見つめる男 02



三好修司(みよししゅうじ)には、焦がれて止まない女性がいる。

(ああ、晴香さん……今いったい何をしているんだろう)

すっかり日が落ちて、街灯の白い光が道を灯す閑静な住宅街。
電柱の影から、白を基調とした一軒家を見上げ、修司はうっとりとため息を吐いた。
ここには世界で一番愛しい人が住んでいる。
彼女と出会った――否、再会できたのは運命であると、修司は信じていた。

もう10年近く前のことだ。
当時中学に上がったばかりだった修司は、ある日街でヤンキー崩れに絡また。いかにもガリ勉でヒョロい修司はいいカモに見えたことだろう。
まさに財布をとられるというその時、助けてくれたのが晴香だったのだ。

『何してんの。ケーサツ呼ぼうか?』

彼女は颯爽と現れ、天使のような声と綺麗な顔立ちに似合わぬ毅然とした態度で言い放った。
そして美少女の登場に色めきたつ不良たちを、あっという間にのしてしまったのだ。
まるで変身美少女もののヒロインのように、格好よく。
呆然とする修司に彼女は手を差し伸べ、

『大丈夫? 男ならもっとしっかりしなよ』

と言ってくれた。
修司が一瞬で恋に落ちた瞬間だった。
そのときは男子が女子に助けられてしまった羞恥心や、初恋で相手の顔が見られないほどパニックになっていたせいで、ろくに礼も言えず逃げるように走り去ってしまった。
家に帰って息を整えながら、名前を知りたい、探し出そう、と決意したのもつかの間。
運命とは残酷なもので、その直後父親の転勤に伴う引越しが決まり、二人は引き裂かれてしまったのだった。

そんな彼女と再会できたのは、半年ほど前のこと。
修司は東京の大学に進学し、あの日彼女と出会った街で一人暮らしを始めていた。
いつか会える、そんな期待を抱いてのことだったが、手がかりという手がかりはなく諦めかけていたとき、バイト先のレストランに彼女がやって来たのだ。
少女から大人の女性にすっかり変わっていても、すぐに分かった。
小作りな卵型の輪郭におさまった綺麗な二重に、口角の少し上がった形のいい唇。
当時は男の子でも通るほどボーイッシュな雰囲気だったが、今は髪も伸びカジュアルながら女らしさもある服装で、それがこの上なく似合っている。
想いは一気に再燃して、膨れ上がった。
話しかけたい。名前を聞きたい。
彼女が食事している間中タイミングを図っていたものの中々決心がつかず、結局。
無理を言ってバイトを早めにあがり、修司は彼女をつけ、家と姓を知った。
ストーカー生活の始まりである。

それから修司は彼女について必死に調べた。
フルネームは雨宮晴香、20歳で修司より一学年上の女子大生で、両親と弟との4人暮らし。
生まれた頃からずっとここに住んでいることも分かり、あのときの彼女イコール雨宮晴香であると確信をより深めた。
もっともっと、晴香のことを知りたい。
とにかくいつか話しかけようと、後をつけ、大学の周りをうろつき、バイト先もつきとめ――。
……修司とて頭がお花畑なわけではない。『これは世間一般的にストーカーと呼ばれる行為である』と、割と早い段階で自覚はしていた。
しかし、初恋に燃え上がった修司にとって、晴香の姿を見ることは何よりの至福であり、どうしてもやめられない時間になっていた。
要するに、いけない道にすっかりハマってしまったのである。

(ああ晴香さん、きっと部屋着もオシャレなんだろうな。もう遅いから、可愛いパジャマかもしれない。いや、もしかしたらちょっとエロい感じの……)

