引きずり堕とされる サンプル 



 うんざりするほど見飽きた壁掛け時計を、今日も横目で確認する。単純作業は時間が経つのが遅く感じられ、いつ見ても期待より針が進んでいた試しがない。やっと終業時間が近づいてくると、疲れた体もいくらかてきぱきと動いた。 
「弥生くん、もう上がりね。お疲れ様」
「お疲れ様です」
 パートのおばさんに頭を下げてタイムカードを押すと、凝った肩を軽く回してから伸ばした。
 弥生の主な仕事内容は郵便物の封入や仕分けだ。座ったまま作業できて、接客や臨機応変な対応は求められない。コツは無駄口を叩かず手を動かし、たまに生じる疑問点は上司にすぐに聞くこと。給料は安いしスキルアップに繋がるとは言いがたく、飽きて帰りたくなることもしばしばだった。
 若く体力のある青年は本来売り手市場で、もっと時給のいい仕事を選べる立場だ。あくまで一般的な若者の話で、弥生にとっては軽作業で雇ってもらえるだけありがたいのが実情だった。
「兄さんお疲れ」
「葉月……何してるの」
「たまたま近くでご飯食べてたから。迎えに来た」
 従業員出入り口を開けると、弟の姿を見つけた。後ろには見知らぬ女の子がくっついていて怪訝そうにこちらを窺ってくる。
「葉月、その人がお兄さんなの? ほんとに?」
「そうだよ」
「……どうも」
 マスカラに縁取られた大きな目からまじまじと向けられる、初対面の視線が居心地悪い。無視するわけにもいかず中途半端に会釈した。
 どう思われているのかなんて口に出されるまでもない。「全然似ていない、これが本当に葉月の兄?」だ。
 同じようなことを耳にタコができるくらい聞かされてきた。この女の子は無遠慮に口に出さないだけ良識がある。
「そうだ、よかったらお兄さんも一緒にご飯どうですか。みんなで行こうって話してたんだけど」
「俺は、用事があるから。葉月は行ってきなよ」
「悪いけど今日は兄さんと家に帰るよ。高田さんはまたみんなに合流したほうがいい。すぐそこだから大丈夫だよね」
「……うん」
 葉月が断ると、高田と呼ばれた女の子が目に見えてがっかりした顔になる。ますます居心地が悪くなって、小声で耳打ちした。
「俺一人で帰るから、葉月は彼女と一緒に行きなよ。他の子も待ってるんだろ」
「もう断った。聞いてたよね。今日は天気が悪くて調子よくなさそうだし早く帰ろう。―じゃあまた大学で。気をつけてね」
「うん、葉月またね。バイバイ」
 せっかく気を遣って提案したのに無下にされた。葉月は高田に軽く挨拶し、兄弟で並んで家路につく。
 落胆した気配が背中から伝わってきていたたまれない。この場所から早く離れたかった。
 二人で道を歩くとき、葉月はいつも弥生の歩調に合わせる。長くて健やかな足には遅すぎるペースに文句一つ言わない。
 一つ違いの弟は、外見も中身も弥生とは似ても似つかない。今だって、友達との楽しい集まりを断って兄を迎えに来たお優しい葉月に対して、弥生は素直に感謝も伝えない。
「足、痛かったら言ってね」
「大丈夫だって。雨も降ってないし」
 弥生は健康体とは言えない体をしている。生まれつきではなくとある事故による後遺症だ。
 そしてその事故には、この弟も少なからず関わっていた。決して切っても切れないほど強く。

