黒豹を解せよ 後



「……ね、あのイケメン外国の人たち最近来ないね。国に帰っちゃったのかなー」
「あー……、知らねー」

品出しをしながらぼやく谷ちゃんに、俺はぼけっとした声で答えた。冷たいーなんて不満げに言われても、冗談を返す気にもなれない。
――国に帰った? そんなこと知るか。思い出すだけで商品をぶん投げたくなるような衝動にかられる。
あの後、俺は目が覚めて呆然とした。全身が痛むわ尻に違和感があるわ布団はぐちゃぐちゃだわで、「なーんだ全部夢だったんだ」
と逃避するのも許してくれなかった。
黒豹はといえば、目覚めたときにはすでにいなくなっていた。そりゃ居座られても困るけど、あんなことをしておいて満身創痍の俺をほったらかしにしたのかと腹が立つ。
ヤリ捨て、という言葉が浮かんできて愕然とした。断じて違う。笑えない。
要はあの猛獣は、どういう理屈か知らないけど発情期で正気を失ってて、その場にいた俺に襲い掛かった。で、正気に戻ったからさっさと去っていったのだ。
…………ヤリ捨てじゃないか。俺はろくな抵抗もできず、しかもあんなに、あんなに…………いや思い出すな。心も体もおかしな方に行ってしまう気がする。
犬に噛まれた、もとい豹に噛まれたと笑って忘れるべきなんだろう。
でもあいつ人間じゃん。クソ。
谷ちゃんが言うように黒豹が金持ちなら、俺の純潔を奪った慰謝料をふんだくってやりたい。このイライラのせいでまた受験に失敗したら今後の人生設計まで狂う。札束くらい貰わなきゃ割に合わない。

「お先に失礼します……」
「おつかれさまでーす」

だらだらとバイトを終え、俺はコンビニを出た。いつもの営業スマイルも弱弱しいものになっていただろう。
外は少し寒くて、ため息が微かに空気を白くする。

「……おい」
「……はぁ……」
「おい、お前だよ」

……なんだよ、俺は機嫌が悪いんだと心の中で毒づきつつ振り返って、絶句した。
一度見たら忘れられない容姿をした、モデル男だった。綺麗な顔が今は何故か怒り心頭といった表情で俺を睨みつけてくる。

「お前、一体どういうつもりなんです」
「何が?」

どういうつもりかって、それは俺がお前の連れに言いたいセリフだ。
一体どういうわけで、一方的に『クソビッチ』と罵ってきただけの相手に因縁をつけられているのだろう。

「とぼけないでください。ハーディーを誘惑したでしょう」
「……は?」

美しい瞳が怒りに揺れている。発音がちょっと独特だけど日本語は上手い。なのに何を言われたのかさっぱり分からなくて、俺は小首を傾げた。

「チッ……私は騙されませんよ。いまいましい……!」
「ちょ、ちょっと待って、一体何のことだよ。……ハーディーって、えーと、もしかしてあいつのこと?」
「とぼけないでください。不埒なやつめ」

モデル男は美しい唇でとんでもないことを捲くし立て始めた。あの黒豹――ハーディーというらしい――を、俺が誘惑したと言うのだ。彼が惑わされ血迷っているのを何とかしろと。
黒豹から話を聞いたのか、あの出来事について一方的に俺を非難するような言葉を投げつけてきた。他人に知られた恥ずかしさと屈辱で顔から火が出そうになる。

「ちょっと待ってよ。誘惑ってどういうことだ。まず俺は被害者だし」

何を言われているのかよく分からないけど、名誉の為に反論しなきゃならない。俺は断じて、決して、誘惑なんてしていない。

「――よくもそんな。ハーディーは、お前が額に触って目を見つめてきたと言いました。求愛を意味する行為です。知らないというなんてひどい淫売だ」
「なっ、なっ……。知るかそんなのっ。一体どこの星の話だよ!」
「わが国では幼子も知っています」

こいつらの国では熱が出たとき心配して額に手を当てたら求愛だというのか。それは知らない。もし特別な意味があったからって、ここ日本だし襲い掛かってくるのは明らかにおかしいだろ。

「そもそも、あいつは俺のことブサイクとか悪口ばっかり言ってきたし。俺が誘惑できるわけないだろ」

あいつは俺を馬鹿にする言葉しかかけてこなかった。あのときだけがおかしかった。発情期で正気を失っていたという以外説明がつかない。あれ以来姿も見せやがらないのが証拠だ。

