異世界にて 02



全身の鈍い痛みで、玲は不快な目覚めを迎えた。

「……え?」

目を開けてまず飛び込んできたのは、緑と青――生い茂る木々と、その隙間から垣間見える晴れ渡った空だった。
一体ここはどこなのだろう。部屋でいつものように眠りに就いた記憶は、つい先ほどのこととしてはっきりと残っているのに。
夢――というには意識も全身の感覚も生々しすぎていて、玲は酷く混乱する。

「痛っ……」

岩や木の根でごつごつした地面に寝ていたせいで、身体のあちこちが痛む。
この痛みも、滲み出る汗も、森のにおいも、鳥や虫の声も――全てが、これは夢ではないと告げているようだ。
玲は混乱しながら周囲を見渡した。まず思いついたのは、あの破天荒な父が何か悪ふざけをしたのではないかということ。
しかし四方のどこを見渡しても延々と木が生い茂っているだけで、人の姿どころか、道らしきものも見受けられない。
いくらあのろくでもない父でも、こんなところに息子を置き去りにするような真似はしないだろう。
――そう、いっそこの状況がただの悪ふざけによるものだったら、どんなによかったことか。

「一体、なんなんだ……」

住んでいる町にもその周囲にもこんな森は存在しない。
周りには人が歩いた形跡すらない。つまり誰かに運ばれたわけでも、夢遊病のように玲が歩いてきたわけでもないということだ。
呆然と空を見上げると、木々の間から月――のようなものが見えた。
玲は愕然とした。
それは月にしてはあまりに赤く、大きく、日が出ているにも関わらず圧倒的な存在感を放っている。
少なくとも地球上のどこかであのような月が見えるなどという話は、聞いたことがない。

「はは……どこなんだ、ここ……」

自棄気味に呟いて、余計に不安が増大する。
確かなのは、玲がただ一人全く知らない場所に取り残されてしまったということだけだった。



しばらく呆然と佇んでいた玲だったが、意を決して立ち上がった。
ここがどこにせよ、留まっているのはどう考えても得策ではない。
着の身着のままで食料や水すら持っていないし、こんな森の中では野犬や熊が出る危険もある。
せめて飴玉でも入っていたらとポケットを探って、指が硬いものに触れた。

「……? これ……」

それは、昨日父から押し付けられたあの石だった。
枕元に置いたはずなのに、何故ポケットに入っているのだろう。
もしかしたらこの石は本当に特別なもので、これのせいで玲は見知らぬ場所へ飛ばされてしまったのだろうか。
以前父が得意げに言って聞かせてきたことを、不意に思い出す。

『この世には異世界に通じる扉がたくさんあるんだ。それは一見何の変哲もない紙きれだったり、石ころだったりする』

普段なら一笑に付すような話だが、この非現実的な状況では分からなくなってくる。

「――いや、まさか」

そんな大層なものであっても、今は飴玉以下の価値しかない。
捨ててしまおうかと手のひらで転がして、やはり思い直してポケットにしまう。
何の根拠もないが、この石が唯一、日常を繋ぎ止めるものになるかもしれないと思ったから。



玲はひたすら歩いた。
同じところに戻ってくることがないよう、時々着ているスウェットを破いて枝にくくりつけ、確認しながら歩いた。
何時間かして運良く小川を見つけたため、それに沿って下流に向かうことにした。
大きな川に出ることができれば、近くに人が住んでいるのではないか。そう希望を持って。
しかし森はどこまで続くか見当もつかないほど広大で、玲は疲れきり、獣や虫に怯えながらの野宿を余儀なくされた。

「はぁ……」

靴下一枚にしか守られていない足には擦り傷ができ、ジクジクと痛む。
助かるために頑張ろうと今日決意したばかりなのに、早くも不安が募っていくばかりだ。
月だけでなく、歩いているとき目に付いた虫や鳥は見たこともない姿のものが多く、本当に知らない場所に来てしまったことを否応なく自覚させられた。
考えていてもどんどん弱気になるだけだと、身体を丸めて眠ろうとしたとき。
がさりと、葉を揺らす音が聞こえた。

「……!?」

一瞬で鼓動が不穏に速くなり、玲は身構える。
ここにはどんな動物がいるか全く分からない。音からして大きな獣ではなさそうだが、毒や病気を持つものに噛まれでもしたら一環の終わりだ。
内心恐々としながら暗闇に目を凝らして、音の正体を捉えた。

「……猫? いや……」

張り詰めていた気が少し緩む。
そこには成猫ほどの大きさの白い獣が横たわっていた。
寝ている――にしてはどうも様子がおかしい。
本来なら刺激しないに限るのだろうが、好奇心と寂しさのような感情を抱えた玲はゆっくりとそれに近づいた。
近くで見ると、明らかに地球には存在しない生き物だった。
顔形はフェレットとウサギが混じったようで、何より特徴的なのは羽が生えていることだ。
地球の基準で考えれば明らかに異質だが、嫌悪感は感じない。むしろ可愛いと思う。
しかし様子がおかしい。普通の獣なら威嚇するなりさっさと逃げるなりするだろうに、それは横たわったまま震え苦しげな息を吐いている。

「怪我してるのか? それとも病気?」

答えが返ってくるはずのない問いをしながら、玲は恐る恐る手を伸ばした。
外傷は見当たらない。とすれば病気だろうか。軽いものであればいいが。
抵抗しないのをいいことに、玲は柔らかな毛に覆われた身体を撫でてみる。
するとそれは「キュウ……」と弱弱しい鳴き声をあげた。
短い時間で、この獣への愛しさと、勝手な親近感が湧いてくる。
森に飛ばされてから、初めて生き物と触れ合ったのだ。
野生動物にこんなことを思うのは傲慢なのだろうが、死なせたくない。
玲はそれを優しく撫で続けた。
すると、荒い呼吸が多少ではあるが穏やかになっていくように見えた。
嬉しくなって、玲はそれを抱きかかえ、川辺まで運んだ。
スウェットを破って川水で洗い、水を滴らせたままそれの口元に運んでみる。

「飲め、美味いよ……あ、飲んだ? 飲んだ!」

ゆっくりではあるが喉を鳴らす様子に、玲は感動してそれに頬ずりした。
気がつくと、この森に来て初めて、玲は笑っていた。

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