◆◆

 運命の分岐点は小学生の頃、家族と親戚が集まってキャンプに行った日のことだった。
 大人が食事の準備をしている夕暮れに、兄弟はキャンプ場のまわりで遊んでいた。春のはじめの川は子供でも泳ぐには冷たくて、足は自然と山の奥へ奥へと向かっていった。
 道なき道を進むのは幼い好奇心をくすぐった。慣れない山の中に分け入るなんて無謀だと諌める大人は近くにいなかった。
『あんまり遠くに行ったら怒られるよ』
『もうちょっと。くらくなったら戻れば大丈夫だよ』
 弥生は葉月の手を握って歩いた。天真爛漫で勇敢な弟は、手を放したらどこまでも駆け出してしまいそうだった。危険な場所に差し掛かっていることに、沈みかけの夕日を遮る豊かな木々の影が気づかせてくれなかった。
 そして滑落した。数日前に降った雨で地面がぬかるんでいたのが悪かった。落ちる感覚と強烈な痛みを最後に、弥生は意識を失った。
 病院で目が覚めたとき、体が思うように動かせなくて、痛くて怖くてパニックを起こした。全身怪我だらけで、特に足の折れ方が酷かった。今思い出しても目を逸らしたくなる悲惨な状態だった。
 そして重傷を負ったのは弥生だけではなかった。
『あんなことになってしまうなんてね』
『生きていてくれただけでよかった。前向きに考えよう』
 意識不明状態から回復したとき両親は喜んでくれたし、献身的に弥生の面倒を見た。病室には見舞い品の花や果物、暇つぶし用の本やゲームが溢れた。
 弟の面倒もあるのに、仕事だって忙しいのに、優しい顔で会いに来てくれる。だから痛くても辛くても頑張ろうと、奮い立った時期もあった。
 いつの頃だっただろう、皆が弥生のことより、葉月のことを深く気にかけていると気付かされたのは。
 葉月も弥生と共に崖の下に落ちた。弟は落ちそうになった兄を懸命に助けようとしたものの、子供の力では成すすべがなかった。引っ張られて巻き添えを食らってしまった。頭を打ってすぐに意識を失ったため、最初は経緯を理解できていなかった。
 当時から葉月は聡明で運動神経抜群で、誰からも愛される子どもだった。
 一方の弥生は成績こそ悪くなかったものの取り立てた特技はなく、性格も大人しくて弟とは似ていなかった。同じ親に同じ環境で育てられた結果なのだから、兄弟でも生まれ持った天性の資質が違っていたのだろう。
 葉月は弥生を兄として純粋に慕っており、弥生も葉月の前では兄らしく、少し偉そうに振る舞っていたように思う。大人からより多くの期待をかけられ愛される存在がどちらだったか、考えるまでもない。
『葉月くん、もう走れなくなるかもしれないってお医者さんが……』
『可哀想に。あんなに才能があったのに』
 葉月はとても足が速くて、短距離がずば抜けて得意だった。学校で一番程度には留まらず、県の記録を更新するほどで陸上クラブチームのスカウトの目にも留まった。幼い弥生の目から見ても葉月が走る姿は特別だった。
 大人の間では、末は日本代表になってメダルを目指せる、と気の早い願望まで飛び交っていた。当の葉月はチヤホヤされても慢心することなく、純粋に走るのを楽しんでいる様子だった。
 なのに足の骨が砕けた。弥生と違って意識は保っていたが、今まで通り走るのは難しいと専門医から宣告されたと後から聞いて、頭が真っ白になった。
『そんな……』
 誰も表立って弥生を責めなかった。両親は弥生のことも、きっと心から心配して気遣ってくれた。怪我が酷くて辛いのだからと、多少我儘を言っても許してくれた。
 でもある日、痛みが特に強く出た日にしつこくリハビリを嫌がって、
『もうやだ。今日は何もしたくない』
『葉月だって頑張ってるんだから、弥生も頑張りましょう』
『葉月より僕の方が痛いんだよ!』
 と癇癪を起こしてしまったとき、母の表情が一変して険しくなったのを覚えている。それまで叱られたどんなときとも違う空気に、『もしかしたら親に見捨てられてしまうかもしれない』と、子供心に世界が終わるような恐怖を覚えた。
 弥生は少しずつ自分の立場を理解していった。親戚の中にも友達の中にも口が軽い者はおり、噂話や遠回しな嫌味はどこからか耳に入ってきた。
『さえない兄の方が優秀な弟を巻き込んだせいで』―と皆が思っている。親戚も、学校の友達も、両親ですら―。
 弥生はますます塞ぎ込んでいった。そんな中でも葉月は『僕のことは気にしないで、リハビリ頑張ろうね。早く一緒に家に帰ろう』と、責めるどころか気遣いまで見せた。兄のせいで夢を絶たれた小学生の子供が。弟ながらよく人間ができていた。
 弥生は、どう頑張っても葉月のように前向きにはなれなかった。治療とリハビリは長く苦しく、何度も投げ出したくなった。泣いて嫌がる手をいつも葉月が握った。
 最も辛い数ヶ月を越え、傷口は治癒しても、元の健康体には戻れなかった。
 十年以上経った現在でも少し引きずった歩き方になってしまうし、気候や疲労ですぐ古傷が痛んだり痺れが走る。
 周囲が楽々こなせることができないのはコンプレックスを肥大させた。子どものうちは馬鹿にされることもあったし、逆に同情されて過剰に気を遣われることもあった。精神的に最も辛かったのはやはり、弟の夢を奪った事実だった。元々の性格に輪をかけて卑屈な人間が出来上がっていった。
 一方の葉月は不幸中の幸いにも、日常生活に支障をきたすほどの後遺症は残らなかった。栄光の夢に続く道が絶たれても塞ぎ込むことなく乗り越え、友達に囲まれ勉学にも励み、すくすくと成長した。
 同じ事故に見舞われて、元からものが違っていた二人の差は歴然と開いた。弥生が体をだましだましバイトしている間、葉月は名門大学で充実した日々を送っている。切っても切れない血の繋がりがなければとっくに接点など途絶えていた。
 しかし親の庇護を離れられる年齢になっても、どうしてか兄弟は近くにいる。
「―兄さん、そろそろ辛いんじゃない?」
 ふと葉月の声音が低く潜められて、空気が変わった。心臓が不穏な音を立てて、重いものがずんと伸し掛かる。
「辛くない」
「遠慮しないで。食事の後部屋に行くから」
 弥生の意思は簡単に却下される。いつもこうだ。弟に強く出られない。
「ただいま」
「おかえりなさい。あら、二人一緒だったの」
「たまたま近くで会ったんだ」
 まっすぐ家に帰ると母が出迎えた。父は仕事がたて込んでいて不在だった。
 先に風呂を使うよう勧められ、いつもより念入りに体を洗った。部屋着に着替えベッドで本を読んでいると、しばらくして葉月が入ってくる。
 何年も前にプライベートを守りたくて部屋に鍵をつけたけど、結局あまり活用できていない。
『体調を崩したときに開かなかったら取り返しがつかなくなる』と葉月すぐに合鍵を作ってしまったからだ。
 葉月は当然のように弥生の領域の中に入ってきて、慣れた手つきで内側から鍵をかけて二人だけの空間を作り上げる。弥生は体を起こしてベッドの端に腰掛けた。こういうときはいつも、自分の部屋なのに身の置き場がなくなる。
「体調は平気?」
「いつもと一緒」
「さっきは顔色が悪く見えたから気になってた」
 葉月が隣に座った。安いマットレスが二人の体重で沈む。体温を感じるくらい近くにいる弟に、鼓動が早鐘を打つ。
 やっぱり体調が悪いと言って断ろうか。悩んでいる間に事は始まった。
「んっ……」
 葉月の手が弥生の腿に触れた。ぞわりと肌が粟立つ感覚に見舞われ、また止められなかった己の優柔不断さを嘆く。
 兄弟の間には決して誰にも言えない秘密がある。
「はぁっ……ぅ、ん……」
「そんなに固くならないで、力を抜いて」

