大正偽物令嬢奇譚 サンプル 02 03 04


プロローグ

 四方を山に囲まれた山間の集落に、その家は代々構えている。
はじまりは先祖の綿栽培の成功だったという。不思議とやることなすことが上手くいった。次第に豪農として影響力を持つようになり、多くの小作人を抱え、高利貸しをして財産を蓄え、時の為政者から裁量権を与えられる存在にまで成り上がっていった。
 時代が変わっても広大な土地を守り、一族はそこに在り続けた。
 入り組んだ山道の先にあり外の人間を容易に寄せ付けない集落の、更に奥まった場所に構える屋敷には、数多の貴重な骨董品や美術品が収蔵され、そこらの博物館には見劣りしない。
 子孫は枝分かれして各地に散らばり、大政奉還がなされてからの激動に乗じて事業を起こして財を築き上げ、政財界に食い込んでいった。
 そんな世においても本家の人間は外界との交流を好まず、実態は霧がかったように謎めいていた。
 一つ、誰もが知る異色の特徴がある。代々の当主が揃って女性であるということだ。
 集落に暮らす人々は夕神の潤沢な富と農業の技術の恩恵に預かり、世が大飢饉にあえいだ折にも飢えることはなかった。我らがお殿様と頭を垂れながら、声を潜めて囁き合う。可哀想に、あの家の男子は呪われているのだと。

◇◇

「ああ嫌だ」
「考えを放棄してはいけませんよお嬢様。計算のやり方はよく教えたはずです。覚えていらっしゃるでしょう」
 数学の難問を前に、燿はうんざりして梁の天上を見上げる。
 教育係の九井恭介は厳しく口うるさい。寝転ぼうとする燿をだらしないと叱咤して居住まいを正させた。
「お金の計算さえできれば十分じゃない。微分だの積分だの、これって生きていくうえで一体どんな役に立つの」
「あなたは夕神家の次期当主です。俺などが容易に理解できる問題が解けないとあっては、ご先祖様に申し訳が立ちません」
「嫌味なこと。お前の頭は賢さだけにすべてを注ぎ込んでしまったのですね」
「お褒めにあずかり光栄です」
 就学する子供が急激に増えている時代に、燿は一度も学校に通ったことがない。夕神家の事情によって家の中に隠され、ひっそりと育てられてきた。
 専属の教師は優秀だし、屋敷の敷地は集落中の子供を集めて遊戯会が開ける広大さを誇り、十分すぎる教育を施されている。
 燿の関心には偏りがあり、興味のない分野だろうと理解するまで解放してもらえない手厚さが、あまり嬉しくはない。
「またそのように足を広げられて、はしたないですよ」
「このほうが楽。九井だって同じくらい広げるでしょ」
「あなたは女性です。慎みを持ってください」
 古い匂いの染み付いた屋敷において、先進的な男女観は当たり前に存在しない。女性が虐げられるというわけではなく、むしろ地位は全くの逆だ。絶対的な権力を持つ家の主は燿の祖母である。
「はいはい、分かってますよ」
「また求婚者が訪ねてきましたが、その様子では婿を迎えるのは百年早いと言わざるをえませんね」
 夕神家の影響力と財産は誰から見ても魅力的で、次期当主の婿の座を狙う男は引きも切らなかった。
 まず家令が論外を弾き、その後祖母が足切りする。燿には選りすぐられた「婚約者候補」が数人いるが結婚にはぴんときていない。
「げ、今度はどんな男? 美男子だった?」
「どうせ結婚に値しない男のことより、目の前の問題と向き合ってください」
 九井は古くから夕神家に仕える家系の生まれで、年下の燿に勉学と教養を端から叩き込んできた。高等学校に通って最上級の教育を受けながら。
 文字通り箱入りの燿も、外界には計り知れない大きな世界が広がっていて、帝都の活気と発展ぶりは際立って目を瞠るほどだということは知っている。
 九井はこんな田舎の家で年中小娘の相手をするより、外に飛び出して己の能力を惜しみなく発揮し成功を掴みたくはならないのか。甚だ疑問だ。
 辞めてほしいというのではない。化石のような琴やお花の先生よりは話が通じるし、埒のない冗談を交わす気安さもある。

