初めてのデリヘル 02 03



時計の短針と長針が一番上で重なり、通り過ぎていく。服部直哉にとって今日という日はそれなりに特別だったが、気分は最悪としか言いようがなかった。

「あ〜〜………酒がまずい……」

数時間前、直哉は彼女と別れた。希望など持ちようがないほど完膚なきまでに振られた。
間の悪いことに誕生日の前日のことだった。数週間前には記念日だから一緒にお祝いしようねと言ってくれていたのに。
そしてつい先ほど日付が変わり、直哉はめでたく20歳を迎えたのだった。一生に一度だけの未成年から成人になる日。堂々と酒が飲めるようになって初めて飲む酒は完全なるやけ酒になった。
手頃に買える割にやたら度数の高いチューハイは美味しくはなくて、無理やり喉に流し込む。悪酔いすると分かってはいても飲まなければやっていられない。
とにもかくにも振られ方が最悪だった。思い出すだけで頭を抱えて叫び出したくなるくらいに。
もう元カノと呼ぶべきその子は、直哉が大学に入って初めてできた彼女だった。
可愛くて明るくて、自分にはもったいないくらいの相手だと思っていた。必死に喜ばせようと頑張ってきたつもりだ。だけど今思うと空回りしていただけなのかもしれない。

『なんかさー、やっぱり違うかなって』
『なんで? 優しくていい人そうじゃん』
『いい人はいい人なんだけど』

大学の一角でそんな会話を聞いてしまったのは全くの偶然だった。立ち聞きするのはほんの少し後ろめたかったが、誰が通るとも分からない場所で残酷な話をするほうが悪いと言いたい。

『直哉くんって彼女いたことないでしょ? 最初は絶対浮気しなそうだしすぐ照れるところとか可愛いって思えたんだけど、付き合ってるといちいち慣れてない感じが気になるっていうか……デートしてても段取り悪いし』
『あー、それはちょっと嫌かも』
『高校のときの彼氏は先輩で慣れてたし当たり前みたいにリードしてくれたから、比べちゃうんだよね』
『分かる分かる』
『ぶっちゃけ絶対そういうことしたことないからさー、想像してみたらテンパりまくるのを私がリードするの? って。なんか無理かもって。生理的に』

あまりのショックに情けなく足が震え、気づかれないよう息を潜めるだけで精一杯だった。
確かに直哉は彼女という存在に慣れていなかった。上手くリードすることなどできず、デートの行き先や会う日取りなども彼女が決めることのほうが多かった。
それでも彼女は「いいよいいよ」と言ってくれたしいつも笑顔だったから、不満を持たれていたことにすら気づけなかった。無邪気な笑顔だと思っていたのは実は苦笑いだったのだろうか。
童貞。生理的に無理。言葉が脳を容赦なく攻撃する。付き合うことに慣れていなければ、好きな相手に否定されることにも慣れておらず、ダメージは絶大だった。
この時点で潔く別れを切り出していればまだよかったのだろうが、自分から言い出す勇気もなく彼女を避けることしかできなかった。その結果、別れてもいないうちに彼女が別の男と親密にしているところに鉢合わせてしまった。そこでとうとう彼女から別れを切り出されたわけだ。

『ごめん、直哉くんのこと嫌いになったわけじゃないけど……直哉くんも本当は、私達合わないって思ってたでしょ? 連絡してこなくなってたし』

そんなことはない、こっちの気持ちを勝手に決めつけないでほしい、自分が悪者になりたくないだけじゃないのか――。
今になって考えれば言ってやりたいことが山ほどあるが、そのときには言葉にできず、「わかった」としか言えなかった。結果ぶつけどころのない鬱憤を抱え込んで自棄酒に走るはめになっているわけだ。
ショックが強かったのにはもう一つ理由がある。よりにもよって彼女の相手は自他共に認めるチャラいヤリチンで、直哉の友達でもあったのだ。
女癖は悪いものの、男友達としては悪い人間ではない、と思っていた。それだけに彼女を取られたのはショックだった。「悪いな」と言いつつ全く悪いと思っていない顔が目に焼き付いている。

