたのと変わらない。が、とにかく全身の筋肉が悲鳴を上げているのだ。
『次郎くん、当日に筋肉痛? さすが若いね。それに日焼けも、色が白いからもっと頻繁に日焼け止め塗るべきだったね。ごめん、夢中になっちゃって忘れてた』
『ふん、案ずることはない』
帰りの車の中、家庭教師は謝罪してきたが、俺は鷹揚な心で許した。それにしても全く、夢中になるほど海ではしゃぐとは子供のような男だ。
家庭教師は、車のエンジンを入れる前に俺に身を寄せてきた。それより俺としては一刻も早くエアコンを所望したかったんだが。
『痛くなったら今度は薬を塗って、マッサージしてあげる』
『……そうか』
『次郎くんが可愛い反応したら、奥までマッサージしたくなっちゃうかもしれないけど』
等と言って、耳に息を吹きかけながら囁いてくる。俺は何故か日焼け止めを塗られたときのことを思い出し、おま〇こがきゅんっ……としてしまった。
薄暗くなった駐車場。太陽が隠れてもまだ暑くて、俺はエアコンという文明の利器を待ち望んでいたが、家庭教師はどうにも察しが悪く俺をじっと見ていた。
俺がしおらしくしていたのは、別に眠かったからじゃない。体が休息を求めていたまでだ。気づいたら家の前に着いていた。
▼8月2日
ぴくりとも動く気になれない。忌々しい。
『遊び疲れたくらいで泣いてんじゃないわよ、下りてきなさい!』
誰が泣くか。あの女めこちらの気も知らずに。
『まったくしょうがないわね、せっかく貰い物のアイスがあるのに』
『…………何味だ』
『ロイヤルダッツよー、あんた好きでしょ。今なら期間限定のメロン味まであるのに』
ロ、ロイヤルダッツだと。庶民基準で言えば相当に高級なアイスだ。守銭奴であるあの女が自分で買うことはまずありえないレアアイテムだ。
俺とて冷凍庫不動のスタメンである十本入り200円のアイスバーだったら、見向きもしなかっただろう。だが、ロイヤル……王族のアイスと言われると、食べないわけには……。
『し、仕方がない……くっ』
うつ伏せに寝ていた体を起こそうとして、やっぱり日焼けと筋肉痛が俺を苛んだ。
何という間の悪い体だ。これでは期間限定ロイヤルダッツメロン味の蕩けるような舌触りを楽しむどころではない。クレーメンスよ、これが俺の運命だというのか……。
『……あら、ロイヤルに釣られないなんて相当痛いみたいね』
くそ、俺は痛みに負けてなどいないしそもそもロイヤルに釣られてもいない。俺の高貴な腹ではなくあの食欲旺盛な母親の腹に全て収められてしまうロイヤルが忍びなかっただけだ。
言い返そうとしたとき、部屋に久しぶりに見る男――便宜上の兄が入ってきた。
どうせ『夏休みだからといってだらけすぎだ』などとありきたりな説教をするつもりだろう。賢い俺にはお見通しだ。
と思っていると、『服を脱げ』と憮然とした態度で言われた。いくら俺より20センチ以上背が高いからといって、上から目線とは何様だ。俺は世が世なら王子様だぞ。大体身長差は年齢差のせいであって、後三年ほどですくすくと伸びて追い抜く計算だ。
『俺に脱げだと? まさか……』
『早くしろ。母さんに軟膏を塗ってやれと頼まれたんだ。俺は暇じゃない』
『お、俺だって暇じゃない』
『ごろごろ寝転がっていて、暇じゃないか』
フンと鼻で笑われた。もしかしてこの男も、隆司や家庭教師のように気持ちがいい衆道をしたいのかと勘ぐってしまったが、そんなことはなかった。口に出さなくてよかった。
『軟膏なんて自分で塗れる』
『背中に背が届くか? それほど長い腕には見えないな』
くうう……。しかし『塗っておかないと後でもっと辛い思いをする』と言われ、背中がヒリヒリした。そこまで塗りたいと言うなら好きにさせてやることにする。高貴な男とは寛容なものだ。
『良きに計らえ』
『お願いしますだろう』
『…………します』
