黒豹を解せよ 前



そのコンビニは、都内の小さな地下鉄駅近くにある。周囲は閑静な住宅街で目立った施設はなく、住民以外に乗り降りする人は少ない。
利用客は見知った顔が多く、特別忙しいこともなければ暇すぎることもない。
そんなごく普通のコンビニに勤める俺、鈴木綾もまた、悲しいくらい普通の人間である。
思春期の頃までは自分という人間にもう少し自惚れることができていたけど、大学受験という人生の一大事で盛大に滑った瞬間思い知らされた。挫折だ。
だからっていつまでも落ち込んではいられないので、予備校に通いつつほどほどにバイトに勤しんでいる。
可愛いお客さんに連絡先を渡されて恋に落ちるなんて最高なイベントは起きないし、辞めたいほどきついってこともない。コンビニだし。
だけどそんな普通の人間が働く普通のコンビニに、ここ一週間ほど明らかに異質な客が来店してくる。

「いらっしゃいま……せ……」

自動ドアが開いたら反射的に発してる接客の声は、入り口に目をやった瞬間動揺が走ってしまった。
――また来てる。
入店した男と目が合った途端、ぎろりと睨まれた。凍りつきそうになって慌てて目をそらす。店長見られたら接客態度がなってないと説教されるだろうけど、店長の説教より男のほうが怖い。
男は全てにおいて、この普通のコンビニから浮いた容姿をしていた。
まず彼はどう見ても物理的に遠い国の人種だと思われた。褐色の肌に彫りの深い顔立ち、190近くあるのではないかという長身に筋肉のついた立派な体躯。少し癖のある黒髪は長めだが清潔感がありワイルドな雰囲気に馴染んでいる。
一言で言えば、めちゃくちゃイケメンでオーラがある外国人、だ。
更に短く、俺は頭の中でこっそり『黒豹』とあだ名をつけていた。無駄のない筋肉で引き締まった大きな身体、艶のある漆黒の髪、周囲を威圧できる鋭い眼光――テレビでしか見たことのない希少な野生の猛獣が、男のイメージと重なった。
その黒豹はというと、チョコレート製菓が陳列されてる棚を真顔で眺め始めた。恐ろしいほど似合わない。

「ねーねー、あのかっこいいひとまた来てるっ」

シフトに入ったばかりの谷ちゃんが、小声ながらはしゃいだ声を上げた。
谷ちゃんは俺と同い年のフリーターの女の子だ。胸がでかくて結構可愛い。間違っても口には出せない。

「何人かなーあの人。どこから来たんだろ」
「さあ。話しかけてみたら?」
「無理だよ! すごい高そうなの着てるし、どっかの王子様かもっ?」

それはさすがに夢を見すぎというものだろう。あの外見で地位まで高いとなると、世界が不公平すぎる。

「王子っていうか、ジャングルの王者?」
「ちょっとー、イメージ崩れること言わないでよ。そんなのありえないよ」
「王子も十分ありえなくない?」

不毛な会話をしていると、チョコレートを手にとった黒豹がぎろりとこちらを見た。

「あ、あたし品出ししなくちゃっ」

黒豹が近づいてくると谷ちゃんは逃げた。さばさばした子だけど、意識してる異性の前では途端にしおらしくなってしまうらしい。俺のことは一体なんだと思っているのだろう。
近づいてくる黒豹に威圧感を感じ、俺は思わず唾を飲み込む。
黒豹が口を開いた。

「××××××?」

……………………驚くほど、さっぱり分からない。

「そ、ソーリー」

首を傾げてひきつった笑顔で誤魔化す。はっきり言って何語なのかも見当がつかないのだから仕方がない。
不遜な表情で睨んでくる黒豹にびびりつつチョコレートをレジに通して会計を済ませると、男は最後に俺を馬鹿にしたように一瞥して店を出て行った。
本当のところ何を考えていたのかは分かりようがないけど、とにかく馬鹿にされたような感じがした。悔しい。
黒豹に問いかけられたのは実のところこれが初めてではない。来店するたび何事か話しかけられる。外国の人は店員とフレンドリーに話すって聞くけど、そんな和やかな雰囲気じゃないし、そもそも内容を少しも理解できたためしがなかった。
元々英語は苦手で試験でも苦労してきた。他の言語なんて論外だ。

「くそう、なんなんだあいつは……」

さすがに王子様ということはないと思うけど、身なりや立ち居振る舞いからして庶民という感じがしない。あっちも日本語は理解してなさそうだし明らかに浮いてるから、来日して間もないのだろう。
それが何故、最近になって毎日のように平凡なコンビニに現れ、俺に理解不能な言語で話しかけるという嫌がらせを繰り返すのか。全くの謎である。