「お嬢様、お着替えを」
「お嬢様、夕食のご準備ができました」
「お嬢様、ご入浴のお時間です」
「はい、はい」
 広い屋敷には幾人も女中が住み込みで働いており、当たり前に燿をお嬢様扱いして傅く。
 風呂上がりに中庭を通って歩くと、庭師の男が剪定を行っていた。
 枝葉が大胆に切り落とされていく。余計な枝を落とすことで樹木の美しさと健やかさが保てるのだという。それにしても、まだ青々としているのにばっさりと切り捨てられる枝は哀れなことだ。
 見るともなしに眺めていると、庭師が気づいて顔色を変えた。
「お、お嬢様っ、失礼いたしました」
「気にしないで、ご苦労さま」
「そのような、畏れ多い」
 身の回りの世話をする女中や家令は住み込みか、ほど近くに家を与えられて働いているが、力仕事に必要な男手は集落から雇われて出入りすることもある。
 庭師は燿を見つけて慌てて視線を逸らす。屋敷に入る際、燿には近づいてはならないと厳に注意されているのだ。
 ふと意地悪く、問いかけてみたくなった。
「私のこと、どう思う?」
「そ、その……、お、私などお嬢様のことを口に出して物申せる身分ではありません、どうかお許しを」
 庭師は汗をかき、俯いたままだ。
「本人がいいと言っているのに。こっちを見るのも嫌?」
「お許しを」
 これでは燿が苛めているようだ。庭師は目の前の燿より何より、絶対的な権力者である祖母の不興を恐れている。
 これ以上仕事を邪魔しても仕方ない。
「いいよ、おやすみなさい」
「……――」
 背中を向けたときだけ視線を感じる。いつものことだった。
 部屋に戻ると薄暗い灯りの下、手持ち無沙汰で鏡を眺める。
 髪は烏のように黒く、肌は日に焼けておらず、卵型の輪郭に切れ長の瞳、細い鼻、血色のいい唇がなかなか上手いこと収まっている。畑仕事や台所仕事に追われる必要がなく、十分な栄養の食事に恵まれた階級の生まれだと一目で明らかだ。
 庭師が必死に目を逸らした着物の胸元――そこに乳房はついていない。ついているものといえば股間に、全く別の物だ。
 ふんと投げやりに吐き捨てる。
「これのどこがお嬢様なんだか」
 そう、燿は紛れもなく男子である。男らしく逞しい――とまではいかずとも、肉体に女性らしい特徴は何一つない。
 夕神家に生まれた男子は必ず早逝する。先祖が土地神の怒りを買い、末代まで続く呪いを受けたからだと伝えられている。
 夕神家は他人を信用せず、優秀な一族の結束を強めて財を成してきた。とは表向きの話で、隠された真実が他にある。
 神と人の距離が今より近かった時代。先祖達は土着の神を信仰し、立派な祠を造って奉り、供物を与えた。当然見返りを求めてのことだ。
 土地神は土を肥沃にし、作物に日の光を注ぎ、恵みの雨を降らせ、気まぐれに力の一端を分け与えた。
 夕神家は不思議と人心を掌握し、時勢を読む力に長け、手を広げれば広げただけ上手いほうに転んだ。目には見えない超常の力が宿っているかのように。
 繁栄のさなかのことだ。一族の男が当主の娘を犯した。乱暴者の男はかねてより娘を邪な目で見ていたが、別の男との婚姻が成立したことで逆上し、腹いせに傷物にしたのだった。
 娘は人ならざる者に近い性質を持ち、純粋で、土地神から特別愛されていた。次の日には八つ裂きにされた男の残骸が見つかった。怒りは男一人の命では到底収まらなかった。
 一族の男が次々に無惨な死を遂げていく。隆盛に調子づいていた家の中は大混乱に陥った。立ち上がったのは他ならぬ当主の娘だった。暴動が起きる寸前で先導者となって人々をまとめ、女子供の命を確実に守り、周囲に乞われて当主の座についた。