俺は服を脱いでパンツ一枚になり、うつ伏せでベッドに寝た。
『……肌が弱くて小学生のときにも痛い思いをしたというのに、学習能力のないやつだ』
『心外だ。日焼け止めはちゃんと塗った……くぅっ……』
肩のあたりから軟膏が塗られ始める。ひやりとした感触は悪くはないが、やはりちょっと痛い。日焼けだけで堪えるほど軟弱ではなく、筋肉痛とのあわせ技一本だ。
『どうせ自分で適当に塗ったんだろう』
『いいや、塗りたいというやつに塗らせてやった。じっくりたっぷり塗り込まれたぞ』
『…………誰だ?』と、兄の声がちょっと低くなる。『家庭教師だ』と答えると、何か考えているのかしばし無言になった。
『はぁっ……んっ、いっ、…んーっ……』
ぬりぬりと背中に軟膏がすりこまれる。痛いような気持ちいいような、とにかく効くんだろうという感じはする。
『気持ちいいのか』と小さい声で聞かれた。痛いと言うのはしゃくだったので、俺は『気持ちい……』と凛々しく……誰がなんと言おうと凛々しく答えた。
兄がふと、うなじのあたりの髪をかき分けた。
『んっ……、そ、そこはヒリヒリしてないぞ』
『……赤い虫刺されのようなものがある。これはどうしたんだ』
『…………? さあ、虫刺されみたいというなら虫刺されなのではないか』
『……』
この俺の血を吸うとはとんでもない虫だ。高貴な王家の血は極上のワインのように美味かっただろう。俺はワインの味はまだ知らないがそうに違いない。潰してやりたかった。
それにしても兄はどうも歯切れが悪い。うなじは触られるとくすぐったくてぞくりとする。さすがの俺も首という急所を捉えられていては迂闊に動けない。
『もう軟膏は塗り終わったのか』と訊くと短く否定され、背中から腰にかけて滑った指が擦る。
『んっ、はぁっ……』
『馬鹿みたいにくっきり色が変わって、まるでパンダだな』
『お、俺をあんな愛くるしい生物と一緒にするな……ううっ』
『……』
ぬる、ぬる、と指が撫でる。普段は偉そうな兄もさすがに気を使っているのか妙に手付きが優しくて困惑する。
特に尻に近くなってくると……おま〇こを指でずぽずぽ抜き差しされた気持ちよさが思い出される。軟膏のぬめりがあればきっとたやすく入ってしまうだろう。
気持ちいいところをぐりぐりされると俺は王族としての挟持すら忘れそうになって、『あっあっ』と変な声が出てしまって……。
『はぁっ……あっ』
『……何をおかしな声を出している』
兄が怒ったような声で俺を叱責してきた。不可抗力だ。というより。
『だって……ぬるぬるした手で触るからぁ……』
『軟膏を塗っているだけでそんな声を出すのか、お前は』
『だって……そこ、日焼けしてない。だからそっちが悪いっ……んっ』
腰の下の方は海パンを履いていたから白いままのはずで、そこに軟膏を塗られても何もヒリヒリしない。ただちょっとぞくぞくして、おま〇この中がきゅん……としてしまうだけだ。
俺の指摘に兄はピタリと動きを止めた。
『俺が悪いだと……?』
珍しいこともあるものだ。ヤツは自分の非を否定することもなく、愕然とした様子で俺から離れ部屋を出ていった。よくわからないが、普段からあのくらいの殊勝さがあればいいものを。
それにしても、あの男とはいえ下々の者に奉仕させるというのは悪くなかった。まだ太ももの裏などは塗られていなかったのに。自分でやれということか。やれやれ。
▼8月6日
今日は登校日である。夏休みだというのに登校せねばならないとは、全くもって意味不明だ。
俺は無視を決め込んでやろうと思ったが、朝っぱらからあの女は襲来した。
『登校日なんて知らない。そんなものに行く義理はない』
『何が義理よ。サボるなら夏休み中の食事は三食そうめんね』
『うっ……』
なんという女だ。あの白くて細いだけが取り柄の、高級とは程遠い、たまに食べるなら悪くないが連続すると倦怠極まりない食物を、三食だと……?
