大正偽物令嬢奇譚 サンプル 紀彦編・九井編(ルート分岐前)



■ 紀彦編・九井編

(外に出られた……。ここはもう鳥籠の中じゃない。本当に?)
 燿は半信半疑で、暗闇に目を凝らして何度も景色を確認する。
 家からの景色は嫌というほど目に焼き付いている。知らない道に知らない木々、知らない民家……。
「全くあそこの家は辺鄙すぎる。山道で大事な車が壊れたら商売上がったりだ。ひやひやするぜ」
「そう言うなって。上得意様だ。金はたんまりもらえる」
「それによ、お嬢様をちょっと盗み見ただけでとんだ大目玉だ。見るだけなら減るもんでもないだろうに」
「お前がセンズリに使ってやるって目で見てたせいだろ」
「だってなあ、深層の令嬢なんて、男なら一発汚してやりたいって思うもんだろ」
「まあな。あれは魔羅も見たことなさそうなお嬢様だったな」
「ほぉら、お前も見てたんじゃねえか」
「ちらっと盗み見ただけさ。じっと見たら魂を吸い取られそうでな。あそこの人間はどうも不気味だ」
「……」
 悪路が平らになるにつれ、ガタガタと骨にまで響く音が小さくなり、男達の噂話が聞こえてきた。
 馴染みのない粗野な言葉遣いで、夕神家に好意的ではない下衆な話であることくらい伝わってくる。内容に憤慨するより、噂の張本人が無断で乗りこんでいることがバレないかと不安が勝り、身を縮こませる。
「さあ、ごみを下ろしたら今日はしまいだ」
 車は麓の街に入った。人通りを避け速度が遅くなったところで燿は素早く荷台から抜け出す。
 心の中で礼を言った。彼らが何も知らないままなら夕神家から咎められることはないだろう。祖母には言葉の真偽を見抜く力がある。
「――……」
 初めて自分の足で踏みしめる見知らぬ土地は、湿った土の感触がした。燿は眼前に広がる世界に圧倒される。
 帝都よりまだ遥かに北。かつて城下町だった一帯は県の中心となっている。
 明治維新の後に開墾と疎水が進められ、土地が肥沃になると農業が発展して人口が増え、窯業や商業も発展していった。
「帝都と比べてどのくらい?」と、なにかにつけて憧れの帝都と比べたがる燿に九井は苦笑して、規模が違うと話してくれた。知識は豊富な燿が怯むほどではないだろうと……。
 夜も更けたにも関わらず、蔵が立ち並ぶ町並みから人が途絶えることはない。予想以上に賑やかだ。
 立ち竦む燿は街中から浮き上がり、衆目が集まった。
「お嬢さん、こんな夜に一人かい。家の人とはぐれたのか」
「あっ……」
「その身なり、いいところの子だろう。ふらふらしていてはすぐに拐かされる。送っていくよ」
 中年の男が声をかけてきた。洋装に口ひげを生やし笑顔はにこやかだ。
 果たしていい人間だろうか、悪い人間だろうか。不意に外の人間に遭遇してしまったときは、問答無用で悪人と判断しろと教わった。
「結構です、すぐに家の者が来ますから」
「どこにいる? いないじゃないか。ほおら、こっちに来れば安全だよ」
 腕を掴まれそうになり、身の危険を感じて後ずさった。
 家の男達は燿には決して触れないように怯えるほどだった。外の人間とはこれほど無遠慮なのか。
「……っ、触らないで。失礼します」
「待て。――おい、その子を見つけたのは俺なんだ、手を出すなよ」
 とにかく人の多い場所に行こうと歩き出すと、男が大股で追いかけながら周囲を威嚇する大声を出す。
 見れば通りの先にも同じような身なりの男が佇み、ある者は連れとひそひそ言葉を交わし、ある者はじっとこちらを覗っている。
 昼間に仕事をしている人間、女性や子供は家でぐっすり寝ている時間だ。彼らは悪い人で、危険かもしれない。
「あっ、おい待ちやがれ!」
