誠人、ピザを届ける。 02



明日なんて、来なければいいのに。
一日が終わるときにそう願う人間は、世界中にきっとたくさんいるだろう。
当然地球はそんな人間のことなどおかまいなしに回り続けて、誰もが朝を迎える。
誠人ももちろん例外なく憂鬱な朝を迎えていた。
一晩置いたことで、いくらかは冷静に昨日のことを思い返してみる。
――昨日は酷く混乱していたことで佐原の言うことを鵜呑みにしてしまったが、そもそも彼は全く信用が置けない人間ではないか、と。
まともな研究をしている人間なら、それなりの研究所に入って、清潔な白衣に身を包んで働いているのではないか。その点あの男はあまりに胡散臭すぎる。

確かにフェロモンが本当に存在するなら、とんでもなくすごいものだ。
今は男にしか効かずとも、男向けに女性を欲情させるものが開発された日には、大金を積んででも欲しがる輩はごまんといるだろう。
自分だって人並み以上に金を持っていたら間違いなく食いつく、と思う。
しかし。生まれてこの方、そんな夢のようなものの存在は聞いたこともない。
10年は効き続ける? あんなジュース、もう小便になって出てしまっているんじゃないか。
精液で効果を抑える? エロ漫画ならよくありそうな設定だ。

「……うん、そうだ。俺は騙されたんだ。あの人の言うことを信じた俺がどうかしてたんだ」

そうであってほしいという希望をこめて、誠人は呟いた。
佐原のいうことを鵜呑みにして男にビクビクしなきゃいけなくなるなんて、ごめんだ。ろくにバイトもできなくなる。
悲しいことに誠人は貧乏だ。働かなくてはアパートを追い出されてしまう。
もしホームレスにでもなったら……なんて、考えるだけで恐ろしい。
実家という選択肢もありえないことはないが、誠人の実父は早くに他界しており、今は母の再婚相手とその連れ子が暮らしている。仲が悪い訳ではないが、気の置けない関係とも言えなかったし、一度出て行った手前戻る気にはなれそうもない。
というわけで。

「――もしもし? 今日のシフト、誰と一緒でしたっけ? …………はい、はい。分かりました」

今日のバイト先、デリバリーピザ屋への電話を切ると、誠人は溜息を吐いた。
女性副店長とインストアの女子高生と一緒だと言われたことに、不本意ながら安堵してしまう。
ちなみに居酒屋は昨日のうちにバイトを通して辞めることを伝えた。あんなことがあって一緒に働けるほど厚顔無恥ではない。
――大丈夫のはずだ。身体も、おかしくなっていない。
自分に言い聞かせ、誠人はバイトへ向かった。






「ありがとうございました!」
「はーい、ご苦労様」

ピザの箱を抱えた主婦にお辞儀をして、誠人はバイクに乗る。
平日のピザ屋はムラはあるがあまり忙しくなく、比較的楽なバイトだ。
運がいいことに今日は一人暮らしの女性や主婦に当たり、男の客には当たっていない。

(――いや、運もいいも悪いもないはずだ)

佐原の言っていたことはでたらめだったのだと誠人は思い直す。

「行ってまいりましたー」
「ご苦労様でーす」

店に戻ると、女子高生のバイトの子がピザをカットしながら笑いかけてくる。
小さくて華奢なその子を可愛い、と思う。やはり自分は正常なのだとも。

「西町から注文入ってます」
「西町か……ちょっと遠いな」

地図を確認しようと伝票を手にして、誠人は固まってしまった。
注文者の名前は、加西浩明(かさい ひろあき)。その名の男を誠人は知っていた。

加西は高校時代の先輩だった。
いつ、どこで目をつけられたのかは分からない。何かきっかけはあったのかもしれないが、とにかく誠人にしてみたらいつの間にか絡まれるようになっていた。
今以上に地味で気が小さかった誠人が、素行の悪さで有名な加西に目を付けられてしまえば、カモにされるのは必然の流れだった。

『よう仁藤。相談があるんだけどさあ、金貸してくんない? 財布忘れちゃったんだよね』
『っ……』

一対一でも決して逆らえない威圧感が加西にはあった。
180を軽く越える長身に、筋肉質な身体。何より、一人くらい殺したことがあるんじゃないかというほど鋭い眼光で睨まれると、足がすくんで動けなくなる。