 もう何年続いているのだろう。月日を重ねるごとに増すばかりの罪が、事あるごとに弥生を苛む。
 部屋でオナニーしている醜態を、葉月に見られた。
 当時の弥生は同級生に比べて発育が遅く、精通は中学に入ってしばらく経ってからだったし、下ネタを話すような友達もいなかったので知識に乏しかった。
 その日は特に体調が優れなかった。じんわりした不快感が邪魔してなかなか射精できず、だからといって勃起したまま放置しても大丈夫なのか分からなくて、足の先を伸ばして必死に扱いていた。ノックにも気づかないほど必死だった。
 隠す時間はなかった。恥ずかしい姿を見られ、感じているのにイけないみっともない声を聞かれた。頭を鈍器で殴られたようなショックで思考停止した。
 葉月はしばらく呆然として立ちすくんだ。一つ年下で思春期真っ只中の彼もまたショックを受けたに決まってる。だけど見たほうと見られたほうではダメージが違う。
 出てってと泣き声混じりに喚いた。惨めでいたたまれなくて、消えてしまいたかった。
 葉月の反応は予想できるものではなかった。
『……兄さん、辛いんだね。俺が手伝ってあげる』
『? ……っひ……、なに……』
 心臓がバクバク喚いて、全身が熱くなった。強く拒むことができなかった。わけのわからないうちに葉月に性器を扱かれ、初めて他人の手で射精した。
『気持ちいい? ここがいいの?』なんて、最近声が低くなった弟に何度も訊かれながら、先走りで濡れたペニスを好きにされて、屈辱と快感を同時に味わった。
『ん…い、いや、…はあ、はあ…っんー…』
『いや…? でもこんなに勃ってるし……濡れてきたよ、音が出てる』
 当時の葉月は、年上の女性達が口を揃えて「可愛い」「美少年」と称賛するような子だった。兄のペニスを擦る姿は実にアンバランスでおかしな光景だった。
 さっきまで嫌々処理しようとしていただけだったのが嘘のように、先端を濡らして感じた。
『はぁっ…はぁっ……だめ、音、出さないで……ん、んあ、あっ…ぅう』
『兄さんが濡らすからいけないんだよ。ね、自分の手でするよりずっと、上手く出せる……』
 ぐちゅっ…ぐちゅ…ぬちゅ、ぬる……っ
『あぁッ…! ん、はふ…っふーっ…ん…ん…、…っ』
 自分の手とは感じ方が全くの別物だった。弟から性的なことをされる忌避感は、じわじわと立ち上る熱を冷ましてはくれなかった。
 体は間もなく昂り、絶頂に達した。目を閉じ口を塞ぎ、淫らな痙攣が止まるのを待つしかなかった。


「ぅっんっ…ンっ…ふぁ……」
「いつもより勃つの早いね。興奮してる?」
「ん……はっ……」
 何度繰り返してきたか、最初は覚えていたはずだけど、いつの間にか数えるのを諦めた。それくらい兄弟にとって常態化してしまった。閉じた部屋で行われる二人だけの秘め事。
「ん…っんーー…あぇ…ん…っ」
「そんなに息を止めないで。苦しくなっちゃうよ」
「だって、声…あっん、ん゛ぅ……」
 弥生はいつだって物音を立てないように気を張っている。同じ屋根の下に暮らす両親に知られたら一巻の終わりなのだから当然だ。
 葉月にはそれを揶揄する余裕がある。二人きりの兄弟であり最大の秘密を共有する共犯者であるはずなのに、弥生には弟がどういうつもりなのかさっぱり理解できない。
「気持ちいいなら声出してもいいのに。腰がビクビクしてきた……」
「ぅあ……っん、ん…っ」
 濡れた先端を指先で弄りながら、硬くなった芯を扱く。弥生の感じる場所も、感じる触れ方も、最大限に強い絶頂に至る道筋も、葉月はこれまでの経験から知り尽くしている。
 ぐちゅっ……ぬ゛る、ぬ゛ちゅ、しこ…っしこ……っ
「んっ…アぁっ…もう、い、いきそ…あッ…はぁ…」
「うん……じゃあくするね。イっていいよ、兄さん」
「んーーー……っふぁっ、あッ、いっ……」
 上下に擦る手つきが激しくなって、ぐちゅりと水音が鳴る。先走りだけで濡れすぎているのが恥ずかしくて嫌だ。
 腰が不規則に跳ねて、足先がピンと伸びた。
「イきそう? 兄さん、腰震えてる。イって、出して……」
「あッ、あぁっん゛ひ…、いっ、いくっ…はっ、はぁっ…いくいくっ…あ゛あぁー……っ
 びくびく…っびく、びくっ……びゅーっ、びゅるっ、びゅるっ……
 絶頂の間際には声が抑えきれなくなるし、出ると伝えなくてはいけない。一度羞恥心が勝って「イく」と申告しないまま葉月の服に精液をかけてしまったことがあって懲りた。
 弥生は何度も「イく、イく」と上ずった声で喘ぎながら絶頂した。
「はへっ…あぅ…っん゛っ…ふぁ…っ、ん、ふー……
「……いっぱい出たね」
「はっ…はっ、はぁ…ん……
 イってる最中にも上下に指が擦り上げ、葉月の手に媚びるように腰を突き出してしまう。頭がくらくらして目を閉じているうちに、葉月が立ち上がった。
「じゃあね、ゆっくり休んで」
 ドアが閉まって部屋に一人残される。こっちは見るに耐えない姿をしているのに、弟は息ひとつ乱さない。
 葉月はいつも自慰行為の手伝い「だけ」をする。弥生は葉月の性器を見たことすらない。
 葉月はオナニーも満足にできない弥生のために抜いてあげている。ただそれだけなのだろう。より過激な行為にエスカレートするのではないかと恐れたこともあったが杞憂だった。本当にただの性欲処理でしかない。弥生が自慰すら下手くそだから仕方ないのだと、偽りの論理で心を守る。
 最初から無抵抗だったわけじゃない。こんなのおかしいからもうやめようと何度も言った。
『俺が嫌なら医者に診てもらう?』と提案され、怖気づいて引き下がった。他人に知られるのはこの上ない恐怖だった。
「……はー……」
 時間の流れが二人の関係を修復困難に歪めてしまった。葉月にとっては兄を憐れんでの行動だったとしても、弥生がもっと早く、断固として止めるべきだったのだ。