 じりじりと近づいてくる男達から、燿は不意に全速力を出して一目散に逃げ出した。
 意外な速さに口ひげの男が荒っぽい口調で慌てる。どう見てもろくに走れそうにない令嬢姿に油断していたのだろう。
 燿の肉体は至って健康な男子だ。そこらの中年に脚で負けない自信はあった。
「……、はあ、はあ……」
 蔵の影に隠れ、燿はようやく脚を止め乱れた息を整えた。酒造だろうか、酒の匂いが鼻をつんと刺激してくらりとよろけかける。
 一人から逃げるのは容易でも、途中から静観していた別の男に追われ、また逃れると道の脇から別の手が伸びて捕まりそうになりと、油断できない逃亡が続いた。
 ごろつきに捕まれば身元を調べられ、命知らずにも夕神家に身代金が請求されるだろう。祖母はどんな手を使ってでも必ず身柄を取り戻す。大人しく恭順するふりをすれば命まではとられないだろうが、せっかくの苦労が水の泡になってしまう。
 とにかく夜中の通りは危険だと身を持って学んだ燿は、生きた心地がしないまま茂みに潜んで夜明けを待った。
「痛い……」
 飛び出した枯れ枝が柔らかい肌に刺さって擦り傷を作る。
 夕神の屋敷は何不自由ない牢獄だった。ここでは温かい布団で眠ることもできず、料理人が作る品数豊富な朝の御膳も用意されない。
 ただ一つ、喉から手が出るほど欲していたものがある。
「私……僕はくじけたりしない」
 あちこちの痛みを堪え、燿は潜めた声で自らに言い聞かせた。
 夜はとても長かった。千鳥足でうろついていた飲んだくれすら家に帰って静まり返った後も、一睡もできず木陰の間から朝日を浴びた。
「わあ」
 日が昇ると、通りは夜中とは打って変わって健やかな活気に満ちていった。和装と洋装の混じった老若男女が行き交い、通りの商店が威勢のいい声をあげる。
 近くに建てられた工場に向かう労働者の流れが出来上がり、次に学校へ向かう子供達が賑やかな声で走っていく。
 帝都の話をよく聞かせてもらって知っているのだ、麓の街くらいでは驚かない――と思っていた。百聞は一見にしかずだった。目にするものほとんどが初めてで新鮮な驚きに満ち、目眩がする。
 燿と同じ年頃の女性もちらほらと見かけた。店の手伝いに勤しんだり、どこかへ働きに出ているようだ。燿が出ていっても悪目立ちすることはないだろう。
 燿は意を決して茂みから一歩踏み出した。
 とても眩しくて、広い。太陽はどこにいても平等に降り注いでいるはずなのに、こんなに明るい世界があったなんて。
 大きく息を吸って吐く。心なしか空気からも自由の味がした。
 目立たないよう静かに歩く。今頃、屋敷では女中が座布団で膨らませた布団を見つけただろうか。まだ捜索の手は伸びていないはずだが、なるべく足跡は残さないようにしたい。
 それにしても、先ほどからいい匂いがして気になって仕方ない。大通り沿いの蕎麦屋だ。
 家からこっそり持ってきた食料は夜中に食べ終えてしまった。だって、追いかけられてとても腹が空いていたのだ。傷む前に食べきるのが正しい。
「う……」
 甘い汁の匂いと天ぷらの匂いが混じって鼻をくすぐり、しきりに腹が鳴る。
 外でものを食べるなら金を払う必要がある。もちろん知っていた。
 屋敷では金を使う機会がなくあまり触ったこともない。家に伝わる財産を守るための教育は受けても、街の蕎麦屋での頼み方には疎かった。
「いらっしゃい!」
「こ、こんにちは」
「見ない顔だね。お嬢さんが一人で食べるのかい?」
 店の主が快活な声をかけた後、燿の姿をまじまじ見て訝しむ。
「いえ、また後で来ます」
「なんだい冷やかしか」
 客の男達は色の濃い汁につかった蕎麦を一気に箸で掴み、勢いよくすすって喉に流し込んでいた。匂いに加えて立ち上る湯気がこれでもかと食欲を刺激してくる。後ろ髪を引かれながら背を向け、荷物が入った鞄の紐をぎゅっと握った。