 以来、本家の男子は子を成す前に一族の歴史から消え、代々女性当主が婿をとることで家系を絶やさずに今日を迎えた。
 正統な本家の家系図上に、十八歳を迎えられた男子は存在しない。
 しかし男子が生まれた際の抜け道は密かに存在した。
 燿は生を受けた瞬間から祖母によってまじないをかけられた。一族以外のいかなる存在からも、女子として認識されるまじないを。
「もうすぐだ」
 女子と偽ることで早逝の呪いからは逃れる。そのためには土地神だけでなく数多の人々を欺く必要があった。
 成人を迎えれば早逝の呪いは弱まり、やがて消える。それまでの我慢だと、燿がだだをこねるたびに母や親族から言い聞かされてきた。あと一週間で燿は十八になる。
 まじないをかけられた燿は土地神に気に入られていた娘に似て、女として魅力的に映るらしい。
 複雑だった。祖母のまじないは一族の人間には及ばない。もちろん当の本人にも。
 燿は自分を女とは思えない。
 幼い頃は違和感などなかった。物心つく前から皆が女子として扱うのだから疑問を抱く余地もないのは当然だ。
 母は口うるさかった。いつ誰が見ているか知れないのだから常に女子らしく振る舞いなさい、男子と遊んではいけません、大和撫子に相応しい嗜みしか許しません、と。
『あなたは女の子なの。女として生きるのよ』
 繰り返される母の言葉は、かえって燿に疑問を抱かせた。
 決定的な出来事が起きたのはいつだったか。年は定かでないが、庭の木々が見事に紅葉する季節だったのはやけに記憶に残っている。
 分家に生まれた男子が親に連れられ、燿と対面させられた。
『ご挨拶なさい。ゆくゆくはご当主になる尊いお方ですから、同じ年頃といえどくれぐれも失礼のないように』
『はじめまして、燿お嬢様。勇夜と申します』
『こんにちは』
 燿と似た年格好の、利発そうな少年だった。切れ長の目の奥は微かに翠がかって、唇は薄く、髪はさらさらと真っ直ぐだ。分家は相当血が薄まっているはずだが一族の特色が目立って現れていた。
 仲良くしてもいい、と思った。集落の子供達とは身分が違うので気軽に遊ぶなと母から釘を差されている。
 遊び相手といえば身分が確かな女中の娘くらいだった。彼女たちも「決して失礼のないように」と強く言い含められているのか、常にどこか怯えがあり、一挙手一投足に気を遣って接してくるので遊んでもあまり楽しくない。
 その点勇夜は一族の人間だし、溌剌として賢そうだし、ついでに見目もよかった。
 二人きりにされ、どんな遊びをするか考えていると、祖母の前ではにこやかだった勇夜が、露骨に表情を変えた。
『勇夜さん、何をして遊ぶ?』
『俺がやるような遊びは野蛮ですから。お嬢様に怪我をさせるわけにはまいりません』
『大丈夫だよ、私は神様に守られてるの』
『では相撲でもとりますか』
『え……それは、怒られちゃう』
 勇夜は鼻で笑い、突然燿の股間を掴んだ。
『あうっ』
『こんなのぶら下げてお嬢様なんて笑っちゃうな。本家の箱入りは大変ですね』
『な、なんてこと。酷いっ』
 燿は飛び退いて体を庇った。屈辱に目を白黒させる様子を、勇夜は笑いながら眺める。
『うちの分家は湿っぽい一族の結束より外界の人間が好きでね。ずいぶん夕神の血を薄くしてくれました。遠くに暮らしているから土地神の呪いとやらも届かない。滑稽な格好をしなくて済んで先祖に感謝しているよ』
 勇夜は狡猾に大人の目から隠れ、燿に意地悪く耳打ちをした。燿は口を開けたまま何か反論しようとして、一言も返せなかった。
『そう怯えることはないだろ。こてんぱんに殴ったりはしませんよ。俺の首を飛ばせるとしたらお嬢様のほうだ』
