乳首鈍感化計画 サンプル 02


 世間知らずのお坊ちゃん扱いされてきた。
 元を辿れば裕福な庄屋だった和佐家は、明治時代の地租改正に乗じて不作の年に土地を買い集め、一端の地主となった。都市の発展と歩みを共にして富を増やし、不動産を元手に事業を成功させていく。地元での地盤は揺るぎなく、一族から政治家を排出する一方、曽祖父が興した会社は業態を転換しながら規模を拡大させていった。
 和佐華月は社長夫妻の大事な息子として、庭に松の木が植えられた古めかしい日本家屋で生まれ育った。
 両親は愛情を注ぐ一方で、間違っても息子が家の名を汚すことがあってはならぬと祖父母からの圧力もあり、伝統を重んじる教育に熱を入れた。
経験させられた習い事は両手の指では足りない。ただし最優先はあくまで学業であり、別のことにかまけて疎かにするのは許されなかった。

「いずれ人の上に立つ人間になるのだから、他の誰より視野を広げ、知見を高めなさい」
「はい、おとうさん」

 多忙な父は貴重な時間を割いては説いて聞かせた。恵まれた家柄に慢心し勘違いした愚か者は、特別に侮られ、失望され、誰もついてこない裸の王様になると。家族はもちろん面倒を見てくれるお手伝いさん達によく懐き大好きだった華月は、皆がいなくなる悪夢を見て震え上がったものだ。
 幼子にとって両親は絶対的な存在で、彼らが価値観の礎を築いていった。
 華月は聞き分けがいい優等生だった。自ら思考して疑問を抱き大人に投げかけるほどには賢くなかったとも言える。
 変化の兆しが訪れたのは中学生になる少し前の頃だった。

「大丈夫、大丈夫……」

 華月は中学受験の当日を迎えていた。
 第一志望は家から通える文教地区の中で随一の名門とされる男子校だ。一族の男子の多くが卒業しており、和佐の男の基礎を造る母校だ、と親戚の集まりで聞かされてきた。何の部活に入るのだとか、図書館の端で自習するのがおすすめだとか、校長先生によろしくだとか、合格を前提としたおじさん達の呑気な口ぶりが、華月の細かい神経を圧迫した。
 緊張でひりついた喉に、落ち葉を舞い上がらせる冬の空っ風が追い打ちをかける。背中のリュックが中身以上にずっしりと重く感じた。
 何度か受けた模試の判定に、親や家庭教師は「いつもと変わらず実力を発揮すれば大丈夫だ」と太鼓判を押した。
 では、緊張のあまり手が震えて「いつも通り」の実力が発揮できなければどうなってしまうのだろう―と頭を掠めるマイナス思考でお腹が痛くなってきて、念のためにと渡された市販薬を水なしで無理やり飲み込む。水分を摂りすぎて試験中トイレが我慢できなくなったら一大事だ。
 母は学校前まで車を出すと何度も言ったが、以前小学校の同級生に大袈裟な送迎をからかわれたことが気恥ずかしくて、一人で歩いて気持ちを作りたいと訴えた。
 今日ばかりは甘えればよかった。嫌な汗で体が冷えて指先はかじかんで足取りは重く、とても最善を尽くせるコンディションとは言えない。
 逃げたい、と一瞬でも考えたことに自己嫌悪を覚え、無理やり足を動かす。応援してくれる人達の気持ちを棒に振るなんて許されない。

(―? あの子……知ってる)

 車道と歩道の間にイチョウが植えられた道を歩いていると、一人の少年に目が留まった。
 やや色素が薄く、朝日に晒され風に靡いた髪の毛が透けて輝く。凍りついた真冬の風景の中で、彼の異質さに目を留めずにいられず、それでいて幻のように消えてしまいそうな儚さを帯びていた。
 今さっきまで頭を占拠していた受験の重圧も忘れ、華月はしばらく見入った。面識の有無に関わらず足を止めるのは必然的だった。

 初めて見つけたのは数ヶ月前の学校説明会の日だった。
 職員の案内に従って校舎を移動中、男子ばかりの在校生が「可愛いなー」「ほんとに男子?」と、冗談交じりの声を投げかけてきた。彼は実際可愛い、という言葉など陳腐に感じるくらい、華月に言わせれば特別に綺麗な容姿をしていた。
 だからといってからかわれるのは気分が良くないだろうと、華月はさりげなく在校生から視線を遮る場所に移動した。
 見惚れた自分のことは棚に上げて、他人が不躾に眺めてふざけた声をかけるのは不愉快だった。
 彼は特段の反応を示さなかった。余計なお世話だったかもしれないけれど、せっかく初めて会えた日に憂鬱な記憶が刻まれなかったならそれでいい。華月の自己満足だった。

(あの子も受験するんだ)

不良な在校生の態度が災いして、学校そのものに嫌気が差して受験を避けてしまうかもしれないと気にかかっていた。
 受かれば同じ学校に通える……? 目の前にいても未だ遠い存在に見えて、実感はすんなりと胸に落ちてこない。
 彼は立ち止まり、風景を見るともなしに見ていた。枯れ葉がサラサラの髪を通り過ぎて地面に落ちる。