 現金の持ち合わせはない。その代わりに、屋敷から金目のものをいくつか拝借してきた。
 外では何をするにも金が入り用だ。家に伝わる一点ものの財宝などは避け、ほどほどの価値で換金しやすそうな品を選んだ。
「すみません、物をお金に替えるお店はどちらにありますか」
「え……ああ、質屋か? 一つ先の区画にあるよ。暖簾で分かるだろうよ」
「ご親切にありがとうございます」
「お上品な場所じゃないぜ。一人で行くのかい。俺が案内しようか」
「いえ、一人で大丈夫です。お気遣い痛み入ります」
 通行人の男に深くお辞儀し、勇んで向かう。
「いらっしゃい」
「こんにちは。こちらをお金にかえてほしいのですが」
 質と大きく書かれた藍色の暖簾をくぐると、ちょうど他に客はいなかった。急いで鞄から宝飾品を取り出す。
 質屋の店主は一瞥し、しだいに目の色を変えて手に取った。
「こりゃあ、どこで手に入れたんだ」
「いただいたものです」
「これを? あんたが?」
「ええ、祖母から」
 店主は片眼鏡をかけ、宝飾品と燿を見比べる。
 その後は無言で品を隅から隅まで見回し、価値を確認した店主が難しい顔で切り出した。
「まさかとは思うが……盗品じゃないかい」
「ま、まさか」
「声が高くなったな、図星かい。困るんだよ、うちはお上に認められたまっとうな商売をしてるんだ」
 ぐっと顔を突き出され、燿は慌てた。
 祖母がくれたといえばくれたし、盗んだといえば盗んだ。結婚後に身につけるはずだった品だ。
 物語に出てきた質屋はもっとざっくばらんで人情があって、個々の事情を汲んで引き取ってくれる印象があった。
 燿がよほど不審に映るのか、思ったより高価な品だったのか、訳なく金に替えるとはいかないようだ。
 顔を青くする燿を見てカモにできると踏んだ店主はにやりと笑う。
「本当は引き取れねえし、怪しい品は巡査に伝えなきゃならねえんだが」
「それは困ります! なら結構です、もう」
「おっと慌てるなって。持って返っても同じことだ。お嬢さん、この辺の人じゃないね。雰囲気で分かるよ。よっぽど訳ありなようだし、特別に換金してやってもいい」
「本当ですか」
 店主が素早くそろばんを弾いた。
 示された金銭は希望より随分少なく、帝都までの路銀に当てるには頼りないが、背に腹は変えられない。蕎麦なら十日分は食べられる。
「では……」
「こんにちは店主。なにか良い品はありますか」
 店主は宝飾品を掴んで放さなかった。揉め事は起こしたくないし換金を急いだところで、第三者の声が割って入った。
 燿は思わず振り返った。
 若く明朗な声の主はその印象のまま、明朗快活で健やかそうな青年だった。背が高く、黒い洋装に外套を羽織った姿が似合っている。
 青年も燿を見た。冴え冴えとした目が揺れ、瞠られたまま見つめ合う。
 一瞬のことだった。
「なんだい、安達のところの坊っちゃんか。悪いが今は取り込んでるんですよ。出直してくれないかな」
 店主は迷惑そうに顔を歪めた。
 青年ははっとして燿から目を逸らし、宝飾品に視線を移して仰天することを言い出した。
「お嬢さん、こんなところにいらしたんですか。いけませんね質屋に駆け込むなんて」
「え?」
「なんだ、坊っちゃんの知り合いか」
「ええ、実を言うと僕と見合いをしたお家のご令嬢なのです」
 青年がいつの間にか横に立って、何のつもりか嘘八百を並べ始める。
 店主が疑った目で二人を見比べた。
「へえ、お似合いですねえ。しかしまだ嫁ってわけじゃないんでしょう。今はこっちとお嬢様の商談中だ。邪魔するのは野暮ですよ」
