異世界に捧げる秘薬 サンプル



  一 日常
 
 ねずみ色の厚い雲が太陽を隠し、午前中は晴れていた空がどんよりとしている。一雨くるかもしれない。制服姿の内木海里は足を速めた。サイズの合っていない眼鏡がずれてしまい、手で抑えながら走る。
 バイトのシフト時間はいつもギリギリに入れており、学校が終わったらまっすぐ向かわなければ間に合わない。時給が安いなりにできるだけたくさん稼ぎたいからだ。雨に濡れた体を拭いている時間などはない。
 物心ついた頃には海里に両親はいなかった。六歳までを児童養護施設で育ち、その後里親に引き取られた。里親は幼い海里から見たら立派な一軒家に住んでいて、夢だった自分の部屋がすぐに与えられた。
 義父は大きな会社に勤めていて、義母は働きには出ず専業主婦をしている。二つ年上で、快活で両親に愛されている兄もできた。
 傍から見たら理想的と言える家族に放り込まれて、だけどそれで幸せになれたわけではなかった。海里と彼らは、本当の家族にはなれなかったのだ。

「おはようございます……」

 バイト先であるファミリーレストランの裏口からそっと中へ入る。挨拶に返事をする者はいなかった。いつものことなので身を小さくしながらロッカールームで着替える。
 ロッカーの扉の裏についている小さな鏡には、陰気臭い顔が映っている。本当は鏡を塞いでしまいたいくらい自分の顔なんて見たくない。海里は俯きながらいそいそと着替えた。

「あれ、内木君いたの? 相変わらず暗いねー」
「……お、おはようございます」

 大学生のバイトに話しかけられ、少しどもってしまった。口下手な自分が嫌だ。年上の男には特に苦手意識があって向かい合うと萎縮してしまう。こういう、いかにも明るくて声が大きく、華やかな交流関係を持っているようなタイプは最も苦手だった。
 いつも気の利いた返しの一つもできない海里に大学生は失笑して着替え始める。海里は逃げるようにロッカールームを出て職場に向かった。
 厨房ではスタッフが忙しなく働いている。洗い物がかなり溜まっているのを見てすぐに皿洗いを始めた。高校生や大学生はホールで働いている者の方が多いが、海里に接客業はとてもできない。本当はもっと人と関わらず作業できる仕事がよかったが、高校生では選べるバイトも限られていて妥協せざるをえなかった。
 皿やグラスを手早く洗っては洗浄機に入れ、フルで稼働させる。皿洗いは得意なほうだと思う。家でいつもやっているからだ。

「皿足りてねえぞー。――って、内木君か。トロトロしてるなよ」
「す、すみません」
「はあ、聞こえないな。いくら裏方だからって、ボソボソ喋ってんじゃねえぞ」

 学生時代はバリバリの体育会系だったという店長が荒い口調で叱ってくる。こういう人も苦手だ。いつも声が大きくビクビクしてしまう。
 元々洗い物が溜めこみすぎだったのだ、こっちは精一杯やっている――と頭の中でだけ文句を言う。一度少しだけ反論を試みたことがあったが、高圧的に睨まれて余計惨めな気分になっただけだった。言っても無駄なら何も言わないほうがいい。
 その後も店長や他のバイトに時々どやされながら、高校生が働いていられる時間までひたすら皿を洗った。バイトを始めてから手はすっかり荒れて治る暇もない。

「お疲れ様でした……」

 上がりの声にもやはり返事はなかった。先程の大学生は女子高生のバイトと雑談していて、こちらをちらりと見たがすぐに何もいないかのように目を逸して話続けていた。
 すっかり暗くなった夜道には雨がしとしとと降っていた。家に帰る足取りが余計に重くなる。バイトは疲れるし神経もすり減るが、給料のためと思えば多少辛くても耐えられるし、どうしても嫌になったら辞めて逃げることだってできる。だけど家庭というのはそうはいかない。

「ただいま」
「あんたか。ただでさえ天気が悪いってのに辛気臭い顔して、ああいやだ」

 帰宅した途端、義母から嫌味が飛んできた。慣れているとはいえ嫌な気分になってしまうのは変わらない。

「すみません……片付けやります」
「いちいち言わなくていいんだよ」

 海里は夕食の後そのままになっているテーブルを片付け、洗い物を始めた。バイトでも皿洗いをして、家でも皿洗いだ。荒れた手がズキリと痛む。
 海里が里親に愛されることはなかった。義父は基本的に無関心で、仕事のストレスが溜まっているときに思い出したように八つ当たりをしてくるくらいだ。そんなときだけ義父は海里を見る。
 義父はまだいい方で、義母は海里を小間使いのように扱って嫌味を言いながら家事をやらせる。性格も元々ヒステリーのきらいがあり、年々酷くなっている気がする。