『と……飛ばしません。野蛮な』
 家格だけで言えば勇夜は一族の中でも格下だった。だからといって燿が個人的な感情で罰せられるわけでもないし、そうしたいわけでもない。暴言の撤回を求めることはできるかもしれないが、表面上謝らせても彼の本心は明らかで、燿につけられた傷は消えない。
 勇夜はよく理解した上で燿を貶めたのだ。
『野蛮? 男らしいと言ってほしいね。ああ、お嬢様には酷だったか。お許しを』
『……』
『時間だ。じゃあなお嬢様』
 勇夜は何事もなかったように帰っていった。ここより遥かに開かれ、鉄道が走っているという、土地神の力に怯えなくていい遠くの棲家に。
 掴まれた股間がずきんと痛んだ。他人から偽りの女子であることを突きつけられ、打ちのめされた。
 数年後に思春期が訪れると、違和感は増すばかりだった。両親に反抗し、母と感情的に言い合いになることもあった。
 我が子が呪い殺される憂き目にあれば神経質になるのも無理はないと今なら少しは理解できる。
 母は精神を病み、到底当主は務まらないと判断され、入り婿の父と共に離れて暮らしている。
 父は華族の生まれのおっとりした男で、祖母と渡り合うにはあまりに繊細で気が弱かった。祖母と母に挟まれて心労に苛まれ、当主の婿から解放されてむしろほっとした様子だった。
『お前はしっかりした子だ。立派に務めを果たせる。だが母さんには私しかいないのだ』
 燿は父が好きだったし、いざというときには父を頼ればどうにかなると思っていた。燿を置いて出て行った日までは。
 燿は表面上は大人しくなり、胸の内で決意を固めていった。大人になったらこんな家は出て行き、都会で身を立てるのだと。
「お嬢様、本日は求婚者との面談のご予定が入っております」
「そうですか」
 のこのことやって来ても結婚する頃に燿はいないし、そもそもお嬢様など虚構の存在だというのにご苦労なことだ。
 婿に約束された地位と財産のため、燿に取り入ろうと鼻息荒い求婚者にはうんざりしていた。もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせる。
 着飾られて婚約者の前に突き出されるのは慣れている。今日は少し勝手が違い、先に祖母から呼び出しを受けた。
「首藤様は最も有力な求婚者です。あなたも覚悟を決めて、気に入られるよう努めなさい」
「はい、お祖母様」
 灰色の髪を後ろできっちりと結った祖母は年を重ねるごとに凄みを増して、七十を過ぎて一切耄碌する気配がない。
 言いなりになりたくなくても、いざ対面すると気圧されて自然と背筋が伸びてしまう。
 祖母がわざわざ口を出すということは、いよいよ数人の候補から固めに入ったのかもしれない。
 祖母は病んだ実の娘を見限り、燿に当主の使命を架した。全ては家のためだ。
 ふいにしてしまうのは悪いが、自分の人生のほうが大事だった。燿がいなくとも分家から優秀な若者を当主に立てればいい。たとえば、本家の因習などどこ吹く風で時代を謳歌している勇夜とか。彼は燿よりひと足早く成人しているしちょうどいい。
 いけない、私怨が混じってしまった。
「お嬢様、ご無沙汰しております」
「……こんにちは、お久しぶりです首藤様」
 生け花と掛け軸で飾られた応接部屋に、首藤巽は堂々と腰掛けて待っていた。
 彼は若くして成功している事業家だ。黒髪を後ろに撫でつけ、背の高い体に舶来の上等な洋服を纏っている。
 目は鋭く野心に溢れ、口元は自信に満ちて上がっている。端正な顔をしているが、常人にはない圧力を感じて少し苦手な男だった。