「いやあ、僕にとっては大事な人なのですが残念ながら彼女は逃げ出したいほど嫌だったらしい。立派な宝石を売って逃げるつもりでしたか」
 全くの出鱈目の中に偶然真実と重なるところがあり、燿はぴしりと固まる。
「これは大した品じゃないですよ。偽物だ」
「いやいや、とても綺麗だ。俺には宝石の輝きも本物に見えるし……仮に石が偽物だったとしても、装飾の仕事が実に丁寧で見事な職人によるものだ」
「ははは……」
 青年はずかずかと店主に近づき、宝飾品をじっくり眺めた。
 商売の邪魔をされようが、店主にとってあまりぞんざいに扱えない家柄の相手らしい。頬が引きつっていく。
 青年は燿に声をかけた。
「お祖母様はあなたの花嫁道具にするつもりだったのでは。考え直してください。心底嫌がる人に結婚を迫るほど僕は外道ではない。父に話をつけますから、逃げようだなんてはやまらないで」
「ど、どうしてそれを」
「あなたをよく見つめていたから。僕に隠し事はできませんよ。店主、盗品でも偽物でもないと僕が保証します」
「そ、そうか。じゃあもう少し色をつけてやるよ」
 店主は焦ってそろばんを弾き直す。青年が声を潜めて制した。
「これを買い取るのは止めておいたほうが賢明です。お嬢さんのご実家はここだけの話、なかなか物騒でね。もし彼女が逃げ出した後、手がかりとして家の人がこれを見つけようものなら、お嬢さんを害して奪ったのかと厳しい責めを受けますよ」
「か、勘弁してくださいよ」
 状況を冷静に見れば営業妨害なのだが、青年が自信に満ちた様子で滔々と語るので店主はたじろぎっぱなしだった。
 青年が店主とやり取りを続けながら、今度は燿の耳元で囁いた。
「ここでは売らないほうがいい。あなたの身のためです」
「……」
 燿は口をつぐむ。九井の教育の賜物で知識はそれなりに身についているが、想定外の事態にはめっぽう弱いのである。
 青年が燿の背中に手をやった。服にだけ触れてぬくもりを感じないよう配慮しているような、極めて慎重な手つきだった。
「行きましょうお嬢さん。いやあ店主、僕が間に合ってよかった。幸いにも今までと変わらず商いを続けられますよ」
「……はあ、訳ありの品を掴まされちゃ敵わねえ。さっさと帰んな」
 一人でくぐった暖簾を出るときは二人並んでくぐり、速やかに外に出る。
 燿は青年に従った。揉め事を起こして目立つのは本位ではない。
 彼を信用したわけではなかった。やたらと口が回る親切な人間は疑ってかかれと、九井がよく回る口で言っていた。
「ここまで来れば安心だろう。慣れない土地で若いお嬢さんが高価な品を質に入れるなんて、随分不用心ですね」
「……不躾になんですか。ちゃんと気をつけていました」
 しばらく歩いて青年は辺りを見回すと燿を諭してきた。急に説教されてむっとし、青年の綺麗な目を見据える。青年は呆れてどこか遠くを見ている。
「本当? 店を出た後に尾行されて、食事や寝ている隙に荷物ごと奪われたり、脇道で何人もの男に突然囲まれ拐かされても逃げ切る対策ができていましたか」
「……それは」
 言い負かすつもりが、すぐに威勢がなくなる。
 昨日は悪者から見事に逃げ出せた。しかし今は何はなくとも空腹で、質屋にいるときから天ぷら蕎麦が頭から離れなかった。
 食事や寝ているときに不意打ちを食らったら逃げ足が速くてもあまり意味がない。
「質屋は……悪い人なのですか」
「僕が知る限り、多少小狡い商売をしているけど、捕まるほどではないな。役人の懐に上手く取り入っているし」
「ではだいそれた罪を犯したりはしないでしょう。私一人を襲ったところで大したお金にはなりません」
「君は……普通の人ではないでしょう。誰にでも魔が差すことはある。意思の弱い人間は決して珍しくない」