「うう……」

酒が回ってきたものの、この程度ではまだまだ足りない。後先考えず記憶を吹き飛ばしてしまいたい。
しかしノロノロと冷蔵庫を開けるともう酒は一本もなかった。もっと買っておくべきだったと後悔する。こんなことだから彼女に段取りが悪いと言われてしまうのだ。
コンビニに走るべく財布を手にしたところで、挟まっていた紙が滑り落ちた。拾うとそこには電話番号が書かれていた。
何だったかと少し考えた後、直哉は外に出るのをやめてその番号に電話をかけた。

『ここの子マジでレベル高いからお前も使ってみろよ』

そう言ってデリヘルの番号を押し付けてきたのは別の友達だ。そのときはまだ彼女と両思い……と信じていたので、使う気は更々なかった。彼女に後ろめたいことはしたくないし、大体風俗で童貞喪失だなんてダサいと思っていた。どこの誰とも知れない相手と淫らなことをするのにも抵抗があった。
番号を処分しなかったのは――万が一のときのためだ。万が一というのは、そう、例えば早急に抜かなければいけない友達が突然現れたときなどだ。断じて己の下心故ではない。
だけどもうどうでもいい。童貞などさっさと捨ててしまうに限る。

「あ、あの、初めてなんですけど」
「あー、お客さん運がいいですよ。ちょうどナンバー1の予約がドタキャンされてね。今なら指名料も取りませんよ。マジラッキーですよ。すぐ向かわせますんで。住所は?」

水商売だからなのか、ノリがよく少々馴れ馴れしい男の店員がまくし立ててきた。
予約がいっぱいとでも言われたらすぐ諦める気だったが、何と通常なら争奪戦になって予約がとれないような子がすぐに来るという。
これはもう、童貞を捨てろと天に言われているとしか思えない。直哉は期待と緊張にそわそわしつつ、居住まいを正してインターホンが鳴るのを待った。
そしてピザのデリバリーなどより短い時間で来訪者はやってきた。どんどん速くなる心臓の鼓動を自覚しつつドアを開けると。

「…………男?」

自分の声と、見ず知らずの男の声が見事にハモった。

直哉は非常に混乱していた。元カノと友達のキスシーンを見たときよりもある意味混乱していた。
つい先程会ったばかりの男が部屋にいる違和感をどう表現すればいいのだろう。

『あー、とりあえず寒いんで、部屋に入れてくれません?』

困惑した表情でそう言われては、酒に酔った頭で断り文句を絞り出すこともできなかった。
男は恐らく同年代で、年上か年下か見た目では判然としない。改めて見るとかなりのイケメンで背も高く、目をそらしたくなるほど華やかな雰囲気を放っている。そして間違いなく、直哉が電話した先から派遣されてきたキャストらしい。
恐らく女相手の出張ホストと言ったところだろう。つまり友達に完全に騙されたのだ。寝取られるわ騙されるわで踏んだり蹴ったりだ。もしかして友達と思っているのは直哉だけで、裏では馬鹿にされているのだろうかと不安になってくる。
振られた次の日に、直哉はどういうわけか出張ホストにお茶を出して向かい合っていた。気まずい。こんなことなら待っている間に酒を買い足しておくべきだった。

「あの……俺本当にそういう気ないんで。友達にからかわれただけなんで、安心してください」
「分かってますよ、大丈夫です」

直哉の必死の言い訳に、シュウと名乗った男はすっとした二重の目を細めて笑う。職業に対する偏見のせいかもしれないがあまり誠実そうとは言い難く、軽薄な印象を受ける。それが様になっていていかにも女にモテそうなのだからイケメンは得だ。自分もこんな顔だったら振られることもなかったのだろうか。

「お酒飲んでたんですか? ちゃんと成人してます?」
「あー大丈夫です、今日成人したんで」
「え、もしかして誕生日? 誕生日に呼んでくれたんですか」

驚かれてばつが悪くなる。誕生日にデリヘル……と間違えて出張ホストを呼ぶなんて完全に悲しい人種だ。

「ほ、本当は彼女が祝ってくれるはずだったんだけど……やけ酒飲んでて、間違えて電話しちゃって」
「訳ありっぽいですね。よかったら愚痴聞きますよ。話したらきっと気分も変わりますよ」
「いや、でも」
「どうせ時間いっぱいまでいないと、俺店から怒られちゃうんで」