「おい」
「はぁっ、好きだ……」
「……」
「意外と裸族だったり……いやまさか…っうわっ」

空想にふけっていたところを、突如背後から衝撃が襲い、修司は前のめりに倒れた。
反射的に振り向いて、にやけ面が一気にひきつる。

「またお前か。今度家の前で怪しい行動したら通報するって言ったよな?」

修司を蹴り飛ばした足が未だにこちらに向けられていて、今にも踏みつけてきそうで、修司は慌てて後ずさった。
威圧的にこちらを見下す男の名は、雨宮薫(あめみやかおる)。
他でもない、晴香の実弟だ。
名前は可愛らしいが見た目はかなりの男前で、短めの黒髪にセルフレームの眼鏡が嫌味なほど似合っており、モデルがやれそうなほど長身でスタイルもいい。
晴香とは年子、つまり修司と同い年。それなりに遊んでいそうなくせに、がり勉と言われるほど必死に勉強した修司と同レベルのいい大学に通っている、要するに修司とは相容れないタイプの男だ。
実際これまでにも2、3回、晴香の部屋を見つめているとき不審者として話しかけられていて、正直苦手というか晴香ウォッチングの最大の障害になっている。

「いやっ、誤解だ。今はそう、ジョギング中! ……ジョギング中なわけで、さ、さようなら!」
「おい、」

修司はそそくさと目を逸らし、一目散に逃げ出した。
残念なことに不審者なのは事実なので、こういうときは逃げるしかないのだ。
薫は毎回追ってまではこない。
見ているだけで何もできない軟弱な男だと、たかをくくっているのかもしれない。
確かに今まではそうだった。だが今日は、これまでとは少し違うのだ。
期待と興奮と不安で、家に着いても走り続けているかのように胸の高鳴りは治まらなかった。

それから数日後の夜、修司は性懲りもなく同じ電柱の影に立っていた。
カーテンの色柄から晴香の部屋のものと見当をつけた窓を一心に見つめ、胸を高鳴らせる。

(晴香さん、好きだ……手紙は読んでくれただろうか。俺が書いたものをあなたが触るところを想像しただけで……もう死んじゃいそう)

あの日薫に見つかる前、決死の思いで晴香宛の手紙を投函したのだ。
昔助けられたことから始まって、どれだけ自分が晴香を愛しているかを綴ったものだった。
晴香はきっと昔のことなど覚えていないだろうが、それでいいのだ。修司にとって彼女はスーパーヒロインのような存在で、人助けなど日常茶飯事、むしろ日課のようなものだろうと思っていたから。
多くは望むまい。ただ自分のたぎる想いを知ってほしいのだ。
それで、あわよくば彼女の印象に残って、あわよくば好意を持ってくれて、あわよくば話しかけられて、あわよくば……デートを……

「いやっ、恥ずかしいっ」
「何が恥ずかしいんだ?」
「のわっ」

急に話しかけられて、背中が大げさなほどびくりと震えた。
薫かと思って恐る恐る伺うと、彼とは別の、しかし見たことのある顔がそこにあった。

「お前、この間も……。んなとこで何やってんだ?」
「いやその、えっと……」

長身で筋肉のついた体躯に、やや彫りの深いワイルドな顔立ち。
見た目だけで気圧されてしまう男は、やっかいなことに警察の人間で、数週間前に職質されたことがあった。
それも制服を着たおまわりではなく、若いのに警部というそれなりの肩書きを持った警視庁の優秀な刑事であり、何故治安が良さそうな住宅地で複数回会うのかと言えば、この辺に住んでいるかららしい。
あくまで自称だが、警察手帳を見せられたことはあるので、詐称しているわけではないだろう。
――薫だ。きっと薫が通報したのだと、背中を冷や汗が伝う。

「すみません、もう帰りますんで!」
「ちょっと待て。そういえば最近、このあたりを不審な若い男がうろついているって話があったな。お前のことか?」
「いえ、まったく身に覚えがありません!」
「……」

慌てて全力で否定したが、刑事がそんな言葉をやすやすと信じてくれるはずもなく。案の定非常に疑わしげな目で凝視される。
まずい。折角決死の想いで手紙を出したというのに、不審者として連行されたらもう彼女に近づけなくなってしまうかもしれない。
あなたのストーカーを捕まえました、なんて伝わったら、間違いなく嫌われる。