 この青年はやけに鋭い。何か知っているのだろうか。
 燿は確かに得体の知れないものに魅入られている。果たして神か魔物か、見たことのない燿にはよく分からない。そして、とても厄介で莫大な財産を抱えた家から逃げてきた折り紙付きの訳ありだ。
 外見上は普通の若い女子に見えているはずだが、滲み出るものがあるのか。ただでさえ家から逃げなければならないのに、全く無関係の追い剥ぎや人さらいの危機に晒され続けるとなると前途は多難に過ぎる。
「だから私が考えもなしに貴重品を質に入れようとしたのを止めてくださったのですね。ありがとうございました」
「分かってくれましたか。お家はどこでしょう。よければ送っていきます」
「家には帰りません。それに私は……安くてもいいから持ち物をお金にして、蕎麦を食べたかったのに」
 青年はきっと親切な人なのだ。でも燿はすっかり蕎麦と天ぷらを食べる準備をしていたので、つい恨めしく言う。
 青年が虚を突かれて、陽の光に当たると色が薄くなる目を丸くする。
「……よく分からない人ですね」
「では失礼します」
「待って。君を空腹にさせてしまった責任の一端は僕にある。蕎麦でも丼ぶりでも、好きなものをご馳走させてください」
「え?」
 燿の曇った目が嘘のように輝いて青年を見上げた。

「本当にありがとうございます」
「お口に合いますか」
「はい、とても美味しい」
 蕎麦に加えて卵の乗った丼ぶりを、親切な青年は気前よく奢ってくれた。
 やはり善人だった。初めて見たときにいい人だと直感していたのだ。疑ってしまって申し訳ない。
 空の腹に、細切りの蕎麦が濃い汁を纏って染み渡る。体の内側から温まるようだ。
 青年は安達紀彦と名乗った。改めて狭い店内で向かい合うと、九井に負けず劣らずの美男子だ。まだ少し線が細い印象ながら、上背は首藤と同じくらいある。
 大通りでは若い娘から視線を集めていた。蕎麦屋の店主からも坊っちゃんと呼ばれていた。
 地域では名の知れた有力者の息子なのだろう。それこそ燿の婚約者と偽って演じても不自然ではないほどに。
「……そうまじまじ見られると食べにくいな」
「すみません、ぼ、私のことはお気になさらず」
「気になりますよ」
「……私がどこから逃げてきたのか、とか?」
「やはり逃げてきたのですね」
 自分から墓穴を掘ってしまった。慌てて額の汗を手巾で拭うと紀彦が微笑ましい顔になる。
「蕎麦が食べたいと訴えたときといい、君はとても素直な人らしい」
「う……、どうせ世間を知りません」
「今も羨ましそうに僕のカツ丼を見ている。――おじさん、カツ丼をもう一つください」
「あいよ!」
「いるとは言っていません」
「断りますか。もう作り始めてしまいましたが」
「……食べます」
 卵丼と蕎麦の汁まで飲みきっても物足りなかった。体はまだまだ食べ盛りの男子だ。
「いい食べっぷりだ」
「こんなにがっついて、はしたないと思っているのでしょう」
「いいえ。見ていて気分がいい。……これはとても放っておけないな」
 初めて食べるカツ丼は衣がしっとりとして、甘辛い卵が油を吸って、とても美味だった。感動し、燿は支障のない範囲で身の上を話した。
「あなたのご想像のとおり、望まない結婚から逃げてきました」
「やはりそうでしたか。行くあてはあるのですか。親戚の家や、ご友人の家でも」
「……いいえ。私はずっと、家に閉じこもる生活をしてきましたから」
 集落外の知人といえば古くから家に出入りする業者か、分家の人間くらいのもの。分家の中で最も年頃が近く言葉を交わした知人――勇夜のもとに駆け込むのは自殺行為だ。嘲笑いながら熨斗をつけて屋敷に送り返されるのがおちである。