 彼は神奈川の小さな商家に生まれた。上流とは無縁だった生い立ちを隠そうとせず、むしろ自ら誇って聞かせてくれたことがある。
幼い頃はきかん坊で、近所の子どもとつるんで悪さをし、悪ガキと呼ばれ周りの大人を困らせていたという。
「見知った大人にいたずらが成功して図に乗っていました。後から思えば見過ごされているだけだった。俺達はもっと大きな獲物に目をつけた。異国人です。青い目が奥まった彫りが深い顔立ちに明るく輝く髪をなびかせて、はるばる海を渡ってきた人々に俺は興味津津だった。ちょっかいを出した相手が英国人の外交官だと判明して、両親が顔面蒼白になってね、これは本当にまずいことをしてしまったと子供心に理解しました」
「それでどうなったのです?」
「大変でしたよ。万が一にも国際問題に発展してはお上に申し訳が立たないと、父が腹を切るなんて言い出して」
 燿ははらはらしながら話を聞く。子どものいたずら程度で切腹だなんて時代錯誤だし、法律に全く則っていない。
 でも、子供が異国の要人に手を出したりしたら親は生きた心地がしないだろう。気の毒になる。
「俺は親に縋って止めました。異国人はハラキリを珍しがって見たがるかもしれない。だからショーをしたのです」
「ショー?」
「英国人の前で木の棒を短刀に見立てて、腹を切って見せた。痛みを堪えて呻き、力尽きるところまで大げさに熱演し、地面に頭を擦り付けて許しを請うたのです」
「そこまで……。幼い頃のお話ですよね?」
「数えで六歳だったかな。英国人の革靴が近づいて来たときは生きた心地がしなかった。彼は俺の手を握って立たせると笑って許してくれましたよ。何を言っているのかちっとも分かりませんでしたが」
 首藤は楽しい思い出のように語る。子供の頃から肝が据わっていたのか。
「きっとその方は首藤様を気に入ったのでしょうね」
「どうしてそうお考えに?」
「私だったらきっと気になります。それに首藤様は英国の経済を学び、英国相手にお仕事をなさっているでしょう? きっかけになったのではないかと」
「さすがお嬢様、洞察力おありだ」
 首藤が曲者の笑みを浮かべ、ついでにおべっかを使う。
 現在の彼は西洋の要人ともつながりがあると祖母が言っていた。
「奇特な外交官は俺を殊の外気に入り、後日本を贈ってくれました。俺も彼の知る世界が気になって、西洋の話を聞けないかと邸宅の周りを随分うろつきました。もっとも子供を相手にするほど外交官は暇ではなく、数回顔を見た程度で本国に帰還してしまいましたが」
「その人とお話したくて英語を勉強なさったのですか」
 首藤は異国の要人に気に入られ、つてを得るために、目立つパフォーマンスをしたのかもしれない。そのくらい行動力と熱意に溢れる男だ。
 ますます燿との結婚に拘るのが腑に落ちない。婿は比較的自由に動ける立場とはいえ、夕神家の鎖は確実に一つかかり、軽くはないだろう。
「俺との結婚を前向きに考えてくれましたか」
「首藤様は私にはもったいないくらいです。ですが私の一存で決められることではなくて」
「ご当主はあなたがご成人なさる頃には腹を決めるおつもりのようだが」
 座卓の向こうから強い瞳を向けられた。身を乗り出されたわけでもないのににじり寄られた気分で後退りたくなる。
 祖母はこの男をいたく気に入っている。家の格は落ちるものの卓越した能力を持つ野心家で、今後にも確かな展望を持っている。外国相手の商売の話は壮大で燿も興味をひかれた。
 年頃も似合いの範囲だし、容姿も男ぶりがよく優れている。女中からも密かに人気があり、首藤を逃せばどんな醜い中年男の求婚を受けるはめになるか分かったものではないと暗に脅しを受けていた。
「あなたのお気持ちはとても嬉しいです」
「社交辞令は結構。お嬢様の夫となる許可がほしいのです」
 首藤は常に炎を燈しているように熱く、近寄るだけでヒリヒリする。
 彼はシェイクスピアを読み、意外にも情感の籠もった破滅的な恋愛物語を好む。政略結婚であってもどうせなら色っぽい駆け引きに興じたいといったところだろうか。
 苦手であっても嫌いにはなれない。最初は花束を贈ってくれた。燿が外に出られないことを知ると、遠い地の風景や、珍しい外国の写真を持ってくるようになった。
 美しい煉瓦造りが建ち並ぶ街並みや見たことのない瑠璃色の海。どんな高価な贈り物より燿の胸をときめかせた。
 外の世界を見るため出奔する決意を後押ししてくれたのが他ならぬ彼だと、首藤には知る由もない。
「正直に申し上げて、他の方とは比べるまでもなく、あなたは魅力的な方だと思います」
「本当ですか」
「ただ、決心がつかなくて」
 大人になる日まではのらりくらりと求婚を躱す。他の求婚者はともかく、悪いところばかりではない首藤に対しては少し胸が痛む。
 けれど首藤にはもっとふさわしい結婚相手がいるだろう。自身の力で成功してきたのに、財産目当ての結婚に躍起になることはない。地位や名声だってこれから本人の力で更に掴んでいけばいいだけの話だ。
 首藤は燿から目を離さず、溜息をついた。
「仕方がない。今日は退散しますよ。お嬢様はまだ子供のようだ」
「こ、子供? 子供ではありません」
「そうですか。俺にとっては嬉しいことだ」
 つい言い返すと、首藤が意味ありげに唇の端を上げてにやりと笑った。

