学園GIVE ME!3 サンプル



 梅雨が開けた頃、今年は猛暑になりそうだとテレビの中の気象予報士が深刻な顔で言っていた。できれば外れてほしい予報は当たっていたらしく、ここ数日暑い日が続いている。
 季節は夏本番。もうとっくに日は落ちているのに、座っているだけで汗が滲み、湿度の高いじっとりした空気が纏わりつく。
「はぁ……」
「どうかした?」
「い、いや。暑いなあって」
 隣に座る悠に苦笑いを返す。寮の談話室には寮生がたむろしていて、あちこちから声が聞こえているというのに、悠は誠人の溜息一つ聞き逃さない。
 悠といえど今は密室で二人きりになることはできない。一番親しい友達でも――いや、友達だからこそ、だ。
 なにせ誠人は、「いつ男を発情させるか分からないフェロモン体質」という、ふざけた体を絶賛維持中だ。
 胡散臭い先輩が作った、胡散臭いことこの上ない薬はしかし、とんでもない効力を発揮して衰える気配がない。フェロモンのせいでこれまで何人もの男を巻き込んで、口に出すのもはばかられる行為を至してしまった。
 元凶である化学部部長にしてマッドサイエンティストの佐原は、いずれあの薬で商売をする気満々らしいが、あんなものを世に出したら大げさでなく大混乱を招くだろう。
 だが誠人にとっては世の中の未来を憂うより、自分自身の体が大事だ。厄介なことに薬は偶然の産物らしく、解毒薬もいつできるか分からないという。
 辛い現実に落ち込んでいると、目の前にひんやりしたものが差し出された。
「はい、誠人」
「ん?」
「ぼうっとしてるから、夏バテしてるんじゃない?」
 確かにぼうっとしていた。その間に悠は自動販売機で飲み物を買ってきてくれたらしい。熱中症対策にも推奨されているスポーツドリンクだ。
 じんと胸が熱くなる。悠には嘘や誤魔化しを重ねているというのに、ずっと変わらず優しくしてくれている。
 口が裂けても夏バテというよりセックスバテであるという事実は言えない。
「ありがと、ちょうど喉乾いてたんだ」
「どういたしまして」
 実際、淫らな行為を思い出して喉が乾いていた。甘く柑橘の匂いがするスポーツドリンクが喉を流れていくのが気持ちいい。
 悠の穏やかな視線を感じると、少しだけ落ち着かなくなる。かろうじて一線は越えていないものの、風呂場で誠人が発情しかけ、悠と触り合うという事故は起きてしまっていた。
 悠はそのときのことを一切触れない。なかったことのように振る舞ってくれている。当事者の誠人ですら違和感も覚えないくらいに。
 そんな悠の態度は誠人にとってはありがたいことだが、どう思っているのか時々無性に知りたくなってしまう。もちろん訊けるわけがないけれど。本当は嫌だったとか気持ち悪かったとでも言われたら到底立ち直れないだろう。
「俺も一口もらっていい?」
「いいよ、っていうか悠が買ったやつだし」
「ありがと」
 誠人が飲んでいたペットボトルを悠が受け取り、薄っすらと白く濁った飲み物を嚥下する。意外にしっかり出ている喉仏が動くのを見て、なんとなく目を逸してしまう。
 まただ。悠に時々色気のようなものを感じてどきりとする瞬間がある。
 絶対大事な友達でいてほしい。なのにふと気づくと、悠の綺麗な指で触れられ、もっと深いところで繋がる妄想が脳裏を過る。
 フェロモンの効果が発現している時でも何でもないのに。自分がどんどん変態的な人間になっているんじゃないかと不安になる。
「あー、だめだ」
「……何が?」
「いやあの……こ、今度の期末が」
「ああ、憂鬱だね」
 と話を合わせてくれるものの、悠は成績優秀だし勉強を苦に思っていないタイプだ。誠人はそうはいかない。
「特に何が不安?」
「やっぱり数学かな……。ただでさえ理数系は苦手だし、野崎先生って全然出題のヒントとかくれないし、むしろ意地が悪い問題ばっかだし、相当ひねくれてる……あっ、いや」
「いいよ、気を使わなくても。事実だし」