「お家の人や婚約者は、きっとあなたを諦めずに探すでしょうね」
「婚約者はまだしも、祖母は簡単には諦めないと思います。私に家を継がせると決めていましたから。自分の判断を踏みにじられて容認する人じゃない」
「今も君を連れ戻そうと必死に探しているのか」
「きっと。私は早く帝都に辿り着きたいです。家の者達が総力を上げて探し回ったところで、帝都なら幾万の人々が私を隠してくれるし、働く場所もきっと見つけられる」
「お嬢さんが一人では無謀すぎる。――僕のところに来ますか」
 紀彦が、冗談には聞こえない声音で言った。
 まじまじと見つめ返すと頬に朱が混じり、
「決して求婚ではないので誤解なきよう」
と付け加えられた。

 紀彦はやはりこの地域の有力者の息子だった。世が世なら大名に仕える家老の家系だという。
 四兄弟の次男として生まれ育ち、帝都の大学で勉学に励んでいる。偶然帰省していたところで燿と出会った。
「でも、ご迷惑では。祖母は執念深い人ですし、紀彦さんまで危険な目に遭わせてしまうかもしれません」
「これでも体術には自信があります。それに君の言う通り、帝都の幾万の人々に紛れれば格段に安全になる。ここはまだ田舎で顔見知りが多い。現にあなたが他所の人だと皆が見破っていたでしょう」
「おっしゃるとおりです」
「どちらにせよ僕は間もなく帝都に戻る。道中が一人でも二人でも大差ありません」
 降って湧いたいい話だった。燿にとって都合がよすぎるほど。
 質屋から助け、蕎麦と玉子丼とカツ丼を振る舞い、更に帝都に連れ立って……紀彦に一体何の得があるのだろう。
「ああ、報酬はできる限りお支払いします。そうですよね、まずあの首飾りを」
「いりません」
「ですがただでというわけにはいきません。路銀の足しにでもなればと思って」
「宝飾品目当てだと思われたら心外だな」
 はっと思いついて鞄から宝飾品を取り出そうとしたが、紀彦はむしろ不服そうに制してきた。
「ではどうして助けてくださるのですか」
「それは……」
「教育係が折に触れて申しておりました。見返りを求めない親切な人間は疑ってかかれと。私にはあなたは優しい人にしか見えませんが、どうしても分からないのです」
 紀彦は珍しく口籠り、黒く豊かな髪を後ろに流しながら考える。
「その人の言うことは正しい」
「まさか」
「僕は女性には親切にしろと言われて育った。欧州では騎士道と呼ばれる精神です。とにかく一人きりで追われているお嬢さんを放っておくのは、僕の信条に反します」
 燿の中に罪悪感が芽生えた。
 女性を特に丁重に扱う考え方自体は知っている。燿は真実その対象ではない。
 紀彦の純粋な目には手を差し伸べるべきか弱い女子でしかない故だ。まじないが偽っているだけなのに。
「……私が、僕が本当は男だと言ったらどうしますか」
「――……、とてもそうは見えないので想像もつかないけど、年下の子が困っていたらやはり助けたいと思うよ」
「そうですか」
「今と熱量は変わってしまうだろうけどね」
 嘘を吐いているとは思えない。紀彦は燿が男子だと分かっていても救いの手を差し伸べてくれる人格の持ち主だ。
 そう思うことで、もやもやとした気持ちを打ち消すことにした。
 紀彦が何かいいことを思いついたように言う。
「でも、いい案かもしれない」
「といいますと?」
「お嬢さんのような人は道中どうしても目立つ。よからぬ輩に目をつけられてはいけませんから、男装して同じ学生か兄弟のふりをするのです」
 紀彦は優等生のようで、唐突に枠にとらわれない提案をする。
 こうして燿は、男子が男装するというややこしい状況に陥ることになった。

◇◇

「――うーん……」