 幼い頃は親の愛情を求め、何とか好かれようと努力していた。いい成績をとったり、似顔絵を描いてプレゼントしてみたり、気をひきたくていたずらをしたり。でもどれも上手くはいかず、むしろ養父母を苛立たせるだけだった。義兄が同じことをしたときとはまるで反応が違う。自分では駄目なのだと思い知らされることの連続だった。
『こっちは施設にいた可哀想なお前を引き取ってやったんだ。悪さするようなら追い出してやってもいいんだよ。どこにも行き場なんてないだろうけど』
 そう言われたときはさすがにショックだった。やがて海里は何かを期待するのをやめた。仕方がないのだ、本当の家族ではないのだから。置いてもらえなければどこにも居場所はないのだから。そう自分に言い聞かせて。
 そうして卑屈であからさまに怯えた態度をとるようになると、余計両親から疎まれるという悪循環が生まれた。

「終わったならさっさと部屋に行きな。あんたの顔なんか見たくないよ」
「は、はい」

 海里は静かに階段を上った。自分はドンドンと踵で音を立てて歩くのに、海里が音を立てるとヒステリックに怒鳴られるので気をつけている。怒鳴られるのは嫌いだ。いちいちびくついてしまう。
 だけど海里にとって最も苦手なのは義母でも義父でもなく。

「おかえり、海里」
「あ……」

 顔を合わせないようにすぐ部屋に入るつもりだったのに、隣の部屋から出てきた義兄、真司に呼び止められた。
 血のつながりはないのだから当然といえば当然だが、真司は海里とは全く別の人種だ。背は海里より十センチ以上高く、目鼻立ちは整っているうえ社交的で、華やかな雰囲気を纏っている。現在は都内の有名私大に通う大学生だ。

「遅くまでバイト大変だったね」

 一見すると弟を気遣う優しい兄そのものだ。その爽やかな笑顔を見ていると胸がギリギリと痛んだ。
 この真司によって、今の海里の人格は形成されたと言っても過言ではなかった。
 初めて会った時は、優しそうでかっこよくて、一緒に遊んだら楽しいに違いない兄ができたのだと喜んでいた。それはおめでたい間違いでしかなかった。
『お母さんにぶたれたの? 可哀想。いくら君が血の繋がってない他人だからって』
 初めて義母に頬を打たれて泣いていたとき、優しくそう言われたのをやけに鮮明に覚えている。
『学校でいじめられたんだって? 可哀想に。そんな奴らとはもう喋らなくていいよ。お前が喋るから苛つかせるんだ』
『あんまりいい成績をとると、むしろ母さんは機嫌が悪くなるかもね。あの人は学歴にコンプレックスがあるから。必死にいい点なんてとっても何の意味もないこと分かった?』
『俺に似てないってからかわれた? それは本当の兄弟じゃないから仕方ないね。ずっと下を向いていればその顔を見られなくて済むんじゃない』
 あくまでも口調は優しかった。無関心な義父とヒステリックな義母。愛情に飢えていた海里は、真司に可哀想と言われ頭を撫でられると愛されているような錯覚を抱き、逆うことができなかった。ただ見下され、憐れまれているだけだと何となく気づいた頃には遅かった。海里は養父母にも、他の誰にも意見が言えないような人間になっていた。
 そんな中でも一番恐ろしいのはこの真司だ。彼は気まぐれな一言を発するだけで、海里をどん底まで突き落としてしまうことができるのだから。

「かなりバイト頑張ってるみたいだけど、何のためにそんなにお金貯めてるの?」
「……っ、家に、入れて、後は色々……」
「家に入れてるのは半分くらいだろ? 色々って何? 服とか趣味には全然使ってなさそうだし」

 真司は海里の姿を眺めて失笑した。確かに海里は身だしなみに無頓着で着古した服を着ていて、夢中になれる趣味も何もない。
 本当は、家を出るためにお金を貯めている。まだまだ一人で生活していくには心許ない額だが、たとえ十分に貯まらなくても高校卒業と同時にこの家を出る。以前から決めていることだった。

