この部屋には霊が出る サンプル 02



この部屋には幽霊が出る。
 思えば確かに家賃は安く、敷金も礼金もいらないというゼロゼロ物件だった。駅近でバス・トイレ別、鉄筋コンクリート造のマンション三階という条件にしては、多少古びいていることを差し引いても破格と言える。
 愁斗はあまりオカルトには興味がなく、事故物件であることも気にしていなかった。まさかここまでとは、思いもしなかったのだ。
 昼も夜もなく、入れ替わり立ち替わり、様々な幽霊がこの部屋に現れた。時にくたびれたサラリーマンだったり、水商売風の女であったり、若い学生だったりと、老若男女様々だ。
 水沢愁斗はあの手この手で幽霊を追い払ってきた。しかしいなくなったと思えばまたすぐに新参がやってくる。堂々巡りで休まる暇もない。
 何故頑なに引っ越さないのかとといえば、愁斗が引きこもりだからだ。それも重度の。
 元よりインドア派で活動的ではなかったものの、引きこもるようになったのには明確な理由がある。恋人から、手ひどい裏切りを受けたのだ。
 愁斗は思春期を過ぎても、女性に恋愛的な好意や欲望を抱いたことがなかった。男友達の女性への強い興味についていけないと思うことが多かった。
 人それぞれだから無理に好きになるものではない、いつかは自分にも想う相手が現れるだろうとあまり気にしないようにしていたのだが、高校卒業後に転機が訪れた。愁斗にとっては不幸なめぐり合わせとなった出会いの場所はバイト先の飲食店だった。
『お前、男が好きなんだろ』
 休憩中、愁斗の目を見て疑問系ではなく断言してみせたのは、一つ年上の先輩だった。
 樫原という男は社交的で容姿がよく、少し傲慢なところも人を引きつける魅力になっていた。自分がなろうと思ったところで到底近づけもしない存在。愁斗は密かに妬み混じりの憧憬を抱いていた。
『付き合おうか』――信じられない提案も、はなからこちらの意志などお構いなしで、押し切られる形で付き合うことになった。そうなってみても樫原はやはり王様のようで、常に愁斗の上に立っていて、振り回されっぱなしだった。
 戸惑いながらも惹かれていく気持ちが抑えられなくなった頃、樫原は新たな恋人の存在を愁斗に突きつけた。
 ショックを受けながら、それ自体は仕方がないことだとどこかで思っていた。そもそも何故付き合うことになったのかも疑問だったのだ。遊び慣れている樫原が、恋愛経験もろくにない愁斗に飽きるのは時間の問題だろうと。そう覚悟しておくことでショックを和らげようとする気持ちもあった。
 だが問題はそれだけでなく――愁斗がゲイであり、無理やり樫原に迫ったのだと吹聴されたことだった。
 噂を流したのが樫原なのか、新たな恋人なのか、それとも二人から話を聞いた第三者なのかは判然としない。分かっているのは樫原が噂をろくに否定せず笑っていたことだけ。
 ショックだった。樫原を否定して愁斗の味方についてくれる人間は周囲におらず、今までそれなりに付き合ってきたバイト仲間や友人からも白い目を向けられた。そんな連中にも、誤解を解くこともろくにできない自分自身にもうんざりした。
 愁斗は現実から逃げるように外に出ることをやめ――今に至ったというわけだ。
 現在は在宅でできる仕事で何とか食いつないでいる。買い物は全て通販。部屋の外には長いこと出ていない。当然こんな生活をずっと続けられるわけもなく、出ようと試みたこともあった。だけど玄関でどうしても足が竦んで、一歩も外に出ることが出来ないでいるのだ。
 そんなわけで、幽霊屋敷と化してしまった部屋から引っ越すこともできないでいる。不幸中の幸いというべきか、今までの幽霊はそう悪いものではなく実害はないままお別れできた。
 だが今回に限っては、それまでにない苦戦を強いられていた。
 
 人目を惹く男だと、初めて見たときに思った。外国人ともつかないが色素が薄く、光が当たると輝き出しそうな髪色。顔立ちは冷たく見える程欠点がなく、眉目秀麗という言葉がふさわしい。いつも葬式のように真っ黒な服を着ており、単なる優男にはありえない不思議な存在感を醸し出していた。
 そして見た目どおり、彼は一筋縄ではいかなかった。
 それまでの幽霊は、臆することなく毅然とした態度で出て行けと言い続ければそのとおりになった。すぐに消える者もいれば数日粘る者もいたが、皆最後には愁斗にうんざりした様子で去っていく。
 今までと同様こちらが変に怯えたりしなければ勝てる。そう思っていたのに。
 