◇◇

「いよいよ結婚相手が決まりそう」
「それはそれは。お祝い申し上げます」
 九井に愚痴を聞かせようと切り出すと間髪を入れず祝福され、燿はがっかりした。おめでたい気分とは程遠いと、憂鬱な声音ですぐに察しただろうに。
 家が選んだ家のための婿と、否応なく結婚させられる。祖母にとっての燿はそこらの使える道具と同等だ。
 いよいよ現実となれば、九井はお嬢様にはまだ早いと反対するか、せめて気持ちを汲んで同情くらいしてくれるのではないかと、どこかで期待していた。
 九井家は夕神家に付き従うことを終生の役目としている。主筋の方針に従うのは至極当然なのは承知の上だ。
 それでも、長年の親交で湧いた情というものがないのだろうか。燿には少なからずある。きょうだいのいない燿にとって、九井は幼い頃から物事を教えてくれる兄のような存在だった。
「お祝いする気分じゃない」
「結婚前の娘はみな心が落ち着かないものです。一家の主がお決めになるのも高貴な身分の方なら当然のこと。首藤様は誰の目にも傑出した方で、お嬢様も実のところ気に入っているでしょう」
「相手がどうとかじゃなく、私はまだ結婚したくない。ろくに外を見せずに世間知らずの子供扱いして、そのくせ一人前に婿は取れだなんて、順序がおかしいよ」
「御身の安全のためです」
 九井は切れ長の目を細めて微笑し、通り一遍の返事をするばかりだ。燿が足を投げ出して不貞腐れると「はしたない」とそこだけぴしゃりと注意する。
 大事にされているのは「燿」ではなく、次期当主として生涯を夕神家に捧げる存在だ。実際、当主の梯子を外された母は護衛もつけられず外に放り出された。
 燿には羨ましく、恨めしく思う。子供の燿に重い責任がのしかかった上、親のくせに傍にもいてくれない。
 今や親より九井のほうがよほど身近な存在だ。その九井もしょせん祖母や女中達と変わらない考えしか持たないのか。
「じゃあ九井もお祖母様に結婚しろと命じられたら結婚するの?」
「ご当主は俺の婚姻に口を出されるほどお暇ではありません。ですが仮定の話として、命をいただけたとあればもちろん喜んで受け入れます」
「じゃあ、お前の親や祖父母に言われたら?」
「見合いしろとうるさく言われてはおりますが、のらりくらりとかわせばいいだけのこと。俺にはあなたを一人前に教育する責務がありましたし、家を継ぐのは兄ですので」
「ずるい、ずるい」
 聞き分けのない幼子のようにその場で地団駄を踏みたくなる。
 しきたりに縛られた家に生まれたのは同じなのに、少しの違いで九井は自由に外に出て、帝都の学校に通い、押し付けられる結婚から逃げている。
 九井は困ったように眉を下げた。
「駄々をこねないでください。あなたは貴い存在。俺とは身分が違うのです」
「知らない。交換して」
「天が定めたことです」
「ならお前が私と結婚して」
「……」
 どんなわがままにも余裕で返す九井を、ようやく一時黙らせられた。笑顔がぴくりと固まってかちりと目が合う。
「どうせ避けられないなら気心の知れた相手のほうがまし。私のことを分かっているし、立場上意に沿わないことはしないでしょう? それに秀才だし、ハンサムだし」
「……また突拍子もないことを。身分が違うと申し上げたでしょう」
「首藤様だってやんごとなき生まれってわけでもないよ。事業を成功させた能力と財力をお祖母様は重視されたんだと思う。これからの世の中は古い時代に決められた身分よりお金を稼ぐ力が大事だって、九井だって言ってたでしょう。九井がお金持ちになればいいんじゃない?」
 完全な思いつきだったが悪くない案に思えた。
 祖母も古い世代の人間だが気取った華族ほど身分には拘っていない。九井くらい優秀なら首藤のように成功するのも夢物語ではないと思えるし、仕事が落ち着くまで結婚を待ってほしいと頼めば時間稼ぎにもなる。
「どう? 九井はお祖母様に気に入られているし、ありえない話じゃないと思わない?」
「ありえません。想像するのも憚られる」
「まあ酷い」
「それに、首藤様こそが俺などよりよほど稀有な商才をお持ちの方でしょう。異国の技術や考え方も学んで柔軟に取り込んでおられる」
「首藤様は確かに若いのにすごい人だし、なかなか美男子だし、きっと今後も成功するんでしょうけど。お前が劣ってるとは思わない」
 九井は眉を顰めた。
 分かっている。彼が燿と結婚するなんてありえないと。ただ少し、笑顔で結婚を祝う九井を困らせたくなっただけだ。
「彼はあなたを幸せにしてくださいますよ」
「九井はしてくれないの」
「お嬢様……お戯れもほどほどになさってください」
 お嬢様なんかじゃないと無性に叫びたい。 そうしないだけの理性はある。一族以外に秘密を知らせるのは禁忌だ。九井を困らせたいけど、彼の立場を窮地に陥らせたくはない。