「……ねえ、学校はこっちだよ。一緒に行かない?」
「―?」

 彼も受験に対して不安を覚えていたのか、あるいは土地勘がなく道に迷っていたのかもしれない。受験生は全国から集まってくる。
 勇気を出してかけた声に、彼がゆっくりと振り返り、薄い茶色の瞳に華月の姿が映った。近くで見る彼は、焦燥や緊張とは無縁の落ち着き払った表情をしている。華月が一人で紅潮して上ずった声を発する姿に、綺麗な瞳の瞳孔が僅かに反応した。

「迷ってたんじゃないよね…。もしかして誰かと待ち合わせ? 早とちりしてごめん」

 隣に並んで目的地に向かうよう促してから、勘違いの可能性に気づいて、冷たい外気に晒された丸い頬が熱くなる。

「―ううん、行こう」
「いいの?」
「俺は西矢織人。君は?」
「西矢織人くん……。ぼく、俺は和佐華月です」

 織人が小さく微笑んで、華月より先に学校への坂道を踏み出した。
 やはりプレッシャーを少しも感じさせない悠々とした足取りで、難なく合格を勝ち取る予感がした。

(僕も……合格したい)

 親の導きで最初から決まっているも同然だった学校の受験を、初めて自分事として強く実感した。


 
 散りかけの桜が地面にピンク色の絨毯を作る頃。クラス名簿の中に、華月は自分の名前より先に彼を見つけた。
 見間違いではないと何度も確認していると向こうから話しかけられ、おろしたての制服に着られている華月の気持ちは大きくはずんだ。

「久しぶり」
「久しぶり、西矢くん、同じクラスだね。よろしくお願いします」

 受験を無事に終えた日から折に触れて思い浮かべた通りに、織人とクラスメイトになれた。
 一変する環境に不安もあったけど、ドキドキして、嬉しさが勝った。

「よろしく。俺のことは織人って呼んで。苗字はあんまり好きじゃないんだ」
「織人くん」
「礼儀正しいな。呼び捨てでいいよ」
「お、織人……。なら俺も名前で呼んで。下の名前、似合ってないから本当はあまり好きじゃないんだけど」
「そうなの? 華月、いい名前だと思う。君の成長する姿を思い描いて名付けたんだろうなって感じる」

 凛とした微笑みを向けられると、彼の言った通りに思えてくるから不思議だった。

「じゃあ……、華月でいいです」
「華月」
「うん」

 照れ隠しに明後日の方向を向くと、教室には他に三十人近くの生徒がいることにやっと気づいた。織人を前にするとつい存在に引き込まれて周りが見えなくなる。

「どうも、俺は斎藤郁央。東区出身」
「初めまして、和佐華月です」
「和佐って、あの議員の和佐の家族?」
「ううん。和佐議員は親戚のおじさん」
「なんだ他人かー、って親戚じゃん。やっぱりな。遠くから見ても育ちが良いお坊ちゃんオーラ出てたもん」

 次に話しかけてきた生徒は、最初からぐいぐいと饒舌で砕けた態度だった。
 家族のことを詮索する人間は信用に値しない、と常日頃から言いつけられ警戒していた華月だが、斎藤はあっけらかんとしすぎていて驚きのほうが勝った。

「そっちのイケメンとは温度差あるよな。えっと……」
「……西矢織人」
「織人もよろしく。なあ、明日から一緒に昼飯食べようよ」

 織人が会話に入ってきたことで、おたおたしていた華月から斎藤の注意を引き付けてくれた。

「俺はいいよ。……織人も、いい?」
「華月がそうしたいなら」
「お前らって違う中学だよな。なんでもう仲いいの?」
「君には言わない」

 織人は斎藤に対しては愛想に欠けるものの、本気で嫌がってはなさそうでほっとした。
 学校は偏差値もさることながら一等地の近くに荘厳な建築の校舎を構えており、歴史的に政財界の著名人を排出し、校章の刻まれた黒い詰め襟が印象的で「お坊ちゃん校」とも呼ばれていた。
 内実はそれなりに多様な生徒が在籍しており、華月のようなタイプが多数派というわけでもなかった。

「華月、この動画見て。すげー笑える」
「連絡以外でスマホを使うのは校則違反だよ」
「先生みたいなこと言うなよ。バレないようにみんなやってるって」

 本人曰く「量産型な成金の一般家庭」で育った斎藤は、不謹慎ギリギリを攻めたバラエティや動画配信者を好んで視聴し、好奇心旺盛で、大人を舐めているところがあった。

「でも、規則は規則だ」
「ほんと華月って真面目だよな。校則の端から端まで読みこんでるの華月くらいだよ。やっぱ家電の説明書とかも全部読むの? 家柄がいいとそうなるの?」

 斎藤は礼儀正しく型に嵌まるのよしとする華月に大げさに驚いて見せては小突いてきた。
 お互いがお互いにとって今まで関わりのなかったタイプであり、「同い年でこういう考え方の人間もいるのか」と新鮮な驚きがあった。