「どうでしょう。おかしいですか」
「おかしくはないはずですが、どうにも……男子とは思えない」
 安達家別宅の裏からこっそりと入れてもらい、弟のものだという洋装を渡された。
 着替えている間、紀彦は厳重にふすまを閉め外で静かに待っていた。
 服装は動きやすくて都会的で、自分なりに悪くない仕上がりに見えたが、紀彦の反応は芳しくない。
「髪が少し長いからでしょうか。切ってしまいますか。そうだ、男子らしく坊主にましょう」
「どうか止めてください。いや……僕の目が正しく働いていないからだ。遠目では線の細い少年に見えるだろう」
 燿は本気で坊主にしても構わなかった。そこらの少年は丸刈りで走り回っている。
 一方、女性の場合は出家を除いて坊主頭はまず見かけない。うら若い女性相手と思っている紀彦が止めるのも理解できるので強行はしなかった。
 その日は部屋を一つ貸してもらい、安心して眠ることができた。今日も茂みが寝床だったら、覚悟は決めていても体力は削られる一方だっただろう。
 寝ている間に身ぐるみを一切剥がれても文句がつけられないくらい、紀彦には世話になりっぱなしだ。彼はもちろんそんなことはせず、ぐっすりと無防備に眠らせてくれた。
「坊っちゃん、行ってらっしゃいませ」
「行ってきます。留守を頼んだよ」
「お任せください。ご友人もどうかお気をつけて」
「ありがとうございます、お世話になりました」
 出ていくときは正面の門からだった。紀彦は使用人に燿を大学の後輩だと紹介し、彼女達は何も聞かずに客人としてもてなしてくれた。
 由緒正しい有力者の家柄と聞けば夕神家と気質が似ているものかと思ったが、ずいぶん時代に適応した雰囲気で、紀彦はのびのびとしていた。羨ましく感じる。
「――坊っちゃんにもついにいい人ができたのね」
「でも男の格好をさせるなんて、なんだかおかしな趣向に走ってなければいいけど」
「坊っちゃんに限ってそんなことはないでしょう。きっとやむにやまれぬ事情があるのよ」
「禁断の愛ってこと? いやあ、素敵ね」
 背中に向けられる忍び声は、紀彦が行きがけに団子を買ってくれるというので燿の耳には入らなかった。
 徒歩なら数日かかる道のりも、馬車や車を乗り継げば存外順調に進んだ。
 関東の宿場で一泊する際、部屋が一つしかなかったときは、燿より紀彦が困っていた。
「どうにかなりませんか」
「なんだい、男同士だし構わないでしょう。……? いや、そっちは……」
 紀彦は燿に帽子を目深に被らせて隠し、抗議する。
「間違いなく男子です。あまり見ないでください」
「あの、僕は同じ部屋で一向に構いません」
「…………」
 紀彦が息を飲む。他にないなら致し方ない。野宿よりはずっとましだ。
「やはり僕が外で寝ます」
「いえ、お金を払ったのは紀彦さんですし、どうしてもというなら僕が外に出るべきです」
「とんでもない。――僕の前では自分を偽らなくていい。どんな服を纏っていても君は紛れもなく女性なのですよ」
 令嬢だと信じているから、紀彦は燿に過剰に気を遣う。年もさほど変わらないのだし男子同士だとわかればもっと打ち解けられそうだからもどかしい。
 結局紀彦は宿に余分に金を握らせて衝立を持ってこさせ、二人の間を隔てた。
「決して入らないし、見ませんから」
「何度もおっしゃらなくても、全然心配していません」
 衝立があっても尚、燿が寝巻きに着替え始めると紀彦は「事前に言ってください」と慌てて部屋を出ていった。衣擦れの音すら気になるのだ。
「もういいですよ」
 肌寒い部屋の外で律儀に待つ紀彦に声をかけると、ため息を吐きながら戻ってきた。
「はあ……、少しは心配してください。僕は誓って何もしないけれど、世の中には不埒者も多いのだから」
