根暗な淫魔 サンプル サイト掲載分


〜中略〜

 ――ああ、精気が足りなくなってきた。
 夕食前に小腹が空いた、みたいな感覚で自然とそう感じた。
 南の精気は質がよくて、それにたくさんくれたから長持ちしたほうだと思う。それでも時間が経てば生きる糧としてどんどん吸収されて、そのうち何も残らなくなってしまう。
 嫌でも新しい精気をもらわなければいけない。嫌――というか、想像するとぞくぞくして、体が熱を帯びる。とても好きになれないクラスメイト達でさえ美味しそうに見えてくる。
「……何見てんだよ?」
「い、いや、別に」
 無意識に近くにいた男子生徒を凝視しちゃっていた。空腹のときにいい匂いをさせるご飯を目の前にしたみたいに。じっと見つめ返され慌てた。
 こんなところで発情してどうするんだ。ちゃんと自分を制御しなきゃ、待ってるのは破滅だ。
「あ、おい」
 背中に呼び止める声を聞きつつ俺は逃げるみたいに教室を出た。とりあえず人がいないところに行きたくて中庭の隅に座る。
 ここは校舎の陰になっていて年中日が当たらない。青空は見えているのに太陽は遠い。石に苔がこびりついている。同じ中庭の空間でも日当たりのいいベンチが置いてあるあたりとは大違いだ。俺にふさわしい。
「うわ、何してんの?」
 だけど静穏はすぐに壊された。日の当たるところからやってきた嫌な奴のせいで。
「何も……ちょっと休んでただけ」
「普通そんなとこで休む? ダンゴムシかよ」
 久瀬の嘲笑が落ちてくる。見上げるとなんだか眩しく見えて、俺は顔を顰めた。
「つーかお前、相変わらずウジウジしてるね」
「……」
「ちょっと雰囲気変わったと思ったのは気のせいだったかな。髪も眼鏡もクソダサいままだし」
「関係ないだろ」
 鬱陶しいなら放っておいてくれればいいのに。久瀬はわざわざ座り込んで俺の顔を覗き込んでくる。黙っていればイケメンと言われる顔が、皮肉げに歪んだ。
「そんなんだから周りをイライラさせて、前よりいじめられちゃうんだよ。南も庇ってくれなくなったしね」
「……」
「てか南と何かあったわけ? 修学旅行のときから明らかに変わったよね。どちらかというとお前じゃなくて南のほうが避けてる感じ」
「べ、別に」
「あ、動揺した。もしかして俺がいないのをイイことに、あの夜南を無理やり襲っちゃったとか」
 言い当てられてぶわっと汗が噴き出す。
 落ち着け、こいつは面白がって適当なことを言ってるだけだ。ずっと女の部屋にいたのだから知っているはずがない。
「……気持ち悪いこと言うなよ」
「気持ち悪いのはお前だろ」
 冷たく平坦な声で言われ、びくりとしてしまった。――気持ち悪い。言葉が頭の中でぐるぐると回る。
「だってお前、ちょっとソッチに見えんだよな。女に興味なさそうだし、変な雰囲気出してるっていうか。男に虐められるのも分かるわ。まあ俺からしたら虐めてる方もネチネチしてキモいけど」
「……っ、そんなわけ……」
「やたらかまってた南もやっと気づいちゃったみたいだし? やっぱ襲ったの? お前じゃあいつを無理やりどうこうできるとは思えないけどな」
 聞きたくないことばかり言う。嫌がらせしてくるクラスメイトよりこいつのほうが的確に精神を抉ってくる。そういうことも分かってて言っているから質が悪い。
「だからせめてその見た目何とかしろって話。このダサ眼鏡とか――」
「おい、やめろよ……っ」
「…………」
 不意打ちで眼鏡を奪われ、重たい前髪を掻き上げられた。常に身につけている鎧を取り上げられた状態で敵と遭遇した気分だ。無防備なまま至近距離で目があってしまう。
「ぁ……」
 小さな吐息が漏れた。好き勝手振る舞う久瀬への嫌な感情、いいようにされる無力な自分への苛立ち……それらとは全く別のものが体の奥からこみ上げてくる。
 ――精気が足りてない。極上のごちそうが目の前にある――。
 目が潤んで顔に血が上る。別の敏感な場所にも少し血が集まってじんと疼いた。
 そうだ、こいつから精気を奪ってしまえばいい。ヤリチンぶりから見て精力は無駄に有り余っていそうだし、何より奪うことへの罪悪感を覚える必要がない。久瀬には嫌な気分にさせられた記憶しかないんだから。
 正常な状態なら間違いなく俺に触れられることなんて気持ち悪いとボロクソに罵倒するだろうけど、淫魔の力を使えば別だ。意趣返しができる。
 俺は素顔をむき出しにされたまま久瀬を見つめた。精気がほしくて体が熱くなって、何か変なものが体から出てくる感覚がする。淫魔として男を誘惑するためのフェロモン。これさえあれば否応なく男を虜にできるはず――。
 なのに、久瀬は嫌なものでも見てしまったみたいに目を逸した。
「……何泣きそうになってんの。マジで引く」
「え……」
「前言撤回。やっぱりお前、ずっとそのキモオタスタイルのほうがいいかも。顔晒したら余計キモがられるよ」
 久瀬は外した眼鏡を顔に押し付けてきた。ずれて鼻にレンズが当たる。そして立ち上がって少し距離を取ると、汚いものに触れてしまったみたいにこれ見よがしに手を払う。そのまま俺を一瞥することもなくさっさと校舎へと戻っていった。
 ダルそうな背中を見送りながら俺は愕然としていた。淫魔の力が全然効かなかった。確かに俺は精に飢えていて誘惑したつもりなのに、欲情させるどころか嫌そうに悪態を吐かれるって、どういうことだろう。
 南との成功体験で得た自信ががらがらと崩れ落ちる音がする。どれだけ嫌われていたって馬鹿にされていたって、淫魔の力さえあれば簡単に精気をいただけると高をくくっていたのに。
 淫魔としての性質より俺の負のオーラの方が上だったってことか。だとしたらこれからどうすればいいんだろう。途方にくれて、ただでさえじめじめした場所が余計湿っぽくなる。これじゃダンゴムシどころかナメクジだ。
「そこで何してるんだ。もうチャイム鳴ったぞ」
「……はい……」
 チャイムが鳴ってもずっとあの場所にいたい気分だったけど、先生に見咎められてトボトボと教室に戻った。

text