 あまりにも雰囲気が違いすぎて忘れそうになるが、数学教師の野崎奏は悠の実の兄なのだ。端正な顔立ちやすらっとした体つきはよく見れば共通点があるが、性格は本当に正反対と言ってもいい。
 野崎奏はとにかく厳しく、融通が効かず、とっつきにくい。教師としては生徒に一切舐められることなく、滞りなく正確に授業を進め、何に動じることもない。向いていると言えば向いているのだろうが……ここだけの話、誠人はそんな厳格な奏と、奥まで激しく突かれ何度も中に精液を出されるような濃厚な性行為を至しているのだから笑えない。
「まあとにかく、赤点だけは免れるように頑張るよ。悠にノート写させてもらったし」
「頑張ろう。俺でもあの人がどんな問題出してくるかは読めないけど、授業でやった範囲を押さえておけば、そこまで理不尽とは感じないよ、多分」
 優等生は簡単に言う。その授業でやったことというのが非常に膨大なのが問題なのだ。
 とにもかくにも、テストで惨敗して夏休み中に奏の補習をみっちり受ける、という事態は避けなくてはいけない。
 誠人は憂鬱な気分を奮い立たせてテスト勉強をするべく、部屋に戻ることにした。
「テストが終わればすぐ夏休みだし、もう少しの辛抱だよ」
「まあね。でもな……悠は赤点とは無縁だからいいよな」
「よかったら分からないところ教えようか」
「ホント? あ、いや……」
 もうすぐ誠人の部屋に着くというところで言われ、誠人は反射的に首肯しかけた……が、すぐに躊躇いに変わる。
 おかしな体質になる前だったら、一も二もなく教えを請うていただろう。だけど今、二人きりになるのは怖い。
「……、やっぱり一人のほうが集中できるよね」
「あー……うん、ありがたいけど悠も勉強したいだろうし、もう遅いし」
 聡い悠は、誠人の戸惑いを瞬時に察して引いてくれた。誠人のしどろもどろな言い訳に文句も言わない。
 以前は当たり前のように同じ部屋で暮らして、同じ空間で寝ていた。人見知りする誠人でも悠との生活は心地よかった。おかしな体になるまでは。
「明日教室で……時間あったらでいいから教えてくれる?」
「分かった。じゃあおやすみ」
 悠が微笑した。少しだけ寂しげに見えたのは誠人の感傷のせいだろうか。しばらく去っていく背中を見つめていた。
 悠に後ろめたい気持ちは持ちたくない。それでも悠があの風呂場での行為をなかったことにしてくれてまで守られている関係を、誠人だって絶対に死守したい。胸の中で何度目か分からない誓いを唱える。
 悠がもっと大きな秘密を抱えたままでいることを、このときの誠人は知らずに――いや、すっかり忘れているのだった。


 そして。始まってしまえばテスト期間は否応なく過ぎていった。
「田所」
「は、はい」
「土屋」
「はいっ」
 クラスは異様な緊張感に満ちていた。悠くらい優秀な者を除いては誰も彼も判決を待つ被告人みたいに険しい顔をしている。もちろん誠人も例外ではない。
「……仁藤」
「は、はい」
 教壇の前に進み出る。数学教師である奏は厳しい顔で答案用紙を睨み、そのままの視線を誠人にやった。
 これはどういうことなのか。正直なところ厳しい表情はいつものことなので判別がつかない。
 目が合うと、奏は顰めっ面のままで判決の書かれた紙を寄越してきた。
 答案にはバツのほうが多く、お世辞にも出来がいいとは言えなかった。それでも結論から言えば、何とか赤点を免れることはできたのだった。
 何せ奏のテストは平均点が低い。バツの数が圧倒していようとギリギリ赤点のラインは越えられたというわけだ。
「よかったね」
「うん、よかった。……いや、点はよくはないけど」
 ほっとして、正答がバツを圧倒している悠の答案を垣間見て少し劣等感を覚えて、またほっとする。
 こんな体では勉強に集中するどころではない。補習と追試の憂き目を回避できただけで良しとしよう。
 と思っていたのだが。
 