俺は仕方なく制服を着て学校へ行った。余談だが学校に行ったにも関わらずその日から数日昼食はそうめんだった。いわく『昼だけならいいじゃない』だ。たまには冷やし中華でも出したらどうだ。忌々しい。
日差しと蝉の声が煩わしい。異世界の王子である俺といえど、太陽光はいかんともしがたい。いや、完全に力を取り戻せれば、陰らせることくらいできるはずだ。
蝉などという虫にはもちろん負けないが、今は構う気にもなれない。何がミーンだ。
汗をかきながら学校についた。教室には空調がついているものの、効きはいまいちだ。無駄に中学生の子供が三十人ほどひしめき合っているせいだ。
『なにお前、鼻の頭赤いけど』
『うわダッサ』
席に座ったとたん、俺の存在感に相模と柴山がさっそくキャンキャンと吠え始める。
こいつらも海で散々遊んで痛い思いをしたことだろうと思いきや、以前より黒くなっているだけでダメージを受けた気配はない。バカみたいに健康的な肌色だ。
何とかというダンス&ボーカルグループにでも入るつもりか。お前らでは無理だ。
『男なのに色白で焼けないって可哀想だな』
『女子みたいに日焼け止め塗りたくればよかったのに』
『塗りすぎて白い化物みたいになってる女いるよなー』
何がおかしいのか、相模などは俺の机に座ってニヤニヤ覗き込んでくる。いつもなら軽く聞き流せるが、今日の俺の鼻は赤い。真っ赤な鼻のトナカイだ。真夏なのに。そう思うと屈辱だ。
『……日焼け止めなら塗った』
『ならなんでそんな赤いの? 変な見栄はるなよ』
『塗ったのは俺じゃない。家庭教師に塗らせてやった』
そう、だから落ち度は家庭教師にある。俺のミスかのように言われては心外だ。
事実を伝えると、相模と柴山はピクリと顔をひきつらせた。
『え、家庭教師に?』
『塗りたいと言われたから塗らせてやっただけだ』
『……』
『いや男同士でキモくね? なあ相模』
『……』
『日焼け止めを塗らせることの何が気持ち悪いんだ、意味が分からない』
『――な、何がって、普通に考えてキモいし……』
『……』
柴山に言われ、俺はすかさず反論した。隙あらば俺を嘲る要因を欲しているようだが今回はあまりに弱いぞ。
何故か相模はあからさまに機嫌が悪い顔をして黙っていた。かき氷の食べ過ぎで腹でも下したか。
俺はもちろん怯むことはなく、相模の目を睨みつけた。そこでチャイムが鳴って担任が入ってくる。
『はーい、席について』
やる気の感じられない声に、相模と柴山は舌打ちして渋々席に座った。ふう、また力を使うことなく勝ってしまった。
担任のつまらない話を華麗に聞き流しながら、俺は前方の席を見た。
委員長は相変わらず背筋が伸びていて姿勢がよく、目立つ。浮かれた相模達と違って色が白いままだ。勉学に励んでいたのだろう。それでこそ俺の騎士候補だ。
今日は相模達に煩わされたせいで話すタイミングがなかった。委員長は授業中に後ろを振り返ったりしないから、俺が一方的に見ているだけだ。特に話したいわけではないが。
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