「家を出たい、なんて言わないよね?」
「そ、そんなこと……」

 真司に言い当てられ、どもってしまう。毅然と言い返せない自分が嫌だ。

「――お前には無理だよ。お前みたいなのが、どうやって一人で生きていくつもり? 誰も助けてなんてくれないよ」
「……」

 真司の声と言葉が急に冷たくなって、海里は唇を噛んだ。いつもこうだ。海里が一人で何かしようとすると完膚なきまでに否定される。

「返事は?」
「俺は……」

 何も言えなかった。実際のところ、一人になってどうするのだろう。家を出たいということばかり考えていて、その先の計画などまともに立ててはいない。
 海里は何をやっても駄目な人間だ。養父母も真司も、バイト先の連中も学校の同級生も、皆嫌いだ。でも一番嫌いなのはどうしようもない自分自身だった。


「え……?」
「だからさ、もう次から来なくていいよ」

 その日も学校帰りにやってきたバイト先で、突然非情な宣告を受けた。

「新しい子が二人入ったんだよね。やっぱり高校生だと時間の融通がきかないしさ」
「そんな」

 見ると、事務所に大学生くらいの女性が二人座っていて何となく察してしまった。店長は日頃から女を露骨に贔屓するところがあったし、そうでなくても海里は軽んじられているのは分かりきっていた。

「でも俺……お金を稼がないと……」
「それは分かるけど、うちも厳しいんだよ。君もうすぐ高三だろう? 受験生なら受験に専念したほうがいいんじゃない」

 いきなり辞めさせることに多少は気まずさがあるのか、店長はそれだけ言うとさっさと顔を背けて行ってしまった。
 どうすればいいのだろう。また一から新しいバイトを探すのか。この辺はベッドタウンで駅周辺にも店は多くなく、選択肢は限られる。接客業なんてできると思えないし、そもそも採用されるとも思えない。新しい仕事は見つかるのだろうか……。
 海里は重石を乗せられたような気分で帰路についた。

「遅い! さっさと片付けてよね、臭くなったらどうするの」
「……」
「返事は!? 何なのその態度、誰のおかげで家にいられると思ってるの」

 沈んだ心に金切り声で追い打ちをかけられる。好きでこんな家にいるんじゃない。そう叫びたかったのにこんなときですら何も言えない。家族の前では特に萎縮してしまう。そんな自分が嫌で家を出ようとしていたのに、未来には暗雲が立ち込めている。

「はぁ……」

 片付け終わると逃げるように部屋に戻って制服を脱ぎ捨て、そのままベッドに横たわる。もう疲れた。指一本動かしたくない。

「入るよ」

 ノックに返事もしていないうちに、真司が部屋に入ってきた。勝手に入られるのが嫌で一度鍵をつけたことがあったが、こんなもの勝手につけるなんて生意気だと養母に怒られすぐに取り外されてしまった。
 海里は沈んだ気分のままのろのろと体を起こす。

「……どうしたの、そんな恰好で。何か嫌なことでもあった?」
「……」
「嫌なことばっかりか、お前の人生なんて。可哀想に酷い顔をしてるよ」

 真司が憐れみの笑みを浮かべる。

「もしかしてバイトをクビにでもなった?」
「……っ」
「当たりか。お前がまともに働けるとは思えなかったしね。これ以上迷惑掛ける前にやめてよかったんじゃない」

 言い当てられ、かっと頭に血が上った。

「で、出て行って……」
「何?」
「もう寝たいから……出て行ってほしい」
「――お前が俺に指図するの?」

 出ていくどころか、真司はドアを閉めると近寄ってきてベッドに座った。間近に迫られて体がびくりと強張る。真司は傷跡が残るような暴力らしい暴力を振るったりはしないが、服従させるために多少痛い思いをさせることは平気でする。何より痛いのは言葉の暴力だ。びくついてしまうのは長年の抑圧による条件反射のようなものだった。

「なあ、お前はずっとこの家にいればいいんだよ。母さんに虐げられてこき使われて、父さんにはいないもの扱いされて、それでも何もできない取り柄のないお前が食うに困らない生活ができるんだから、それで十分だろ? 俺も気が向いたら構ってあげるよ」

 真司は海里の眼鏡を外すと、微笑みながら目を覗き込んでくる。昔「媚びたような目が気持ち悪い」と言われて以来、外ではずっと眼鏡をかけている。取り上げられると丸裸にされたような気分で余計不安になる。