「……仁藤くん、大丈夫?」
「だ、大丈夫……じゃないですよね」
「……うん、大丈夫ではないね」
 安堵してから一時間と経っていなかった。気が抜けていたところに誠人は晴天の霹靂を食らったのだった。
 目の前には社会科教師の伊勢がいる。伊勢は奏よりずっと優しい。そして社会科も、誠人にとって数学よりは易しかった、はずだった。
 だが、手にした答案には、誠人をあざ笑うようにバツが怒涛のごとく並んでいた。
 ――心当たりはある。社会科のテストのとき、序盤は山が当たり幸先のいい滑り出しかと思われた。
 だけど十分も経たないうちに、何かの弾みでシャープペンを床に落としてしまった。
 それだけなら大して時間のロスにもならない些細なミスだ。偶然にも監督の教師は伊勢だった。彼はすぐに気づいて、手を挙げる前に近づいてきて転がったペンを拾ってくれた。
 受け取るときに、指と指が微かに触れ合った。
「ぁっ……」
 声が出そうになって、テスト中の静まり返った空気を思い出して慌てて飲み込む。
 誠人は男と触れることに過敏になっていた。特に伊勢は、一度フェロモンのせいで巻き込んでしまった相手だから尚更だ。
 意識しないようにしても、ほんの少し触れ合った場所が熱くなる。ちらりと伊勢の方を見ると、伊勢も誠人を見ていた。唇だけで「ごめんね」と謝ってくる。何も悪くないのに。その形のいい唇が自分の体のあちこちに触れたことを思い出して――特に、勃起して敏感になりきった乳首を吸われたことなどを――、触れた場所からじわじわと熱が広がっていくような心地がした。
「……っ」
 いけない。こんな場所で発情してしまったら大惨事必至だ。男子校の教室には三十人ほど男ばかりがひしめき合っている。
 テスト用紙に目を釘付けにして、衝動をやり過ごす。色事とは一切関係ない小難しい言い回しの問題と向き合い続けて、何とか心を落ち着かせようとした。
 少しして、伊勢が教壇の方へ戻っていく気配がした。そのときの伊勢は危険な存在だったからけっして見ないようにした。
 そんな状況で、フェロモンが発現する最悪の事態は回避できたわけだが、もちろんテストに集中などできるはずがなく。そもそも解答欄が一つずつずれているという惨状を、今知ることになった。
 
◇◇

「やあ赤点くん」
「ぐっ……」
 意気消沈して寮に戻るなり先制攻撃を食らった。寮長の篠崎だ。寮の最高権力者であり、バスケ部のエースであり、必然的に高身長でついでにイケメンという、無駄にスペックが高い男。
 スペックが高くても悠や伊勢のように性格が良ければ腹も立ちようがないのに、この男は別の意味でとてもいい性格をしているから困る。
「一年一学期のテストなんて教師も手加減してくれているっていうのに、早速赤点を取るなんて劣等生としか言いようがないね」
「な、何で知ってるんですか」
「俺が何故知っているかなんて問題じゃないだろ。問題は君が我が寮の恥だという事実だ。そうだろ?」
 言い返せない。大方クラスの誰かが情報提供したのだろう。この男の言動は敵も作っているが同時に信奉者も多い。散々な目に遭わされた誠人には理解しがたい。
 関わりたくないが、何せ篠崎は同じ寮の寮長であり、実は佐原の友人で化学部に籍を置いていたりもする。妙に縁があり、その縁が災いして誠人は篠崎に体で遊ばれ、屋外でバイブを突っ込まれたことまである。
 そう、遊ばれていた。フェロモンは効いていなかった、すなわち篠崎は至って正気のまま誠人の体に淫らな行為をしたのだ。他の関係を持った相手とは訳が違う。
 恐ろしい人だ。
「何か勉強に集中できない訳でもあるのかな」
「いや、社会のとき体調が悪かっただけで。ちゃんと追試では結果を出しますから」
「ふーん。是非そうしてよ。もしこれ以上やらかしたら」
「……」
「お仕置きしないとね」
 楽しげに笑う声を背に、誠人はそそくさと部屋に戻った。