『おい、何とか言えや。お前が嫌なら、お前の弟君に頼んでもいいんだけどなあ』
『それはっ……。わ、分かりました。払います……』

一つ下の義理の弟は、同じ高校に入学してきていた。それほど親しいわけではなかったが、それでも巻き込みたくはない。
何より、彼から両親にバレてしまうのも避けたかった。
義理の父や母が自分が恐喝されていたなんてことを知ったら。考えるだけで頭が痛くなる。

こうして二年の途中までは、バイト代や小遣いは殆ど加西に搾り取られていた。うさを晴らすかのように暴言を吐かれたり、蹴りを入れられることもあった。
親の財布から抜き取るまでにはならなかった。加西は知られたくないと思っている誠人の気持ちを分かった上で、狡猾に誠人の金だけを搾り取り、発覚しないようにしていたのだろう。

そんな日々から救ってくれたのが、悠だった。
その日の加西は機嫌が悪く、誠人は胸倉を掴まれ、壁に叩きつけられた。
暴言を吐かれ、痛みにうずくまっているうちに財布から札を抜き取られ、悔しさに泣きそうになっていたとき。

『おい……大丈夫か?』

声をかけられ、誠人は驚いた。
クラスは違ったが、悠のことは以前から知っていたのだ。
見た目も性格も完璧な人気者。密かに見つめてはあんな人間になりたいと妄想したこともあるくらいだった。
逆に悠は目立たない誠人のことなど知らなかっただろう。
しかしそんな悠がそのとき以来、誠人のことをかばってくれるようになったのだ。
絡まれるのを防ぐためと言って、できうる限り一緒に行動するようになった。他の人に知られたくないという誠人の意見を尊重もしてくれた。

それからは、目に見えて絡まれることが減っていった。常に人が取り巻いている悠と一緒にいることで、さすがの加西も手が出しにくくなったらしい。
あるいは、新たなカモを見つけたか。とにかくそれまでより劇的にまともな日々が続いたまま、加西が卒業する日を迎えた。
これでやっと安心できる。でもそうしたら、もう悠と一緒にいる必要もなくなるのだ。
卒業式が終わってそんな複雑な想いを抱えていたとき、目の前に加西が現れた。

『よう』
『なっ……』

久しぶりに会った加西は、相変わらず恐ろしげな目で誠人を見据えた。

『俺が卒業して嬉しいか? 優等生君とベタベタできる口実が消えて寂しいんじゃないか? 気持ち悪いホモ野郎が』
『っ!』

地を這うような声に、心臓がドクンと脈打った。

『誠人っ!』

そこにタイミングよく悠が現れたことで、加西は忌々しげに舌打ちして去って行った。

『大丈夫か?』
『あ、ああ……』
『そうか。あいつ、ようやく卒業か』
『うん。よかったよ』

それ以来、多少不安を抱いて過ごしながらも、加西の姿を見ることはなかった。
悠との付き合いも終わることなく、何ヶ月か経ったころには嫌な記憶も薄れていった。
きっともう二度と会うこともないだろう。そうであってほしい。
そう思っていたのに。

「――さん? 仁藤さん? 配達、行かないんですか?」
「っあ、ああ……」

思い出しているうちに、ピザはとっくにカットされ保温バッグに入れられていたようだ。

「ふく、店長は……」
「仁藤さんが出るちょっと前に東町まで2軒まとめて出たから、あと20分くらいで帰ってきますかね」

――自分が行くしかないのか。

「そうか。…じゃ、安全運転で、行ってまいります」
「お願いしまーす」

キリキリと痛む胸に顔をしかめつつも、誠人は配達へ出かけた。
――大丈夫だ。ピザを渡して金を受け取るだけだ。
あの頃かけていた眼鏡はコンタクトに変わったし、髪形だってまともになった。
まずあの男はもう誠人のことなど忘れているかもしれない。
大丈夫だ、大丈夫。

『――気持ち悪いホモ野郎が』

脳裏から消え去ってくれないあのときの侮蔑の目と言葉に、誠人は知らずゾクリと震えていた。

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