大正偽物令嬢奇譚 サンプル  勇夜編



■ 勇夜編

 燿の逃亡計画は一旦頓挫した。 荷台に乗り込む直前のことだ。
「あっ、これはお嬢様。こんなところでお会いするとは思わず、無礼をお許しください」
「……いえ、ちょっと、外の空気を吸いたかっただけです。私のことは気にしないで」
 いつもは二人の荷役の男が今日に限ってもう一人いて、ばっちりと燿を見つけてしまった。
 燿は乗り上げようとしていた足を不自然に彷徨わせた。
「ここはバタバタして埃が舞っていますから、お嬢様に相応しい清浄な空気ではないかと……」
「空気なんてどこも一緒でしょう。あの、本当に散歩していただけですのでお気遣い無用です。ではご苦労さま」
 若く物怖じしない青年相手に、燿は何事でもないという顔を作り、いそいそと屋敷に帰った。
 外界の業者に見られただけだ。彼らは燿の事情を深くは知りえないし、まさか逃亡を企てていたとは思い至らず告げ口もしないだろう。内部の人間に見つかるよりはずっといい。
 しかしうきうきして練り上げた計画がまんまと失敗して、完全に出鼻をくじかれる形になってしまった。仕切り直しするにあたっては更に慎重に及ぶ必要がある。
 成功していれば一生関わることのなかった男の訪れは、何の因果か翌日にあった。
「お嬢様、お客様がお見えですよ」
「誰? 予定に入っていたかな」
 名前を聞いただけで燿の顔を引きつらせる男は彼をおいて他にいない。
「久しいな、お嬢様」
 祖母は別格として、燿がこの世で最も苦手としている一族の男――。
 前に見かけたときは少年から青年に差し掛かる頃で、変声期特有の掠れた声をしており、当時から背丈では追いつけたことがなかった。
 元から恵まれた家の出来のいい息子という風貌だったが、そこから更に見違えるほど成長していた。背丈は見上げるまでに伸び、整った顔立ちはそのまますっかり大人になっている。
「……お久しぶりです。以前お会いしたのは四年ほど前になるでしょうか」
「三年五ヶ月だ」
 物覚えが悪いな、とでも言いたげに、低くなった声で訂正を入れられる。
「さようでしたか。一族の集まりにも寄り付いてくれないので、あやうくお顔を忘れてしまうところでした」
「俺にとって実りのある集まりなら、どんな辺鄙な片田舎だろうと喜び勇んで足を運んだのですがね」
「……そうでしょうね」
 嫌味に嫌味で返される。見てくれは大人の男になっても変わっていない。本家に敬意を払わない姿勢も、燿の真の姿を無遠慮に見据える眼差しも。
 女扱いは気持ちのいいものではない。お嬢様という役を演じる姿を俯瞰して見物する勇夜という男はもっとたちが悪い。
「今日はどうしてこのような辺鄙な場所に?」
「さあ、どうしてだろうな」
 勇夜は素直に答えてくれない。だろうと思った。
 盆でも正月でもなく、特別な催しがあるわけでもない。彼の父親は健在なので代替わりの報告などもありえない。
 祖母のご機嫌伺いをして融資でも引き出しに来たのだろうか。
 うんうんと考え込む燿に、勇夜が意地悪く囁いた。
「俺の話など、お嬢様の数奇な境遇に比べれば路傍の石のようにつまらないだろう。――相変わらずお美しい。成人を目前にどんな笑える姿になっているかと思えば、中々どうして板についているじゃないか」
「……馬鹿にしないでください」
「本心だよ」
 勇夜の目が燿の全身をじろじろと見渡す。
屈辱的だ。大多数の視線から燿の矜持を守ってくれるまじないという鎧が、この男には一切効かない。女装を強いられる憐れな男という剥き出しの姿を常に晒すはめになる。いっそ本物の裸を見られたほうがずっとましだ。
「俺もお前の正体を知らなかったら騙されていたかもしれない。男の元にせっせと通う間抜けな求婚者達のようにな」
「騙されなくて何よりです」
「そう剣幕になるな。怒った声で喋るとさすがに男だと分かってしまう」
「…………」
「本当に黙るなよ、つまらない」
 不愉快だ。この男の視線が、物言いが、存在が、全て気に障る。
 一族の富を享受しながら呪いの影響は受けず、将来有望な男子としてすくすく育ち、都会を自由に歩き回れる彼が心の底から――妬ましくてたまらない。
 恵まれているのだからせめて、不自由な燿を思いやってくれてもいいのではないか。それがどうだ、思いやるどころか傷つけることばかり口に出して憚らない。 
「僕のことを馬鹿にしたいならはっきり言えばいい。お嬢様とか、う、美しいとか、やめてください」
「おやお嬢様、男のような言葉遣いはよくないな。――男扱いしてほしいか? 俺と男として競って余計惨めな気分になっても責任はとれないよ。子供の頃みたいにな」
 昔、かちんとくることを言われたので無謀にも喧嘩を売って、軽くひっくり返されたことがある。勇夜の言う通りだ、と思ってしまう自分が情けなかった。
「……もういい」
「怒るなって。俺は――」
「――お嬢様」
 勇夜が何か言いかけたとき、九井が呼ぶ声がした。
 燿は露骨にほっとして表情を和らげた。嫌味ではない「お嬢様」と敬う呼び方に安堵して、そんな自分も情けない。
 楽しげだった勇夜は水を差されて目を眇める。 
「呼ばれているので失礼します」
「心にもないことを。俺より使用人を優先するのか」
「とっても口うるさい教育係なので無視すると怖いのです。ゆっくりなさっていってください」
 九井の声をこれ幸いに退散する。勇夜が舌打ちした。行儀のよくない仕草も、大阪の色々な人間と交わって伸び伸び育った証に思えてやっぱり妬ましい。
「あなたが欲しがっていたアメリカの本が届きましたよ」
「九井、久しぶりにお前に感謝したくなりました」
「おや、久しぶりと言わずに常に感謝していただいてかまわないのですよ」
「もしかして助け舟を出してくれたの?」
「なんのことでしょう。さあ、お嬢様は英語に情熱をお持ちのようですので、俺も誠心誠意教えて差し上げますよ」
「……ほどほどでいいよ」
 九井が持ってきた本を抱いて礼を言うと、成り行きで英語の厳しい授業が始まりの鐘を鳴らした。
 九井は夕神一族の人間に決して逆らわないし悪く言うこともない。しかし燿が勇夜を苦手としていることには気づいていて、見かねて割って入ってくれたのかもしれない。