「あー、帰っちゃったんだあ。また話しかけられたの? いーなー」
「いいと思うならレジやってよ……」
「無理。間近で見つめられたら死んじゃうよっ」

可愛い子ぶりやがって……と思いつつ本気で照れた様子の谷ちゃんは可愛らしい。
どうやら黒豹に話しかけられたのはこの店では俺だけのようだった。みんなビビってレジから逃げるから当然といえば当然だ。
悔しいのでせめて英語の勉強を頑張っていつかペラペラになってやると心に決めた。


その次の日来店した黒豹は、なんと一人ではなかった。これは初めてのことだ。

「×××、××××」
「……××××」

その男は仏頂面の黒豹とは対照的な明るい笑顔で、やはりさっぱり分からない言語で楽しげに黒豹に話しかけていた。
肌の色や彫りの深さは黒豹と似通っているけど並ぶと随分華奢で、モデルにでもいそうな綺麗系の顔立ちをしていた。
もしかしてどこかの国の芸能人仲間で、何かの撮影のため日本に来たのだろうか。そう言われれば納得できそうだ。

「わー、あの人も格好いい……っていうか綺麗! モデルさんかな。てかどういう関係なのかなー。仲よさそう。あー写真撮りたいっ」
「そうだね……」

イケメンが倍になっていつもの倍はしゃぐ谷ちゃんを尻目に、世の中不公平だとなんだか脱力してしまう。
二人はさっきより声を顰めて何事か話している。どうせ俺たちには理解できないのだから堂々と話していいと思うけど。谷ちゃんの言うとおり親密そうな様子だ。
しばらくして、黒豹一人が近づいてきた。何やら恐ろしい顔をしている。そうだ、テレビで見た黒豹が草食動物を仕留めようと狙うとき、こんな顔をしていたような。無意識に握り締めたこぶしに力が入ってしまう。
やがて黒豹は口を開き、低音の声で、初めて俺が理解できる言葉を発した。

「ブサイク」
「…………は?」

一瞬何を言われたのか分からなかった。いや、『ブサイク』とははっきり聞こえてしまったが、彼の国の言語では『肉まんください』を『ブサイク』と発音する可能性だってゼロじゃない。そんなわけある?

「……アホヅラ、クソガキ」

……次々繰り出されるシンプルな悪口に、俺のプラス思考もぶっ飛んだ。
――なんだ、なんなんだこいつは。俺に喧嘩を売っているのか。やけに発音がいいのもムカつく。というか何故いつもいつも人を睨んでくるんだ。
怒鳴り散らしてしまいたくなったがそこは客商売、というか怒鳴っても相手は意味を理解できないから意味がない。
俺は笑顔を作った。因縁をつけてくるクレーマーや酔っ払いオヤジもなんとか交わしてきた笑顔には自信があったのだ。
すると黒豹が微かに眉を寄せ、何か言いたげな表情になった。よく見ると深い緑が混じった複雑な色の目が揺れて、思わず惹きこまれそうな気分になる。

「――――ブサイク」
「……! ……二度と来るなクソ野郎」

何とか笑顔のまま言えた自分を褒めてやりたい。どうせ理解できないだろう馬鹿め、と心の中で罵る。
そう思ったら黒豹が恐ろしい表情のまま少し身を乗り出してきて、俺はびくりとしてしまった。
まずいぞ通じてたらやばい。クレーム出されたらどうしよう。というかこいつめちゃくちゃ怖い。

「××××」

その時、モデル男が黒豹に近づき、腕を引っ張った。天の助けだろうか。黒豹は俺を睨みつける目をすぐには逸らさなかったが、やがて溜め息を吐くと入り口の方へ去っていった。
――よくわからないがよかった、喉元に噛みつかれて死ぬかと思った。
ほっとして、モデル男の方に会釈したところ。

「――――このクソビッチが」

モデル男は、振り向きざまにお美しい口で汚い言葉を吐き捨てて出て行った。明らかに蔑むような視線付きで。
今日は一体どんな厄日なんだろう。

「あー格好よかった! また何か話してた? いーなー」
「……マジで次からレジ代わって」
「えー恥ずかしいー」

可愛い谷ちゃんの声も、今は俺を癒してくれない。
あいつらはとんでもなく嫌なやつらなのに。って熱弁したところで信じてくれないだろうな。

「――――なあ、俺ってブサイク……?」

半ば無意識のうちに問いかけていた。どうやら内心、俺は少なからずショックを受けていたらしい。

「えー何いきなり。全然そんなことないよー。この前来た友達が鈴木君かっこいいねって言ってたよ。背だって普通にあるしさー」
「そ、そっか」

谷ちゃんの言い方は適当だったけど、今は肯定されただけで嬉しかった。
そうだ、俺はブサイクじゃないはずだ。
ガラスに反射する自分をガン見する。……黒豹達を見た後だとなんかアレ……いやいや冷静になれ。
子供のときから結構可愛いって言われてきたし、高校の時には彼女もできた。彼女がいるってだけでいない勢からは羨望の対象だった。
もう別れたけど。彼女は志望大学に見事合格してこっちは予備校通いになってしまった結果、気まずくなって終わった。それはもうしょうがない。
とにかくだ、確かに俺はあいつらと比べたら顔もスタイルもぱっとしない。でもそんなの全人類の九分九厘に当てはまりそうだし、言われなくても分かってる。
わざわざ口に出して馬鹿にされる謂れはない。一体俺の何が奴らの気に障ったのか。
「クソビッチ」に至っては一番流暢だったのに意味が分からない。意味が分からないものなんて忘れるに限る。忘れよう。