「華月はこのままでいいんだよ。紛れもない長所だ」
「いい子ぶっちゃって。お前は不真面目側だろ、織人」
「俺はラインが引かれてたら手前で立ち止まる。越えたくてウズウズするお前と一緒にしないでほしいな」
「え? ラインって越えるためにあるんじゃないの?」

 斎藤と織人の意見の合致を目にすることはあまりないが、斎藤のほうがよく絡みにいくことで友達として成立している。
 織人は歪みのない輪郭に形のいいパーツが整った配置で収まっていて、クラスメイトから即日イケメンだと認知された。
 斎藤は「一緒に道を歩いたら俺もついでに女子にもてそう」と口では下心を丸出しにするが、実際には男子しかいない環境で果敢に話しかけており、見た目だけでなく人間的にも無意識に迫りたくなる魅力を察知しているのだろう。華月と同様に。
 織人の親は芸能人なのだと不確かな噂が流れていた。父親は俳優で母親はアイドルというのが最も有力な説らしい。他人のプライベートを詮索するのは品がないと教わっていた華月は、本人から持ち出されない限り訊ねなかったから、しばらくは真偽を知らないままだった。

「お前らといると俺が不良になったみたいじゃん。帰りにカラオケとか誘っても全然乗ってこないし。俺はどれだけ「また今度」を待ってればいいんだよ」
「大人が縛り付けるためのくだらないルールに思えても、いい子にして守っておけば損はない。斎藤も大人になったら分かるよ。ね、華月」
「うん……?」

 織人は融通が利かない華月を馬鹿にしたりせず、個性として尊重してくれた。
 織人とは比べるべくもなくても、外見や成績が目立って優れていると驕慢になりがちなものだ。同じ年頃の男子で形成された集団の中には、特権意識で周囲を見下す生徒も自ずと現れた。
 織人は全く違う。超然としていて何を考えているのか分かりづらいけど、人は人、自分は自分と割り切って無闇に個性を貶さない。密かに彼に憧れている生徒も少なくなかった。
 そんな織人に承認されるのは嬉しかった。斎藤に何を言われるより……友達に序列をつけるのはよくないと分かっていても、織人の言葉はいつも特別に胸に響いた。

「勉強熱心だね。もう三年の範囲まで勉強してるの?」
「英語だけだよ。経済学部の入試だと配点が大きいから」
「華月はお父さんの会社で働くってもう決めてるんだっけ」
「最初は他所で武者修行してからかな。父さんもそうだったし。強制されてるわけじゃないけどね」

 自習室の席の隣に織人がそっと腰を下ろした。
 偶然にも、織人とは中高通して同じクラスに所属し、他の同級生を交えながらも縁が途切れることなく続いた。織人は固定されたグループで行動するのをあまり好まず、常に一緒というわけではなかったけど、一番親しい友達であると内心で自惚れている。

「武者修行か。偉いね」
「親の言いなりのボンボンだと思う?」
「誰かに言われた? 君は心から家族を敬愛して、家族が築いてきたものを大事に思ってるって俺には分かる。ただ唯々諾々と従ってるのとは違うよ」
「……ありがとう」

 高校生になるとより多様な境遇の高校受験組が入ってきて、発想から違う生徒に触れる機会が増え、箱入りの華月が見たことのない広い世間の一端に触れた。

「先のない業界の会社なんて死んでも継ぐか」と豪語し世界への夢を語る生徒や、勉強と音楽活動を両立している生徒、貧しい家庭をバネに医者を志す優秀な生徒など、自分にはないものを持つ人の様々な角度から刺激を受けた。
 彼らに感化され、親の敷いたレールを馬鹿正直にまっすぐ歩む自分はつまらない人間ではないかと悩んだこともあった。

「他に夢が決まってるわけでもないのに、無性に親に反抗したくなってる。おかしいよね」
「やりたいことを考えてみるのはいいことだよ。華月が選んだ道なら家族もきっと理解してくれる」
「そうかな。お祖父さんは厳しいから、勘当だと言いつけて家から追い出すかも」
「もしも勘当されたら一緒に家を見つけて暮らそうか。発破かけた以上は俺も付き合うよ」

 織人は一方的な華月の泣き言を聞かされても親身に辛抱強く付き合った。他の生徒が勝手に位置づけたカーストで常にトップに置かれている織人が、華月にとっては不思議と弱音を吐露できる貴重な存在だった。
 結局華月は大きく道を外れることなく、家族と手を取り合って会社を盛り立てたいと気持ちを固めていった。織人が示唆した通り。彼には最初から結論が分かっているようだった。
 創造性に欠けるお坊ちゃんの域を出ない華月は、何物にも囚われない織人から見たら退屈なのではないか。ふと過る心配をよそに友達関係は継続した。ずっと同じクラスにしてくれた学校に感謝したい。
 親友―と堂々と名乗るには憚られる。織人は自身の多くを語らないままだった。

「華月のお母さんが焼いたマドレーヌ、洋菓子店のものと違いが分からないくらい美味かったね。パティシエになれるんじゃない?」
「織人に食べてほしくて特別気合を入れたんだよ。わざわざ外国のバターを取り寄せたりして」

