※2ページ目はシーンを抜粋しており、繋がりがあるものではありません。


背徳の小さな部屋 サンプル 02


ルカが生まれたのは国の北西部にある田舎の村だった。北側には山脈が高い壁のようにそびえ立ち、南側には農業に適した土地が広がっている。
 村人の多くは土を耕し、ヤギの乳を搾り、鶏に卵を産ませる。贅沢な暮らしとはいかずとも、ここ十数年は大きな災害や飢饉に見舞われることもなく平穏な時が流れている。
 神のご加護だ。
「私は都に行ってみたい。この村ってなんにもなくて退屈だもん」
「そんな格好で都会に行ったら馬鹿にされるよ。どこの田舎者が大きな芋を売りに来たのかしらって」
「服なら自分で作るもん。裁縫は得意なんだから」
「俺は行きたくないな。学がないやつが都会に出ても文無しで乞食になるだけだって父ちゃんが言ってたぜ」
「なによいくじなし」
 子どもたちが畑の横の遊び場に集まって談笑していた。
 彼らは大まかに二つに分けられる。ここで生きていくことに疑問を持たない者と、都会という別世界での生活に憧れる者。ませた女の子は後者が多いようだった。現実には大人になれば見知った顔から結婚相手を見つけ、家族の土地を受け継いで生きていく者が多数を占めている。
「ラウロは優秀だからきっと偉くなるわ」
「騎士団長様になって悪いやつをぶちのめすのね!」
「いや、ナントカ大臣になって、この村を発展させて、綺麗な街にしてほしい」
「夢のある話だね。平民上がりには難しいと思うけど、出世はしたいな」
 喧騒を横目に、ルカは聖書を読みながら通り過ぎた。
 ルカは農夫にはならない。だからといって立身出世を夢見て都会に出ることもない。神父になるのだ。小さいときから定められている。
 この村に教会はない。ルカは毎日のように歩いて隣村の教会まで通っていた。
 他の子より大人びた声が、立ち止まることのないルカの背中にかけられた。
「ルカ。これから川に行くのだけど、一緒に遊ばない?」
「……いいえ」
「あの子は誘ってもムダだよ。俗世の遊びには興味ないんだって」
 振り返ることなくいつもの道を行く。ルカは狭い村の中で浮いていた。夏でも長袖を着ていて、顔は子供らしくなく紙のように白い。いつも聖書を持ち歩き、木登りもかけっこもしない。それが当たり前のことだった。
「今日も来たのですね、ルカ」
「はい神父様」
「熱心なのは素晴らしいことですが、時には友達と遊んでもいいのですよ。神はあなたの敬虔さを疑ったりはしません」
「いいえ、僕はここに来たいのです」
「そうですか。ではともに祈りましょう」
 ルカにとって、村の子どもたちより隣町の神父のほうがずっと親しめる存在だった。
 彼の顔を見ると心が落ち着き、神に祈りを捧げれば時間はあっという間に過ぎていく。
「ルカ、帰り道には気をつけて。お母上にこの薬を渡してください。心が安らかになるでしょう」
「感謝いたします、神父様」
 教会にいるとき、ルカはより正しい自分になれる気がする。帰るときは後ろ髪を引かれる気分になる。
 しかし母にはルカしかいない。決まった時間に帰らないとすぐに心配をかけてしまう。薬を懐にしっかりと仕舞って家路についた。
 
「おかえりなさい。今日も敬虔な信徒でしたか」
「はい母さん」
「素晴らしいことです。では神に感謝しながら食事をしましょう」
 ルカの家は村の隅の方にある。豊かとはいえない他の村人の家と比べても、小屋と揶揄されるほど小さな造りだ。それでも雨風は防げるし――たまに雨漏りはするが――清貧に生きていくには十分だ。
 蝋燭一本の薄暗い灯りの中、ルカは今日も神様に感謝を伝えた。
 