◇◇

 弥生の世界は閉じている。仕事をして家に帰り、食事を摂って風呂に入ったら後は泥のように眠る。ほとんどその繰り返しだ。他人より疲れやすい体には余力が残らない。
 休日に一人で外出してみると、どこを歩いていても居心地の悪さを感じることがある。
 駅の改札やエスカレーターでもたついたり、何もないところで転びそうになったり、歩き方に怪訝な視線を感じたり。
 被害妄想も少なからずあるだろうけど気になるものは気になる。楽しげに行き交う人達の雰囲気を、辛気臭い自分が壊しているという気がする。
 特にああいう、髪の毛から足元まで綺麗におしゃれをして、高い声で話す同世代の女子たちは、眩しくて気後れを感じる人種だ。
 その中の一人と目が合った。
「あれ、葉月のお兄ちゃんだ」
「―……」
 聞こえなかったふりもできないはっきりとした声で話しかけられる。以前出くわした葉月と親しげな女の子、確か高田といった。連れの友達に耳打ちしてから近づいてくる。
「こんにちは。今日はどこかへお出かけですか?」
「はい。映画を見た帰りです」
「敬語いらないですよ、こっちが年下なんだし。何の映画見たんですか? え、あれ面白かったですか、私も見ようか迷ってたんです」
 高田はとても明るく、高いトーンでも耳が痛くならない可愛らしい声で話す。外はまだ明るいのに、彼女の周りは一際キラキラして見えた。
 葉月はこういう子が好きなのだろうか。埒もない想像が過ぎってすぐに止める。弟の恋愛事情を勘ぐる趣味はない。
「そうそう、今度、知り合いのお店でパーティーがあるんですよ。治安悪いのじゃなくて、テラス席があるカフェみたいなスペースを借りて、好きな場所で気楽に話す感じで」
「楽しそうだね。葉月も行くのかな」
 何故弥生にそんな話をするのだろうと内心首を傾げながら、唯一の共通の知り合いの名前で間を保たせようとすると、高田が一歩近づいてきた。ほのかに甘い匂いがする。
「それが、葉月は行かないっていうんです。忙しい時期でもないし、バイトだって一日くらい休めるはずなのに。……なんでだと思いますか?」
「さあ、俺は知らない」
「葉月って大学ではみんなに優しいけど、プライベートではあんまり遊ばないし、誘っても断られる率が高くて。私、お菓子を作って持って行くつもりだったのに……」
 高田が俯きがちで吐露した。葉月に好意を抱いているのだと伝わってくる。
 弥生のほうこそ家以外での葉月を知らない。力になれそうにはなかった。
「じゃあ葉月に参加を勧めてみるよ。俺の言うことなんて聞くか分からないけど」
「ほんとですか? 嬉しい。そうだ、お兄さんが来てくれませんか?」
「……いや、俺はいいよ、知り合いもいないし」
 弥生は首を多めに横に振った。
 華やかな大学生の集まりなんて冗談じゃない。勝手に自分と比較して憂鬱な気分になるだけだ。
「地元ですよね。大学繋がりだけじゃなくて同中の子も来ますよ? 会いたくないですか?」
 高田は語気を強めた。可愛い女の子からパーティーに誘われて、普通なら喜ぶべきなのだろう。
「私、本当に葉月と……お兄さんにも来てほしいんです。これから就活とかで忙しくなったらますます誘う機会も減るし、どうしても思い出を作りたくて」
「思い出……」
 ひたむきな目だった。
葉月はきっと今までに何度も、一人の人間として想われ、全身全霊の感情を向けられてきた。弥生には縁遠いことだ。羨ましい、と負の感情が湧いてくる前に考えを止める。
 彼女の事情も切実な恋心も、弥生には関係のないことだ。
―一度くらい協力してもいいかもしれない。これ以上「体の弱い兄のせいで葉月が大学生活を十分に楽しめていない」という目で見られるのは心外だ。
 弥生が行動して思い出作りの機会を与えて、後は二人で好きにしたらいい。
「分かった。葉月のことも誘ってみる。期待はしないでね」
「やった! ありがとうございます!」
「ち、近いよ」
 高田が抱きついてきそうな勢いだったので、弥生は反射的に後ずさった。
「ごめんなさい」と謝る仕草も可愛らしくて、通りかかった若い男が振り向いて二度見する。高田は気づいた様子もない。彼女の目には弥生を通した葉月しか映っていなかった。