 中学生のとき、初めて織人を華月の家に招いた。彼はいつも通り落ち着き払って殊更なおべっかを使ったりはせず、冴え冴えとした態度で華月の家族から信頼を得た。母がもっとも分かりやすく気に入り、何かと理由をつけては差し入れを持たせたり、次はいつ家に招くのかと催促してくる。

「俺のために? 君のついでだと思うけど、残りも大事に食べるよ」
「織人のことすごく気に入ってるんだよ。ここだけの話、執事の手まで借りてた」
「執事か……、光景が想像できる。嬉しいな」
「本当に? 押し付けがましくない?」
「本当だよ。可愛らしい人が俺のために時間をかけてくれたんだから。とても美味しかったとお礼を伝えておいて」

 織人は戸惑いや不快感をあまり表に出さないので、気を遣っているのではないかと顔色を窺ってみるも、どうやら本心から嫌ではないようだ。
 対面する機会が少ない華月の父にも気に入られ、織人も父を尊敬できる人だと称賛した。誇らしかった。
 片方で良好な親交が築かれる一方、織人の家族についてはベールに包まれていた。
 「親は芸能人で、織人も子役をやらされそうになったのを突っぱねている」「芸能人ではなく資産家で放任されている」「実は毒親育ちらしい」―本人がいないところで勝手に噂が飛び交っており、見かねて憶測はよくないと止めに入ったこともある。
 華月も正直なところ、気にならないといえば嘘になる。
 織人の人目を惹くオーラは芸能人の血筋と言われれば納得する。金銭的には少なくとも困窮している気配はない。
 毒親。あまり馴染みがない単語だったがよくない意味なのは明白で、憶測で決めつける会話を思い出すだけで嫌な気分になる。
 織人は華月の両親に親しみを込めて褒めてくれた。家族という存在に嫌な感情を持っているならあんな態度がとれるだろうか。
 と、勝手に想像を巡らせる時点で、無責任な噂に興じる生徒達と大差ない。

「華月、頭を振ってどうしたの」
「ごめん、織人」
「何についてのごめん? 心当たりがないし、君は俺に謝罪が必要なことはしないって知ってるよ」
「ごめん…あ、今のは唐突に謝ったことに対してのごめん」
「変な華月」

 織人が苦笑して華月を見る。

「今日は図書館で勉強しない? 借りたい本もあるんだ」
「うん、図書館行きたい。行こう」

 織人は賢くて優しくて、大事な友達だ。どんな家族だろうと慕う気持ちは揺るがない。
 自ら打ち明けたくなる日がもし来たら、その時にしっかりと耳を傾ければいい。
 
 織人が無断欠席したのは高校二年生の頃だった。担任の「誰か事情を聞いていないか」という問いかけに、華月は他の生徒と同様に黙っていることしかできなかった。

「織人が休みって珍しいな。風邪?」
「俺は何も聞いてない」

 斎藤に訊ねられ、華月は思わずつっけんどんに返した。
 すでにメッセージは送信済みだ。通話も試みたけれど反応はない。
 考える前に遵守してきた規律を破った。校則がまるっきり頭から抜け落ちるくらい、織人が心配だった。

「どっかで倒れてたりして。ほら、美人薄命って言うしな」
「縁起でもないこと言わないで」
「悪い悪い。まあ一日の無断欠席くらい誰でもやるじゃん? 俺なんてもう三回はやったよ。いやーあの頃は若かった」

 斎藤みたいに楽観視できない。織人はめったに体調を崩さないし、中学の時から学校には真面目に通っているし、何かあったにしても連絡を入れて心配させない気遣いをする。

「織人は斎藤とは違う……」
「たしかに」

 失礼な比較をされた斎藤が頷いて否定しないので、余計に不安が募る。
 二時間目、三時間目と過ぎても、メッセージに既読すらつかなかった。
 矢も盾もたまらない気持ちが、織人がいない昼休みにとうとう我慢の限界を超え、担任に頼み込んで早退して様子を見に行くことにした。
 住所自体は情報として元々知っていた。勝手に訪れたりしないと信頼して教えてくれたのだろう。
 華月はそれを破った。

『―はい』

「こ、こんにちは。織人くんのクラスメイトの、和佐華月です。織人くんが休んでいて、連絡がないので心配になって参りました」

 マンションのエントランスで呼び出しを押すと、予想に反してすぐに応答があった。部屋番号を間違えていないかあわあわと確認し、よそ行きの声で怪しい者ではないと主張する。

『織人が? ……入ってください』

 オートロックが開けられた。エレベーターに乗って部屋に着くと、女性が出迎えた。
 一目で織人の母親だろうと感じた。若々しくぴしりと乱れのない髪型や怜悧な佇まいから、仕事で華々しいキャリアを形成している女性の印象を受ける。

「突然訪ねて申し訳ありません。織人は……」
「学校に行ってなかったの? ―とにかく、あの子のために足を運んでいただいたのだから入って」
「お邪魔します」

 顔立ちから織人と同じ遺伝子をありありと感じる母親は、明らかに歓迎しているというよりは、息子の同級生を追い返したら世間体的に非常識にあたるので招き入れるといった態度だった。