 テレビの中でもそうそうお目にかかれないような容貌に多少たじろぎながらも、初めて出て行けと言ったとき、男は完全に無視をした。
 幽霊といえば人間に構って欲しがるものと相場が決まっている。だのにそんな反応をされ、少なからずショックを受けた。
 俄然ムキになって、大音量でヒップホップを流してみたり、除菌スプレーをかけてみたり、手を叩いてみたりしたが、まるで堪えた様子がない。見た目によらずなんと鈍感な幽霊だろうか。
 男が陣取っているあたりに塩を撒き、しまいにはニンニクや十字架を投げつけてみた。夜の闇のような服装といい日焼けしていない顔貌といい、もしやただの幽霊ではなく吸血鬼ではないかと考えたのだ。
 お察しのとおり全く効かず、更に怒らせてしまったのか反撃を受けるはめになった。
「ひいいいっ、やめて、死ぬ、呪われる! 許して……っ」
「…………」
 愁斗は必死に手を合わせ、信じてもいない神仏に縋った。そんな適当な祈りが届いたのかどうか、すぐにどうこうされることはなかった。もしかしたら時間差で呪い殺されるかもしれない。
 九死に一生を得た後、塩まみれでジャリジャリになった床と充満するニンニク臭だけが残った。落ち込んでいるところを幽霊に「散らかしたら片付けろ」と命令され、すごすごと掃除するはめになった。
「あの、そろそろ出ていってくれません?」
「断る」
 こちらのほうが疲弊してしまい、へりくだってお願いしてみたところ、返答が得られた。はっきりとした拒絶だったが。この頃になると完全に上下関係は明白になっていた。
「いやあの、俺なんかと同居していたら鬱陶しくないですか」
「そうだな。だが何故僕が出ていかなければならない。君が去ればいいだろう」
 何とも意思が強く決然としている。愁斗は途方に暮れた。出ていけるものならもっと綺麗で閑静で、もちろん幽霊とは無縁の部屋に住みたい。でも外には出られないしそんな蓄えもない。
 こうして不思議な同居生活が始まった。
 
 それにしても男の生前の素性は謎に包まれていた。今までの幽霊はぱっと見で、あるいはいくらか観察すれば何者なのかが推し量れたのに、この男は見れば見るほど謎が深まるのだ。
 全身黒が似合いすぎている姿はとても普通の勤め人には見えない。芸能人と言われれば納得できるが、テレビでも雑誌でも見たことがなかったし、愛想を振りまく姿も想像できない。
 芸術家――例えば画家とか、彫刻家とか、あるいは作曲家とか、少し浮世離れした職業のほうがしっくりくるかもしれない。
 そんな風に思っていたのだが……。
「うわあっ」
 どうも招かれざる客は男以外にもいる気がする。勘付いた矢先、何かに足を取られてすっ転んだ。
 体を打ちつけながら転ばせたものを確認する。……何かふさふさしている。
「な、何……犬……じゃないし、フェレット……?」
 やけに胴体が細長い。見慣れない姿だ。フェレットとかオコジョとか、愁斗には馴染みがない動物だろうか。でもどこか違う気がする。
 まじまじと観察すると、愁斗に蹴られて痛かったとでも訴えるように「きゅ」と鳴く。目が丸くてつぶらだ。そんな姿を見せられると強く出られなくなる。
 少しだけ可愛い。毛並みがよく触り心地がよさそうだ。恐る恐る手を伸ばしてみたが触れる直前で逃げられ、開かれたドアの方に行ってしまった。
「それは管ぎつね。僕の式神だ」
「……は?」
「普通の人間には見えないものだが、君にはよく見えているようだな」
 我が物顔で入ってきた男が突拍子もないことを言い出した。式神……非現実的だ。
 管ぎつねと言われたふさふさの生き物が、男の足を伝って肩にまで上る。随分な懐きぶりだ。羨ましくなんてない。
 確かに見れば見るほど見たことがない姿をしている。やたら胴長で顔にはシャープさが足りないというか、狐にしてはちょっと間抜け面だ。と思ったらまるで心を読んだみたいに動物が「きゅうう」と不満げな声を上げる。やっぱりただの動物じゃないらしい。
「……うち、ペット禁止なんだけど」
「ペットではない。式神だ」
「式神ならもっと駄目でしょう。ここをお化け屋敷にでもする気ですか」
「それほど鳴かないし、そこらの畜生と違って糞尿もしなければ臭いもしない。何の問題もないだろう」
「そもそもあなたの存在が大問題なんですが……」
 男はさらりとスルーして、おもむろに硯を取り出し、墨を磨り始めた。突拍子がない。小学校の書道の授業以来久しぶりに見る光景だ。ちなみに愁斗はボトルに入った墨汁を使っていたから硯を磨ったことなどない。
 硯に墨が満ちると、短冊状の紙に何かを書き始める。覗き込んでみても難解な字で読めない。
「何を書いているんですか」
「札だ」
「いや、それは見れば分かりますけど」
 芸術家どころじゃなく、もっと胡散臭くてヤバい人だったのかもしれない。式神だとか言い出すし、怪しげな新興宗教にハマってたとか。いや、ハマってるというより教祖だ。この容姿と威圧感があれば、たとえ口下手でも妙な説得力で勝手に信者がついてきそうだ。
 もう一度文字を読もうと試みる。やっぱり読めない。
「達筆ですね……」
「そうか? 別にそれほどではない」
 男がまんざらでもなさそうな声を出す。ちょっと得意げだ。しかし達筆というのは適当に言っただけで、実際は……。
「いや、これ……むしろ悪筆なんじゃ……いや、なんでもないです」
 目を細めて睨まれたので愁斗は言葉を取り消した。どうやら気にしているのかもしれない。綺麗な顔をして、字は下手なようだ。
 二人のやりとりの意味が分かっているのかいないのか、管ぎつねがまた「きゅ」と鳴いた。
 