ちょうどその次の日から、模試があることもあってしばらくバイトを入れていなかった。もしあいつらが来て代わりに谷ちゃんか誰かが罵られたら可哀想だとは思ったが、俺としてもあいつらの顔なんて見たくない。
そう、絶対に見たくない……はずだったのだが。

「…………なにこれ」

その日の夜は冷たい雨が降っていた。予備校帰りのアパートの前で、俺は傘を取り落とすほど呆然とした。

「く、くろ……っ」

アパート前の道路にでかい人が倒れていた。というか、どこからどう見ても黒豹だった。暴言を浴びせられて二度と顔も見たくなかったけど、行き倒れてるとは予想外すぎて怒りも忘れる。

「……ちょっと、おーい? 生きてる?」

近づいたらわずかな呼吸と身じろぎを確認してとりあえずほっとする。
「どうしよう……救急車呼ぶか? それとも知り合いに連絡するとか。スマホ持ってないのかな」

放ってはおけなくて通じもしない言葉をかける。反応はあった。見た感じ怪我はないから病気だろうか。黒豹は目を閉じたまま微かに首を横に振った。

「……おい、放置していいの。死ぬぞ」

意識が朦朧としているのか、それには反応しない。

「…………ああくそっ」

もうヤケクソだった。俺は黒豹の服を引っ張って、肩を貸して自分の部屋へ連行した。重くて非常に苦労したけど、一階なのでなんとかなった。高級そうな服はびしょ濡れでコンクリートの上を引きずられて台無しだ。もったいない。

「……ったく、何なんだこいつは」

文句を言いつつ、連れ込んだからには面倒を見なきゃいけない。雨で濡れた服を脱がせるのは一苦労だった。黒豹の裸は彫刻みたいで、なんとなく気まずくて明後日の方向を見ながらバスタオルで拭く。
最低限綺麗にしてから布団に横たえて額に手を当ててみると、しっとりとしてかなり熱かった。顔をうっすら赤くして荒い息を吐いている姿は、起きているときより少し幼く見えた。
意味不明な罵倒してきた嫌なヤツなはずなのに、どこか放っておけない気分にさせられる。弱った動物に対する感情に近い。
意識の戻らない黒豹に毛布をかけてやりながら、俺は溜め息を吐いた。疲れた。一人暮らしの部屋に布団は一組しかなく、スペースもあまりない。
今日は雨のせいで気温が下がって、寒い。仕方がないのでクローゼットからフリースを引っ張り出し、それを着たまま寝ることにした。
起きてもまだ具合が悪そうだったら病院へ連れて行こう。もちろん諸経費は色をつけて払ってもらうし、俺の親切に感動して今までの暴言を深く反省し、謝罪することになるだろう。と妄想しながら眠りに落ちていった。


「……うぅーん」

身体が凝ったみたいに痛くて、よくない目覚めを迎えた。なんだか変な体勢だ。
伸びをしながら目を開けた瞬間、素っ頓狂な声が出てしまった。

「ええええ……!?」
「……」

目の前に猛獣がいる。身体を半分起こして、俺を凝視していた。
咄嗟に走って逃げたくなったが、段々と頭が覚醒してきて状況を把握した。

「……あー、気分悪くなさそう? 顔色よくなってるし」

つーか治り早いな……と思いながら黒豹を観察する。まだ少し顔が赤いくらいで、体調はかなり回復しているようだ。

「なんか言えよ……って、通じないんだった。今はバイトじゃないし敬語とか使わないからな。そもそも何であんな場所で倒れてたの」
「……」

黒豹は口を閉ざしたままだ。やっぱり驚いたような顔で俺を見ている。まだ熱があってぼーっとしているのだろうか。
俺は黒豹の額に手を伸ばした。

「……!」
「――あー、まだちょっと熱いな。薬飲む? 合うかわからないから駄目かな。どうしよう……」

ぶつぶつ悩みながら黒豹の顔を覗き込むと、その目が今度ははっきりと見開かれた。
どうしたんだろう。近くで見るとムカつくほど綺麗ではっとさせられる目だ。
勝手にイラついて額から離そうとした手を、いきなり強い力で握られた。痛い。

「痛いって、なっ、何――」
「××××――」

黒豹の目がギラギラと光る。
何を言ってるか分からない、と言おうとした口は、突如黒豹のそれで塞がれた。


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