「織人、いるの? お友達がいらしたよ」
「―すみません、入っていいですか」

 モデルルームみたいに片付いた玄関から廊下に入ってドアをノックする母親はどこか他人事で、我慢できなくなった。
 ドアを開けるとベッドに織人が寝ていて、心臓が跳ね上がる。顔色からして体調が悪いのは明白だった。
 華月は礼儀を無視して織人に駆け寄った。

「織人、織人! 大丈夫?」

 ぐったりとして目を閉じたままの織人の体を揺すって必死に声をかける。体が熱くて呼吸が浅い様子に心配が募りつつ、どこかで安堵する。一瞬、この体がもしも冷たかったらと想像してしまって、血の気が引いた。

「織人……織人」
「はあ……、……、華月……?」

 織人が重い瞼を持ち上げて華月に応え、強張っていた力が抜けて涙が出そうになる。安心はできない。熱が四十度近くありそうだ。

「織人! 俺だよ。熱が酷い。病院に行こう」
「大丈夫……たまにある。寝てれば……、治るよ」
「大丈夫じゃないよ。連絡できないほど悪かったんだよね」

 華月ははっとして母親のほうを見る。彼女は―至って冷静に二人を見下ろし、スマホを操作した。

「風邪かしら。タクシーを呼んだから病院に行って。あなた、とても親しいようだし心配でしょう。付き添ってくれる? 私は急ぎの仕事があるの」
「もちろん連れていきますけど……、こんなに辛そうなのに、気づかなかったんですか」
「織人は自分のことは自分でやるし構われたくない子なの。いつも黙って出ていくから今日も同じだとばっかり。私はずっとテレワークしてて気づきようがなかった」

 感情的に責められても困る、と言わんばかりの態度に華月は呆気にとられて目を丸くする。
 弱い力で裾を引かれ、はっとして友達に向き直る。織人は母親には目もくれず、気だるげに華月を引き付け、熱に浮かされた瞳に映した。
 それからは彼以外を気にするどころではなかった。
 肩を貸してタクシーでどうにか病院に連れて行った。受付で病状を訴え、待合室でも肩を貸して熱い体を支えて診察を待ち、やっと医者に見せられた。

「―大したことないよ。俺、免疫力が高いみたいで、熱が出てもすぐ治る体質だから……」
「無理に喋らないで。まだ安静にしてないと」
「心配させてごめん」

 処方箋をもらい、経口補水液を飲んで休むと、顔色が幾らかよくなって呼吸も落ち着いた。
 織人はこんなときにまで、煩わせて悪いと言う。普通なら全力で他人に頼っていい状態だ。
 熱を出したときには優しくしてくれる母や執事にわがままを言って、お気に入りの店のフルーツゼリーを食べさせてもらう―華月が特別甘えすぎていたのか?
 それにしても、仕事が忙しいからと言って息子の異変に全く気付かない織人の母親に違和感を抱いた。今回は結果的に大事には至らなかったが、もっと深刻な事態だったら―。

「……織人。お母さんがまた招きたがってるって、前から伝えてたよね。今からうちに来てほしい」
「―今から? いや……さすがに今日は自分の部屋で休みたいかな」
「お願い! 織人が来てくれないと、俺がお母さんに怒られる。……っていうのは言い訳で、俺が、俺が心配なんだ。君の家には連絡するから」

 入院するほどではないと診断を受けた織人を、華月はいつになく強引に誘った。

「華月…、疲れているんだ。君らしくないわがままだな……」
「ほら、織人、数学は先まで勉強してるよね。ノートを見せてほしい。もちろんベッドは綺麗に整えるし、要るものは全部用意する」
「……」

 弱っている織人は強く拒めないと分かっていて、常識知らずに決行した。帰るという当人の意思を突っぱねた、華月の独善だった。どうしても今はあの家に帰したくなかった。
 和佐家は具合の悪い織人にあれこれと世話を焼きたがり、綺麗なベッドに寝かせ、おかゆやヨーグルト、華月の好きなフルーツゼリーまで用意して何なら食べられるかと訊いた。
 織人の家に連絡を入れると、形ばかりの遠慮の言葉の後、すんなりと許諾を得た。

『織人がそうしたいというならお言葉に甘えて。よろしくお願いします』

 母親の気持ちは仕事に向いているようで、通話はスムーズに終了した。
 この日以降、続く織人との関係の中で彼の家族の話には一切触れなくなった。

「織人、熱下がってきた……、何か食べられそう?」
「……華月……どうして君がいるんだろう」

 ふかふかの布団をかけられて少し暑そうな織人が、上気した目をうっすら開き、また閉じる。

「ほしいものはある? 何でも言って。俺がすぐ走って買ってくる」

 無理やり連れ込んだ以上、織人が最速で回復するために手を尽くさなければとそわそわする華月の手に、布団から出た片手が触れた。

「……君が……」
「お、織人……?」
「華月が……ここにいて」

 掠れてかろうじて届いたうわ言に、胸がじんと響いた。
 織人はまだ熱があって意識が朦朧としている。きっと些細なことは忘れてくれる。
 華月は最大限の親愛を込めて、熱い手のひらを両手で包みこんだ。