 ◇◇
 
 ルカが神学校に旅立つ季節と時期を同じくして、ラウロは王都の寄宿学校に入学を決めた。
 寄宿学校には多くの貴族の子息が通い、平民にとっては狭き門だという。彼の家族は大喜びして触れ回り、村で祝いの席が設けられた。
 ルカは行かなかった。酒を飲んで騒ぐような不埒な集まりには近寄らない決まりだった。母は酒と大人の男が嫌いなのだ。
「ルカ」
 旅立ちの前日。神父に挨拶を済ませた帰りに、ラウロから呼び止められた。
 ラウロはルカよりいくつか年上で、村の中では裕福な家の子だ。聡明で要領がよく、村の学校で教えているような勉学はあっという間に修めてしまった。
 年頃の近い女の子の多くが彼に憧れていた。男の子でさえ、遠くに行ってしまうと聞いて泣き出す者もいた。
 皆のお兄さんのような存在のラウロが、ルカは少し苦手だった。別に嫌なことをされたわけではないのに。
「ルカはどうして神父になりたいの」
「生まれたときから定められているからです」
「どうして定められていると分かるの? 生まれたときの記憶なんてないよね」
 ラウロの声は澄んでいて、純粋に疑問に思っているようだった。けれどルカは、浅はかさを見透かされて責められているような気がして居心地が悪かった。
「僕は王都に出て勉強して、出世して金をたくさんもらいたい。別にこの村を豊かな街にしようなんて壮大な夢は持ってないよ。ただ都にいい家を建てて、いいものを食べて、ふんぞり返っているだけの貴族に土をつけて、いずれは国の制度を変えてやりたい。君からしたら低俗な欲望としか思えないかもしれないけど」
「いえ……人は誰でも欲を抱くものですから」
「君の欲は? 神父になったら僕が言ったような利己的な欲求は抱くことも許されないのだよね。一生姿も見られない神様に尽くすだけで満足できるの?」
「いいも何も、決まっていることです。母さんからずっと言い聞かされてきた」
 ルカの母親は彼に神父以外の道があるとは教えなかった。物心ついてから、いやきっと生まれてすぐから、「あなたは神父様になるの。低俗な穢れとは無縁の場所で神に仕え、人々を正しく導くのよ」と毎晩のように聞かされてきた。
 ルカに父親はいない。母の教えが全てだった。
「お母さんの言うことは全部聞くの? 大人だっておかしなことを言うことはあるよ。むしろ子どもより嘘つきかもしれない。君が信じて人生を捧げる相手は本当に神様? それともお母さん……、いや、あの神父様かな」
「……何故、そのようなことばかり訊くのです」
「知りたいから……ずっと、他人に興味を示さず聖書を読んで教会に通う君を見送ってきたけど、本当はもっと、話をしてみたかった」
 だから嫌なのだ。ラウロはルカの平常心を乱す。人付き合いの少ないルカにとって、母親と彼くらいしか指針がない。二人はそれぞれまったく違う方向を向いている。
 ラウロが絡んでくる理由がよくわからなかった。村では数少ない同世代の男の子だから? 彼が今時の子どもらしく信仰心が薄く、神父という職を嫌っているから?
「……とにかく僕は神父になる。決まっていることだから」
「そう。本当に君がそうしたいと言うならいいんだ。ごめんね、大事な祈りの時間を奪って。今まで鬱陶しかっただろ」
 ラウロが去ろうとしている。散々気にかけて構ってきたのに、別れの日までこの態度では愛想を尽かされて当然だ。
 ルカは衝動的に彼の腕を掴んだ。今日は眩しいほどの日差しで、握った手も熱かった。
「――あの」
「ルカ?」
「……話しかけてくるのが、嫌だったわけじゃないです……。ただ僕は、川遊びにも冒険にも行けないから。……本当は一度くらい、行ってみたかった」
 最後だから。ルカは子供らしい高い声を掠れさせ、本心を吐露した。
 母親は遊ぶ暇があるなら聖書を読めといつも説いてきた。言われたとおりにしてきた。神父になるための勤めを放り出して遊ぶなんて許されない行為だ。
 興味なんてないと、ラウロに声をかけられるたびに自分に説教してきた。揺るがない心があればそんなことを考える必要もなかった。
 少しして、ルカの指が握り返された。
「だったら、今から行こう」
 間違いなくルカを堕落させる誘惑だった。すぐさま拒絶できず見上げると、顔に影が落ちてきた。
 ラウロの唇が、ルカの唇に触れた。
「――え……え……?」
「神父になったらこんなこともできなくなってしまうよ」
 唇はすぐに離れて、近くで囁かれる。ルカは泣きそうになった。他人に触れられるのは汚らわしいことだと、うんざりするほど聞かされてきた。男であろうと女であろうとだ。
 ラウロの青緑の瞳は宝石のように輝いて見えた。いけないものなのに目が離せない。ラウロもルカを見ていた。
「イヤだった……?」
「僕……僕は……」
「何してるのルカ! 早く帰って出発の準備をしなさい。祈りの時間に間に合わないわ」
 離れた場所からでも甲高い声はよく響いて、ルカは唐突に現実に引き戻され一歩後ずさった。
 母に見られなくて本当によかった。母はラウロのことをよく思っていないらしい。寄宿学校に入ると知ってからは余計に、彼に対する言葉に棘が目立つようになった。
 禁じられた行為の只中にいる気がしてラウロを見ていられない。心臓が早鐘のように鳴り続けていた。
「帰らなきゃ……」
「――そう」
「ラウロも、頑張って……神のご加護がありますように」
「ありがとう。でも僕は神様に嫌われていそうだから自力でやっていくよ」
 会話が終わるまで、ラウロは律儀にルカの指を握って離さなかった。
 これから二人とも数年は閉ざされた空間で育ち、卒業後はどこに配属されるかも分からない。今生の別れになる可能性が高い。
 ――それが何だというのだろう。すべては神の思し召しだ。
「……さようなら」
 いつまでも触れられた感触が消えなかった。ルカはひたすらに主に祈りを捧げた。
 