   学生にとって最も長い休みが始まろうとしていた。運動部の生徒の中には大会まで練習がきついと愚痴っている者もいるが、大半は毎日六時間の授業と男だらけの寮生活からの解放感に浮足立ち、テンションを上げて遊びの計画を立てている。
 誠人とてウェーイと派手に騒ぐタイプではなくとも、夏休みは毎年楽しみだった。
 朝いくら寝坊しても構わない。好きなときに好きなゲームをしたり、テレビを見られる。彼女なんて贅沢な存在はいなくても、たまには友達とプールや夏祭に行くのも悪くない。
 が、今年はそんな浮かれた気分にはとてもなれなかった。
「――誠人は実家には帰らないの?」
「まあ、とりあえず補習をなんとかしないと」
 悠は終業式の頃には、すっかり帰省支度を整えていた。長男の奏はすでに就職して家を出ている野崎家の家族仲は至って良好らしい。荒んだ家庭から悠のような出来た人間が育つとは思えないのでイメージどおりだ。
 誠人は――家にはあまり帰りたくない。母親の再婚でできた家族との仲は元々微妙なものだった。父親も弟も悪い人ではなく、誠人のほうが上手に接することができていなかった。
 そして今はフェロモン体質になっている。弟にはすでにとんでもないことをさせてしまった。この上義理の父親まで巻き込むことになっては、本格的に家庭が崩壊の危機に陥ることだろう。母親に最低な秘密を知られ悲しませてしまうのは絶対に嫌だ。
「俺は帰らなきゃいけないけど、何か困ったことがあったら連絡してね」
「うん、ありがと。でも大丈夫だよ、残る奴もぼちぼちいるみたいだし」
 一学期が終わり夏休みが始まると、生徒達は続々と寮から脱出していった。
 何せここは山に囲まれた陸の孤島。あるのは自然と広大な敷地の学園のみで、ろくな娯楽が存在しない。残るのは外に合宿にも行かず学校で練習を続ける一部の運動部部員と、家庭の事情で帰らない少数の生徒くらいのものだ。
 悠もまた、誠人のことを気にかけつつバスに乗ろうとしていた。
 自分は秘密と嘘ばかりで悠を遠ざけているくせに、本当に遠くに行ってしまうと、身勝手にも少し心細くなる。
「じゃあ気をつけて」
「ありがとう。補習頑張って。連絡するから」
 友との壮大な別れごっこに浸っていたところで補習のことを思い出す。現実は厳しい。
 
◇◇

「え……補習って、まさか俺だけ……?」
「残念ながら、そのまさかだよ」
 嫌な予感はしていた。そういえば答案を返却するときも、数学の重苦しい空気と比べたら、社会の時間のそれは明らかに和やかであった。唯一誠人以外は。
 伊勢の優しさがテストの問題にも現れていたのだろう。赤点を取るのは、答えを一つずつずらしてしまった間抜けくらいのもの、というわけだ。
「中間の点数は悪くなかったし、この前のテストのときは具合が悪かったんだよね? だから本当はこんな補習必要ないと思ったんだけど、一応形だけでもやらないといけない決まりなんだ」
「いえ、すみません。俺一人のために」
「気にしないで」
 かくして二人きりの贅沢な補習は始まった。男子校の中にさえ存在する伊勢のファンからすれば羨ましくてたまらないシチュエーションだろう。誠人にとっては色んな意味で気が抜けない時間だ。
 伊勢のことはいい先生だと思っているし、好きだ。だけど以前、綺麗な顔を苦しげなくらい快感に歪め、誠人に太い杭を打ち込んで揺さぶってきたという事実は消せない。そんな相手と二人きり。意識しそうになっては教科書と向き合う、という繰り返しが続いた。
 伊勢の教え方は丁寧だった。誠人がただ必要最低限暗記していただけのことを、しっかりとした意味まで理解できるよう説明してくれる。教え方の上手さは一対一のほうが実感できる。
「――今日はこれくらいにしておこうか」
「はい。ありがとうございました。ホントすいません、俺なんかに時間とらせて」
 緊張は最後まで続いたものの、学んだことはそれなりに頭に入って、少し賢くなった気すらする。誠人が言うと、伊勢は少しの間黙って、机のすぐ前に立った。