 ◇

 華月と織人、それに斎藤も揃って同じ大学に進んだ。
 大学生になっても華月の規律を重んじる性分は相変わらずだった。ずるをしたり飲酒したり、大勢で騒いで目立ちたがる弾けた学生には苦手意識があり、誰彼構わず親しくなれるわけではなかったので、気心の知れた幼馴染が変わらずに付き合ってくれるのは心強かった。
 ショックを受ける出来事が起きたのは、じめじめと蒸し暑くなってきた頃。外は三日連続の雨が降りしきっていた。

「織人くん、この前のことだけど……」

 普段は外で食べる学生も集まってごった返した昼の学食で、長いテーブルの端で向かい合って二人で食事していると、女子が話しかけてきた。織人だけしか目に入っていない様子だった。
 清楚な雰囲気で、斎藤がいたら有名人の誰々に似ている等と称賛しそうだ。織人に話しかける声は控えめで鈴を転がしたようだった。
 織人と仲良くなりたがる人は多い。友達として至極当然だと思う。ただ、華月は織人が女子といるところをあまり見たことがなかった。

「じゃあ俺はちょっと席を外すね」
「必要ないよ、座ってて。悪いけど食事中なんだ」

 食べかけの定食が乗ったトレーを持って立ち上がろうとした華月を制して、織人は女子に表情を変えず伝えた。彼女の顔が曇る。

「少し話せたらって思っただけなの。勉強してるときとかは邪魔したくなくて」
「今なら暇そうだからいいと思った? 見ての通り、友達といるんだけど」
「そ、そうだよね……ごめんなさい」

 華月が利かせた気は無意味に終わり、織人はなんの感慨も浮かばない様子ですげなく断った。
 女子は気にしてない感じで去っていったけれど、笑顔は引きつって傷心を隠しきれていなかった。

「……ちょっと冷たくない? 俺は他の席移ってよかったし、話くらい聞いてあげても」
「友達でもない子に食事を邪魔されたくない。―俺が冷たいと思う?」
「ううん……。織人って分かりやすく押し付けたりしないだけで優しいから、いつもと少し違うと思っただけ。冷たいっていうのは撤回するよ、ごめんね」
「いいよ。優しくするのも時と場合と相手を選ぶってだけ。ほら、冷める前に食べよう」

 何事もなかったように昼食を終えた。
 問題はその後だ。午後は別の講義を受ける織人と別れるなり、見計らったように斎藤が声をかけてきた。

「あいつが谷住ちゃんをふったって早速噂になってるよ。あーありえない。もったいない」
「ふったというか、食事中だから断っただけだよ」
「いや、ちょっとでも気があるならあの態度はないだろ。それに教育学部の藤掛さんがすごい顔で見てた。谷住ちゃんが撃沈した瞬間ニヤッと笑ったのを俺は見逃さなかった。怖い怖い。姉妹同士仲良くすればいいのにな。無理か」
「姉妹なの? 苗字は違うのに」

 首を傾げると、斎藤が珍獣でも見る目で華月を凝視した。

「マジかお前……。あー口が滑った。俺がチクッたってのは内緒で」
「……? 分かった、誰にも言わない」
「華月って約束したら口割らないもんな、信じてるぜ。じゃあ秘密の話の続きな。織人のやつ、澄ました顔して学内の可愛い子にどんだけ手をつけてんだか」
「…………?」
「自分から誘ってるわけじゃないのが余計腹立つ。織人相手だとよっぽど自分に自信がある子しか行けないから、必然的に美人ばっか食い荒らすことになるっていう。俺の竹馬の友とはいえ、嫌なやつ」

 最初は脳が意味を理解しなかった。影で噂するべきではないプライベートの話だと気付いたころには斎藤は言いたいことを言い終えて溜飲を下げ、すっきりした顔で去って行った。

(……なにを動揺しているんだろう。織人がモテるなんて分かりきってたことじゃないか。男子校時代は目の当たりにする機会が少なかっただけで、これからはずっと……)

 初めて生々しい現実を突きつけられ、モヤモヤとした感情が渦巻いて拭い去れなかった。

「……織人って、もしかして彼女できた?」
「どうしたの、いきなり」

 意を決して絞り出した質問に、織人は不思議そうに首を傾げた。

「織人は注目されてるし、俺にも訊いてくる女子がいたから。言いたくないなら言わないでいい」
「彼女はいないよ」

 織人はさらりと答えた。いないのか―。率直に安堵したのと同時に腑に落ちない点もあり、頭が混迷する。

「そっか。あの……なんていうか、不埒な噂を耳にしてしまって。今度聞いたらちゃんと否定しておくね」
「不埒って? 俺が複数の女性と関係を持ったとか?」
「そ……みんな勝手なこと言って。目立ってしまうのも大変だね」
「気にしてないよ。全部が嘘でもないし」