◇◇

 高田の表現に偽りはなく、パーティーという言葉に偏見を持つ弥生から見てもそのパーティーは健全な雰囲気で、明るい時間に洒落たスペースで催されていた。
 庭には芝生が綺麗に整えられ、花壇には色とりどりの花が咲く。建物はレトロな雰囲気を醸し出す煉瓦造りで家具は北欧風に統一されている。あちこちでスマホのカメラが起動していて、気を抜くと映り込みそうになって避けて通る。
 会場には悪くない印象を持ったものの、参加者が次々に集まってくると、居心地は反比例して悪くなっていった。
「兄さん、もう帰りたいって顔してる」
「……、お前は知り合いとか話したがってる人が列をなしてるみたいだから、話してきなよ」
 隣合う葉月が含みを込めて囁く。誘いをかけたとき、葉月は案の定怪訝な顔をした。
『いきなりどうしたの? 兄さん嫌いでしょ、そういうの』
『美味しいものが色々出るみたいだし、お前もたまには友達の誘いを受けてあげたら?』
『……高田さんに誘われたのか。兄さんは女の子が苦手だと思ってたけど、愛想がいい子だからね。気に入った?』
『そんなんじゃない。あの子は……とにかく、俺は約束した手前顔は出さないといけないから行く』
 葉月が不機嫌なときの低い声を出すので、弥生は言い捨てて逃げた。二人きりで雰囲気が悪くなったとき、葉月は弥生の体に触れて、淫らな行為に誘導することがある。葉月に恋する女の子に協力しようと決めたそばから葉月に触れられるのは後ろめたかった。
「あっ、葉月くんだ! ゼミの子たちもう集まってるよ。こっちで話そ」
「ごめんね。今日は兄さんと来てるから」
「行ってきなって。俺は何か食べてくる」
 葉月が知り合いに見つかるとすぐに呼ぶ声がかかる。弥生は足を引きずって離れた。素早く動けないのがもどかしい。その気になれば葉月は簡単に弥生に追いつける。実際に追ってくることはなかった。
「お兄さん! 本当に来てくれてありがとうございます」
 今日の高田は髪をアップにして肩が出た膝丈のワンピースを纏い、艶やかな肌を適度に露出している。賑やかな会場の中でも特に目立って視線を集めていた。
 自覚があるのかないのか、やはり他の男性には目もくれず、少し拗ねたように眉を下げた。
「せっかく来てくれたのに、葉月をゼミの子達にとられちゃいました。一緒にいる時間が長いのにわざわざこんなところでもべったりなの、どうかと思いません?」
「どうかな……もう少ししたら話せるんじゃない?」
「私が来るまでお兄さんが葉月と一緒にいてくれたらって思ってたんですけど……あ、すみません、愚痴っぽくなって」
「いや、引き留めておけなくてごめんね」
 連れてきただけで十分だろうと甘い考えだったから内心カチンときたけど、言い返す気はない。高田はそれだけ葉月が好きで、なりふり構っていられないのだろう。
「あの、もしよかったら、こっちで一緒にお菓子を食べようって……葉月も誘ってくれません?」
「うーん、俺にとっては知らない人達だし、盛り上がってるところに水を差すのは気が引ける」
「―そうですか」
 高田は瞬間的にすっと笑みを消し、すぐに愛らしい表情を装備し直して去って行った。
 にわかに動悸がして冷たい汗が背面を伝った。いつか母が豹変した瞬間が重なって見えたのだ。
 ともあれやっと一息つくことができる。あれ以上彼女と話すことが思いつかない。
「ふー……」
 美味しい食事のために参加するのだと自分に理由をつけてきたけれど、蕩けたチーズが香るイタリアンや種類豊富なスイーツを目にしても、食欲はあまり湧かない。
 日の当たるテラス席は談笑する人で溢れていたので、店内の奥まった部分の壁にもたれかかると、少しだけ落ち着く。
「ねえ、花を背景にして一緒に写真撮ろう」
「久しぶりに海外旅行行けてよかったー。今度はヨーロッパに行きたいな」
「海外行くお金ないや。みんなでキャンプとかしない?」
「あ、あの子来てる。話しかけたいけどそっけなくされたらつらい」
「あの二人って別れたんじゃなかった?」
「就活ダルいよー、今日は飲んで忘れたい」
「不動産投資に興味ある?」
 少し静かな場所に陣取っても、じっとしていると飛び交う雑多な話題が耳に入り込んでくる。
 やっぱり来なければよかった。弥生はあらゆる話題に混ざれない異物だ。
「やっぱり来なきゃよかった。って顔してる」
「え?」
 心中をそのまま音にされ、どきりとした。
いつの間にか隣に男が立っていた。弥生よりいくらか背が高く、涼しい目元の上品な顔立ちながら服装は少し軽そうで、知的な印象と垢抜けた印象が共存している。
