初めての自由恋愛改 02 03




朝起きて顔を洗おうと前かがみになって、腰がずきりと痛んだ。脈を打つような痛みに覚えはある。
――またシュウとセックスしてしまった。
次に会ったら文句を言って、不均等で不毛な関係を終わらせようと心に決めていた。
だけど近くに寄られて、あの目で見据えられ、あの口で声をかけられたら、どうも決意が鈍ってしまう。体が反応して脳まで侵し、「もう嫌だ」とは言えなくなる。

『あ……』
『――あーもういいや。ナオもしたいよね? 行こう』

シュウも最初は別の目的があったのかもしれないが、すぐに熱を湛えた目で直哉を誘った。
あんな蠱惑的な顔をされて断れるほど直哉は人間ができていなかった。結局すぐにホテルに行き、淫らな行為の限りを尽くしたのだった。

「はぁ……、ん……」

触れられた場所が記憶を呼び起こす。優しく撫でられただけの皮膚から、性器を何度も激しく出し入れされた場所まで、少しも忘れておらず思い出して疼く。腰の痛みよりずっと気を取られてる。
気持ちよかった。痛みや不快感は殆ど存在しない。シュウが気持ちいいことしかしないとどこかで分かっている。だから体が強張ったりせず、全身で最大の快感を享受していた。
苦手なタイプの相手だったはずなのに。シュウも気持ちよさそうに射精したからきっとまた誘われる。次もあるということだ。

「……ないない、次なんて」

朝からじんと熱を持つ体を抱え、シュウのことを考えていた自分に愕然とする。
予防線を張りたかった。いずれシュウが飽きたときに
『やっぱりね。俺は分かってた。これで解放された』
とすっきりするか
『なんで? 俺のどこが嫌になった? もうできないの?』
と捨てられた気分になるかでは雲泥の差だ。
直哉は一度恋人に惨めな捨てられ方をした。二度とあんな思いはごめんだ。

(でも、気持ちいいことをするだけなら……。俺だって性欲処理はしたいし)

思考が右往左往する。何にせよ、前日にシュウに抱かれた直哉は、不本意な行為をされたにしては随分な浮つきぶりで大学に向かった。

◇◇

「なあなあ、美環さんが最近大学来ないの、なんでだか知ってる?」
「さあ、誰だっけ」

講義室に入ると梅田がすぐに寄ってきて噂話を持ちかける。相変わらず馴れ馴れしい男だ。

「えー、文学部のアイドルだよ? お前も可愛いって言ってたじゃん」
「覚えてない」

あいにく今の直哉は、仲良くできるわけでもない美人に思いを馳せる精神的余裕はない。梅田はそっけない態度にもめげず顔を近づけて内緒話の姿勢になったので、悪い種類のゴシップなのだと察した。

「あの子ホストにハマっちゃったんだって」
「……」
「最初は仕送りと昼のバイト代を注ぎ込んで、全然足りなくて夜の店で働き始めて、大学どころじゃなくなったらしいよ」

特定の単語にびくりとして、ペットボトルで飲みかけた水を噴き出しそうになる。

「怖いよな、あんなに可愛いくて育ちも良さそうな子でも、ホストなんかにハマったら骨の髄までしゃぶりつくされるんだから。仲よかった子が説得しようとしても全然聞かないの」
「……言いふらすのもどうなの。性格よくないよ」
「あーお前は真面目だなあ。そういうとこ嫌いじゃないよ。俺の性格が悪いのは今更だろ。それに俺が言わなくてもとっくに話広がってるし。ってか本人がSNSにあげてて隠す気ないんだよ。愛する推しに全てを捧げる私を見て! って感じで」
「……」
「ホストって頭どうなってんだろ。俺ならあんな美人に好かれたら即好きになっちゃう。で店辞めて真面目に付き合うのになー。あ、俺にホストが無理とか言うなよ、仮定の話だから」