 織人はまたもさらりと言い放った。華月は固まって端正な顔を見つめる。

「嘘……お、織人はそういうの、よくないって言ってた」
「俺はどうとでも主導権を握れるからいいんだよ。君には無理だろ?」
「だけど……」

 織人と二人でいるとき、たまにそういった話題をこっそりと話した。頻回に女子の話や卑猥な話で盛り上がる他の生徒に比べれば、本当にまれなことだった。

 ◇

「家族は責任を取れない相手と軽々しく交際するべきじゃないって言うんだ」
「君の親は正しい。特別な一人とだけ深い関係になるのが最善だよ」
「古風な考えじゃない? 世間では案外簡単に付き合ったり別れたり、みんな自由に恋愛してるみたい」
「相手をコロコロ変えて幸せそうなやつを見たことがない。満たされてない証拠だよ。俺は無駄に傷つく華月を見たくないな」
「そうか……そうだよね」

 幼少期は親が植え付けた華月の価値観は、思春期には織人の言葉から少なからず影響を受けるようになった。親の言いつけを守るだけの子どもから脱却していく過程で、一番近くにいて一番親密に話をしてきた相手だ。
 だから、織人が華月の知らないところで不特定の女子と関係を築いているのは衝撃だった。確かに賢く立ち回れる織人なら、意にそぐわない関係を強いられることはないだろう。華月には到底真似できない。
 華月にはやるべきではないと諭したことを、織人は何食わぬ顔でこなしていた……。

「―華月、怒った? 俺が女の子と遊ぶのは嫌?」
「ううん、怒ってない……、混乱してる。今日は帰る」

 一目ではっとさせられた魅力が色褪せるどころか年を重ねるごとに輝きを増すばかりの友達は、決して華月とだけ親しいわけではない。痛みを覚えて目を背けた。
 
 うなだれて家に帰ると、見計らったように母がニコニコと近づいてきた。

「華月。今度丹波さんのお家の百合さんと会ってみない? あなたと同じ年で、とっても素敵なお嬢さんなの」

 言葉通りにただ会って話すだけで済むはずがない意味が込められていると、華月でも察しがついた。

「もしかして、お見合い?」
「そんなに畏まる必要はないの。結婚しろなんてプレッシャーかけたりしないから気楽に考えて。年頃も合うし、大事なお付き合い先のお嬢さんなのだから、仲良くなって損はないでしょう?」

 母が手渡した写真は本格的なフレームに飾られ、気楽という表現に反してずっしりと重いサイズだった。
そういえば華月も「面接や何やらにいつでも使えるちゃんとした写真があるといい」と言いくるめられ、わざわざプロを読んで写真を何枚も撮られた。今頃は駄目出しされながら浮かべた愛想笑いが先方の目に触れていることだろう。
 淡色の背景の中心には、控えめに微笑む女性が映っていた。丸顔に目を細めた表情は優しげで万人から好感を持たれそうだ。織人に声をかけてきた女子のようなぱっと輝く派手さはない。華月は率直に、可愛らしいと感じた。

「とっても可愛らしくて素敵なお嬢さんでしょう?」
「そうだね」
「まあ! 早速ご先方に連絡しましょう。百合さんはヴァイオリンがお得意なんですって。あなたのピアノとのアンサンブルが聞きたい」

 あれよあれよという間にセッティングされ、華月は百合とホテルのラウンジで対面する運びとなった。

「は…はじめまして、和佐華月です。お会いできて嬉しいです」
「お会いできて光栄です、丹波百合です。……すみません不躾にじろじろと。写真で受けた印象よりもっと、お優しそうでほっとしました」

 百合は女性慣れしていない華月に呆れずニコニコ話を聞いてくれて、ネガティブな言葉は一切使わず、趣味や大学生活について終始和やかに話した。彼女の人柄に苦手だと感じる面は一切なかった。
 ほっとした気分に水を差して別れを濁したのは百合ではなく、彼女の兄だった。

「百合、もう済んだ? 帰るよ」
「お兄さん、もう少し待って。華月さん、こちらは兄の柾です」

 迎えに来るとは聞いていたけれど、百合の話しぶりから思い描いた人間像とは違っていて反応が遅れる。
 百合の兄は長身で目立つ男だった。素顔で佇んでいるだけで人を惹きつける織人とは少し違い、上質な服と小物で身を固め、髪型は美容室帰りのように完璧にセットされ、確信的に自分を演出して自信を漲らせていた。

「はじめまして、和佐華月と申します。百合さん、お引き止めしてすみません。今度は是非観劇に行きましょう」
「君が華月くんか。ふうん……」

 じろじろと不躾に上から下まで見られて、居心地が悪くなる。
 和佐家の付き合いの席に連れ出される機会にしばしば出会うタイプの男性だ。自尊心が強く成功を誇示し、他人を品定めする権利があると当たり前に自惚れている。押しに弱い華月はマウントを甘んじて受ける役回りだった。
 浅い関係性であればその場限り受け流せばいい。百合の兄弟となると話は別で、できれば気が合いそうな温和な人が望ましかった。