 距離が近い。肌がちりりと粟立った。
「――俺はむしろ二人きりでよかったよ」
「え……?」
「って言ったらどうする?」
 思わず見ないようにしていた目を思い切り見つめてしまった。綺麗な二重の双眸に浮かぶ色は冗談とも本気ともつかない。
 まずい空気になってしまいそうだ。自意識過剰だったらいいけど、警戒しておくに越したことはない。誠人はがばっと立ち上がった。
「す、すいません、俺、失礼しますっ」
 逃げるようにその場から立ち去った。
 心臓の鼓動が速くなっている。でもそれは走ったからで、体はおかしくなっていない。なら伊勢は、どういうつもりであんなことを言ったのだろう。
 いや、誠人が意識しすぎたあまり意味を汲み取れなかっただけで、ちょっとした冗談が続くはずだったとか、そもそも特に意味はなかったのかもしれない。
 ふらふらと歩きながら足は化学室に向かった。
「やあ、遅刻だよ赤点くん。下級生というのは本来上級生より早く来て準備をするものだ」
 佐原は学校に残っていた。果たして彼に帰るべき普通の家族がいるのか想像がつかない。親兄弟全員が変態のマッドサイエンティストと言われても納得できる。
「……解毒薬、できそうですか?」
「知識がない人間ほど簡単に言うね。歴史に名を残す偉大な化学者でも、未知の薬を開発するというのは時に生涯をかけても難しいことなんだよ」
「要するに」
「できる気配なし」
 誠人はがっくりと項垂れた。

【中略】    
 これほど濃密な一日が、今までの人生であっただろうか。いやない。
 誠人の体は、自分で思う以上に疲弊していた。意識を取り戻す前からすでにうなされていたし、意識が戻ったらすぐに体調不良を自覚した。
 重りを乗せられたようにダルい体は起こすこともままならない。頭は熱く、目を開けただけでぐわんぐわんと不快なめまいを覚える。
「はぁっ……はぁ……」
 普通ではない熱があるらしい。そのおかげと言うべきか、シーツの色やスプリングの感触がいつもと違っていても、この場から動く気にもなれなかった。眠くもないけどそうするしかなくて、ただじっと目を閉じて横たわる。
 とても意外なことに、部屋の主は誠人を追い出さなかった。
 ベッドの横には常に冷たい飲み物が置いてあって、水分補給には困らなかった。袋詰されたパンには手が伸びなかった。食欲が無くて目を閉じる。
 次に目を開けると、飲み物の横にゼリーが置いてあった。みずみずしいフルーツが入ったものだ。これは美味しそうに見えたので、ゆっくり口に運んだ。
 どこか懐かしい。子供の頃、誠人が体調を崩すと母もゼリーを買ってくれた。いつもは食後に少しだけ食べられる甘いものが、そのときだけは好きなだけ食べていいよと勧められたものだ。鼻が詰まって味は分かりづらくても無性に嬉しかった。あのときと同じ味がする。
 綺麗に食べ終わると、まただるい体をベッドに横たえ、少し息苦しかったが眠ることができた。
 そして、またその次に目を開けたとき。
「ひっ……あ……」
 夢にも出てきた男の顔を見て、ひきつけを起こしそうになった。心拍数が上昇する。
「せ、せんぱい、…すいません……おれ、帰らなきゃ……」
「はあ? 帰すと思ってんのか」
「で、でも今、お金もなくて……はぁっ、はぁっ……」
 体を起こそうとしたがあっけなくベッドに押し戻される。
 あとで、とんでもなく法外な治療費でも要求されるのだろうか。もちろん保険は効かない。破産の危機だ。
 帰らなければいけない、と頭では理解できる。でも、このベッドは、不気味なほどに居心地が悪くなかった。
 額に冷たい手が触れた。
「……熱い。うつしたら殺すぞ」
「そ、んな、無茶な……」
 物騒な発言とは裏腹に、加西の目に殺気立ったものはなかった。これからセックスをするというときのほうが、よっぽど殺気立っている。