「――――ああ、ハーディーがお前を形容する言葉を教えてくれと頼んできたので、私が正しく教えたのですよ。上手くいくはずないと思ってたのに、お前がすごい淫売だったせいで」

何だそれ。恨みがましく言われて俺は顔をひきつらせた。

◇◇

まだ因縁をつけたりないと言わんばかりに噛み付いてくるモデル男から自転車に乗って逃げ、俺はアパートに帰った。
あんなに要領を得ない暴言を吐かれたのは初めてだ。あいつ、顔にステータス全振りして性格は残念に育ったに違いない。

「……そうだ、ありえない。忘れよう。あれは夢だ、夢……」

今は大事な時期だ。よくわからない男たちに惑わされている場合ではないのだ。
部屋に帰って長めに手を洗うと、俺はコンビニ弁当を開いた。モデル男に捕まったせいでぬるくなって、楽しみにしてた唐揚げもシナシナだ。さっさと食べて勉強しなくては。
しかし白米を口に入れようとしたところで、ドアを叩く音が響いた。

「……はーい」

何か通販していたっけ。これ以上冷めたらまずくなってしまうではないか。
渋々立ち上がってドアを開けて――見事に固まった。

「なっ、なっ……、なんっ」

俺にとんでもないことをしやがった張本人がいた。
完全に油断していたせいで間近でばっちり目が合ってしまう。

「××××……」
「ひっ……」

何事か言う黒豹から、本能的に後ずさった。また会ったら文句の一つも言ってやろうと思っていたのに、実際目の前にすると恐ろしい。怖くてムカついて恥ずかしくて、目を見ていると堪らない気分になって、心臓の鼓動が速くなる。

「……か、帰ってくれ」
「……×××?」
「なんなんだあんたは。一体何しに……。発情期なら他をあたって!」

腕を伸ばしてくる黒豹をなんとか振り払って、俺は勢いよくドアを閉めた。震える手で鍵とチェーンをかける。
またドアを叩く音を無視して、今度こそ弁当を食べ始めた。半分も喉を通らなかった。ドアを蹴破られたらどうしようか気が気じゃなかったけど、少しすると静かになった。
最後に一瞬見えた黒豹は、困惑の表情をしていた……ような気がする。思い出すと胸がざわついて、そんなのは気のせいだと頭を振る。
あいつは無理矢理、人の尻にナニを突っ込むような危ない男なのだ。どんな顔をしてようが、そこらで野垂れ死にそうになっていようが、同情なんて不要だ。
何をしに来たのかとか関係ない。あの男とは関わってはいけない。万が一モデル男の言うことが正しかったとしても…………正しかったら……。

「……くそう……」

この期に及んで人の心を掻き乱すとは、なんとやっかいな男なのだろう。
俺は雑念をかき消すためにイヤホンで音楽を流し、苦手な英語の参考書を開いた。


「うーーん……」

3時間ほど机に向かって暗記に励んだものの、いつも以上に頭に入ってくれなかった。それもこれも全部あいつのせいだ。

「あれ、芯がない」

シャープペンの芯を補充しようとしたところで、振っても音がしない空のケースに気づいた。引き出しを開けては閉め探してみるけど、一本もない。そんなことさえあいつのせいな気がしてくる。
どうせ集中できていなかったし、気分転換も兼ねてコンビニに行くかと、腰を上げてコートを羽織った。
……もしまだいたらどうしよう。いや何時間経ってるんだ。いるわけない。
自己完結して、それでも一応用心してそっとドアを開ける。

「………………」

――――なんでいるんだよ。
アパート入り口の壁に寄りかかるように座っている黒豹に、頬がぴくぴくと引き攣った。気づかれてはいないようだ。芯なんて明日でいいから部屋に篭ろう。それが最善だ。

「…………」

……なんだか黒豹のくせに、少し弱っているように見える。当然だ、コートを着ていても震えるほど寒い冬の夜に、ずっと外にいたのだとしたら。一度高熱を出してぶっ倒れたのに学習してないのか。
くそ、本当になんなんだこいつは。
やめておけと頭のどこかで警告が聞こえるのに、俺は忍び足で黒豹に近づいていた。黒豹は下を向いていて、近くで見ると顔色がよくなかった。
極めつけはその表情が……傷ついて憔悴しているみたいで、胸が変にざわつかされる。
こいつは卑怯だ。俺って結構動物が好きで、テレビで傷ついた野生動物とか見たら胸を痛めちゃうタイプなんだよ。自分で言うのもなんだけど。
勇猛なはずの肉食獣が弱ってる姿なんて、どうしようもなく――。