 不遜な男の幽霊との同居生活は予想外に長く続いた。男は何をしても動じない。むしろ愁斗のほうが顔色を窺わなくてはならない。幽霊に顔色なんてあったものじゃないのに。
 男は時折いなくなるが、一日以上は絶たずに戻ってくる。時間もまちまちで、夕方だったり早朝だったり、夜だったりする。ますます真っ当な仕事をしていた可能性はなくなっていく。
「そろそろ出ていく気になったか」
「いや、それこっちのセリフなんですけど」
「話の通じない者だ。こちらが強硬手段に出てもよいのだが」
 愁斗のことをいないように扱ったかと思えば、時折不穏なことを言い出す。愁斗は戦慄した。真顔のまま恐ろしいことをやりかねない男だと思う。
「いやいやっ……勘弁してくださいよ。大体得体の知れない生き物がまた増えてるし……」
「式神だ」
 今も、白くて丸っこい物体が愁斗の足元に纏わりついている。たんぽぽの綿毛のようで、不可思議なことに少し発光している。今は電気がついているから分かりづらいが夜に灯りが消えると暗闇に浮かび上がるのだ。
『しゅうと』
『あそぼうよ』
 言葉を覚えたての子供のような声が響く。綿毛みたいな見た目のくせに拙いながら言葉を喋る。明らかに普通の生き物じゃないのに、管ぎつねと違ってやけに友好的に愁斗を取り囲んでくる。やっぱり邪険にできない。
「それはあやかしの赤ん坊のようなものだ。やがては僕の式神になる」
「こ、こんな無垢でいたいけなふわふわを酷使するつもりですか?」
「……随分気に入ったらしいな。それらも君に懐いている」
「別に気に入ってるとかじゃ……」
『しゅうと、こまってる』
『いじめないで』
『おなかすいたー』
 綿毛が慰めるみたいに回りを飛び跳ねたり、ぴったりとくっついてくる。どうやら綿毛にも個性があるらしく、一人(?)で床の上をコロコロ転がっている者もいる。そんなところは人間の子どもみたいだ。
「それは寂しいものの傍に寄る傾向がある。せいぜい慰められるといい」
「自分より俺のほうが好かれてるからって、適当言わないでください。俺は別に寂しくなんてない」
『しゅうと、おなかすいた』
「……はいはい」
 金平糖を投げると、白いものは嬉しそうに駆け寄って全身で抱きしめるようにして食べる。白い色にピンク、水色、黄色、黄緑……といった色とりどりの小さな星が加わって可愛らしい光景だ。鮮やかな色はゆっくり白に溶けていく。
『おいしい』
『ぼくも水色がよかった』
『あげないよ』
『もっと星ちょうだい』
 不思議な光景だ。受け入れている自分が何だかおかしい。
「君も食べるか」
「いりません」
 男が饅頭を投げてきた。この男の存在だけはどうにも受け入れがたい。
 幽霊からもらったものなんて食えるか、と思ったが、腹が減っている気がしたのでつい口に含む。甘いあんことふっくらした皮の味が舌の上に広がった。
「美味しいです……」
「そうか」
「名前、なんて言うんですか。この子たちに名前教えた覚えないのに知られて、何かフェアじゃないじゃないですか」
「それらにまだ名はない。生まれたばかりだから」
「じゃなくて、あなたですよあなた」
「――暁」
 何日も同居して初めて名前を教えられた。暁。愁斗は声を出さないまま、舌の上で名前を繰り返した。
 
 玄関のチャイムが突然鳴った。珍しいことだ。恐る恐る出てみると若い男が立っていた。
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