 そんなことを考えたらなんだか意識してしまう。黙っていれば整った加西の顔が近くにあって、睨まれて、思わずぎゅっと目を瞑る。
「……――――何ビビってんだよ。今のてめえじゃサンドバッグにもならねえ。黙って寝てろ」
 時間がスローモーションで流れているように感じた。加西は馬鹿にする口調で言って、誠人から離れていった。
 できれば元気なときの誠人だってサンドバッグにしてほしくはない。でも今はそれどこじゃなかった。
「…………ううう……」
 誠人は布団の中で身悶えた。元々熱い顔が火のように熱くなる。
 何が恥ずかしいって、誠人は今の一瞬、殴られることを心配などしていなかった。
 ――キスされるのではないかと思ったのだ。
「あああ……熱のせいで頭がおかしくなってる……」
 どうかしている自分に、しばらく布団の中でゴロゴロと転がるはめになった。それがいい運動になったのか、羞恥が落ち着く頃になって、少しの間穏やかに眠ることができた。
 起きると布団が汗で湿っている。その分誠人の熱は下がっていくようだったが、加西に臭い汚いと言われないか不安になる。
 シャワーも浴びていない。どのくらいこの部屋にいただろうか。
「……先輩、俺、帰らないとまずい気がします」
 まだ熱っぽいものの、体力はだいぶ回復してきた。好物のなめらかなプリンを食べながら、誠人は恐る恐る切り出す。
 夕食のときに飛び出して以来自分の寮に戻っていない。寝込んでいた間も含めると数日行方不明状態なのではないだろうか。
「さ、捜されてたりするかもしれないし」
「連絡なら俺がしておいた。お前のスマホで「こんな寮二度と戻るか」ってな」
「えええっ」
 そんな勝手な。誠人は慌てた。
 ――まあ、寮を出たときは確かに、「二度と戻るか」という気分ではあったが。
 青ざめる誠人の様子に、加西が苛立った声で問う。
「帰りたいって?」
「いや……あんまり、帰りたくはないけど……」
 正直篠崎の傍若無人ぶりは誠人の手にはまったく負えるものではないし、フェロモンのせいで常に気を張り続けて疲労もずっと蓄積されていた。
「ざまあねえな。いっそここに越してきたほうがマシだったんじゃねえか」
「……そうですね、あのとき、先輩の部屋に引っ越してたら……」
「……は」
 自分で言っておいて、誠人が同意すると加西は「マジかこいつ」という顔になる。ただの嫌味のつもりだったのか。また失敗した。
 ――困るのだ。ただの恐ろしい先輩だと思っていたのに、フェロモンなしで勃起したものを打ち込んできたり、体調の悪い誠人を追い出さず、飲み物や食べられる物を用意して、自分はソファで寝たり……。
 調子が狂う。おかしな意識が、どんどん肥大してしまう。
「先輩……、俺……うっ」
 頭を悩ませていると目眩がして、頭が枕に逆戻りする。加西は鼻で息を吐いて、顔にまで乱暴に布団を被せた。寝ろ、ということなのだろう。
 熱はなかなか引ききってくれない。昼も夜も関係なく布団の仲だったから日時の感覚が定かではないが、もう三日は経過していると思われた。
「……先輩、シャワーが浴びたいんですけど」
 できる範囲で拭いてはいたが、さすがに汚れが気になってくる。自分では鼻づまり気味で分からなくてもきっと汗臭いに違いない。むしろ今までよく加西が文句を言わなかったものだ。
 にべもなく断られることも覚悟していたが、加西は意外にも浴場に連れて行ってくれた。久しぶりに部屋の外に出た。
「ビクビクしてんじゃねーよ。この階には俺しかいねえよ」
「そうなんですか」
 いくら半数以上が帰省中とはいえ、一つのフロアにいくつもある部屋が全て空くとは考えづらい。
 誠人はなんとなく察した。加西を恐れているのは誠人だけではないのだ。
 浴場に着くと、誠人はできるだけ待たせないように急いで服を脱いだ。もしかして一緒に入るんじゃ、なんて不安はやっぱり杞憂で、また自分が恥ずかしくなる。
