憑かれた男 2 02 03



どれだけ辛いことがあっても会社には行かなくてはならない。不動湊は一介の平社員であり、必死に働かなくては生きていけないのだ。
そう、たとえ電車の中で男に痴漢行為を働き、他人に見られながらセックスするという世にも恐ろしい経験をした後であっても。
湊はサラリーマンが去っていってから数分後、下半身の違和感に耐えながら俯いて駅を出た。あの痴態を目撃した人間がいるかもしれないと思うと気が気ではなかった。
もうこの路線は二度と使えない。明日からは時間と金を余計にかけて別の地下鉄から通勤しなければならないと思うと憂鬱だった。

『おっ、今度は地下鉄で痴漢プレイ?』

頭の中でふざけた声が聴こえる。
冗談ではない。一分一秒でも早く成仏させなければ。

『好みの相手とたっぷりセックスできたら成仏できるよ多分。はあ〜セックス』

簡単に言うが、簡単とは程遠い。先程のサラリーマンだって、湊から見ても容姿は優れていたというのに。
サトシの眼鏡に適う男を見つけるだけで時間がかかりそうだ。


――――というのは杞憂だった。
駅から会社への道中、サトシは『あれは性格悪そう』『あっちは顔は悪くないけどガタイが貧弱』などとすれ違うを好き勝手品定めしていた。よくもまあそんなに上から目線になれるものだ。
そんな調子でもうすぐ会社に着くというとき、突然サトシの声音が変わった。

『ああっ、あの人、めちゃくちゃかっこいい……!』

湊もすぐその男の存在に気づいた。多くの人が行き交う朝のオフィス街においても彼は抜群に目立っていた。
何を隠そう、古川宏美(ふるかわひろみ)は湊の大学時代の同級生だ。やや色素の薄い髪に甘く整った顔立ち、180センチほどの身長でスタイルがよく、女子からとても人気があった。
同じ大学といってもゼミも違い、当然仲がいい友人のタイプも違っていたのでほとんど話したことはない。
見た目がいい上に社交的で人好きする性格だった古川は、大手企業に早々に就職を決めたと聞く。湊が苦労して入った会社は古川のところとは比べるべくもないが、偶然オフィスが近くにあり以前から時々見かけることがあった。

『超イケメン……絶対彼がいい、激しく抱かれたい……』

サトシはもう古川しか見えていないようだった。滅茶苦茶な男だが、男の好みは普通の女性と変わらず王子様タイプが好きなようだ。
しかし。

「無理」

湊はつい声に出して呟いていた。
何をどう間違えば、古川のような美青年がサトシ――に取り憑かれた湊を抱くというのか。
大体知り合いという時点で論外だ。想像しようとしただけで脳が拒否反応を示す。
それに、一方的な感情ではあるが湊は古川には嫌われたり軽蔑されたくなかった。

まだ大学2年生のころ、一度古川と飲み会の席で一緒になったことがあった。
こういうとき湊は大人しく端のほうで飲んでいるタイプだったが、そのときは席があまりよくなく、周りからいじられていた。

『えーマジで彼女いたことないんだ。じゃああの子とかどう? 好み?』
『いや、俺は本当にそういうのはいいから』
『何で? 彼女もいないとつまらないでしょ。もしかして女じゃなくて男が好きだったりすんのー?』

絡んできたのは、酔うと面倒だから近寄らないに限る、という評判を持つ者たちだった。湊がそれを知ったのは後からだったし、さっさと席を移動するフットワークの軽さも持ち合わせておらず回避できなかったのだ。

『え、不動ってそっち系? 言われてみれば女の子に全然食いつかないもんなあ』
『マジかよー俺狙われちゃってる?』
『ありえない』
『ははっ全否定されてるし。そりゃお前なんかホモでもお断りだろ。狙うとすればほら、古川とかさあ』

目配せにつられてそちらを見ると、ごちゃごちゃと大勢いる人の中でも明らかな存在感を放つ美青年――古川と目が合ってしまった。
古川といえば学部が違っても名前が聞こえてくる有名人だ。目鼻立ちが整った綺麗な顔をしていて、ただイケメンなだけではなく品があるというか、育ちの良さがにじみ出ているのだ。

『何? 俺のこと呼んだ?』
『いやあ不動がさ、実は男が好きなんじゃないかって』
『ち、違うって』
『じゃあ何で彼女いらねーんだよ? 紹介してやるのに』

古川がそのままこちらの席に来て、湊は焦った。
古川に対して好意を抱いているなんて噂にでもなったら堪らない。古川は常に皆の注目を集める存在だから、酒の席の戯れでもどう話が膨らむか分かったものじゃない。