『ストーカーなんて怖い……。大嫌い!』
『気持ち悪い。最低』

少し想像しただけでどうしようもなく悲しくなって、鼻の奥がツーンとしてきた。
晴香にそんなことを言われたら、この世の終わりだ。

「うっ……」
「お、おい?」

いきなり涙ぐむ修司に、刑事は少し慌てたように覗き込んできた。

「お、おれはただ、あの人を見ていたいだけでっ…ひっ…」
「ああ、要するにあれか? あの家に好きな奴が住んでるが、直接接触する勇気がなくてうろついていたと」

どん底の気分で、みっともなくしゃくり上げながらうったえると、刑事もすっかり察したらしい。

「若いから暴走する気持ちは分からなくもないがなあ。それはストーカーと呼ばれても仕方ない行為だと分かるよな?」
「は、はい……」
「……まあ、とりあえず移動しないか。何、いきなり署に連れてったりはしねえよ。家を見てただけで、迷惑行為はしてないんだろ」

刑事は向かい合って両腕を掴むと、諭すように目線を合わせて言った。
根拠はないが、嘘を吐いてはいないと感じて、修司は頷いた。
いつまでもここにいたら、警察につかまって泣いているところを晴香に見られてしまうかもしれない。そんなの格好悪すぎる。

「よし、じゃあ行くぞ」
「はい、すみません……」

背中に手を置かれて促され、白い家に背を向けたとき。
いきなり強い力で片腕を引っ張られ、足を踏み出しそこねた。

「えっ?」

驚いた。薫が珍しく息を少し切らせて――やけに険しい表情で修司の腕を掴んでいたのだ。

「ん? 何だお前」
「それはこっちのセリフです。彼に何か用ですか。俺の友達なんですが」
「は? っ…」

いきなり何を言い出すのかと胡乱げな声を出すと、刑事に見えない角度から足を蹴られた。
痛い。どうやら黙っていろということらしい。
てっきり薫が通報したものだと思っていたが、違うのだろうか。

「友達、ねえ」
「ええそうです。家に遊びに来る約束をしていたのですが、俺が遅くなってしまった上に今日は他の家族がいなくて。そこで待っていてもらっていたんです。というわけで、失礼します」
「え、ちょっとっ」

話は終わりとばかりに刑事に礼をすると、薫は有無を言わせぬ強い力で修司を家に引っ張り込んだ。
急展開についていけず、修司はされるがままだった。

「お前、何してたんだ?」
「なにって、それは……」

玄関に入って鍵を閉めると、靴も脱がないまま薫が詰問してきた。
何故連れてこられたのか、考えてもよく分からない。
ただ、ここが紛れもなく晴香が生活している家の中であるのは確かで、そわそわと落ち着かない気分になる。

「ごっご家族は」
「誰もいねえよ。今日は帰ってこない」
「そう……」

ほっとしたような残念なような、複雑な気分で、修司はため息を吐いた。
すると薫がいきなり苛立ったように壁を殴って、修司を睨み付けてきた。

「このストーカーが。……こんなものまで寄越して」
「あっ、そ、それ!」

薫が掲げて見せたのは、小花のワンポイントが入った可愛らしい封筒。
紛れもなく、修司が晴香に宛てたものだった。
何故薫がこれを持っているのだろう。嫌な予感しかせず、さあっと血の気が引いていく。

「それ、なんでお前が……そんな殺生な」
「いかにも怪しげだから調べた。何がずっと好きでした、だ。勘違い野郎」
「ひ、ひどっ…」

晴香への愛を綴ったものをこの男に見られて、馬鹿にされて。
脳みそが沸騰しそうなほど悔しくて文句を言ってやりたいのに、薫の凄みに圧倒されて言葉につまる。
今までも散々見下されてはきたが、こんな剣幕は初めてだ。
手紙という手段で接触を計ったことが、そんなに逆鱗に触れたのだろうか。
何故か警察に突き出されることはなかったが、どの道今は逃げたほうがよさそうだ。