 シャンプーをすると最初は全然泡立たなくて、汗と脂で汚れていたことを改めて自覚した。体も念入りに洗うと全身から垢が落ちていくような感覚がして気持ちいい。
 それから、誠人は恐る恐る後ろの穴に手を伸ばした。もしまだ精子が残っていたら不衛生だから――自分に言いわけして、指を一本だけ慎重にねじ込む。
「ん゛っ……はぁっ、んっ……」
 ぬぷっ……ずっ、ずぶっ……
 中が微かに震えている。精子が残っている感覚はしない。挿入してすぐに後悔した。もし残っていたとしたって、誠人の長くもない指で届くはずがなかった。
 大体こんなことをしている時間はない。もし加西が苛立って風呂の扉を開けたらどうするのだ。
「はぁっ……う、んっ」
 指を抜いて石鹸で洗い直した。意味のない行為だった。
 服を着て脱衣所から出ると、ドアの横で加西が待っていた。恐らく、万が一誰かが来たときのために見張っていたらしい。
 加西の姿を見ると、体の奥がずきりと微かに疼いた。何の意味もないはずの指の挿入が、もしかしたらスイッチになってしまったのかもしれなかった。
 加西も誠人を見る。
「――さっさと行くぞ」
「は、はい」
 足早に部屋に戻った。部屋に着いたら――会話はほとんど必要なかった。

【中略】    


 家に帰るのは複雑な気分だ。誰も誠人を虐げるわけではない。むしろ歓迎してくれる。
 せめて体が正常だったら、つまらない劣等感やしがらみなんて捨てて義理の父や弟と仲良くする努力ができたのに。今となってはそう思う。
 定期バスで無事に学園から脱出し、電車に揺られること数十分。前回の帰宅からそれほど経っていないのに少しの懐かしさを覚えつつ家までの道のりを歩いた。
「……ただいま」
「おかえりなさい。外暑かったでしょう」
 出迎えてくれた母は元気そうでほっとする。心なしか独身時代より若返ったようだ。
「あら、ちょっと痩せたんじゃない……?」
「そう? 暑いからかな」
「あなた夏になると食欲減るものね。暑くてもちゃんと食べなきゃ駄目よ。成長期なんだから」
「成長期はもう終わってるって。身長去年からほとんど変わってないし」
「あら分からないわよ。百八十はほしいって言ってたのに、もう諦めちゃうの?」
「伸びないものはしょうがないだろ」
「そうねえ……なんだかちょっと雰囲気も変わった?」
「そ、そりゃ高校生になったんだし、変わったところもあるかもね」
 母の目には些細な変化も見通されてしまいそうで落ち着かない。体は実はとんでもないことになっているのだが、見た目にはそれほど変化はないはずなのに。
 とにかく心配はかけたくなくて、誠人は意識して笑顔を作る。
「じゃあなんか食べるものある? お腹空いた」
「はいはい。用意してるから、手洗ってきて」
「えっと、尚紀は……」
「尚紀は塾で勉強中。火曜日はいつも遅くなるの」
 ――実は情報はすでに仕入れていたが、改めて聞いてほっとする。
 義父は仕事中で、尚紀は塾で夜まで帰らない。そのタイミングを見計らって帰宅したのだ。リスクを減らすためにできるだけ顔を合わせる時間は短いほうがいい。
 もちろん母は女性だから何の問題もない。誠人は安心して久しぶりの家に上がった。
 少し待つと、次々と料理が広いテーブルに並べられた。誠人が帰るから用意してくれていたのだろう。
 目玉焼きの乗ったハンバーグにグラタン、シーフードサラダ、玉ねぎが溶けたコンソメスープ。子供の頃から好きだったものばかりだ。昼食にしてはだいぶがっつりしたメニューだが、満腹になるまで箸が止まることはなかった。
「ケーキがあるけど食べる?」
「うーん、今はお腹いっぱいだからもう少ししたら食べようかな」
「じゃあおやつにとっておくわ。……あら、誰かしら」
 お茶を飲んでくつろいでいたとき、インターホンが鳴った。
 一瞬びくりとして、すぐに落ち着くように自分に言い聞かせる。父や尚紀なら自分で鍵を開けて入ってくるだろう。きっとただの宅配か、近所の人かだろう。