「いい人そうでよかったな、百合」
「ええ、すみません、少し失礼いたします」

 百合が化粧室に立って、不本意な二人きりの時間ができてしまった。

「百合はいい子だろ。あさましい下心を少しでも感じ取ったら嫌がらせしてやろうかと思ったが―心配はなさそうだ」
「ありがとうございます」

 牽制するまでもない弱気な男だと断じて揶揄をする。正しい判断だ。無用な警戒をされるよりはましだと言い聞かせる。
 柾はなおも視線と言葉で冷やかしてくる。

「君が弟になるのか。お兄さんと呼んでもいいよ」
「とんでもない。百合さんとは今しがたお会いしたばかりですし、彼女の意思もありますから、あなたがお兄さんになるなんて滅相もない」
「初めてまともな答えをしたな。一度会っただけで百合の心を物にできると自惚れているようなら論外だった」
「……それはどうも」

 引っ掛け問題には正解した。幾度も品定めされて面白くない華月の態度にも柾は勝ち気に笑うだけだった。
 兄妹の第一印象は対照的だった。同じ親から生まれ同じ環境で育っても、長男と長女でこうも違う人柄になるのか。控えめで優しい百合は家の中で肩身の狭い思いをしなかっただろうかと心配になる。
 二人と別れの挨拶を交わして車が出るのを見送ると、どっと疲れてその足で帰宅した。

「どうだった?」
「どうって、百合さんは優しくてとても感じがよかったよ」
「そうでしょう、そうでしょう。対面する前から二人は相性がいいに違いないと思っていたの」

 母ははしゃいで、祖父母に首尾を報告しに行った。
 着々と外堀が埋められていくのを感じながら、今後百合と親しく付き合っていくのを強く拒む要因はなかった。
 百合は大学で話しかけてくる華やかでおしゃべり好きな女子達よりおっとりしていて、早口で質問責めしてこないし、苦手意識を抱かせない安心感がある。
 大人になったらいずれは両親のように愛する人と結ばれ、血筋を繋いで家を守り立てていくのだと教えられてきた。まだ結婚なんて想像もできないけれど、どうせいつかは通る道であるなら、好意を抱ける相手に越したことはない。

 ◇

「華月」
「なんだか久しぶりだね。どうかした?」
「どうかしたのは華月のほうじゃない? 俺のこと避けてた」
「……避けてたわけじゃない」

 月が変わってもまだ雨がちだった。折り畳み傘についた水滴を振り払ってカバーに収めていると、華月の前に静かな足取りで影を作る人がいた。
 喧嘩はしていない。そういえば織人とは長い付き合いの中で喧嘩という喧嘩をした覚えがなかった。斎藤とは何度か友情の危機を経験したというのに。
 織人は大人びて大抵のことは意に介さない性格だから、諍いに発展しようがなかったのだ。

「軽蔑されても無理ないか。華月には慎み深さを説きながら、俺は逆のことをしてるんだからね」
「最初は……、俺に言ってたことと全然違うじゃないかって混乱した。考えてみれば、相手と合意の上なら個人の自由だし、俺が立ち入るべきじゃない」
「立ち入りたくない?」

 立ち入りたくない。どれほど近くにいるのを許されても織人という人は掴みどころが難しく、決して誰のものにもならない存在だと信じ込んでいた。
 彼に深くまで近づいた女性が何人もいる。親しい友達だと自負していたのに何も知らなかった。織人を以前より遠くに感じた。

「うん……実は俺も親の紹介で会った人がいて、女性と親しくなるのは簡単じゃないって改めて思った。経験も大事なんだろうね」
「―……お見合いでもしたの?」
「そんなに形式張ったものじゃないよ。お母さんは婚約者として結びつけたくてうずうずしてるのが伝わってくるけど、気が早すぎる」
「顔が綻んだね。彼女のことを思い出したから? 今はまだ初々しい付き合いだけど、いつかは結婚してもいいと思ってるみたいだ」

 織人が棘のある声で訊いてきて、急に取り調べを受ける容疑者みたいに後ろめたい汗が滲む。

「結婚は本当にまだ分からないよ。相手にその気がなければ意味がない」
「ということは華月から断る気はないんだね。親に何もかも決められるのは嫌だと言っていたのは記憶違いかな」
「そうだけど」
「話してるのを見る限り、好感を持ってるだけで恋はしてない。本気の相手じゃなくても、なし崩しで許嫁にされてもいいの?」

 歯に衣着せぬ物言いに胸がずきりとする。

「親のことは尊敬しているけれど、言いなりにはならずに自分のことは自分で決めて生きていく」と、何度も織人に決意を語ってきた。言行不一致な状況が後ろめたく、一方で織人には言われたくないという苛立ちで感情が歪む。

「だって……っ、俺は、自由恋愛には拒否感がある。君が、軽々しくするべきじゃないとずっと言ってきたから……。百合さんは優しい人で、彼女みたいに安らげる女性に今後出会えるとは限らない。彼女となら、きっと多くが上手くいく」
「……ふーん」
「ふーんって……興味がないならもうこの話はしたくない」

 顔を背けて立ち去ろうとすると、織人は道を塞いで華月を狭い空間に閉じ込めた。

「逃げたら駄目だよ。華月、忘れたの……? 今のままでは君は、誰とも付き合えない」
「あ……、っ……」

 織人が怒ったような、少し違うような低い声で囁き、胸元をすっと撫でた。
背筋が痺れてびくりとして、華月は息を飲んだ。

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