そういうものなのか。明らかに直哉のような悩みとは無縁の、恋愛ヒエラルキー最上位にいるような男に情けない話を聞かせるなんて、普通なら絶対嫌だが……これも何かの縁かもしれない。どうせ二度と会うことはない相手なのだ。安くない金を払わなければいけないのだし、愚痴くらい聞いてもらわなければもったいない。
直哉は酔いも手伝って、開き直って暴露してしまうことにした。
彼女と付き合ってから別れた経緯を時折つっかえながらも打ち明ける。シュウは、内心はどう思っているのか知らないが馬鹿にすることなく黙って聞いていた。

「……酷い友達ですね。俺だったらどんなに好みでも友達の彼女には手出せないな」
「まあ俺も悪いんですけど……どうせ童貞だし、ダサいし」
「そんな卑屈にならなくても。たまたま彼女がそういうタイプだっただけで、全然違うのもたくさんいますから」

意外にもシュウは真面目に慰めてくれる。普段からいじられキャラ扱いされて、友達にも騙されたばかりで、そういえば優しくされたのなんて久しぶりだ。不覚にも涙腺が緩みそうになる。

「早く忘れちゃえばいいんですよ。そんな奴ら気にする価値もないって」
「そ、そうですよね……。忘れてやります。もっといい相手を見つけて……」
「そうそう。向こうが悔しがるくらいの相手と付き合っちゃえ」

いつの間にか向かい合っていたはずのシュウが隣に座っていた。
気持ちが前向きになりかけたところで、不意に彼女のはにかんだ笑顔や、知り合いが誰もいなかったとき初めて気さくに話しかけてくれた友達の顔が脳裏を過ぎる。
あんな奴ら、と思いたいのに思いきれない。本当に涙が滲んできてしまった。

「うう……やっぱり辛い……」
「――――あー、イケるかも」

半泣きになる直哉に、シュウがぼそりと呟く。何がイケるだこっちは泣くほど辛いのに、と横を見ると思いの外シュウとの距離が近くてぎょっとする。

「あの、近くないですか」
「今は俺といるんだから、クソみたいな奴らのことなんて忘れて俺のことだけ見てくださいよ」
「っ……」

耳元で囁くように言われて言葉に詰まった。ちょっといい人だと思っていたがやはり出張ホストというべきか、色気がすごい。
固まっているうちに肩を抱かれる。慰めるにしても普通男同士でここまでするだろうか。と思っていた矢先に耳から頬を指先で撫でられ、ぞわりと鳥肌が立った。
直哉はようやく性的な意図に気づいて、慌てて身を引こうとする。

「ね、嫌なことを忘れるには気持ちいいことするのが一番ですよ」
「ひ……っ、いや俺、そんなつもりないですからっ」
「みんな最初はそう言うんですよ。友達に勝手に呼ばれたとか、罰ゲームで呼ばされたとか。恥ずかしい気持ちは分かるけど大丈夫ですから」
「ほ、ホントにマジでそんなんじゃ……」

完全にからかわれている、と思いきや、シュウは確かに笑っているのにどこか冗談では済まされない目をしていて怖くなる。

「童貞なのがコンプなんですよね? いい機会だし俺がやり方を教えてあげますよ。自分で言うのも何だけど慣れてるし上手いと思います」
「あ、う……」

一瞬心が揺れた。その時点で流されるのが確定してしまった。
シュウは了承も得ないまま、至極優しい手つきで直哉の服を脱がせていく。裸にされた上半身を見られ、男同士だというのにやけに恥ずかしくて顔が赤くなる。

「あの俺、貧弱で」
「そうですか? 痩せてるけどガリってほどじゃないし、肌綺麗でいいじゃないですか」
「ふぁっ……ちょ、」

シュウがむき出しの肌を撫で回す。今更だがシュウは男に抵抗がないのだろうか。疑問に思っていると指先が鎖骨から下に下りてきて、乳首を掠めた。


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