梅田は心配しているようで面白がっているようでもある。どちらにしろ他人事だ。
直哉はとても他人事とは思えなかった。せめて動揺を悟られまいと表情を作る。

「……そういう人種なんだよ。客を好きになったら商売にならない」
「まーね。でも風俗に落とすレベルのやつはドン引きするわ。自分のこと好きな子に対して容赦なさすぎて」

梅田はよほど物申したいのか止まらない。美環という女子に対する言葉の流れ弾が続々と着弾して、心を抉られていく。

「――何の話してんの?」
「イケメンホスト死ねって話。……あ、恭平」

突然声をかけられ朝から気分が悪い。忘れもしない、直哉の彼女を寝取った男だ。
どの面下げて話しかけてくるのだろうと言いたい相手は、至って涼しい顔をしている。

「おはよう直哉、梅田」
「おはよー。恭平はもう知ってるよな」
「ホストっていえばあの子? 俺相互フォロワーだから勝手に流れてくるよ。清楚系だったのに別人レベルに変わったよね」

恭平は女子の知り合いが多い。
寝取っておいて直哉の元カノと付き合ってはおらず、他の女の子と遊んでいる様子だ。
さすがに直哉も元カノへの恋心はすっかり冷めた。今は友情を裏切られた憤りのほうがずっと大きい。
ただ、悔しくて夜も眠れないような恨みは随分萎んだ。

「直哉は挨拶してくれないの?」
「……」
「嫌がってるなら絡むなよ。お前嫌われて当然だぞ」
「だからごめんって何度も言ったよ。ほんと、今はやる前にちゃんと友達の彼女じゃないか確認してるし」

久しぶりに、恭平を見てこれほど不穏な気分になった。
シュウと出会ってからは恭平を恨むどころではなかったし、それに、心のどこかで思っていた。
『恭平は彼女といい思いをしたかもしれないけど、俺がシュウと知った快感のほうが遥かに衝撃的で、だからお前が俺につけた傷なんて大したものじゃないんだ』
――と。

「……う……」
「どしたの頭抱えて、直哉頭痛持ちだっけ? ロキソニンあげようか?」
「いやお前が話しかけたからでしょ」

直哉は密かに自分を恥じた。
無意識に、シュウを使って内心で恭平にマウントを取り返して溜飲を下げていた。シュウは自分のものでもなんでもないのに。

「まだ俺を許せない感じ? つーかこの前一緒にいた男こそホストっぽかったけど誰あれ。ああいうのと付き合うの絶対よくないよ」
「直哉にホストの知り合いなんていないだろー。あ、恭平はホストに向いてそう。顔も性格も」
「それって褒めてる?」
「……」

勝手な恭平に返す言葉もない。
そう、シュウは売れっ子の出張ホストだ。客を好きになったりしない。
もしかしたら自分だけは特別かもしれない――とは、多くの客が思うこと。そういう甘い態度を与えて金をとるから当然なのだ。
これは自由恋愛だ、というのも、多くの客に使われた方便に違いない。気づくのが遅い。というより薄々気づいていて深く考えないようにしていたというのが正確だろう。
直哉が金を支払ったのは最初の時だけで、今は金銭を要求されないしむしろホテル代や食事代などはあちらが払っている。
直哉は平凡な家庭の大学生であり夜の仕事で稼げるわけでもないので、搾っても搾っても金が出てくることはない。
だから客ではなく個人として気に入られたのだ、という考えは甘すぎる。相手は売れっ子のホストだ。

「あ、講義始まる。隣座っていい?」
「い……嫌だ」
「嫌だってさ。ほら、待ってる女の子のところ行けよ」
「残念。直哉、今度また二人で話させて。ご飯奢るから」

恭平が耳打ちして女の子が待つ席に去っていく。実際彼はホストに向いていそうだ。シュウには及ばないだろうけど。
それより、直哉はショックだった。
ホストの甘い態度には必ず裏があり、好きになっても客を好きになってはくれない。それを再度認識して、ショックを受ける自分にショックを受けた。つまりそういうことなのだ。