 と思いつつ、一応応対する母の声に耳をそばだたせせる。
「――あら、ごめんなさい、今尚紀はいないのだけど」
 訪問者の声はよく聞こえない。尚紀の関係者なら不在なのだからすぐに帰るだろうという予想に反して、ドアが閉まった後家に上がる足音が二人分に増えていた。
「どうもお邪魔しまーす。……あっ誠人先輩、やっぱりいた」
「お久しぶりです」
「だっ……大地くん……」
 予想外の訪問者にはよくよく見覚えがあり、盛大に顔がひきつってしまった。
「誠人、大地くんとお友達だったのね。連絡とってたんですって?」
「まあ、友達っていうか……うん」
「そうなんですよ。俺と聡真も八零一学園にそのまま上がるつもりなんで、話聞かせてもらえないかなーと」
「尚紀が帰ってくるまで時間があるし、どうせ予定もないんでしょう? いいじゃない、ねえ誠人」
「……そうだね」
 とても帰ってほしいとは言えない空気だ。少なくとも夜までは何の心配もなくくつろげるはずだった家に、思わぬ火種が投下された。
 大地は尚紀の友達で、チャラくて華やかな雰囲気の中学生だ。中学生といえどバスケ部だけあって背が高く、顔もイケメンで大人びていて、年下だからと侮れる余地はない。
 実際、誠人は彼と、彼の友人の聡真と、更に尚紀と三人同時に淫らな行為に及んでしまった前科がある。困ったことになったと頭を抱えたくなる。
 間違いが起きる可能性を少しでも減らすには、リビングに留めて早めに帰ってもらうという選択肢もあった。だがいかんせん大地との間にはあまりにも重大な、母には死んでも聞かせられないような秘密があった。
 どちらも選びたくなかったものの、とても母が近くにいる場で大地と向き合えそうにはない。誠人は重い足取りで二階の自分の部屋に案内した。
「……適当に座ってて」
「あざーっす」
 久しぶりの自室は母が掃除していてくれたようで誠人が暮らしていたときより綺麗だ。大地を入れると一度下に戻り、グラスにジュースを注ぐ。
 母には「そんなに長居しないみたいだから」と、やんわり部屋に来ないようにと伝えた。何を話すにしろできるだけ聞かれたくない。
「どうぞ」
「あーどうも、ちょうど喉乾いてたんですよ」
「遠慮せず飲んで。……あのさ、今日はどうしてうちに?」
 まずそこから謎だ。大地は今日この時間に尚紀が不在であることを知っている。
 何故大地が知っているということを知っているかって、誠人はその情報を、他でもない大地から得ていたのだ。
「先輩が帰ってくるなら今日なんじゃないかと思って。尚紀と顔を合わせづらいから、わざわざ俺に訊いてきたんでしょ? 当たりでしたね」
「……う……」
 そのとおりだ。誠人はできる限り尚紀を避けたかった。かといって母から尚紀の不在時を聞き出して、それを見計らって帰ったりしたら、どうして会いたくないのかと心配させてしまうだろう。
 大地は、誠人と一度関係を持ってしまった後も、驚くほどにあっけらかんとしていてフレンドリーなままだった。時々学校であった笑い話やテストの結果、高校についての質問のメッセージが来て、やりとりをしていた。淫らな行為をしたとは思えないくらい、普通の後輩のようだったのだ。
 だから軽率に情報を求めてしまった。大地はあっさりと答えてくれて感謝していたのだが、まさか訪ねてくるなんて思ってもみなかった。
 大地には負い目もあるし借りもある。追い返せない理由が固まってしまっている。
「で、あの、話って、学園の話だっけ? 俺は前も言ったけど外部受験だし、あんまり参考にはならないかもよ。バスケ部の先輩とかに訊いたほうがいいんじゃないかな」
「いや、今日はそういう話じゃないんですけど」
 台本を棒読みしているような早口を一刀両断された。  

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