「……」

半ば無意識に、俺は黒豹の頭へ手を伸ばしていた。黒髪は少し固くしなやかで、触り心地がいい。
黒豹と目が合う。寂しげな顔が驚愕のそれに変わったことに満足して、更にわしわしと撫でる。

「××××……!」
「うわっ……、ちょっ!」

油断しているところを、頬を微かに紅潮させた黒豹に思い切り抱きつかれた。ちょっと怖いけど頭のモヤモヤが晴れてすっきりしたような、変な気分だった。


「……ったく」

もう絶対に関わらないと決めたはずの相手を、部屋に招き入れた。
というかそうせざるを得なかったのだ。こいつがアパートの目の前で抱きつき、キスをし、身体を押し付けてくるものだから。
ご近所さんに見られたら非常にまずい。離れてくれる気配はなかったから、仕方なく部屋に入れるはめになってしまった。
よからぬことをしようとする黒豹に、俺はペンとノートを持ち出し必死に筆談を持ちかけた。激しく粘膜が絡まるキスをされて感じてしまったなんて、絶対にバレてはならないと思いながら。
営業スマイルつきで訴えると、穏やかならぬ表情で凝視されたがなんとか意図を分かってくれた。

「……p、i、s……」

黒豹が最初に書いた文字は、どこの国の言語かすら分からなかった。お手上げで首を振る俺に次に書いて見せた文字は、かろうじてフランス語だと分かった。が、言語だけ判明したところで意味が分かるはずもない。
インイングリッシュ、と情けなく訴えると、少し困ったような顔をした後何かを書き出した。英語が苦手なら同類かと思いきや、達筆な長文を書き始めて俺は気分を害した。
諦めてスマホで翻訳することにする。
真剣な表情で解読を待っている黒豹と一瞬目が合って、見なかったことにする。
……もちろん、怖いからってだけだ。それ以外に何かあるわけがない。
だから見ないでくれ。あのときを思い出して逃げ出したくなってしまうんだ。その、熱が篭っているような目で見られると――。

「あ、コンビニで……会った……わっ」

視線に気づかないふりをして英文と向き合っていると、黒豹の大きな掌が俺の髪をかきあげ額に触れてきた。
何だ、俺は正常だぞ――と言おうとしてモデル男の言を思い出し、顔に熱が上がる。

「×××……」

ただ額に触れているだけなのに、黒豹の表情はひたすら凄味と色気を垂れ流している。
これが求愛なのだとしたら――いや、モデル男に騙されているだけなのかもしれないけれど、それにしても自分がこいつに対してものすごく恥ずかしいことをしてしまった気になる。

「あの……えっと……」

どうしても黒豹に睨まれると動けなくなる。俺はどうなってしまうんだろう。
黒豹が形のいい唇を開いた。

「…………ブサイク」
「……」

真剣な表情のまま言われたその一言で、俺は正気に戻った。

「……く、くそ……」

俺は黒豹を振り払って、再び翻訳しようとノートと向き合った。
……一体、どういう意味で使っているのだろう。そのままの意味で言っているのだとしてもムカつくけど、全く違う意味を吹き込まれていた場合、知りたいような知りたくないような。
とにかく、こいつが今言いたいことを分かろう。にしてもホント、俺の英語力って悲しい。

「うーん……っうわっ、ちょっ……」

黒豹の手が、今度は俺の頬に触れた。……なんだか切羽詰った顔をしている気がする。もしかして俺の翻訳が遅すぎて怒っているのだろうか。
俺は身の危険を感じ、再び営業スマイルを発動させた。

「あー……だいたいわかった」

言うと、黒豹の目が僅かに見開かれた。

「な、何だよその顔。ホント分かったって……ほら、こことか……私の国に連れて帰る? って誰を? ……ああ、あのモデル男のこと……うわあっ」

突如荒々しく黒豹にのしかかられ、俺は深く唇を塞がれた。……くそう、獣のくせになんというテクニシャン……あ、駄目、固いものがごりごり当たって、っていうか押し付けられて……。

結局その日もろくに言語によるコミュニケーションがとれないまま、発情した獣に体を貪られた。
俺が『私の国』について嫌でも知ることになるのは、そう遠くない未来の話である。


END


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