◇◇

「――今なんと」
「二度言わせるな。お前が決めかねるなら私が決断するまで」
「お、お待ちください。ちゃんと熟慮しますから」
 祖母に呼び出され、挨拶の口上を述べている最中に、彼女は思いがけない提案を突きつけてきた。
 ――求婚者から一人を選ぶ道の他に、勇夜と結婚する手もあると。てっきり首藤に決められたものだとみなしていた燿には寝耳に水だった。
 分家である勇夜の祖父が興した海運会社は発展目覚ましい。本家に眠る莫大な資産を投じればさらなる成功が見越せる。
 分家は血が薄くなり、夕神の名と伝統から遠ざかりつつある。今一度結びつきを強め、手を取り合って激動する時代の覇者になろうではないか。というのが勇夜の父の言だ。
 彼らは本家と縁を結ぶことで資産を引き出し、本家は威光を一層強めることができる。
「しかし、一族の人間を婿に入れた話を聞いたことがありません」
「前例というのは全て守る必要もない。勇夜は強い男だ。呪いの影響を少しも受けていないとふてぶてしい顔を見ればよく分かるだろう」
 それはそうだ。
 かつて一族の男が娘を犯し呪いを受けた忌まわしき歴史から、婿は外の人間を入れるのが通例だった。勇夜は自分の身をもって呪いなどもろともしないと証明している。
 家系図を辿れば勇夜と燿の血縁は遠く、結婚に支障はない。あくまで血だけを見れば。
「どうしても嫌ならやはり求婚者からしかるべき相手を選ぼう」
「私の意見を尊重してくださるのですか」
「お前の正体を知る一族相手では勝手が違かろう。昔からあまり気が合わぬようだしな。結婚後に寝所を共にするだけで吐き気を催すなどと言い出されてはかなわない」
 奇特なことに祖母が燿の意見を伺った理由が分かった。なにせ相手は男同士と承知している上に、前例の少ない一族同士だ。理屈ではない嫌悪感が拭えないなら結婚生活は困難なものになる。
 勇夜の家と甲乙つけがたいほど事業を成功させている求婚者もいる。どちらがより栄華を極めるのか、こればかりは未来に起きる不測の事態や時の運もあり祖母の目をもってしても完全には見通せない。
 際立った選択肢が一つなら燿が泣こうが喚こうが祖母は問答無用で裁定する。どちらでも本家にとって悪くないから、婿と共に生きる当人である燿の気持ちを聞く気になったのだ。
「……少し考えさせてください」
 祖母の柳眉がぴくりと動いた。感情的に拒否するのを予想していたのだろう。燿はそうする寸前で踏みとどまった。蔑みの目を向ける勇夜と結婚するくらいなら、見ず知らずの腹の出た求婚者のほうがまだ安らかに過ごせる。そうではないか。


「お嬢様、何の用だ。この俺を呼びつけたからにはそれなりに面白いものを用意してもらえるのだろうな」
「あなたは僕との結婚話がさぞ不快だったでしょうね。以前にも増して苛ついていたのも得心しました」
「……結婚だと?」
 尊大な勇夜の薄ら笑いが消え、眉を顰める。
「もしかして知らなかったのですか」
「いや――、ああ、そういうことか。あの狸親父め」
 どうやら勇夜は聞かされていなかったようだ。知っていれば断固として拒否してここに来ていなかっただろうから、彼の両親は水面下で話を進め、外堀から埋めようとしていた。
 寝耳に水でも今の少ないやりとりであらましは理解した様子だ。認めたくないが頭は並より働く男だった。
「お嬢様こそ、俺と結婚するなんて想像するだけで怖気が走るだろう。可哀想に、どこまでも家に翻弄されて。俺はそうはならない。親父も馬鹿なことを考えたものだ。俺が唯々諾々と従うと思っていたなら侮られたものだ」
「そうですね」
「もちろんすぐに断ったのだろうな。お嬢様と結婚したい物好きで当主の目に叶いそうなのがいただろう。ほら、首藤とかいう……きっと熱心に口説いてくるだろうが、真に受けないほうがいい。ああいった手合いは結局のところ自らの成功にしか興味がない」
 勇夜はやけに饒舌だ。
「僕と結婚していただけませんか」
「…………は?」
「ですから、結婚してほしいのです」
 少しでも景観のいい場所でと勇夜を庭園に呼び出したものの、景観を愛でる風情もなく燿は言い放った。

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