エースとコーチ 02 03 04



マウンドの上に背の高い選手が構える。土が盛られて他より一段高くなっているその場所は、誰でもが立てるわけではない。
グラウンドの中でも彼は特別な存在だった。
フェンスの外から彼を呼ぶ声がする。白いワンピースを着た、美しい女性だった。

◇◇

雲まで橙色に染まった夕空の下に、金属がボールを打つ音が忙しなく響く。
強豪校だけあって体格のいい部員たちが並んでボールを投げ、バットを振るう。その姿は青春を体現しておりむさ苦しくもあった。

「もっと股関節に体重を乗せるんだ。ボールをしっかり見て、いいぞ」
「はいコーチ!」

美南浩史はこの野球部のコーチである。主に一軍と二軍のバッティングを見ている。夢は大きく甲子園優勝と掲げているが、現実的にはまず県内で勝ち上がらなければならない。前回はベスト4に食い込んでおり、無謀な目標ではないはずだった。

「俺のフォームも見てもらえませんか? コーチ」
「少し待て。田畑が先だ」
「お願いします、コーチ!」
「もう少し、足を開いて、こちら側に重心を持ってきて……」

監督には恐れを抱いている選手たちも、コーチとしては若く年の近い美南には気安く話しかけてくる。
フォームをチェックするため時には手を握り、体が密着する。通りすがりの生徒などからは「うわあ」と引かれることもあるが、選手たちは誰も気にしない。厳しい練習で己を高めて、まずはチーム内の競争に勝ち抜くことに必死なのである。
一軍から三軍までモチベーションも高く、全体的に順調に育ってくれている。一部を除いては。

「柳内、何をしているんだ。今のは得意のコースだっただろう」
「すみません、ぼーっとしてました」
「ぼーっとだと?」

二年の柳内は、一年の途中からずっとエースであり4番を務めている。入部してきた時点では美南より僅かに小さかったがぐんぐんと成長し、恵まれた体格とセンスを併せ持った逸材だ。
厳しい先輩達も彼の実力は認めざるを得ず、後輩達からは尊敬の眼差しを向けられている。柳内の出来がチームの結果に直結すると言っても過言ではない。怪我をしたわけでもないのに不調になられては死活問題だ。

日が落ちて、橙色は嘘のように暗く塗りつぶされた。片付け当番の一年生も帰宅していき、仕事を終えた美南は一軍の部室に入った。
呼び出そうとする前に、柳内のほうから相談があると、彼にしては神妙に打ち明けてきた。二人で話せたほうが美南にとっても好都合だった。今時は体育会系と言えど、人前で叱ったり個人的に踏み込んだ話をするのは慎重にせねばならない。

「柳内、お前怪我をしてるわけではないよな。どこか痛む場所があって集中ができないのか」
「そうじゃないです」

一軍の部室は比較的清潔さを保っている。とはいえ少し前まで何人もの球児が着替えていたので汗臭さが残る。
柳内からはあまりそういう臭いはしそうにない。小綺麗なのだ。美南が高校球児だった頃は問答無用で丸坊主にしたものだが、柳内は爽やかなショートカットで、顔立ちも芋っぽさとは無縁だ。
しかし態度は模範的とは言い難く、今も面倒そうにそっぽを向いている。

「それが話を聞く態度か。言いたいことがあるなら言ってみろ」
「まあコーチに言ってどうにかなることじゃないんですけど……俺、彼女と別れて」

美南はぎくりとした。彼女の存在は知っていた。「デートなんで」と堂々とのたまって練習をサボッたりするものだから、きつく怒ったこともあった。

「……それは残念だったな。まさか野球のせいで彼女と別れたと言いたいのか」
「野球のせいっていうか、コーチのせい?」

柳内が低い声で言う。失恋で傷ついているのかと思いきや、次に出たのは美南を嘲る言葉だった。

「コーチ、彼女と別れさせて満足ですか? 正直うんざりしてるんですよ。あんたみたいな、自分が選手として芽が出なかったからって、年下に理想を押し付けて思い通りにしようとするタイプ。単純な奴らは慕ってるみたいですけど、ちょっと鋭い奴は見抜いてますよ。絶対彼女とかいなかったから、部員で鬱憤晴らしてるんでしょ」
「なんだと……っ」

かっとなってやったとしか言いようがない。美南は反射的に、目の前の整った顔に手を出した。
かろうじて握りこぶしを開いたのは、焼け石に水でしかないだろう。

「いった……、ひでーな」

手のひらがじんと痺れ、我に返って血の気が引いた。現代において暴力は許されない。今までの美南はあくまで、パワハラだの暴力コーチだのと訴えられないラインの内側で厳しく指導してきた。
柳内の頬が微かに赤くなっている。怪我をさせたわけではなくとも言い逃れはできない。
これまでの努力が水の泡になってしまう。――図星を突かれたのだ。

「……つい、お前がいきなり挑発的なことを言うから」
「言い訳ですか。監督はどう思うかな」

監督はチームの勝利を何より優先する人だ。キャリアの浅い一介のコーチと部のエース、果たしてどちらの味方をするだろう。柳内は言外に問うているのだ。

「くっ……悪かった……手を上げたことについては謝る」
「まあ、とりあえず俺の悩みを聞いてもらおうかな」

柳内は意外にあっけらかんとしていたが、許すとは言わなかった。
代わりに思いもよらないことを言い出す。

「俺、彼女と別れてからムラムラして……溜まってるせいで野球に集中できないんですよね」
「な……」

美南は絶句した。


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