◇◇

もう会わない。断固として決意すると少しだけ気が楽になった。
今までがフワフワしすぎていたのだ。会いに来られると怯えながら内心何かを期待して、嫌なだけじゃない感情に気づいているくせに嫌がる態度をとって、そのくせ完全には拒絶せず、クラゲみたいに流されるがまま主体性を失っていた。シュウにされるがままになっても自業自得だ。

「何かの間違いだったんだ、全部」

そもそもが誤ちから始まった関係だった。
梅田から嘘のデリヘルの番号を渡された。最悪な20の誕生日にヤケを起こして電話した。男が来たのに家に入れた。惨めな自分を吐露したら何故か慰められる流れになった。どこかが違えば直哉は変わらないままでいられた。きっと元カノを引きずって、恭平を心底恨み続けて――どちらにしろろくでもない。
ただ、今みたいにホストのことを考えて、触れられた部分が熱くなるようなことはなかった。こちらのほうが長く引きずる。いつの日か忘れられたとしても変えられた体は元通りにはならない。

「あ、……」

過敏になった体の一部が嫌でも思い出す。じんじん疼いて、触れられたい欲が一日ごとに増していく。
オナニーの仕方まで変わった。AVを見て性器を扱くだけだったのが、目を閉じて乳首を指で弄って、いつしかあの男の声と手を想像していた。
今日もそうしたい欲望を我慢してスマホを睨む。
シュウの連絡先に、また会いたいと送りたくなる自分が忌々しく存在する。

『もう会わないほうがいいと決めた。今までありがとうございました』

ありがとうは変かと思いつつ、憎まれ口を叩くのも後味が悪い。送った後に連絡先を削除し、ブロックした。指がうまく動いてくれず時間がかかった。

◇◇

「直哉、来週末ヒマだったら海行かない?」
「海? 俺泳ぎ得意じゃないよ」
「馬鹿正直に泳がなくたっていいんだよ。女の子と出会いたい季節じゃん、そろそろさ」

ブロックしてから数日。直哉はできる限り元の生活に戻ろうと努めた。
誰かと遊ぶ日を増やした。元の友達ともほどほどに付き合いつつ、もっと理性的なグループとも話せるようになった。人間関係の傷を癒やすには別の人間関係で紛らわすのがいい。
梅田の提案には迷う。彼女を作りたいと意欲を持つべきだ。それが以前の直哉に戻るということだから。

「他に誰が行くの?」
「ケイスケとヤマと、あと誰だったかな。彼女がいない寂しいメンバーの集まりだよ」
「そんなやつらが集まってナンパ成功する見込みある……?」
「ネガってたら成功するもんもしなくなるよ? 直哉も彼女ほしいよな。最近あの子見かけても全然反応しなくなったじゃん。あっちは気にかけてほしそうにチラチラ見てたのに。意外と吹っ切れるの早くて安心したよ」

梅田の言う通り、元カノのことは気にならなくなった。まだ傷は残っているはずだが、彼女に気を取られる脳のリソースが残っていない。

「まあ上手くいかなくても遊んで帰ったらいいか」
「お、行く気になった? じゃ予定空けといて。あそうだ、恭平も来るんだった」
「……そういうのは先に言ってよ」
「まーそろそろ許してやったら? あいつが女癖悪いのは前からずっとだし、ホントにお前の彼女だって知らなかったみたいだよ」

直哉は顔を顰めた。梅田は共通の友人として仲介を試みているようだ。
気持ちは分からなくもない。女癖の悪さにだけ目を瞑れば、明るく話し上手でリーダーシップもあり、友達としては楽しい男だ。その女癖の犠牲になった身からすると簡単には割り切れない。

「あいつ勝ち誇った顔して煽ってきたんだよ。後から謝られたけど、本心は最初に見せた顔だ」
「でもあいつわざわざお前の好きなもの聞いてきたり、俺に仲介頼んできたり、結構仲直りに必死だよ。ホントの友達だと思ってなければ切り捨てるだけだろ?」
「うーん、そうかなあ」
「それに恭平がいたら絶対ナンパの成功率上がるし!」
「ほぼそれ目的だろ」