「相変わらずだな、その目……。それに、間抜けな恰好して。みっともない」

 指摘されて上半身裸だったのを思い出す。海里はとりあえず何か服を着ようとしたが、真司に肩を押され動きを制される。

「なにっ……」
「ていうか何その乳首。真っピンクじゃん」
「っ……」

 頬がかっと熱くなる。確かに海里の乳首はくすんでいない赤ん坊のようなピンク色だ。体育の着替えのときクラスメイトに馬鹿にされてからコンプレックスになっていて、できるだけ男からも見られないようにしていた。
 海里は咄嗟に両腕で隠したが、その動作は真司の嗜虐心に火をつけてしまった。

「何、女の子みたいに隠して。オカマ? お前の乳首に隠す価値なんてあるかよ」
「やっ、やめっ……」
「それとも女の子みたいに敏感なのかな。触ってあげようか」

 ぞくりとして、何故か乳首に切ない感覚が走った。それをされてはいけないと本能的に感じた。だけど愉しげな様子の真司は海里の拒絶など意にも介さず、乳首に手を伸ばした。

「あぁんっ

 乳首に触れられ、指の腹でぐりっと擦られた瞬間、勝手に口から聞いたことのないような声が漏れていた。
 真司も一瞬目を瞠り、沈黙が落ちる。

「……何、その声? ホントに乳首で感じちゃったの? きっつ」
「ちがっ……あッあッあぁっ……

 くにっ……こすっ、こすっ、くにくにっ……
 否定したそばから乳首をこね回され、切ないような強烈な感覚に声が抑えられない。腰までビクビクと揺れ、感じているのがまるわかりだった。

「あッあッ……ふぁっ、んっ、ああぁ……っ
「何が違うんだよ……。こんなに勃起させて、俺がぐりぐりするたびに喘いでるのに」
「アアッ……あんっあんっやっああーっ……
「こんな体じゃ一生女とヤれないな。女より敏感なんてキモがられるよ絶対。まあ乳首関係なくお前じゃ無理か」

 真司はいつも以上に饒舌に海里を責め、乳首を弄る動きも遠慮がなく激しくなっていく。
 こすっこすっ、くに、ぐに、ぐに、くりっくりっくりっくりっ
「あああっ……あッあんっやっ、ちくびっだめ……っあッひあぁんっ……
「そんなに気持ちいい? いいならいいって言えよ」
「あッやぁっあッあんっふあっうぁあッ…

 真司は両方の乳首を指で摘み、左右にひねり、擦り、摘んだまま指先で弾き、押しつぶす。初めに触れた時はからかうようだった指の動きが、今は感じさせるための執拗な愛撫に変わっていた。

「ひあッあッあんッあひっああッ乳首っ、変っあッあぁんっ
「ほら言えよ、俺に乳首ぐりぐりされて感じるって、ほらっ」

 くにっくにっ、ぎゅむっぎゅむっぎゅむっ、ぐりっぐりっぐりっぐりっぐりっ
 心なしか真司にもいつもの余裕が感じられず、声が低く熱っぽくなる。搾るみたいに激しく擦られ、押しつぶされ、イったみたいに気持ちよくてこの瞬間は真司への恐怖心すら忘れた。

「ああぁんっ……いいっきもちいっあひっあッちくびっいいっあッあぁんっ
「本当に言った……淫乱。誰にどうされて気持ちいいの?」

 海里の頭の中は快感で支配されていた。真司に乳首をいいように弄られてものすごく気持ちいい。
 そういえば、もうここ何年も真司のことを呼んでいない。外で兄さんと呼んだら、「お前と兄弟だと思われたくない」と冷たく言われたからだ。
 もっと小さい頃は、真司のことを――。

「ああぁっ……ひあぁっ、おにいちゃんっ、お兄ちゃんにっ、乳首くりくりされてっきもちいっあッいいっああぁんっ

 乳首の快感で全身を蕩けさせながら、海里は口走っていた。気持ちいいと口に出すとよけい気持ちよくなる。乳首が性器になっている。

「……、気持ち悪い」
「ああぁんっ!おにいちゃっ……はぁッあッあんっあんっあんッあぁんっ
ぐにっぐにっぐにっぐにっ くりくりくりくりくりくりくりくりくりくりっ
 気持ち悪いと思われて当然だ。だけどいやらしい声と言葉はもう抑えることさえできない。真司と目が合う。その表情は嫌悪感というより、興奮でギラついているように見えた。


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