『俺はただ……本当に好きになって結婚したいと思えるような相手とじゃないと付き合いたくないだけだ』

本音をそのまま口に出すと、席が一瞬静まり返った。

『……えー、マジなやつ?』
『リアルでそんなこと言う奴初めて見たわ』
『白馬の王子様待ちの女子かよ。んなこと言ってたら一生彼女できないって』

嘲るような空気になり、湊はうつむく。バカ正直に言わなければよかったと後悔していると。

『いや、俺はいいと思うな、そういうの』
『えー、古川もそんな感じなの?』
『そういえばアホみたいにモテてるのに彼女いないんだよな』
『だって本気で好きじゃないのに付き合っても心から楽しめるとは思えないし、後悔しそうだから』

古川がそんなことを言い出すと、皆が一気に食いついた。

『はー、もったいねえ。あんだけモテてんのに』
『古川がそんなんで彼女作らないから、可愛い子が諦めきれずこっちに回ってこないんだよ』
『お前にはどっちにしろ回ってこないだろ』
『確かにそうだな。ってうるせーよ』

矛先がそれて湊はほっとしていた。古川のほうをちらりと見ると、微笑を返される。
多分かばってくれたのだろう。今まで理解されなかった湊の考えを否定しないどころか賛同してくれて、それが嘘であっても嬉しいと思った。


その日以降は古川と関わることは殆どなかったが、湊は彼に対して良い印象を持ち続けていた。
美人で有名だった帰国子女と付き合いだしたことを噂で聞いたときは、一向に恋人のできる気配のない自分と比べて少し複雑な気分になったが、古川が本気で好きになれた相手ならいいと思った。
今は時々姿を見かける程度でどうしているのか分からない。ただ見目がよく、人に好かれ、性格も穏やかで優しい古川に憧れに近い好感を持っているのは変わってはいなかった。
だから、彼にセックスしてくれという最低な誘いをかけることなんて絶対したくない。ましてやあんな――酷い姿を見られるだなんて悪夢だ。
しかしそんな湊の気持ちとは裏腹に、サトシは止まらなかった。体を操られ勝手に古川の方へと近づかされる。

「あのっ……」

声をかけてしまった。サトシは柄にもなく緊張しているようだ。

「――不動?」
「ひっ、久しぶり」

古川は一瞬驚いたような顔をして、その後微笑んだ。名前を覚えられていたのが意外だ。

「久しぶり。どうしたの?」
「話したくて……迷惑だったかな」
「まさか。会社この辺なんだよね? 俺も時々見かけて声かけようか迷ってたけど、不動はこっち見ないしもう忘れられてるかなって躊躇ってたんだ」
「忘れるわけないよ、古川みたいな人」

古川は相変わらず眩しいくらいの好青年だ。今も女性の視線を集めているのが分かる。
湊――の中のサトシは舞い上がり、ドキドキしながら誘いの言葉をかけた。

「あの、よかったら久しぶりに飲みに行かない?」

◆◇

約束はトントン拍子に取り付けることができた。たまたま今夜大丈夫だと言われ、その日のうちに飲むことになったのだ。
少し話したことがある程度の仲だというのに、付き合いのいいことだ。
サトシは頭に花が咲いたみたいに狂喜し、湊は憂鬱に沈んでいた。

「ごめん、少し仕事が長引いて。待たせたよね」
「いや、俺も今来たところだから」

まるで恋人同士のようなやりとりに気まずい思いをしながら、二人で居酒屋に入った。

「本当に話すのは久しぶりだね。顔は時々見てたから不思議な感じ」
「うん、付き合ってくれてありがとう」

半個室で酒を飲みながら、まずはお互いの近況を話した。
冷凍食品を扱う会社で働く湊と、大手のインフラ系企業で働く古川とでは色々なことが違っていたが、古川は決して退屈そうな顔はしなかった。
古川に触りたくて悶々としているサトシを何とか押さえつけ、それなりにまともに話すことができた。

「不動、あそこで働いてたんだ。俺も時々冷凍食品食べてるよ。お世話になってます」
「ええ? 嘘だろ、もっといいもの食べてるのかと」
「いやいや、美味しいよ、かなり開発に力入れてるんだろうなって分かる。俺料理苦手だから結構頼っちゃうんだよね」
「古川にも苦手なものがあるんだ……」

社交辞令かもしれないが意外な一面を知った。他愛もない雑談で酒が進み、古川が帰国子女の彼女と別れていたことも知った。
古川のような男でも唯一無二の相手を見つけるのは難しかったのだろう。どこか切ないような、ほっとしたような気持ちになった。
そして終電の時間が近づき。

「うう……酔った……」
「大丈夫?」

3時間が経ったころ、湊はまともに立てないほど酔っ払っていた。

「不動の家、ここから近いんだよね? タクシーで送るから待ってて」

そう、これこそサトシの作戦だった。
「いい居酒屋がある」と湊の部屋に程近い店を指定し、終電間際にベロベロに酔っ払って送らせるよう仕向け、家に連れ込む。
性欲にまみれた酷い計画だったが、これまた上手くいってしまった。

「鍵出せる?」
「うん……」

優しい古川は湊を放ってはおかず、サトシの思惑通り部屋まで送ってくれた。


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