「……すみません、もう手紙は出しません。失礼します」
「待て」

その場限りの言葉で出て行こうとするもそう上手くはいかず、再び薫に腕を掴まれた。

「な、なんですか」
「――今逃げたら、姉貴に全部話すよ。ずっと家の周りをうろうろしてるストーカーがお前で、変な手紙まで寄越してきたって」
「そ、んな」

そんなことをされたら、今度こそ全てが終わってしまう。
顔面蒼白になって、修司はすがるように薫を見上げた。

「お願いです、それだけは勘弁してください。どうすれば……」

至近距離で視線が合うと、こんな切羽詰った状況であるのに、薫の中に晴香の面影が見えてしまった。
それどころじゃない、どうにか切り抜けなくては、だけどやはり似ている――と頭の中はごちゃごちゃになって、薫の動きには意識がいかなかった。
だから痛みを感じて初めて、首筋に噛み付かれていることを認識した。

「いっ!? なにっ……」

食い殺される――一瞬本気でそう思った。
とにかく逃れようと手足を動かしたが、予想外に強い力であっさりと拘束されてしまう。

「暴れるなよ……姉貴に知られてもいいのか」
「ひっ……ぅっ…」

痛みが引いたかと思うと、今度は濡れた舌でねっとりと舐められ、肌があわ立つ。
一体、どういうつもりなのだろう。嫌がらせか、忠告を無視したことへの制裁なのか。
それにしてもこんなのはおかしい。

「やめっ…んっ、ぁっ」

制止の声など全く届いていないようで、今度は耳朶を吸われ、耳の穴に舌を差し入れられた。
ぞくぞくするような感覚に、自分でも驚くような甘ったるい声が出て、かあっと頬が熱くなる。
すると薫の吐息が耳にかかり、それにすら感じ入ってしまう。

「……行くぞ」
「えっ、ちょっと……っ」

怒ったような声で告げたかと思うと、薫はまだ靴も脱いでいない修司を担ぎ上げた。
いつ放り投げられるのかと暴れることもできず運ばれた先は、モデルルームのように洗練されたリビングだった。
何のつもりなのか確かめる暇もなく、大きなソファーに体を投げられ、薫がのしかかってくる。

「何!? ちょっと待てってっ、」
「うるさいな……いい加減分かれよ。お前に拒否権があると思う?」
「……っ」

容赦のない言葉に、修司は凍りついた。
薫は何か、とんでもないことをする気らしい。
今すぐに逃げ出したい。でももし逃げたら、全てを晴香に知らされてしまう。きっとこの男はやると言ったらやるだろう。
絶望的な状況に呆然としていると、薫が突然陰部に触れてきた。

「ひゃっ…! ぁっ、なんでっ…」
「……」

ジーンズの上からやわやわと揉まれ、じんわりとした快感がわいてくる。
薫は怖い顔をしていて、泣きたい気分になった。
――薫はきっと、性的な意味で修司を辱めるつもりなのだ。男にとっては暴力を振るわれるよりずっと屈辱で、絶対に他人には言えないようなことを。
晴香に二度と会えなくなるか、辱めを受けるか――究極の選択だったが、迷うことはなかった。

「待って、ここじゃ、いやだ」
「……何?」
「……お、お前の、部屋がいい……」

言ってから、これではまるで女の子の恥じらいの言葉みたいだと気づき、顔がかっと熱くなる。
薫はおもむろに手を伸ばすと、赤くなった頬に触れてきた。一瞬殴られるのかと緊張したが、思いの外優しく撫でてきて、口を開いた。

「俺の部屋で、したい……?」

少し掠れた声は甘い囁きのようで、やけに色気があった。
戸惑いながらも、修司はうんうんと必死で肯く。

「だって、晴香さんも使ってる場所だし、もし晴香さんが帰ってきたら……ひあ゛ぁっ」

優しげでさえあった薫が、突然強くペニスを握ってきた。
鋭い刺激で全身が硬直し、どっと冷や汗が溢れだす。

「うるさいんだよ、お前」
「ごめんっ……ぅ」

薫は乱暴に修司のベルトを引き抜くと、修司を後ろ手で拘束した。
晴香の名を出したことが逆鱗に触れたらしい。後悔してももう遅く、本格的に逃げ場のない状況に修司は身を震わせる。
薫はそのまま一旦離れると、何かを手に戻ってきた。
それがハンディータイプの電気マッサージ機だと認識して、修司は瞠目する。
本来の用途は名前の通りマッサージだが、AVのイメージがあるものだったから。

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