 ◇◇
 
 村の外はルカにとって知らないもので溢れていた。母に聞かされて想像してはいたものの、幼い想像力ではほとんど及ばなかった。
 初めて見る大聖堂には圧倒され、神の力を感じた。神学校の校舎と宿舎はまぶしいほど白い石造りで、すべてを目に収めるには仰ぎ見なければならなかった。村のまわりでは見たことがないほど大きく立派だった。
 神学校は清らかな心を持つ少年たちの集まりである。村の子ども達と違ってあなたと同じ、と聞かされていた話は、現実とは少し違っているとすぐに分からせられた。
「お前、どこから来たんだ? 随分みすぼらしい身なりをしているが」
「フィエル村から来ました」
「知らないなあ。お前たち知っているか」
「さあ。地図にも載ってないんじゃない」
 最低限の荷物を持って神学校にたどり着いて間もなく、ルカは目をつけられてしまったらしい。
 胸を反らせて声をかけてきた男子の身なりは確かにまったく違っていた。清潔な白いシャツ、臙脂色の上質そうなベストに同色のリボンタイ。靴は黒くピカピカした革に装飾が施されて、とても農作業や家畜の世話はできそうにない。細かい刺繍が施された贅沢な服は貴族にしか許されておらず、世間知らずな平民にも一目で身分を知らしめてくる。
「フィエル村はここから北西にある小さな村です」
「そんなところからよく神学校に入れたな。親は? ああ、俺の名はフェルナン・バルリエ。南に領地を持つ伯爵家出身だ。ああ、様はつけなくていいよ。身分は関係なく神に仕えるということになってるからな。建前は」
「……、僕は家名も持たない平民ですが、神に仕える心だけはあります」
 数人がくすくすと嘲笑を浮かべる。中心にいる貴族の少年は、蔑みと哀れみが混じった目を向けてくる。
 フェルナンが少年たちのリーダー格らしい。服装も態度も人一倍立派で、紫の大きな目から自信が漲っていた。
 同じように周囲を人が取り巻いていたけれど、態度はまるで違っていた少年をルカは知っている。品性に生まれ育ちは関係ないのだろうか。彼を思い出しかけて苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。
 フェルナンは紫の目を眇め、表情が歪んだ。
「なんだその顔。本来なら、お前は俺と口をきくことも許されない身分なんだぞ」
「そうだそうだ。お前みたいなやつがいると、神学校の価値が落ちるんだよ」
 ルカは虚を突かれた想いだった。この先やっていけるのか一抹の不安が過る。
 周囲を見回してみると自分とは違う身なりのいい子どもが多かった。
 ルカが神学校に入ることができたのは隣村の神父が熱心に推薦してくれたからだ。近辺には他に聖職者を志す若者がおらず、運にも恵まれた。彼には権力欲がなく、ひっそりと小さな教会を守っていたが、かつての教え子や同僚が教会中枢におり、その伝手で推薦が通ったのだと知ったのはもう少し後の話だ。
「……あなた達と話せなくても構いません。僕は神に祈り、仕えるために来ました」
「なんだと」
 フェルナンが眉を吊り上げた。話をするのはこれが最初で最後かと思っていたが、狭い世界である。その後も何度か嫌味を言われ、揉め事に発展しかけたこともある。
 ルカは成績優秀であった。聖書は幼い頃から何度も何度も読み返して諳んじられるようになっていたし、ひたすら学ぶことだけを考えていたから当然と思っていた。
 成績の書かれた紙を特に感慨もなく眺めていると、数人の学生に囲まれた。
「お前が二位だって? なにかの間違いだろう」
「分をわきまえろ」
 やはり中心にいるフェルナンが、紙を取り上げて眼の前で破り捨てた。彼は少しだけ高い目線から、実際には遥か上から見下しているかのように言う。
「お前にこんな評価は要らないだろう。どうせ片田舎の寂れた教会で、字も読めない農民相手に聖書を読み聞かせる仕事が関の山なのだから」
「……そうですね。僕はそのために学んでいるのです」
 静かに返すと、フェルナンが顔をしかめた。
 何がそれほど気に食わないというのか。彼こそが、最優秀生として皆の前で褒めそやされたばかりだというのに。
 取り巻きたちは「人の答えを盗み見たんだろ」「平民は隅で縮こまっていろ」とルカを責め立てる。
 要するに、優秀な貴族のフェルナンに次ぐ成績を取ってしまったのがルカである事実がいけなかったのか。
「お前など、村に帰って家畜の糞でもさらっていろ」
「……」
 フェルナンが吐き捨てた。それはできない。ルカは、他の者たちが自然にやっているように、家の力関係を考えて立ち振る舞う処世術は持ち合わせていなかった。
「あいつは司祭相手に、特別な手を使ったんだ」
 名前も知らない一人がひそひそと陰口を叩き合う。意味は理解できなかった。

 〜〜中略〜〜

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