「こんな雑多で浮かれてるだけのパーティー、面白くないでしょう」
「いや、そんなこと……えっと」
「ごめんごめん、俺は青坂。葉月とは高校からの同級生」
「そうだったんだ。俺は七門弥生です」
「知ってる。前に顔合わせたことあるけど、やっぱり覚えてないか」
 想定内というふうに青坂は笑った。
葉月の友達と言われると見たことがある気もする。弥生は顔を覚えるのが得意ではない。他人から向けられる視線を気にするあまり俯きがちで生きてきた。
「ごめんね。ほら俺、陰気だから隅にいると落ち着くんだ。気にしないで」
「無理に馴染む必要ないよ。ってかあそこで騒いでる連中も大概無理してるの多いし。隅が落ち着くってすごく同感」
 青坂はどう見ても華やかな側の人間で、葉月と遜色なく人気がありそうだ。そんな人に構われて反応に困っていたので共感されて意外に思う。もしかして一人でいる弥生を気遣ってくれているのだろうか。
「誰かに葉月を連れてこいって頼まれたんじゃない? そんなの秒で断っていいんだよ。呼ぶだけ呼んで放っておくとか冷たいね」
「俺は放っておかれたほうが楽だからいいよ」
「優しい。……あ、俺にも放っておいてほしいって暗に言ってる? ごめん、俺って自分のこと棚に上げがちな人間性なんだ」
「そんなことないけど、つまらないだろ、俺と話しても」
 青坂が弥生の顔を覗き込む。
「んー、俺、教室で騒いでるタイプより図書室に通って一人で本読んでるタイプのほうが気になるんだよね」
「変わってるね」
「うん。ここ本当に落ち着く。何か飲む?」
 答える前に動いて、青坂が飲み物を持ってきた。ノンアルコールのフレッシュな果汁のジュースで、どうして好みを知っているのか首を傾げるほど弥生の口に合った。
 それから少しの間、他愛のない話に興じた。
「兄さん、何してるの?」
 横から感情のない声がかかってびくりとした。葉月がよほど静かに歩いてきたのか、案外話に夢中になっていたのか、真横に立たれるまで気がつかなかった。
 心拍数が上がって困惑する弥生に代わって青坂が答える。
「やあ葉月。何って普通に話してた。見れば分かるでしょ」
「俺は兄さんに訊いてるんだよ」
「普通に、青坂くんと話してた」
 青坂に同意する言葉を素直に口に出すと、葉月の目元がぴくりと動く。機嫌は確実によろしくない。
「そうなんだ。兄さんの暇つぶしに付き合ってくれてありがとう。もう帰ろう」
「帰るときは一人で帰るよ。お前は人付き合いがあるだろ」
「一通り話せたしもういい」
 時計を見た。高田が満足する十分な交流を果たす時間はなかったはずだ。今帰らせたら弥生はまた役立たずで終わってしまう。
青坂は葉月の剣幕にどこ吹く風で口を挟んだ。
「兄弟で足並み揃えて行動しないといけない決まりでもあるの。こんなところにいるときくらい自由に楽しんだら?」
「兄さんは何も楽しんでない。俺を連れてくるために無理をしてるだけ。見て分からないか?」
 二人は親しいのかと思いきや、ちくちくとやり合っているように見える。同族嫌悪だろうか?
 葉月は弥生の気持ちを勝手に代弁した。面白くない。
「そんなことない。青坂くんと話せて楽しかったよ」
「ほんと? 俺も結構楽しかった」
「……」
「あ、葉月いたいた。こっち来てよー」
 和やかではない葉月を、離れた場所から明るい女の子の声が呼んだ。葉月はじっと弥生を見た後、よそ行きの顔を作って対応する。
「ごめん。あんまり長居できないんだ」
「そんなこと言わないで。参加費もったいないしたまには楽しまないと」
 弥生が見たことがない顔の女の子は積極的だった。高田を満足させられないどころか恨まれる結果に終わるかもしれないと危惧しつつ、今のうちに葉月から離れた。
「帰るの?」
「うん。知り合いとはもう話したし。じゃあ」
「俺も帰るから途中まで一緒に行こ」
 成り行きで青坂と帰り道を行く。葉月よりも広いパーソナルスペースを保って、時折自分のスマホを覗いてゆっくりした足取りになり、自然と同じ速度で歩く。
 ともすれば劣等感を抱きかねない相手は、気を遣わせず居心地をよくする振る舞いに長けていた。
「じゃあここで……、さよなら」
「バイバイ。また会えたら話そう」
 別れ際もさっぱりしたものだった。連絡先も知らないけれど、縁があればまたどこかで会えるだろうか。
 案の定行かないほうがよかったと後悔しかけたパーティーの中で、一点の清涼剤を見つけられた。