恭平を許す。そうしたらまた一歩、元の生活に近づくかもしれない。元のように二人で遊んだりはせず、広く浅い友達の一人としてなら考慮の余地がある。

◇◇

海はいい。どこまでも青くて怖いほど広くて、みんな水着で開放的になり、思い切り泳いだらきっと気持ちいい。
迷った末承諾した程度だったものの、想像したら楽しみになってきて、直哉は帰りの足で水着を買いに走った。泳ぐのは水泳の授業以来で一つも持っていなかった。

「水着をお探しですか。これとかどうですか? 定番の形で人気あるんですよ」
「はあ、ちょっと色々見てみます」
「かしこまりましたー。何かありましたらお声掛けください」

いかにも海に通っていそうな小麦色肌の陽気な店員に声をかけられ、びびりながら商品を眺める。
どういう基準で選べばいいのかさっぱりわからない。それに意外と高くて、次から次に値札をめくって見る。小さい面積の生地しか使っていないし形もパンツとほぼ同じなのに、ぼったくりなのではないか。

「何を探してるの?」
「海に行くための水着です。シンプルで、予算的に安い方がよくて」
「へー海。楽しそうだね」
「はあ……あ……?」

てっきり別の店員がセールストークしにきたのかと思った。
水着から横に視線を移して、時が止まった。随分聞き慣れたはずが、温度のない声だったので気づけなかった。表情もまた、本心を悟らせない酷薄な笑みを浮かべていてぞっとする。

「こんなところで会うなんてな。どうやって捕まえるか考えてたのに」
「……、俺、もう会わないって」
「同意してないし。一方的な契約破棄は無効だって知らない? 学生だから仕方ないか」
「そんな、……あ、近付かないで、ください」

目を逸らしても遅い。いくら気を紛らわせようと勉強を頑張っても、友達と遊んでも、バイトに励んでも――、目の前にすると一瞬でシュウへの気持ちが全身を支配した。全然忘れられていなかったと痛感するはめになる。

「近づくな? 俺に言ってる?」
「決めたんです。俺はもう、変な関係は終わらせないと前に進めないから」
「変な関係って、エッチな関係の間違いじゃないの。ナオがねだるから気持ちいいところいっぱいにしてあげたのに――」
「そ、そんな話、こんなところで」
「そうだね。誰にも聞かれない場所に行かないと」

ついて行ってはいけない。あれほど関係を断ち切ると決めた。

(シュウがいる。あー、こんな背が高かったっけ。顔笑ってるのに、見下してくる目が怖くて、かっこいい……。いやいやいや、拒否しなきゃ。でも、こんな人の多いショッピングモールで話すのは論外だから、ちょっと、人がいない場所に行かないと)

直哉は見事に流された。
言い訳をすると、自分から会いに行くほどの勇気はなかったから、目の前に現れさえしなければいずれはどうにかなったはずなのだ。
近くに来てしまうと、勝手に熱を持って、頭で拒否しようという気持ちと屈服したくなる気持ちが際どい場所にあって、思考を鈍らせる。

「ナオ、逃げようとしないでね。……逃さないから」
「あっ……、」

ダッシュして物理的に離れてしまおうと企んだ直哉を見通したかのように囁かれ、足が竦んだ。
さすがにホテルなどに入るわけにはいかない。警戒しながらしばらく歩いて、怪しい雰囲気の場所に近づくことはなかった。
むしろ閑静な住宅街に近い通りに、その建物はあった。

「ここは……」
「俺が物置に使ってる部屋。入って?」

物置にしては随分綺麗で広いし、物も言うほどない。経済的に相当余裕があるのだなと想像して、胸がバクバクしてくる。
いくら閑静なエリアだろうがホテルでも住居でもなかろうが、密室なのは同じだ。
部屋の前に立つ頃には気づいていながら、シュウに促されるがまま入ってしまった。


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