◆◆

『九井! おかえりなさい』
 九井が帝都の学校に入学したことは燿にとって大きな損失だった。
 家の者達は燿に男を寄せ付けない。例外は身内と限られた上級使用人だけで、九井は数少ない例外の一人だった。
 色々なことを教わった。時には遊び相手になってくれた。今のように憎まれ口を叩いたりしなかったので、純粋に彼を慕っていたように思う。
 まだ幼い燿が、門の前で今か今かと帰省を待っていた姿を見つけ、少年期から青年に差し掛かった九井が目を瞠る。
『お嬢様、まさかずっと待っていらしたのですか。いけませんよ、お風邪を召されたら大変だ』
『だって、がっこうのお話が聞きたくて』
『俺の話なんていつでも聞かせて差し上げますから。ほら、こんなに手を冷たくなさって。入りましょう』
 主筋の子供を待ちぼうけさせたことに、まだ世間擦れしていない九井は慌てて手を差し出した。直接触れ合うのが許されたのはほんの子供の時分だけで、この頃が最後だった。
『帝都ってどんなところ?』
『一言では言い表せません。目覚ましく日々発展しており、異国風の建物もどんどん建てられていて、日本橋など人が溢れていて歩くのもやっとでした』
『すごい。見てみたいな。どのくらい人がいるの?』
『さて……数え切れないくらいです』
『それは大変。うちに向かう橋なんて、四人か五人が乗ったらこわれてしまうんでしょ。帝都の橋はこわれないの?』
 九井が優しく笑って温かいお茶を手ずから出し、帝都で買ってきた洋菓子をくれた。
 燿が外に強い憧れを抱くに至った要因は九井にもある。
 いつからか九井は仮面のような笑顔を貼り付け、誰に対しても慇懃に振る舞い本音を見せなくなった。
 帝都の汚れた空気を吸ってすれてしまったのだと陰口を叩く者もいる。燿も帝都で生活したら、九井のようにのらりくらりと器用に生きる術を身につけられるだろうか。

◆◆

 十八の誕生日を迎える前日に、燿はついに計画を実行しようとしていた。
「では今日の授業はここまで」
「ありがとう。九井、感謝してる」
「……なにを企んでいるのです」
 九井の顔も見納めだと内心感慨に浸るとあっさりと異変を見抜かれてぎくりとする。
この男は並外れて鋭いのだった。
「な、何も。お礼くらい言ったほうが、明日は手加減してくれるかなって」
「明日は特別な日でしょう。残念ながら授業はできません」
「そうだったね」
 燿は視線を泳がせる。成人したら祖母のご機嫌次第でいつ結婚させられるか知れたものではない。
「お嬢様の様子がおかしい……さて、ご当主に報告すべきか」
「や、やめて九井。なんでもするから」
「ああ、それは決して使ってはいけない言葉ですよ。嘆かわしい」
「ごめんなさい。九井、お願い……明日を考えて少し不安定になってただけ。許して?」
「……仕方がない」
 九井が額を押さえた。「お願い」を聞いてくれるのは珍しい。いつもは「そんな顔をしてもダメです」と突っぱねてくるから。

「お嬢様、それでは失礼いたします」
「ご苦労さま、フミ」
 仕事の減る夜になると女中達が居室に戻り、母屋から人影が消える。
 狙い通りに車が停まっていることを確認した。
 十日に一度ほど、外から食料品や日用品、番頭や女中の仕事道具等が積まれて運ばれてくる。帰りの車の荷台はがらんとして、燿一人が乗り込むには十分だ。
「……よし」
 ありったけの物資を詰めた重い鞄を背負い、足音を立てずに部屋を出る。
 大半を籠の中で過ごした鳥に飛び立つ力も意欲もないと、誰もが侮っている。四六時中見張りをつけられているわけではなく、車に近づくのは拍子抜けするほど簡単だった。
 逸る気持ちを押さえて最大限に警戒し、幌のかかった荷台に足をかけようとした。

■首藤編へ

■紀彦編・九井編へ

■勇夜編へ


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