◇◇

「ただいま」
「おかえり……あの、今日は疲れてるんだ」
「俺も疲れてる。オチのない話を延々と聞かされたからね」
 弥生が帰宅してから数時間が経っていた。葉月は凍りつく空気を放って部屋に入ってきた。
「高田さんと話せた?」
「兄さんには関係ない」
「……あ……っ」
 青坂といるとき、普段より明確に葉月を突っぱねることができた。なんだか心が強くなった気がした。ただ虎の威を借りていたに過ぎなかったのだと思い知る。
 強気は弱い急所に触れられると見窄らしく萎えていった。
「ん、はっ…、はあ……っ、そこ、やだ、ぁ……っ」
「兄さん、青坂と何を話していたの? 教えて」
「お、お前には関係ない……、ッああ…ん…ッ」
 ぬ゛ぷ、ぬ゛る、ぐちゅ…っ、ぐり、ぐりゅっ、ぐりゅっ……
 葉月は額がくっつく距離に詰め寄り、最も敏感な先端に向かって指を動かす。
「兄さん、鸚鵡返ししかできないの? 関係あるよ。俺は自分の身くらい自分で守れるし対処できる。兄さんはそうはいかないだろ」
「……っ、ぅあ、ん゛、ふー、んふ……っ先…っばっかり、しないで、あッ…ぁん…
「青坂って上っ面でしか話さないし、ああ見えて結構遊んでるよ。友好的に話してくれたからすぐいい人だと思っただろ。ね、図星? こんな話をしてるときでも、先から汁を漏らして勃起しちゃうんだね」
「……〜〜ッア…っん、ん゛〜……あッあ゛ぅ…っ」
「俺は交友関係で兄さんに迷惑はかけない。兄さんは? 何かあったら―尻拭いをするのはこっちなんだよ」
 葉月はねちねちと先端の穴の上に指を滑らせ、過去の生傷に触れることを言う。
 最初の尻拭いで兄が弟の尊い未来を奪った。分かってる。誰もがそういう目で弥生を見る。
「ん、ん゛ひ……っ世間話しかしてない、あぁ…、パーティーつまらないって、はぁ、あー……
「つまらなかったね。つまらないパーティーに連れ出して、勝手に帰るなんて酷いよ。得られるものなんてなかった」
「ん、あ゛……っはぁ、はあ…っだめ、もう、もう……っ」
「まだ話の途中なのに、もうイきそうなの? ああ、先端が腫れて色が濃くなってる…、堪え性がないね」
「ふーんっ、くる、だめ、ンひっあッ……
 ずりっ、ずりゅっ…ぐちゅ、ぐちゅっ、ぬ゛るぬ゛るっ…
 楽しくない話をしながら勃起して、くぱくぱと開閉する穴から先走りを滲ませ、性器の段差を滑りで擦られるたび腰がびくつく自分が嫌だ。
 生理現象だから仕方ないと、絶頂寸前の疼きに震える状況で正当化を図る。
「んっあ、あ゛〜……いく、いく、いくっ……
「……早いね」
「ひぐ……ッん、い、いた、アぁ……っ」
 寸前で葉月は無情にも根元を掴み、快感に尿道を駆け上がろうとしていた精液をせき止めた。
「すぐに出すと早漏になるよ。ちょっとは我慢しないと」
「……っ、ん゛、だって、あっはぁ…先ばっかり弄るから、あふ…、い、いきたい……っん、ん゛……っ」
「もう少し堪える練習をしようか」
「ひぐ……っ」
 ぐっと根元に圧がかかり、発散しそこねた快感が行き場をなくして体を苛む。
 あちこちが細かく震え、指を丸めて握りしめ、ひっくり返った声を抑えようとする。
 葉月は意地悪く、根元を握ったまま穴がひくつく先端を擦る。
 ぬ゛りゅ…ぐりぐり、ぐりゅ、ぐりゅっ…
「お……っい、んっ…ん、だめ、それ……っん゛―……
「ほら、気持ちいいの我慢して。兄さんももう大人なんだから、扱かれたらすぐ出しちゃうの恥ずかしいよね」
「あっ…あ゛ー……だめ、いく、いかせて、……あ、ァあ……っ
 今日の葉月はいつになく陰険だった。いけないまま性感帯を無遠慮に嬲られ、精液が上がってくるのを阻止された先端から透明な汁ばかり漏れ続ける。
 こんなの、早漏より遥かに惨めな姿ではないか。いつしか腰が物欲しげにへこへこと揺れ、目の焦点が合わなくなってくる。
「ん゛う……はっ…はあ…っあ、あ゛…、い、い…
「―気持ちいいの、兄さん。腰をヘコヘコして……弟によくそんな姿晒せるね」
「〜〜……っ
 葉月の潜めた声が耳元でゆっくり囁かれ、なおも腰が無様に揺れる。
「う、あ……っはへ……っい、いかせて葉月、気持ちいいのして…っはぁ…っ、はあ、先っぽぐりぐり……っ出させてあ、ん゛〜……
「…………」
「あぁあ…っ?いくっいく……っ!いッ……
 ずり、ずりっ、ぬ゛ぷぬ゛ぷ、ぬ゛る……ッ
 びゅる、びゅる……ッ、びくびく……っびくびく、びくん……びゅー……
 体感として、射精数回分の快感を無理やり止められていた。堰を切ると一気に弾けて下半身が大げさに跳ね、体と頭までが絶頂で満たされる。
「出るはへ……っきもちぃ、いぃー……はー…あへっ…っだめ、声、ん゛〜……
「―静かにして」
「ん゛……っんぐ…………ッ、……っ
 初めて出す尋常ではない喘ぎ声が、射精が駆け上がるごとに漏れて、いつもは放っておく葉月が手で口を覆ってきた。
「ん゛む……んっん、んう、ふー、ふー……ッ
「―兄さん、気づいてる? ほとんど先端しか弄ってないのにイって……、クリ責めでイく女の子みたいだったよ」
「はふ……っん、ん゛……ッ
 屈辱的な言葉さえ今だけは絶頂の快楽を煽り、甘い陶酔感が走る。
 葉月は口を塞いだまま、耳を辱める声をかけ続けた。
「やらしい、兄さん、女の子イキできるんだ……」
「ん……ふーはっ、はぁー…はぁ……っん、い……ッ
「……、フー……」
 どちらが流した汗なのか、湿っぽく熱い体が触れ合う。葉月は体を石のように固くしてじっと弥生の絶頂が収まるのを待った。そのうちに淫らな震えが落ち着くと、葉月は手を放して素っ気なく出ていった。どんな表情をしているのか見る暇もなかった。
「なんだったんだ……、っん……」
 射精したのに悩ましい感覚が下半身に残ってじんとする。
 危機感を覚えた。行為の最中に少し意地悪をされただけで弥生は盛りのついた犬のように腰をゆすり、恥ずかしい言葉を使って弟にねだった。
 限界が足音を立てて近づいてくる。