「ふふ」
「どうして笑うのです」
「すみません。その言い方、ふと教育係を思い出してしまって」
「何度か聞きますね。その人を慕っていたようだ」
 燿は首を傾げた。
「慕っていた、のかな。勉強は嫌と言うほど叩き込んでくれたけれど、大事なことはあまり話してくれなかった気がします。それに紀彦さんと違って意地悪だったし」
「君に意地悪をできる人がいるのか。相当打ち解けた関係でなければありえないな」
「そうでもないですよ。そりゃあ女中や使用人は優しかったですけど、徹底して祖母の意向を優先しましたし。九井は、私の機嫌を損ねるのを恐れず意見してきた分、たしかに打ち解けていたと言えるのかも」
 紀彦に訊かれたので、つらつらと九井のことを話した。
 田舎の不自由しない家に生まれ、幼少時代から学業優秀で、帝都の学校に通って新しい勉学を収めた。
「紀彦さんと似たところはありますね」
「……僕があなたの教育係として長く傍に仕える世界もあったのかもしれないな」
「それはどうでしょう。本家は排他的で外の人を入れたがらなかったし、あなたは立派なお生まれでしょう」
「戯言です。忘れてください」
 紀彦はくだらないことを言ったと自嘲するように吐き捨てた。
 燿は想像を巡らせた。もしも誠実で優しい紀彦がずっと傍にいてくれたらどうだっただろう。
「もしも現実だったら、私は今も家にいたかもしれない」
「どうして?」
「あなたの言葉には嘘がなくて誠実だから。まっすぐな教育を受けていたら私はもっと素直な人間になっていたと思うんです」
「……」
「九井がひねくれていたからこそ反骨心が芽生えた気がする。紀彦さんが子供の頃から傍にいたら私は心から慕っていたでしょうし、そんな人から滔々と結婚して幸せになるべきと諭されたら、逆おうという考えも生まれなかったかも」
「複雑だな……」
 本当に複雑そうに紀彦が呟いた。燿は本心から称賛したつもりだった。
「変なことを言ってごめんなさい」
「怒っているわけではないですよ。実際にその人から教育を施された結果、あなたは望まぬ結婚から逃げ出せた。きっと俺では今のあなたには出会えなかったでしょう」
「そうですね。九井に教えを受けたから帝都に出たいと思えて、今の私は幸運にも紀彦さんに救っていただけた」
 紀彦が吐く息を飲み込んだ。今の時期は虫も静かで鳴かず、沈黙が落ちると衣擦れの音が聞こえる。
「出会ったばかりの相手を信用しすぎです。僕のことを誠実だの、優しいだの。下心を隠していたらどうするのです」
「下心があるのですか?」
「……いいえ」
「だって、知らない人のことはどうしても警戒しなければいけないでしょう。せめてあなたのことだけは、心から信じたいのです」
 紀彦がまた黙ってしまった。諌められるだろうか。助けてくれたから信じるというのはあまりに浅はかだと、家の人間が見たら諌めるだろう。
「――顔が見えなくてよかった」
「私、殴られるほど失礼なことを?」
「いいえ。僕も男です、腹を決めた。僕のことは信じてください。何があっても君を裏切ったりしないと誓います」
 まるで愛の告白じみて聞こえて燿は狼狽した。一瞬でも、令嬢扱いされることを受け入れ、胸の一部に熱が宿った。
 自分は男子なのに。
「でしたら私もあなたを守ります。私より頑強で聡明な人に言うのはおこがましいですが、これでも多少武術の嗜みがあるのです」
「お願いですから、無茶はしないでください」
「信じていませんね。私は本気です」
 衝立に隔たれたまま、二人は不均等な誓いを立てた。


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