◇◇

「俺、家を出て働くことにしたから」
「……何言ってるの?」
 休日の昼間、両親が出かけたタイミングを見計らって切り出した。
 葉月は一瞬驚いた顔をして、次に諭すようにやけにはっきりした喋り方で言った。
「新しい仕事に就くことにしたの? 家から通えばいいだろ」
「それは無理。ここからは遠すぎる。だって岡山だし」
「岡山? ……もしかして、叔父さんの会社?」
「うん」
 葉月の理解は早かった。
 母の弟である叔父は岡山で小さな会社を経営している。遠くに住んでいる上忙しくてたまにしか会えない関係だが、気さくで話しやすい人という印象だった。弥生に対して同情的でもなく、腫れ物扱いもしないから。
「なんでいきなりそんな話になったの。仕事内容は? 急に家を離れて暮らしていくなんて無謀すぎるよ」
「叔父さんは俺の体のことも理解してくれてるし、余ってる部屋に住んでいいって。あっちでの生活に慣れたら一人暮らしも考えてる」
 水面下で話を進め、葉月には知られないようにしていた。
「……よく考えて。コネで就職しても続かなかったら迷惑をかけるだけだよ」
「それは、最初は迷惑かけるだろうけど、安い給料から始めてちゃんと努力する。父さんとも一緒に話し合って決めたことだから」
「へえ、父さんとも……じゃあ知らなかったのは俺だけ?」
 声を荒げたわけでもなく、むしろ聞き取りづらい声量だったが、やけに重く響いてゾクっとした。
「よくわからないな。この家と家族から離れる必要がどこにあるの?」
「必要はあるんだよ。俺……お前といい加減離れないと」
 気圧されそうになりながら、今日こそ言いたいことを飲み込むわけにはいかなかった。
 葉月から離れなければいけない。
 両親は葉月と違って引き止めようとはしなかった。
『そうね、そろそろあなたも自立するにはいい頃なんでしょうね。葉月にも葉月の生活があるんだし』
『葉月がお前に気をかけてくれて親としては安心だったが、叔父さんのところも気のいい人ばかりだ、真面目に働けば必ずよくしてくれるだろう』
 明るく聡明で優しい葉月は、私生活を犠牲にしてまで弱い兄の面倒を見てくれている。皆に見えている葉月の一面は間違っていない。それが全てではないというだけで。
 弥生が弟の手を引いて山に入ったせいで葉月は夢を諦め、弥生は後遺症を抱え、家族は変わってしまった。
 葉月は自らのトラウマも薄まらないうちからリハビリに付き合って弥生を励まし、支えながら歩いて、重い荷物は代わりに抱えて持ってくれた。体調を崩して病院行きになった弥生のために学校行事を休んだ。女の子とのデートを中断して見舞いに来たこともあった。
 どう考えても行き過ぎていて、普通の兄弟らしい距離感とは言えない。
「そう……そんなふうに思ってたんだ」
「お前も気が楽になるだろ。俺は俺で頑張っていくから」
「本当に、兄さんは俺がいなくても平気なの?」
 葉月の目が別の色を放った気がして、胸がざわつく。あの行為については考えたくないし、触れないまま話を終わらせたかった。誰にとってもなかったことにしたほうがいいに決まってる。あんな、兄弟の関係を逸脱した異常な―。
「大丈夫だって、今までも言ってきたよね。葉月は俺の体のこと重く考えすぎなんだよ。歩くのは遅くても家と職場の行き来くらい余裕だし、腕だって最近は痙攣も減ったんだよ。無理しなければ日常生活くらい普通に過ごせる」
「仕事で疲れたらどうするの? 俺がしてきた色んなことまで、叔父さんに面倒見てもらうつもり?」
「……っ」
 距離を詰められ及び腰になりかける。
 体の大きさも腕力も弟の方が優れている。取っ組み合いの喧嘩なんてしたことがないけど、もしそうなったとして勝負にならないとやる前から分かっていた。
 葉月の手が突如、弥生の首にかかった。
「俺の手、払ってみて」
「ひっ……うぐ……っ」
「できないよね。俺が悪意を持った他人だったらどうする? ……兄さんに自立はまだ早い。家族に頼るのは悪いことじゃないんだよ。今までだって助け合ってきたじゃないか」
 マウントを取られても弥生はかろうじて頷かなかった。葉月が眉を顰め、指に力が入る。
 息ができないほどじゃない。でも葉月もう少し力を加えたら、なすすべがない。実際にやるわけがないと分かっていても嫌な汗がでる。
 ―どうしてこんなことになってしまったんだろう。
「はぁっ……ぅ、葉月、もういい……。俺のことを心配するのやめていいから」
「よくない。兄さんは―」
「葉月は、俺に罪悪感があったんだろ。あの日からずっと」
 葉月が目を見開いた。その目が、記憶の中の小さかった弟と重なる。

『お兄ちゃん見て、すごく大きい木だ。僕登ってみたい』
『でも、落ちたら危ないよ』
『落ちないよ! 足かける場所いっぱいあるから平気』
 山の中、夕焼けのオレンジの光がまばらに生えた木の間から差し込んでいた。
『そろそろ戻らないとお母さんに怒られるよ。登るのはまた今度にしよう。お腹もすいただろ』
『まだ明るいからいいでしょ。お願いお兄ちゃん』
『……どうしたの? 葉月は戻りたくないの?』
『そうじゃないけど、戻ったら……』
 葉月が何と言ったのか、事細かくは覚えていない。確かそう―親戚の子供のうちの誰かが意地悪で、幼い葉月を侮った態度をとっていた。もっとも重要なのはそこではない。
『誰かにいじめられた? なにかされたか俺に教えて』
『いじめられたんじゃないけど、……』
 葉月は言葉を濁した。誰とでも仲良くできるタイプで、意地悪されることなどないだろうと思ってたから、珍しく歯切れが悪いのが気になった。
 運動も勉強も得意で誰からも愛されてた葉月を羨んだことがないといえば嘘になる。だからって他人から傷つけられるのは許せない。この世に一人しかいない弟なのだから。
『けど?』
『あのひと……お兄ちゃんと遊びたくて、僕を仲間はずれにしようとしたがってるんだよ。僕が小さいから』
『え、そんな……そうかなあ』
 葉月が弥生を見上げた。普段は濃茶の瞳が、夕日に照らされて明るく煌めいた。
『僕はお兄ちゃんと二人がいい』
『ん、わかったけど、でも今日はもう戻ろう』
『もっとここにいたい』
 いつになく葉月はわがままだった。でも弥生は正直なところ、親に怒られることが心配だった。
 両親は葉月を大事にしている。葉月にかすり傷でも負わせたら後が怖い。
『わがまま言ったらお母さんが心配するよ』
『……』
『あっ、待ってよ葉月!』
 葉月はうつむいたまま応じず、大きな木の方へ駆け出してしまった。弥生は慌てて追いかけたけど、すでに葉月のほうがずっと足が速かった。
 お腹は空いたし足には草むらで擦り傷ができていて、弥生はとっくに遊び疲れていた。葉月が言うことを聞かなくて、少しうんざりした気分になっていた。
 けれど急に葉月が視界から消えた瞬間、面倒に思う気持ちなど全部が吹き飛んで頭が真っ白になった。
『葉月!』
 大きな木のすぐ奥は、地面が急にえぐり取られたような崖になっていた。かろうじて木の根と岩にしがみついていた葉月の手を、両手で精一杯掴む。
 下を見ると頭がクラクラした。遠くに灰色の岩肌が露出していて、落ちたらただでは済まないと子供の目にも明らかだった。
 必死に引っ張り上げようとしたけど、上手くいかなかった。斜面が急すぎて葉月の体重を預けられる場所がない。子供の力だけではどうにもできずに、どんどん腕が疲れて震えてくる。
『葉月っ……待ってて、上に、ううっ……』
 ―駄目だ、手を離したら葉月が死んでしまう。生まれて初めて死の恐怖を意識した瞬間、葉月が全身で訴えた。
『はなさないで』
『……っ』
 次の瞬間には体が限界を迎え、二人で奈落の底へと落ちた。


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